赤い糸40,075km
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私は今、人生で1番のピンチを迎えていた。
「なぁ、マジで一回見に来ねぇ?」
夏休み直前。放課後を告げるチャイムが鳴り、いつも通り昇降口へ向けて廊下を歩いていると、後ろから誰かの焦ったような足音が聞こえてくる。私は邪魔にならないようにと少しだけ端に寄ろうとした──その瞬間、勢いよく後ろから腕を掴まれる。驚いて振り返るとそこには黒尾くんがいて。真剣な顔で冒頭のセリフを言われる。
黒尾くんが見に来ないかと言っているのは、彼が所属する男子バレー部の練習のことだ。以前バレーの話で盛り上がって以降、彼は度々「今日は見に来る?」「練習試合は見に来るよな?」と私を見学に誘ってくる。その度に私はやんわりと断り、事なきを得ていた。それらはどれも冗談っぽいやり取りで、黒尾くんがクラスに馴染めない私に話し掛けてくれるための、単なる話題に過ぎない、と思っていた。
じわり。
掴まれた腕に、黒尾くんの手の温度が浸透していく。待って待って待って。急にこんな接触は心の準備できてないです。しかも今は夏服だから、黒尾くんの掌の質感までもが何も隔てることなくダイレクトに伝わってくる。まさか彼の体温を感じる日が来るなんて考えたこともなかったから、顔に熱が集まってしまう。
「3年引退したから、俺らの代と後輩しか居ない。」
「もう夏休み入っちまうしその前に…どう?」
私が答えないでいると、黒尾くんの方が待ちきれずに次の言葉を出してくる。私はどうにか腕から伝わる感覚を遮断して彼の言葉の意味を考える。
別に私は先輩が居るから見に行かなかった訳じゃない。バレーをしてる黒尾くんを見たらもっともっと好きになってしまうのが分かりきっているし、あとは普通に慣れない環境に身を置くのが緊張するからだ。確かに先輩が居なくなることで緊張のレベルはだいぶ落ち着く気もするけど、黒尾くんのバレーを近くで見るという刺激の強さは変わらない。
そもそもなんで、黒尾くんはこんなに私を誘うのだろう。今までと違って真剣な表情、しかも夏休みに入る前に…なんて、どこか焦ったような言い方だ。
「な、なんで…そこまで」
やっと声を出すと、黒尾くんはそっと腕を離してくれる。そしてその手で頭の後ろをかいて、あー…と言葉を選んでいるようだ。私はさっきまで黒尾くんに掴まれていたところを自分の手で摩り、彼の熱をどうにか打ち消しながら返事を待った。
「…ぶっちゃけた話、…マネージャーやってくんねぇかな〜と、思ってる…」
「マ…………」
マネージャー。
「マネージャーって…、男子バレー部の?」
「そう」
「私に男バレのマネージャーをやらないかって言ってる?」
「言ってる」
驚きすぎて声も出ない。
まさかそんなことを考えていたなんて、想像もつかなかった。だって私はどう考えてもマネージャーなんてできるタイプじゃない。人見知りだし、黒尾くんにはまだバレてないだろうけど手先も不器用だし、愛嬌もないし、人の世話をするタイプではない。ただのバレーファン。それだけ。練習を近くで見せてもらえるのは嬉しいけど、とても自分が力になれるとは思えない。絶句する私と目線を合わせるように、黒尾くんが少し屈む。
「言いてぇことはなんとなく分かるけど、別に甲斐甲斐しくお世話してほしいって話じゃねぇから。とりあえずは、バレー好きな奴が近くで見てるってだけでモチベ上がるし…。このあと用ないなら、まずは1回だけでも…どーすかね」
バレー好きな奴が近くで見てるってだけでモチベ上がる、その言葉を脳内で反芻する。確かに前に一緒にお昼ご飯を食べながらバレーの話をした時、黒尾くんは想像以上に楽しそうで、嬉しそうな顔をしていた。彼はどこまでもバレーボールが大好きで、同じようなバレー好きが集まる環境を好むんだろう。…黒尾くんが私をマネージャーに誘ったその思考回路が、なんとなく、理解できた気がする。
「……見る…だけなら…」
「マジ?…よっっしゃ…!!」
無邪気にガッツポーズをする黒尾くんを見て嬉しくなる。まだマネージャーなんて大役を務めようなんて思えないけど、とりあえず一度くらい見に行ってみよう。なによりこんな真剣なお誘いを断るほどの理由も持ち合わせていない。珍しく少年のように笑う黒尾は「んじゃ行きますか!」と軽い足取りで進んでいく。その背中を見詰めながら、やっぱりこの人が好きだなと思う。
──────
体育館に入ると、当然そこには知らない人達が居て、早速来たことを後悔する。突然入って来た部外者が気になるのは当たり前のことだけど、じろじろと観察されているようで居た堪れない。私が身を縮めていると、庇うように黒尾くんがすっと前に立ってくれる。
「今日はマネージャー候補が見学すっから、お前ら失礼のないようにな」
堂々とマネージャー候補だと宣言されて申し訳なくなる。私にはできませんそんなこと。部員達らしき人達はそれぞれ納得したようで、それぞれが反応を返してる。その内の一人、顔と名前だけ知っている同学年の夜久くんが怪訝な顔で黒尾くんに詰め寄ってくる。
「お前、マネージャー候補って…。無理言って引っ張って来た訳じゃねぇだろうな?」
「いや、しねーって!そんなこと」
「ほんとかよ?…久世さん、だよな?コイツが迷惑だったらいつでも言ってくれ。蹴っ飛ばすから。」
私より少しだけ低い位置から目線を合わせて気遣ってくれる夜久くんに、反射的にコクコクと頷き返す。別に黒尾くんを迷惑だと思ってる訳じゃないけど、瞬時にパワーバランスを理解してしまった人見知りは、強いものに従うことしかできない。黒尾くんはそんな私を微妙そうな顔で見ていた。
「…うん、まぁ、ほんとに迷惑だったら言ってな」
さっきは堂々と宣言していたのに、今度はやけに自信無さげに小さく零す。そういうところが、本当に黒尾くんだなと思う。
練習が始まると、黒尾くんはすっかり“部長”の顔になっていた。3年生が引退したばかりだと言っていたから、彼はまだ部長になったばかりなはずなのに、集合の掛け声や部員達の反応からは、ずっと黒尾くんをリーダー的存在としてきたことが伝わってくる。
私は約一年前、黒尾くんに一目惚れしたあの時以来、バレー部の練習は見ていない。あの時は黒尾くんはまだ新入生!って感じで、今より少し線が細くて、先輩に扱かれていて…。それが今や部長。すごいな、知らない内に頼もしくなったんだな。…って、何様なの私は。
体育館の隅で一人、じっと身を縮めながら練習を見守る。バレーをしている黒尾くんは、やっぱり特別キラキラしていて眩しい。
みんな自分の飲み物やタオルは管理しているようだけど、水分が足りなくなってパパッと水道まで飲みに行く人もいる。これは確かにマネージャーでも居た方が良いんだろうなと思いつつ、自分にできないことは分かりきっている。例えば今も、ボールを出す人間が一人でも多ければ選手達はもっと効率よく練習ができるはずだ。ボール拾いだって欲しい。手が空くなら選手一人一人のフォームの癖をメモしたり、回数の記録とか、それこそドリンクを用意したり?マネージャーが居れば任せられる仕事はたくさんありそうだ。それを自分が…というのは想像できないけれど。
慣れない環境に居ることを忘れ、つい練習風景に見入ってしまう。基礎練が終わり、続いては3対3の実戦形式のゲームをするようだ。チーム分けは夜久くん、海くんと活発そうな1年生 VS 黒尾くんと大人しそうな1年生2人だ。コーチの人が笛を吹いて、1年生のサーブからプレーが始まる。海くんがそれをなんて事ない風に上げて、夜久くんがトスをする。1年生が思い切りより振りかぶる目の前に黒尾くんが立ちはだかり、効果的なワンタッチを取る。後で待ち構えていた1年生がネット際まで丁寧にボールを繋ぎ、もう一人の1年生が最小限のモーションでトスを上げる。助走を取るために数歩下がっていた黒尾くんと、トスのタイミングが完璧に合い、その鋭いクイックは夜久くんの指の30cmほど先に突き刺さった。
────た、楽しい……!
やっぱりバレーボールって面白い。たった1プレーだけでたくさんの情報が飛び込んでくる。まず海くんのレシーブの上手さ。対人練習を見ていて既に気付いていたけど、このチームのみんなは高校生にしては異様にレシーブが上手い。1年生スパイカーはこの中では1番プレーに勢いがあって良いムードメーカーになりそう。そしてなにより黒尾くんと1年生セッターのコンビが合いすぎてる。もしかして中学でも一緒にやってたのかな?さっきのクイックはそう簡単に築けるものじゃない。
私が感動している間にも、次々とプレーが続いていく。よく言えば守備力が高く、悪く言えば決定打に欠けるような選手が多いようで、ラリーが長く続くことが多い。見てるこっちが吐きそうになるくらいの“守備力の押し付け合い”だ。思考も体ももう一旦止まりたいと誰もが思うような場面、ラリーのリズムを崩すように1年生セッターが2本目のボールをひらりとネット際に落とそうとする。
ヒュッと息を飲む。
これは上手い。3人しか居ないコート、ぽっかりと空いたレフト側のネット際に、そのボールが落ちる───そう思ったのに、ボールと床の間、そこに手が飛び込んで来た。
「ナイッ…!!…ス…レ、シー……ブ……」
言い終わる前に後悔する。夜久くんのナイスレシーブに、つい試合を観戦してる時のような声が出てしまった。口元を両手で覆うけれど、もう遅い。夜久くんがせっかく上げたボールはトンットットッ……と虚しい音をたてて転がり、体育館に居る全員が突然大声を上げた私を見ていた。
───しんだ。
完全にやらかした。つい夢中になってしまった。注目されたことにより全身が強ばり、心臓が痛いくらいに騒ぐ。恥ずかしくてもはや泣きそうになっていると、みんなが笑いをこぼし始めた。
「なんだぁ?隠れバレーオタクか?」
コーチの人がそう言って場を和ませてくれる。
「ありがとな!」
夜久くんがニカッと笑ってグーサインを出してくれる。
「負けてらんねぇな?」
黒尾くんがそう言って、みんなを焚きつける。
私はずるずるとその場にヘタリ込み、ぎゅっと膝を抱いて今度こそ静かに練習を見守った。
─────
3対3の後、個人の課題に合わせたメニューをこなして、この日の練習は終わった。
私は体育館の隅にぐっと背中をめり込ませるようにして体育座りをしたまま動けずにいた。急にあんな大声を出してしまって恥ずかしい。恥ずかしすぎる。できることならこのまま壁の中に埋まってしまいたい。そう思いながら身を縮めていると、まだ汗のしたたる黒尾くんがタオルを首に掛けながらこちらにやってくる。
「楽しんでいただけたようで?」
「……」
ニヤニヤと揶揄いモードのまま隣に腰を下ろす黒尾くんに、私は黙秘権を発動した。彼は話す気のない私を特に気にとめた様子もなく、「次は俺も歓声上げてもらえるように頑張んねーと」なんて言う。この話もう止めていただたいてよろしいでしょうか。ひたすら自分の膝をじっと見詰めて縮こまる私に、隣でストレッチをしている黒尾くんがどうにか顔を覗き込もうとしてきて心臓に悪い。ただでさえ『黒尾くん・バレー・夏』という私が彼に一目惚れした時と重なる要素が多くて密かにずっとドキドキしているのに、この距離感でそういう態度しんどいよ。
恐る恐る黒尾くんの方に視線を向けるとぱちっと目が合う。その瞳は期待と不安に揺れていて、予想外でポカンとしてしまう。
「てな訳で……明日も見に来る?よな?」
ああ、そうだった。彼からしたらマネージャーを確保するために見学に誘ったのであって、私個人が恥をかいたかどうかというのは関係ないんだった。勝手に拗ねたような態度を取ってしまったことを申し訳なく思う。とりあえず一度見学させてもらって、確かに私はとても楽しかったけれど、マネージャーをやれるかどうかとは全く関係ない。それどころか私のせいで一度プレーを中断させてしまったし、半端な気持ちでまた明日もなんて失礼すぎる。ちゃんと断らなくちゃ。
「…見たい気持ちはあるけど…私、やっぱりマネージャーなんて出来ないと思う」
「マネージャーになれば毎日近くで見れんのに?」
「選手の役に立てないなら近くに居させてもらう資格ない」
自分の考えをキッパリと伝えると、黒尾くんは目を見開いて「おお…真面目…」なんて少し気圧されているような様子だ。私には資格がないけれど、みんなをサポートする誰かは絶対に居た方がいい。私は続けて口を開いた。
「でも、人手が足りないんだなってことも見てて分かった。だからもし本当に他に誰も居なかったら、その時は、私にできる範囲だけど手伝うよ」
私なりの最大限の譲歩だった。できっこないけど、誰も居ないんだったら私だって猫の手くらいにはなれるはず。だから一旦私のことは忘れて、引き続きマネージャー勧誘を続けてくれたらと思った。黒尾くんもそれで納得してくれると思ったのに、なにやら微妙な表情をしている。タオルで首の後ろの汗をガシガシと拭きながら言葉を探す黒尾くん。
「……いや、うん、なので…、俺は久世さんがいいなと思ってお誘いしているんですけども」
うん?
「マネージャーが必要だから、バレー好きな私に声を掛けたのではなく?」
「まぁそれもあるけど…。久世さんが無理なんだったら、別に他の人をマネージャーに勧誘とかするつもりねぇよ」
「えっ、でも絶対必要だよ?」
「だから、久世さんやってくんねぇかなって」
黒尾くんの言っていることが、理解できているはずなのにどうにも処理しきれない。これは……え?つまり、黒尾くんの中ではマネージャーに誘うなら私一択…ということ……??なんでそんなことになっているのか、一体何を期待されているのかサッパリ分からずフリーズしていると、黒尾くんがふっと笑う。
「さっきもさ、すげー真剣に見ててくれたじゃん。ああいう視線向けられると自然と背筋が伸びるっつーか、誰もサボれなくなんのよ。そんで良いプレーしたら目ぇ輝かせて褒めてくれるし?それだけで最高だろ」
またさっきの話を蒸し返されて恥ずかしくなるけど、今の黒尾くんは揶揄いモードじゃなくて純粋にバレーのことを考えてる時の黒尾くんだ。困惑する私を宥めるように笑顔を見せてくれる彼を、やっぱり好きだなと思う。
「だから明日も来てほしい」
黒尾くんはそう言って立ち上がる。体育館の中には、使い終わったモップを片付ける1年生と私達だけしか残って居なかった。私も早く撤収しないとと思い立ち上がると、ずっと壁に押付けていた背中にじわりと血が通う感覚がする。黒尾くんは私の返答をじっと待っていた。
マネージャーをやるかどうか、すぐに答えを出す事はできない。けれど、このチームを支える“誰か”を、黒尾くんは私に任せたいと言ってくれている。私が気付いていなかっただけで、前に話した時からそう考えてくれていたのかも知れない。彼の真剣な思いにきちんと向き合わないまま「私にはできない」と突っ撥ねるなんて、したくない。
「…明日も、お邪魔します…」
小さく返事をすると、黒尾くんは一度見開いた目をゆったりと細め、「…よし!」と嬉しそうに笑ってくれた。