赤い糸40,075km
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◯< 黒鷲旗、俺は前入りするんだけど、久世は?
◯> 前入りいいな〜!私は夜行バスで行くよ
◯< そっか〜
◯< ワンチャン夜会えるかもって思ったけど、ヤコバなら無理か〜…
うぐぐ…。
いい歳して人前でボロ泣きしてから数日。
黒尾との接し方に、ちょっと戸惑っている。
「会えなくなるのは嫌だ」と言った黒尾の声は、聞いた事の無いほど弱々しく、この上ないほどに、苦しそうだった。
あの日私は、一度会えば黒尾の気が済むだろうと思っていた。律儀な人だから会って謝りたいんだろうな、と。気が済んだなら私にはもう会う理由はないし、黒尾にだってないはずで、本当にこれで最後、というつもりで居た。それなのに、チャンスをくれなんて言われた。まるで関係を絶たないでくれと懇願するかのように。まるで、縋るかのように。黒尾にとって私はそれなりに親しかった旧友で、今では外見が許容範囲内だから、他に決まった人が居ないなら恋愛対象にもなり得る…というだけの、その程度のものと思っていた。思わせぶりなことをしてくるのは、この人の性分なんだと、本気で思っていた。
でも、どうやら違ったらしい。
◯> 絶対会場で見つけるね
◯< 絶対な
◯< 俺も絶対見付けるわ
うぐぐぐぐ………。
胸が苦しくなる。
ソワソワして部屋の中をぐるぐると歩き回っていると、テーブルの角に脛をぶつけて悶絶する。痛ぁ。ソファの上、ジロ吉の大きなぬいぐるみに抱きつくように倒れ込む。脛の痛みより、胸が苦しいのをなんとかしたい。つらい。…でも、なんだろう、ちょっと楽しい…?嬉しい…?ふわふわして、勝手に身体が浮いてしまうような感覚が怖いのに、ちゃんと地に足をつけたいのに、でも、何故か心地良い。
◯< あとさ
◯< 確かなことは言えないんだけど、もしどっちかの夜時間作れたら飯行けたりする?
◯< 予定入っちゃってる?
あわ。あわわ。
明後日から六日間に渡って行われる黒鷲旗。Vリーグのチームから高校生まで出場する、カテゴリーを問わない大会だ。黒尾は仕事で初日と二日目の二日間だけ居ると言っていた。彼の仕事柄、きっと夜は関係者との食事会なんかがあるんじゃないだろうかと思っていたけど、時間を…作れたら……作…つ、作ろうと…してくれて、いる…、わ、私に…会うため……に……??
いたたたた。痛い痛い。胸が苦しい。苦しい。
何を自惚れているんだって自分の頬を引っぱたいてみるけど、…でも、でも、こうやって黒尾の気持ちを勝手に決めつけていたせいで、あんなに苦しそうな顔をさせてしまったんじゃないの?自惚れじゃ…ないんじゃないの?もうあんな顔はさせたくない。なんて返そう。なんて言えば、喜んでもらえるのかな。
私の予定は特にはない。ただ、会場でよく会うファン仲間の友人達とそのままご飯に行くことはよくあるので、そうなったらみんなとご飯に行きたい。でも、黒尾が時間を作ってくれると言うのであれば、それは、もちろん、優先…したい…訳で…。えっとえっと。なんて言おう。「予定はないよ」?…うーん…。普通だし、今までの私なら間違いなくそう返してたけど、今はなんだか、違う気がする。だってもっと思ってることがある。そして多分、きっと、自信はないけど多分、黒尾はそれを聞きたがってる。……と、思う。
◯> 会えるなら会いたい
ひぃ〜〜〜〜〜!!
送った送った送った送った
大丈夫?
大丈夫なやつかな?
どうしようどうしようどうしよう
うわぁぁぁ…
また起き上がって、スマホを両手で固く握り、部屋の中をぐるぐるぐるぐると回る。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
ぐるぐる……。
何十周したかも分からないほど歩き回り、頭がクラクラしてきて、またソファに倒れる。
……………。
返事……、来ないな……。
……間違っ…た、かな……。
既読が付いたかどうか確認するのも怖い。
困らせた?いやでも、この前は言っていいって…、いやでも!あの時も、黒尾は困ってて…、でも、嬉しいって………………
……………う………、、、
一時間経っても返信が来なかったら切腹しよう。
そう決めて、ほとんどパッキングが完了している荷物を再確認する。ボストンバッグの中身を一度全て取り出し、また詰めていく。5泊もするから、途中でホテルのランドリーを借りる予定だけど、念の為下着とか靴下は多めにあった方がいい。…うん、ちゃんとある。トラベルサイズのシャンプーとかスキンケア類も…うん、忘れがちなクレンジングもちゃんと入ってる。よしよし。…………。い、居た堪れない。やっぱりもうあと5分、5分後に切腹しよう。あ、そうだ、虎くんのチームの応援Tシャツ持ってるんだった、アレも持って行こう…そう思って立ち上がった時、ソファとぬいぐるみの間に隠すように置いたスマホが鳴る。
ひぃ。
へ、返事、来たのかな。
恐る恐る確認すると、それはやっぱり黒尾からの返信だった。
◯< 死ぬ気で時間作ります
◯< 確定したらすぐ連絡するけど、結構ギリギリになっちゃうと思う
◯< [スタンプ:申し訳なさそうなジロ吉]
ぎゅううう。
息が苦しい。嬉しい。
どんなに踏ん張ろうとしても、身体が勝手に浮いていく。黒尾がブサにゃんずのスタンプを使うの、前は本当に怖くてひたすら絶望していたのに、今は可愛いなって思える。だって今、もし私の気持ちがバレちゃっても、黒尾はそんなに困らない…んじゃ、ないかなぁ。ソファの前に座って、ジロ吉のぬいぐるみに頭をぐりぐりと擦り付ける。黒尾のことを考えるとドキドキしてつらい。…でも、黒尾も私のこと考えてくれてるかもって思うと、嬉しい。…なんかこれって、普通の、恋、みたい。一目惚れから始まった私の初恋は、どうやら普通とはちょっとズレているらしい、ということは自分でも分かっていた。…もしかしてもしかしなくても、この歳になって初めて、初めて、普通の恋を、しているのかも。相手は自分のことなど見ているはずがないと決めつけ、自分の気持ちも隠し続けることは、私にとって“楽”だったんだと思う。もしかしたら相手も…なんて期待するのは怖いし、どう見えてるんだろうって思うと何もかも気になってしまう。でも、歩み寄ってくれたらすごく嬉しい。……すごいな。世の中の人々は、こんなに不安定な気持ちを抱えて泳いでいるんだ。
私からもスタンプを返す。ツンちぃが嬉しそうにしているやつ。私からブサにゃんずのスタンプを返すのは初めてだし、こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。
────────
大阪。
早朝に到着し、パウダールームで支度、ホテルに荷物を預け、朝ごはん用のパンを買って会場へ。やっぱりちょっと寝不足で欠伸が出てしまうけど、通路をスタスタと進んで自席のあるブロックへ向かう。今日はBコート側。そんなに前の方じゃないけど、問題なく見えるし、通路横だから便利で良い席だ。アリーナではもうすぐ第一試合が始まろうとしている。お腹が空きすぎて倒れてしまいそうなので、早速パンを頬張る。優しいコッペパンの甘さと、鼻から抜けるピーナッツの香り…。う〜っ、ありがとう、ありがとう。活力〜っ。食べながらスマを取り出し、黒尾に座席の連絡をする。仕事中だからすぐには見ないだろうけど、一応。ぐるりとアリーナを見渡してみるけど、黒尾の姿は見付けられない。そもそも今は体育館に居ないのかも知れないし、こっち側の壁際に居るんだとしたら死角になって見えないから、まぁそんなに都合よく見つけられないか。アナウンスが響き、コート4面で一斉に試合が始まる。男子のA,Bコートも見たいし、女子のC,Dコートも見たくて、全然目が足りない。第三試合からは隣の席のファン仲間が来るけど、それまでは一人観戦。でも良いプレーを見るとついつい「ナイス〜っ!」って声が出てしまうのは、もう昔からの癖だ。
Aコートはストレートで勝敗がつき、Bコートでは大学生がV2チームに2-1で勝利を収めた。挨拶をしに来てくれる選手達に拍手を送って、またアリーナをぐるりと見渡す。壁際には既に第二試合に出場する選手、スタッフがぞろぞろと集っていた。そういえば黒尾はLINE見てくれたかな。確認すると「了解」というメッセージとスタンプが返ってきていた。なんだかちょっとテンションが高いような気がして、ソワソワしてくる。…絶対見つけなきゃ。とりあえず次の試合は虎くんの居るチームだから、持ってきたレプリカのユニフォームに袖を通す。虎くんのことは大学リーグでもVリーグでもずっとずっと応援してるけど、直接挨拶に行ったりはしていない。もう覚えてるかも分からないし。Bコートには次第に虎くんが所属するVC神奈川の選手達が集まってきた。
あ。
コート奥の入口から体育館に入ってきた虎くんを視認する。
その後ろから一緒に入ってきたのは、…黒尾だ。
あっ、あっ、
み、見付けた。
小さく手を上げてみるけど、勿論そんなんじゃ気付いてもらえない。どっどうしよう。手を振るって言ったのは自分だけど、気付いてもらえなかったらかなり恥ずかしいかも知れない…!黒尾は虎くんと話しながら、こちら側のスタンド席をゆる〜っと眺めている。さ、探してくれてるのかな…?いやいやそんな自意識過剰な…、いやいやでも、絶対見付けるって、言ってくれてたし……。とにかく、黒尾の顔はこちら側を向いている。視界には絶対に入ってるはずだから、勇気をだしてもう少し大きく手を振ってみる。
あっ
き、気付いた
黒尾はパッと表情を明るくして、大きく手を振り返してくれる。
あわっ、あわわわ。
苦しい、恥ずかしい、嬉しい。
この後何かした方がいいのかな?と軽くパニックになっていると、黒尾は虎くんに何か伝え、今度は虎くんが手を振ってくれた。それは言われたからとりあえず…って雰囲気じゃなくて、驚きと喜びが混じった、少し興奮した様子だ。覚えていてくれたことが嬉しくて、思わず両手で手を振り返す。そして、覚えていてくれたのなら、今までも応援してたってことを伝えたくなる。慌ててスマホを指差すジェスチャーを黒尾に見せて、大急ぎでLINEを入れる。
◯> 虎くんに
◯> いつも応援してるよ!!🫶🫶🫶
◯> って伝えて!!
メッセージを送って顔を上げると、黒尾はちゃんと意図を汲んでくれたようでスマホを見ていた。そして二人が二、三言葉を交わすと、虎くんがここまで聞こえる声で「アザッス!!」と言ってくれるから、私も着ているユニフォームをピンと張って応える。
そしてもう一度手を振り合うと、虎くんはチームメイト達といつも通りのアップルーティンを始めた。黒尾はさっき私がしたようにスマホを指差して見せて、そして満足したように別のコートの方へ向かっていった。きっと何か返信をくれたんだろうな、とメッセージを確認すると、「ハートは無しで伝えといたから」と来ている。…ん?多分黒尾の言いたいことを私は理解できてないけど、とりあえずありがとうと返しておいた。
VC神奈川は虎くんの活躍もあり、同じV1のチームに辛くも勝利した。客席への挨拶の時も虎くんはこちらへ手を振ってくれて、私は拍手を送るか手を振り返すか迷い、とても挙動不審なオタクになってしまった。
試合内容を思い返してホクホクしつつ、ユニフォームを脱ぐ。またまたお腹が空いてきちゃったし、外のキッチンカーでも見に行こうかな。なんて考えていると、通路を降りてきた誰かが、私のすぐ横でストンと座り込む。隣の席の友人が来た、と思って左側を向くと、そこに居たのはファン仲間の友人ではなかったし、そもそも、女性ですらなかった。
「来ちゃった」と言うのは、きゅっと身を縮めて座る、黒尾だ。
「……職務怠慢?」
「めっちゃ怠慢。公私混同。っはは!」
あ、なんか可愛くないこと言っちゃった気がする、って後悔する暇もなく、黒尾が笑う。…わ…、な、なんか距離近くない?あれ?これくらい普通だったっけ?どうだったっけ?胸の苦しさと距離感に混乱していると、今夜は時間を作れなさそう…と黒尾はしょんぼりしながら話す。他の人が通路を通れるようにとぎゅっと膝を抱えて小さくなっている姿は可愛い。
「無理しなくていいから、仕事頑張って」
今、会いに来てくれたし、それだけで充分だ。そもそも仕事優先なのは社会人として当然だし。でも黒尾はちょっと納得いかないように「ん〜…」っていじけて、明日こそは時間を作る、と言う。本当に無理しなくていいのに、と思うけど、多分黒尾が言ってほしいのはそういう言葉じゃないんだよね。…うぐぐ。苦しい胸をぎゅっと抑えて、どうにか「じゃあ、それも頑張って」と伝える。別になんてことない、可愛げのない言葉。近すぎて顔を見れてなかったけど、チラリと横を見てみると、黒尾は優しく目を細めてこちらを見上げていた。
「頑張ります」
苦しい。嬉しい。…大好き。
こういう時は、どうしたらいいんですか、世の中の恋する皆さん。
ニッ!って歯を見せて笑う黒尾につい見惚れていると、また誰かが階段を降りてくる。それは今度こそ私が待っていた友人で、座り込んでいる黒尾に「あの、すみません…」と声を掛けた。
「あ゙っ!すんません、すぐ退きます」
「あ、すみません…」
「いえいえ…。…じゃ、またな」
「う、うん……」
黒尾はサッと立ち上がり、また優しい顔で軽く手を上げて見せ、去って行った。
「…………彼氏さん…?」
「ち、違う…!違う……!」
「またな」と言った低く甘い声が頭の中で繰り返されて、熱の集まる顔を覆いながら友人の言葉を否定する。付き合ってないです。付き合ってる訳ないです。あの人が私なんかと。有り得ない。……あれ?でも、…あれ?あれぇぇ??「えっ?!なになに、こっちまでドキドキしてくるんだけど!」という声に上手く反応もできず、その後キッチンカーで買った唐揚げを食べるまで、ドキドキはずっと止まらなかった。
────────
黒鷲旗2日目。
昨日は結局ファン仲間のみんなとご飯に行って、試合の感想や代表合宿に招集されているメンバーの話、今シーズンの総括的な話などで大いに盛り上がった。
今日も第一試合から観て、第二試合が始まる前に会場外のキッチンカーへ急ぐ。昨日と同じ唐揚げと、大人気のおにぎり宮でおにぎりを買って、また自席に戻るべく広い通路を足早に進む。
「あ」
「!」
多くの人が行き交う通路、前方から歩いてくる人の中に、黒尾が居た。向こうが先に気付いたようで、当たり前みたいにこちらへ向かってくる。えっえっ。私はどうすれば…と慌てている内に、ずいっと目の前まで迫られてしまう。…いや、人の邪魔にならないためだから、距離が近くなっちゃうのは仕方ないんだけど。
「食いもんいっぱい買えた?」
「!…い、いっぱい買えた…」
テンパって復唱するように返事をすれば、私の目線よりちょっと上くらいから小さい笑い声が聞こえる。……どうすればいいんですか、世の中の恋する皆さん。なんだか子供扱いされてるっぽいのを指摘する?また職務怠慢〜って可愛くないこと言う?それとも沈黙?それともじゃあねって言って逃げる?ぐるぐる考えていると、黒尾はその場に留まったまま、「唐揚げ美味そ。俺も腹減ったな〜」と言う。えっ…?その反応はまさか
「この唐揚げ食べてないの?!」
「うおっ、…いや、うん、食べてない、けど」
そんな!
こんなに美味しいものを食べてないなんて!
手元の唐揚げを一つ、串に刺して手に取る。「すんんごく美味しいよ!」って言いながら差し出すと、黒尾はちょっと視線を逸らして思案した。まぁ彼なら多分断るだろうなとはいうことは分かりきっているので、押し付けがましくなってしまう前にすっと手を引こうとした時、
「じゃあ、貰っていい?」
珍しく乗ってくれて大喜びで頷く。そういえばこの前のカフェでも珍しく一緒に食べてくれたなぁ。……あれ?それって、結局私が押し付けちゃってるのかな?黒尾は、無理してる…?ちょっと不安になりつつ串に差した唐揚げを差し出すと、あろう事かその手ごと握られ、黒尾の口元まで持っていかれる。
かぷり。
「…んー!確かに美味いな、味濃いめ」
「……う、うん……美味しい、よね……」
唐揚げは結構大きくて、串にはまだ一口齧られた状態で残ってるし、私の手も、離してもらえないままだ。
えっ
えぅ
し
しぬ
世の中の皆さん…!
世の中の皆さぁぁん……!!
心の中でSOSを発信していると、どこからか「黒尾さ〜ん」という声が聞こえてくる。すると「あっやべっ」という声と共に、パッと手が解放される。
「なぁ、今日はマジで時間作れるようにすっから、空けといてな」
「え、は、はい」
「じゃまた後で!」
そう言うと黒尾は、人波を縫って声を掛けてきた人の方へと行ってしまった。
・・・・・。
……あの、世の中の恋する皆さん。
掴まれていた手に残る熱とか、一口齧って残された唐揚げとか、これは、どうしたらいいんですか?!
────────
今日も第四試合まで全て観戦して、酷使した目に目薬を点してから退場する。つい一時間ほど前、黒尾から「フリー確定した!」と連絡があり、待ち合わせ場所を決めた。黒尾の仕事が終わるのを会場付近で待っててもいいんだけど、どのくらい待つかは分からなそうだったし、この辺はカフェとかもないから、何処へ行くにしたって乗り換えで利用するであろう駅のカフェで待つことにした。アイスミルクティーだけ頼んで、この後何を食べに行こうかと考える。食いたいもん考えといてと言われてしまったけど、黒尾は食べたいものないのかな。いっつも私に合わせてくれている気がする…。とはいえ、私から何も提案しなかったらそれはそれで困らせてしまうような気もするし……うーーん……。……我儘を言うなら、たこ焼きの食べ歩きに行きたい。できれば有名店のたこ焼きを食べ比べしたい。ずっとやってみたいと思っていたけど、ファン仲間のみんなとご飯に行く時はゆっくり話せるお店に入るし、一人での食べ歩きはちょこっと心許なくて、結局できていない。でも黒尾はきっと仕事で疲れてるし、歩かせるのは悪いよね……うーーーーん……。やっぱり普通にお店でお好み焼きとか、串カツとかがいいかなぁ、せっかく大阪だし……と悩んでいると、「今から向かう」とメッセージが届く。
◯< 食いたいもん決まった?
◯< あ待って当てる
◯< せっかく大阪だからたこ焼きとかお好み焼きとか、あと串カツとか?って考えてるだろ
◯> 何故分かるのです………
ポンポン送られてくるメッセージに考えていたことをほぼそのまま当てられてびっくりする。エスパーか何かなのか、この人。いやでも、赤葦くんにもいっつも考えてることバレバレな感じするし、私ってそんなに分かりやすいんだろうか…。単細胞なりに黒尾の食べたいものも聞いてみるけど、「調べ中」と言われてそれ以上は聞けなくなってしまった。
◯< 久世は?具体的に行きたい店とかある?
そう言われて我に返る。
そうだ、ちゃんとお店を探さなきゃ。
黒尾が会場からここまで来るのに、そんなに時間はかからない。合流したらすぐ目的地へ向かえるように、先にお店を決めておいた方が効率的だ。急いでネットで検索するけど、そんなすぐに決められるはずもない。えっと、ここも良さそうだし、ここも…、ここも…、見つける度にURLをメモに貼り付けていく。だ、駄目だ候補が多すぎる。決められない。じゅこっ!っとミルクティーを飲み干しながらスマホ画面を睨んでいると、黒尾から追加でメッセージが来る。
◯< この間怪しいな
◯< 行きたいとこあるけど遠慮してたりする?
うわっ。
なんっ なに なんで どうしよう
今日の黒尾はなんだかいつもと違う。…いや、私が違う?前の私なら黒尾の好きそうなお店だけ調べて、色んな条件を合理的に比較してピックアップしてすぐ連絡してたはず。でも今日は、私が自己中心的に黒尾としたいことを考えてぼんやりしてしまっていた。
どうしよう。怪しまれてる。なんて返せばいいんだろう。……「私も調べてただけ」。これでいっか。うん。自然だよね…?送ろうとすると、先に「まぁいいや、合流したら一緒に考えよ」と来てしまって、また返事を一から考えることになった。
「で?どこ行きてぇの?」
改札前で合流し、まだ行き先が決まっていない私達は一旦壁際へと移動した。ちゃんとお店を決めなきゃ、と再びスマホと睨めっこをしようとすると、壁に少し凭れるようにした黒尾が優しい声で言う。それはまるで子供を甘やかしているようで、これはきっと揶揄いモードだ!と判断してちょっとムッとして見せると、何故か黒尾は余計に甘く目を細めて、「ん?」って言って聞く姿勢を崩さない。なっ、なんでなんで。これじゃ本当に私が子供みたいじゃん。サッと目を逸らして、「黒尾はなに食べたいの」って聞いてみると、「お前が美味しい〜♡ってなるやつ」なんて抽象的で漠然とした回答が返ってくる。はぁ?そんなんじゃ全く絞れない。結局また私はムッとしてしまって、黒尾も変わらずご機嫌そうに笑っている。
「ん〜……。自分でたこ焼き焼けるお店行きたいけど混んでそう!…とか?」
「え?」
「久世の考えそーなこと。」
「………」
「違った?」
「……たこ焼きは、合ってる、けど…」
あ、しまった。これじゃ行きたいところは決まっていると言っているようなものだ。ついこの人の会話術に乗せられて情報を開示してしまった。焦る私を他所に、黒尾は「じゃあ、ちょっと遠いとか?俺、今日は泊まって、明日ゆっくり帰るからマジでなんも遠慮しなくていいぞ?」と、さらりと言ってくれる。この人の、呼吸をするように親切なとこ、昔から大好き。ここまで言ってくれたのにこれ以上モジモジするのも申し訳なくて、断られても全然いいというスタンスと共に、自己中心的な願いを言ってみることにした。
「ほぼ食べ歩きになっちゃうから、疲れてたら全然普通のお店でもいいんだけどね?」
「うん?」
「…あの、たこ焼きの食べ比べを…してみたくて……道頓堀とかで……」
「え、めっちゃいいじゃん。好きそ〜」
じゃあこっちだな、そう言って、黒尾は別の路線の改札がある方へ身体を向ける。
「えっ、えっ、いいの?」
「断る理由ナーシ。行こうぜ」
やっぱり黒尾はご機嫌で、その顔を見てしまったら、もう「いいの?」なんて言えなくなってしまう。
────────
「結構人多いな〜」
「賑わってるね」
下車して目的地へと向かうと、GWということもあって繁華街は人々でごった返していた。まず1軒目のたこ焼き屋さんはこの道を真っ直ぐ行ったところにあるはず、と伝えると、黒尾は人混みを掻き分けるように前を歩いてくれて、私もそれに逸れないように付いていく。会話もしながら時折こちらに視線を向けて、逸れていないか確認してくれるのがちょっと申し訳なくて、擽ったくて、黒尾のリュックにでも掴まろうかな、と考える。でもなんだか、ワイシャツを肘下まで丁寧に捲ったその腕に視線が行く。黒尾はずっと楽しそうにしてくれて、優しくしてくれて……。ドキドキさせられっぱなしで、私はちょっと頭が悪くなっちゃったかも。リュックの端っこを掴もうと思った手を、黒尾の腕と脇腹の隙間にするりと差し込む。きゅっと軽く腕に抱きつくように身を寄せると、黒尾がバッ…!とこちらに顔を向けた。嫌だったかも、なにしてるんだ私は、って考えてるはずなのに、鼓動の音にかき消されてよく聞こえない。
「……許される?」
黒尾はこれでもかと言わんばかりに驚いた顔をしていて、どこかから「ゆッッッ」って高い音がする。
「…許されます…ね……、………」
その表情を注意深く観察してみるけど、嫌悪感などは微塵も感じられない……と思う。多分。きっと。「…えへ、」なんて、パンパンに溢れかえる照れをちょっとだけ発散して、ぴったりくっついて歩く。なんかこれって、まるで、デ、デートみたい。……ねぇ、世の中の恋する皆さん。好きな人に近付けると、こんなに嬉しいんですね。許されたものの、独りよがりじゃないかはずっと不安で、喋らなくなってしまった黒尾の様子を見やる。彼は空いてる方の手で口元を覆い、私とは反対側へ顔を向けている。その反応って……えっと……て、照れてる…?のかな?黒尾が?私のしたことで…?吐き気を催してる可能性の方が高いんじゃ……いや、照れてるんだよね、多分。そんなことあるの?って思うけど、でも、きっとそう。緊張して、でも穏やかな気持ちで、ちょっと汗ばんでしまった身体を5月の風が掠めて心地良い。会話もなく歩いていくと、目的のたこ焼き屋さんが見えてきた。
「あっ!あった!あそこ!」
「んぇっ。えっ、あっ、あー、あそこか」
ぼんやり気味な黒尾の腕を引いて、たこ焼き屋さんへとグイグイ進む。…この体勢、結構便利でいいかも。
10分ほど並び、8個入りのオーソドックスなたこ焼きを購入する。私にとって一番馴染み深いチェーン店では色んな種類があっていつも悩むけど、本場ではそういったものはあまりないようだ。店舗には一応簡易的な飲食スペースが設けられているものの、それなりに混んでいそうだし、食べながら次のたこ焼き屋さんへ向かうつもりなので、とりあえず横の細い路地へ移動する。出来たてで熱々だろうから、最初の一、二個くらいは立ち止まってゆっくり食べた方が良さそうだ。ちょっと長めの楊枝を自分側と黒尾側のたこ焼きにそれぞれ刺して「はい」って見せると、黒尾は「あぁ…うん」と言って楊枝をつまみ、たこ焼きをそのまま口に入れた。
「えっ」
「ア゙ッッッ◎$×△¥●&?#$……!!?!」
悶絶。
当然だ。
ほんの1分前まで鉄板で焼かれていたんだから、熱いに決まってる。
一拍遅れて事態を理解し、口を抑えて苦しむ黒尾に「出しちゃってもいいよ?!」と舟皿を差し出すけど、彼は痩せ我慢をして首を横に振る。「ハフハフして!ハフハフ!」と言うと、どうにか口を開けて熱を逃がそうとしているようだけど、それだけではとても解決できそうにない。私は片手でどうにかカバンの中から水のペットボトルを取り出し、「飲み込むなら!」と言って黒尾に渡す。黒尾は痛々しい呻き声を漏らしながら、どうにか水でたこ焼きを流し込んだようだ。
「っっはぁ〜〜〜〜……!!しぬかとおもった…!!」
「だ、大丈夫……?冷たい飲み物買おっか」
遠慮する黒尾を無視して、もう一度レジに並ぶ。ありがたいことに列はさくさくと進み、すぐに冷たいお茶を買うことができた。その間も黒尾はずっと口を開けて呼吸していて、火傷してしまったんだろうなということが容易に想像できる。「ごめん…」とか「悪い…」とか謎に謝っている黒尾を連れて飲食スペースの空いてる席を探すと、親切なお兄さん方が席を詰めてくれて、二人で座ることができた。
ちゅーー…とストローで冷たいお茶を飲む黒尾は、分かりやすく肩を落としている。大丈夫?熱かったね、痛かったね、って寄り添おうとすると、なんとも言えない目でジロリと見られてしまった。ありゃ。子供扱いみたいになっちゃったか。黒尾は歩いてた時からずっと口数が少なめで、でも別に機嫌が悪いって訳じゃなさそうなので、その隣りで私もやっとたこ焼きを頬張る。ハプニングのおかげでちょうどいい温度になったたこ焼きは外がカリッとしていて、中はトロットロで、事前調査通りの食感だ。口を閉じたまま美味しい〜って感嘆を吐いて、またもう一個、もう一個と口に運ぶ。黒尾は…もう熱いものは食べれないかな?隣を見ると、大の大人がしゅんと落ち込んでいて、その哀愁漂う姿が面白くなってしまう。この人の考えそうなこと、分かる気がする。私が食べたいものを優先してくれて、食べ歩きに付き合おうとしてくれた。それなのにまさかの一個目でリタイアになりそうで、カッコつかなくて落ち込んでいる。……多分、合ってる。
「…ふ、んふ、ふ……」
「………?」
おかしくなってしまって、つい笑い声が零れる。
黒尾は私が笑っている理由がさっぱり分からないようで、怪訝な顔でこちらを凝視している。私の食べたいもの、したいことを聞き出してくれた時の彼のスマートさを思い返すと、落ち込んでいる今とのギャップでどんどん面白くなる。
「んふっ、ふ、ごめん、黒尾は痛い思いしたのに……でもっ…ふっ!ふふっ、あははっ…!ほんとごめんね、可愛くって…、あはは…!」
黒尾はやっぱりカッコつけだから、少しポカンとした後ですぐに「可愛いってお前…」と否定しようとしてくる。でも私はなにも女の子みたいとかって言いたい訳じゃなくて、愛しくてたまらなかっただけから「愛くるしいって意味」と笑いながら伝えたら、黒尾は上手く反論できないのか、下顔面を片手で覆った。
はふはふ。
たこ焼きは美味しいし、好きな人は優しくて可愛いし、幸せだな。黒尾はたこ焼きの美味しさなんて全く味わえなかっただろうど……と思い出すと、やっぱりどうしても笑ってしまって、「笑いすぎ」と軽く怒られてしまった。
「ふふ、ごめんね。ね、熱くない食べ物だったらいけそう?」
「え…、いや、食うよ、たこ焼き」
「でもさっきから全く食べようとしてないよね?」
「それは……久世が、ぱくぱく食ってるから……」
「ほんとうは?」
「………舌痛いです…」
そういえば黒尾は確か猫舌だった気がする。
高校生の頃、帰りにみんなでコンビニの中華まんを食べたことがあった。その時黒尾は肉まんを真っ二つに割って、「冷ましてから食わねぇと火傷するぞ〜」ってみんなにしつこく注意していた。そして誰よりも慎重に冷ましてから食べていた事を思い出す。みんなもしっかりふーふーしたりしていて、猫舌人口多いなって思ったんだった。
ちゃんと猫舌の自覚があって、いつも注意深い人なのに、なんでさっきは何も考えずにたこ焼きを口に入れてしまったんだろう。………ふふ、ふふふ。
「じゃあ食べられそうなもの探しに行こ」
「いや、冷ませば食えるから、食べ比べ…」
「そんなのいつでも出来るから、熱々じゃないもの食べようよ」
黒尾はもうお茶を飲み終わったようだし、私も残ったたこ焼きをパクパクッと完食して席を立つ。「はぁ〜〜……ダサすぎだろ…」ってまだ気にしてるみたいだったから、可愛いから大丈夫って励ますと、「それは全然大丈夫じゃない」ってちょっと拗ねてしまった。難儀な人だ。
───────
また人混みの中の一部になり、黒尾が食べられそうなものを探す。でもこの辺は本当にたこ焼き屋さんが多いし、お好み焼き…串カツ…こっちも串カツ…で、結局どれも熱々だ。キョロキョロしてたら黒尾と数メートル離れてしまっていて、そのことに先に気付いた彼がやんわりと左手を差し出してくれている。さっき許されたし、いいよね?近付いて、またその腕にきゅっと抱きつく。やっぱり、文句は言われない。でもちょっとビクッとされた気がして、「違った?」と聞くと、こちらは見ずに「いや、大丈夫……合ってる」と言ってくれるから、今はその言葉だけ信じることにする。
なかなかお店が決まらずに結構歩いてしまったけど、やっと人が並んでいない海鮮系のお店を見つけることができた。店先のメニューを見るに、少し価格帯が高いから混んでいないんだろう。黒尾はまた遠慮したり、入るなら奢るとかなんとかごちゃごちゃ言ったけど、私もお刺身が食べたい気分になっていたので、有無を言わさず入店した。そして私の方がいっぱい食べたのに、また会計のことでごちゃごちゃ言ってきたから、適当に4:6くらいで割り勘にした。黒尾には多めに払わせてしまったけど、今度何かで返そう。前までは、いつ会わなくなってもいいように貸し借りはナシにしておきたかったけど、今はもうそんな風には考えてない。
帰りは来た時とは別の駅へと向かった。道はあまり混んでいなくて、逸れないように黒尾に掴まる必要はない。通常の距離で並んで歩けることが、むしろ腕を組んで歩いていたことを思い起こさせて、なんだか恥ずかしい。少しだけ肌寒さを感じていると、隣の黒尾が「あのさ、…あー…」と気まずそうに話し出す。
「結局、ほら、バレンタインのお返し、ちゃんとできてねぇだろ?やり直してぇんだけど…、なんか欲しい物とか、俺にできることとかってねぇかな」
バレンタインのお返し、という名目で、黒尾は素敵な植物園へ連れて行ってくれたり、まぁ…色々と、既にしてくれている。私が捻くれていたせいと、黒尾も色々と間違った?せいで、その日は散々なことになってしまった。それについての謝罪も既に済んではいるものの、再び話題に出すのは勇気が必要だったと思う。私としては正直、元々お返しなんて求めてはなかったし、植物園のチケット代も出してもらったし、さっきのお店でも多く払ってもらったし、これ以上何かをしてほしいなんて思えない。でも今の黒尾にそれを言っても、多分納得はしてもらえない…というか、なんなら傷付ける気さえする。すぐには返事できなくて、でも不安なままで居させたくなくて、ちょっと呑気な声で「う〜ん」とか言っておく。
欲しい物…は、特には無い。顎に手を当て、一生懸命考えてみても、無い。じゃあ、黒尾にしてほしいことは……、これも特には無い。健康で、幸せで居てくれたらそれ以上のことなんてない。できればその元気そうな姿を、たまにでいいから私にも見せてくれたら嬉しいけど、これは多分、もうお願いすることじゃない…はず。
「うーん、うーん……」
「無いスか……、じゃあ、普通にお菓子とかにする?」
お菓子…、チョコのお返しだから、同じようにスイーツを贈るのは定番ではあるし、勿論それも嬉しいけど…あっ。思いついた。黒尾にしてほしいこと。欲しいもの。
「また黒尾が作ったご飯食べたい!」
名案が思いついてしまい、ババーンと大発表しながら隣を見上げると、黒尾はキョトーンとして何度か瞬きをした。あれ?こういうのじゃなかった?
「……飯?」
「うん。先生の料理、とても美味しかったので!」
「そんなんでいいの」
「そんなん?!」
クリスマスにご飯を作ってくれた時も思ったけど、黒尾は自分の自炊スキルを軽視しすぎている。とんでもなく凄いことをしているのに。とんでもなく美味しかったのに。力説すると、「分かった、分かったから…」と若干引かれてしまった。でもきっとこれは照れ隠しだろうな。この人、意外と褒められるのに弱いから。納得してもらえたようで、今度は黒尾が顎に手を当てる。
「じゃあ…、……俺んち、でいい?アッいや、ほら、そっちはあんま道具とか揃ってなかったしさ」
「うん!慣れてるキッチンの方がいいよね」
「…ウン……、うん………」
具体的に何を作ってもらうかは追追決めるとして、来週の土曜日にお邪魔させてもらうことになった。黒尾のご飯は美味しいし、魔法みたいに手際良く料理する姿も素敵だったから、楽しみすぎて自然と足取りが軽くなる。
駅に着いて、どっち方面の電車に乗るのか確認するためにお互いの宿を確認し合うと、まさかの同じ駅だった。今日待ち合わせた、多数の路線が入った駅。どうりで迷いなく駅構内を歩いた訳だ、と納得すると共に、一緒に帰れることが嬉しくなる。黒尾も「…マジ?ラッキー」なんて言っていて、その甘いはにかみに胸がキュンと音を立てた。
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「ホテルどっち?」
「それはこっちの台詞。もうこんな時間だし、送らせて。ちなみに拒否権はナシ」
最寄駅の改札を出て、黒尾を送るためにどの出口へ向かうか聞こうとすると、逆に送ると提案されてしまう。しかも拒否権はないらしい。抗議したい気持ちが顔に出てしまったのか、それを見た黒尾に少し笑われ、優しく「どっち?」と問い詰められてしまう。この辺は比較的治安が良いとは聞いているけど、大切な人の帰る場所が徒歩圏内にあるというのなら、送り届けたくなってしまうものだ。……それは、黒尾も同じ、ってこと…なのかな。でももし黒尾の宿と私の宿が逆方向だったら、その分無駄に歩かせてしまうことになるし…。う〜〜ん…。世間一般で考えたら、男性が女性を送り届ける方が普通なんだろう。夜道を一人で歩いた場合の危険度が違うから、そうした方が合理的だというのは分かる。私と黒尾で考えても、明らかに私の方が弱い。……ということは、やはり私には拒否権がないということなのだろう。「くっ……、私がもっと屈強だったら…」なんて悔しさを零すと、黒尾は「はぁ?」と言いながらも楽しそうに笑ってくれた。
「あ、あれ。もうすぐだから、ここでいいよ」
「はいはい。行きますよ〜」
ホテルが見えてきたから黒尾を解放しようとしたのに、当たり前みたいに目の前まで行くつもりらしい。不服だけど、逆の立場だったら私もそうするから、あんまりうるさくも言えない。明日の3回戦の話なんかをしてたらあっという間にホテルの目の前まで辿り着き、送ってくれたことに深くお礼をする。あと、黒尾もホテルに帰ったら連絡してねと伝えた。送らせてもらえないなら、せめて安全に帰れたことが知りたい。「喜んで」と言ってくれたので、安心して、じゃあまたねとロビーへ向かおうとすると、右手をぐいっと引かれる。慌てて振り返ると、黒尾はほんの数秒前とは違う表情をしていた。
どこか熱っぽい真っ直ぐな瞳に捕えられてしまい、身体が動かなくなる。目を逸らすことすらできないし、握られた手に手汗が滲んでいないか心配なのに、振り払うこともできない。それどころか、触れ合った手の熱さが全身に広がってきて、むしろ汗ばんできてしまう。街灯やコンビニの灯りを反射する瞳が綺麗で、吸い込まれるってこういう感覚なのか、と冷静に納得してしまった。時間にしてたった数秒。だけど物凄く長く感じて、何も言わない彼に「黒尾…?」と声を掛けてみる。
「っあ、悪い…」
「う、ううん…」
黒尾はまさに我に返ったというような反応をしたけど、まだ手は離されない。それどころか、むしろ意識的に、ぎゅっと握り直されてしまう。
「……じゃあ、すぐ連絡するから」
「う、うん…」
「来週も…、マジで楽しみにしてる」
「私も…」
「………」
「………」
「…………うわやっべ、これいつ離せばいいの?!」
「し、知らないよ…!」
こちとら全身バックバクで大変なんだから、私に聞かないでほしい。そもそも本当に知らない。分からない。考えられない。助けて。
黒尾はふぅーーーっと呼吸を整えて、「よし、帰ります」と言う。そしてパッと手を離したかと思えば、両手で肩を掴まれ、ぐるんっと身体の向きを変えられる。「さぁGOGO!お部屋に戻んなさい!」って肩を押されて、その勢いで数歩進まされた。パニックなまま振り返り、最後に「お、おやすみ!」って声を掛けたら、黒尾も「おやすみ」って返してくれた。
頭の中に、あの日が鮮明に蘇る。
高校三年生。春高三日目の夜。
あの日「おやすみ」と言ってくれた彼の目元は赤かったけど、その瞳の温かさは、今も変わっていないように思えた。
さっさと行けとジェスチャーで伝えられて、軽く手を振ってロビーへ向かう。
世の中の恋する皆さん。
あなた達を心の底から尊敬します。
私は好きな人が幸せで居てくれればそれだけで、それこそが幸せでした。これは本当です。でも、好きな人にとって自分が特別かも知れないと、心のどこかで思ったとしても、傷付くのが怖くて、無意識に一切の期待をしないようにしてきました。恋に、向き合ってきませんでした。
でもこれからは、皆さんのように頑張ってみようと思います。
私の好きな人は、世界で一番、優しい人だから。
心の中で勝手に宣誓をして、ホテルのエレベーターに乗り込んだ。