赤い糸40,075km
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◯< 殺してくれていいから、相談させてほしい
◯> 遅い
と思ったままに返信する。
遅すぎて諦めたのかと思いましたよ、と。
◯< あの人のこと一番分かってるのはお前だろ
◯< 頼むから教えてほしい
黒尾さんからこういった連絡が来るであろうことは分かっていたし、早く連絡してこいとすら思っていた。そして、その際には何か、自腹では食べないようなものを奢ってもらおう、と決めていた。一度でいいから、それなりに高級な和食を食べてみたい。天ぷらがあると尚良い。込み入った話をするなら個室がいい。要望を唐突に投げつけると、察しの良い黒尾さんから「探す」と返ってくるので、スマホを置いて仕事に戻る。
来週から新年度が始まる。うちの編集部にも新人が入ってくるそうだが、俺の仕事に限っては特別何か変わる訳でもない。俺が新人にしてやれることなど、君もこれから社畜になるんだよ、と哀れみの目を向けてやることくらいだ。
会議や作家との打ち合わせなどのスケジュールを確認しつつ、取材の連絡を入れる。相手方はもうとっくに帰ってしまっているだろうし、俺もこのメールを送ったら帰ろう。電車に揺られ、自宅近くのスーパーに閉店間際に滑り込む。割引になった弁当を買って帰宅し、軽く温め直しているとスマホが鳴った。
◯< 来週水曜20時半 **駅 行ける?
さすが黒尾さん。極力直近で予約の取れるところを見つけ出してくれたようだ。来週の水曜なら午後は外せない用事は無かったはずだから、行ける旨を伝えるとすぐに予約完了の連絡が来る。
彼が今悩みに悩んでいるであろうことは、恐らくすぐに解決できることではない。細かい内容は分からないが、“謝りたいのに会ってもらえない”とか、そんなとこだろう。しかし久世さんは来週から研修のために都内を離れる。二週間戻って来ない。今慌ててLINEで話を聞いてやったって間に合わないだろうし、久世さんにも時間が必要なはずだ。黒尾さんはずっと悩むだろうけど、それは俺にはどうでもいい話だ。
◯> では、来週水曜日
◯> 天ぷら楽しみです
適当にやり取りを終わらせれば、「よろしくお願いします」と従順な返事が返ってくる。これはよっぽどだな。二人に何があったのか、詳しいことは何も知らない。数日前久世さんと会った時、彼女は一見、いつも通りだった。
─────────
「さぁ〜、豪遊するぞ!」
「いくらになるか楽しみだね」
その日はいつもの定食屋ではなく、全人類が愛する格安イタリアンでのフードファイトデーだった。彼女は爛々と目を輝かせてメニューを選び、オーダー表にずらりと番号を書いていく。注文した品が届くと、「美味しいね」「そうだね」と言いながら二人で片っ端から平らげていく。いつも通りの、幸せそうに食事をする久世さんだ。食べることへの興奮が落ち着いてきたら、彼女は仕事の話をしてくれた。部署異動のことは前から聞いていたが、今一緒に仕事してる人達と離れるのは恋しいとか、軽い送別会をしてもらえるとか、移動先の部署には同期が居て、研修も付き合ってくれるみたいでホッとしたとか、そういった細かなことも話してくれる。久世さんは元来控えめな人で、人付き合いも上手い方ではない。それなのに移動先はまさかのマーケティング部で、しかも自ら希望したらしい。でもそれも驚くことではない。学生時代を思えば、彼女は絶対に能動的な方が輝く。大学ではスポーツ学を学んでいたし、ずっと経理部で燻っていたのが勿体なさすぎたんだ。特に久世さんの勤めるメーカーはバレーのシューズやウェアが強いし、マーケティング部ともなれば、よりバレーをする人、したい人と近くなる。贔屓目なしに、彼女が輝くにはもってこいの環境だと思う。どうしてこのタイミングで異動を希望したのかは、十中八九黒尾さんの影響だろうな。実際にバレーボールに関わる仕事をしている人を見て、自分ももう少し、と思ったんだろう。本当に、簡単にこの人の運命を変えてくれるよな、あの人は。
「兵庫はお土産なにが有名なのかな…」
「え、なんだろう…パッと思いつかないね」
研修先である本社は兵庫県にあるという。俺も彼女も有名なお土産が思い浮かばず、それぞれスマホで検索する。彼女は研修へ行くことにとても意欲的だ。それは素晴らしいことではあるものの、俺の思う久世さんであれば、慣れない環境に向かうことをもっと恐れ、不安を抱くはずだ。
何かが、おかしい気がする。
今日の久世さんはいつも通りに見えて、たまにすっと睫毛を伏せて憂う瞬間がある。それなのに環境が変わることを恐れるより歓迎する様子は、まるで逃げたがっているようだ。
逃げたがっているとして、何から?
そんなの明白だろ。
ただ、気付いたとして、俺には何も出来ない。俺の出る幕ではない。俺はただこうして、彼女と一緒にご飯を食べて、他愛もない話を聞かせてもらうだけだ。万が一があれば、俺自身が彼女の逃げ場になる。万が一がなければ、そこまで。
「黒尾さんと何かありました?」なんて聞くことはしない。それは彼女を追い詰めることになる。彼女は決して黒尾さんの話を俺にしない。いや、きっと誰にもしない。これまでも全て、彼女の中だけで完結してきたものだ。そこに黒尾さんの指先が触れて、波紋が広がっているんだろう。
ついにここまで来たか、と、遅せぇよ、が頭の中で同時に鳴る。
「安ぅ!」
「計算ミスかな?」
「計算ミスだね」
かなりの品数を注文したというのに、伝票の合計金額は目を疑うほどに安い。腹が充分に満たされた感覚に満足しつつ、適当に割り勘をして会計を済ませる。別れ際、「仕事頑張ってね」と伝えると、かなり張り切った様子で「うん!」と返ってくる。彼女が仕事に夢中になっている間、あの人はどうするつもりだろう。波立たせておいて逃げるなんていうのは、絶対に許さない。久世さん、帰ってきたらきっと大変だから、それまではあんな人のことは忘れて、貴女らしくリフレッシュしておいで。
────────
水曜。ほんの少し遅れつつ予約してもらった料亭に伺う。美しい竹庭に囲まれた、いかにも高級そうな雰囲気のある料亭だ。丁寧に個室の前まで案内され、その戸を開けると、湯呑を片手にした黒尾さんが待っていた。
「うぃ〜〜す、お疲れ様でゴザイマス…」
「お疲れ様です。分かりやすくやつれてますね」
「そう?」
席に着くとすぐに仲居さんから温かいお茶とおしぼりが提供され、料理の提供もすぐに始めるとのことだった。黒尾さんは前回バレンタインの日に会った時より若干痩せた気がする。具体的にどこがどう、というところまでは分からないが、あまり生気が感じられない。小さな個室に男二人。そこに黒尾さんの「あ〜〜…」というバツの悪そうな声が響いた。
「ごめん。聞いてるかも知んないけど、久世に嫌な思いさせた。多分、かなり」
「何も聞いてはいないです。何やらかしたんですか」
俺に謝られても何にもならない。何があったのか聞くと、黒尾さんは視線を落としながらつらつらと喋り出す。取り繕わず、許しを乞うでもなく、ただただ事実が語られた。
まず、脈アリだと思うようなことがあったらしい。ここの詳細については語られなかったし、俺も追求しない。本人の居ないところで暴くことではない。とにかくそれを受けて黒尾さんは浮かれに浮かれ、次のデートでの反応が良ければもう告白しようと考えるほどだったらしい。
その上で、ホワイトデーのお返しという口実で1日デートを決行。そこで事件が起きた。予約した植物公園で桜を楽しみ、ちょっといいカフェに行って、最後にアクセサリーをプレゼントしようとしたところで久世さんが帰ってしまったらしい。黒尾さんの主観としては、彼女のガードが随分と硬いのは意識している証拠、照れているだけ、と思っていたようだ。ただ、あまりにも頑なに”友人としての距離感”を保とうとする様子に、全て自分の勘違いなのでは?と不安になり、どうしてもまた脈アリだと思えた時のような反応が見たくなって、焦りに焦った。久世さんはきっとその日一日何も楽しくなかったのでは、と後からなら分かる、と頭を掻きながら後悔する。久世さんが帰ってしまった原因は”あまり好みでもない居心地の悪い場所に連れて行かれたこと”や、”黒尾さんから好意を押し付けられたこと”が嫌だったのではないか、と考えているらしい。
大体のことを聞き終えた頃には、既に先付けと吸い物、向付けが卓に並んでいた。オクラのお浸しの食感を楽しみながら、料理の代金分は仕事をしてやる。
「彼女が抱いた嫌悪感の本質はそこじゃないと思いますよ」
俺からヒントが貰えると分かった黒尾さんは、顔を上げて真剣に耳を傾ける。この人にはもう逃げるなんていう考えはない。久世さんと向き合おうとした結果の失敗。そして、失敗してなお向き合おうとしている。それなら俺から渡せる情報だって前よりずっと多くなる。最も伝わりやすい話し方を考え、「例えば」と切り出す。
「ほぼ確実に黒尾さんに好意を向けている人が居るとします。その人に焼肉の大食いチャレンジをしよう、それがプレゼントだ、と誘われたらどう思います?お互いの好みは大体知っている前提として」
「なんでわざわざ俺とそれを、と思うし……、俺のことをちゃんと分かった上で好きな訳じゃねぇんだな、と思う……」
言いながら、黒尾さんは顔を歪める。
俺の伝えたいことを正しく理解してくれたようだ。ああ〜〜と後悔、自責の念に駆られ、顔を覆う姿は痛々しい。まぁ自業自得だけど。要するに、黒尾さんの好意は最悪の形で久世さんに伝わった。彼が空回ったせいで、”お洒落なカフェやアクセサリーで喜ぶ女性”として好きだよ、と示してしまったんだ。彼女はそういうタイプではないのに。そんなことを長年の想い人にされたら、どれだけ悲しいだろう。彼女の傷を思うと腹が立ってくるが、想定内でもある。この二人がそう簡単に通じ合えるはずもない。これはきっと、久世さんが本当に幸せになるために必要な傷だ。決して無駄にはさせない。
「……でさ、謝りたいんだよ、できればちゃんと会って。でも仕事忙しいって取り合ってもらえてなくて…、これ、しつこく連絡していいと思う…?」
刺身を食べながら苦々しい顔をする黒尾さんを哀れに思う。せっかくの料理なのに全部味してないんだろうな、この人。久世さんの仕事が忙しいのは本当で、研修に行っているからそもそも都内には居ないことを教えてやると、彼は「そっか…」と安堵し、「そっか…」と落胆した。そんなことも教えてもらえない自分が、彼女を傷付け、拒絶されている自分が、これ以上接触しようとしていいのか、それが許されるのか。黒尾さんは「俺は諦めたくない。でも、また傷付けるだけになるなら…」と、きっと丸二週間自問自答し続けたであろうことを苦しそうに溢す。
俺のやるべきことはずっと前から決まっている。
俺の女神の、幸せの所在を見つけること。
この恋敵はもう前とは違う。
諦めたくないとハッキリ言うのであれば、さぁ、やっと対等だ。
「黒尾さん」
「?」
「久世さんには俺が居ます。」
「彼女が嫌な思いをしたのなら、俺が一緒に美味しいご飯でも食べます。」
「彼女が傷付いたのであれば、傷が癒えるまで俺がそばに居ます。」
「だから、黒尾さんは好きなように当たって砕ければいいんじゃないですか」
黒尾さんは目を見開いて数秒固まり、じわじわと言葉の意味を理解して表情を変える。それはどんな顔、どんな感情とも表現できない、複雑な表情だ。そしてはぁぁ、と息を漏らしながら、弱々しく笑う。
「…なんっか、やっと分かったわ。お前、俺が正式にフラれんの待ってんな?」
「ははは、どうでしょう」
「はあぁ〜〜〜……、いざとなったら、そうするかぁ…」
ヤケクソとも違うが、彼は幾分か晴れやかな声音でそう言う。別に黒尾さんを励ましているつもりはないし、背中を押しているつもりもない。ただ、久世さんが傷付いたままなのが許せない。貴女が好きな男はどうしようもなく情けなくて、空回って貴女を傷付けたけど、ちゃんと貴女のことが好きだ。他の誰かと重ねている訳でも、誰でもいい訳でもない。黒尾さんから何度も連絡が来ることで彼女は困るかも知れない。でも、その事実だけは、どうかちゃんと知ってほしい。貴女がずっと一人で大切にしているその気持ちは、まだ一切汚れてなんかいない。
この個室に流れる空気も多少和らいだ頃、待ちに待った天ぷらも運ばれてくる。食材の中には見慣れないものもあり、「なんですかねコレ」「鱧だな。高級魚。美味いぞ」なんて普通の会話もする。後で久世さんに送ろうと写真を撮ると、そのタイミングで彼女からLINEが届く。向こうで神戸牛を食べているらしく、その美味しそうな写真が送られてきた。それを恋敵にも見せてやると、「とりあえず元気そうにしてるなら良かった」と目を細めた。
「ご馳走様でした。美味しかったです。夢が叶いました」
「そら良かった。こっちこそありがとな」
「いえいえ、黒尾さんのためじゃないですから」
黒尾さんが会計を済ませ、二人で料亭を後にする。彼はもう俺のチクチク言葉は効かないようだ。笑っている。別に初めから意地悪をしたかった訳ではないから全く構わないが、今日ツッコミ忘れたことがあったので、そこは一応つついておく。
「今更ですけど、付き合ってもない相手にアクセサリー贈るのって結構キモ…重くないですか?」
「え゙……あ、そう…?…そう…かも……」
学生が安物を贈るのとは訳が違うんだから、焦り倒していたとはいえ結構なハードルを飛び越えているように思う。その辺の感覚は俺より黒尾さんの方がずっとありそうなのに、彼は意外にも自信なさげな反応をする。この人の女性関係なんて知ったこっちゃないが、これまで付き合いのあった人達は喜んでいたのかも知れない。そういう成功体験でもあるのかと聞いてみれば、そんなものは無いしプレイボーイみたいに言うのはやめてくれと言われる。プレイボーイとまでは思ってないが…久世さんにそういう扱いをされて気にしてるんだろうな。可哀想に。黒尾さんは顎に手を当てて思案し、やがて何かに気付いて「うっわ…」と零す。
「最低なことに気付いちゃったんだけど言っていい?」
「どうぞ」
「今まで女性と親密になって、こんっなに何も求められないことってなかったから、どうしたらいいか分かんねんだわ……」
自分自身で呆れ返ったように言うその内容は、つまり。
「女はみんな勝手に俺を好きになるから、そのせいで口説き方が分からない…って言ってます?」
「ハイ悪意〜。そうは言ってねぇけど…まぁ、後半は合ってる」
黒尾さんは、もうここまできたら開き直るしかない、と言って夜空を仰いで軽く笑った。
そうか、この人は、俺が思うよりもずっと不器用なんだな。黒尾さんは人の気持ちを汲み取るのが上手い。だから、相手が望んでいることを察して、先回りして喜ばせる…ということは得意なはずだ。でもこれは、相手が何かを望んでいなければできない。久世さんは黒尾さんに一切を望まない。それでも黒尾さんは久世さんとより親密になるために、ノーヒントでどうにかやろうとした。そしてこのザマな訳だ。なるほど。Lv.100の武器があるにも拘わらず、本気の相手にはそれが通用せず、仕方なくLv.0の新品の武器で挑んで大外ししたのか。全く。何をやっているんだか、この人達は。もう10年も前からずっと両想いなくせに。まぁ、何をやっているんだ、は俺も同じか。春の風を背中に受けながら、自分達の愚鈍さを笑った。
───────
「こんなに…いいの?」
「うん。迷ってたらいっぱい買っちゃって…。仕事の合間にでも食べて」
「ありがとう。じゃあここは俺が出すね」
「やったー!」
俺の自宅近くのインドカレー屋。あまり混雑しないこの店の、端っこのゆったりとした広めの席。昨日研修から帰ってきたばかりの久世さんから、お土産としてせんべいやお菓子の箱を三箱ほど渡される。ご飯に誘ってくれるとしたらきっと今日だろうなと思っていたから、黒尾さんにもこの日は俺の日だと伝えてある。彼女はいつだってこうして、俺を一番そばに置いてくれた。10年、ずっと。多分それもあともう少しだ。黒尾さんからはまだ追加の連絡は入れてないんだろう。彼女の雰囲気は前回より明るい。ナンの美味しさに目を輝かせ、これからの仕事への意気込みを熱く語ってくれる。俺の仕事の愚痴なんかも聞いてもらって、そんな、俺達のいつも通りの時間が流れた。
帰りは久世さんを改札前まで送る。彼女が住む部屋までは、ここからたったの3駅だ。物件探しに協力した時、できれば俺が駆けつけやすいところ、久世さんに何かあった時、俺の部屋に逃げ込みやすい距離がいいと打診してみたら、彼女も当たり前のように近い方がいいと言ってエリアを絞ってくれた。俺達の間には、容易には築けないような信頼があるし、愛だって確かにある。この10年、俺に与えられていたもの。
俺のことを好きになってほしかったよ。
今ではその気持ちがどれくらいの大きさなのか、もう分からないけど、俺が貴女を幸せにしたかった。
でも、それが叶わないとしても、貴女に幸せになってほしいと思う気持ちは変わらないから。
「久世さん」
「じゃまたね」と改札へ向かう彼女を呼び止める。
「頑張ってね」
久世さんは当然仕事のことだと受け取り、また張り切った様子で「うん!」と応えた。そして笑顔で手を振り、改札の奥へと消えていく。それを最後まで見送ってから、俺も帰路に着く。今日は風が強いな。彼女から貰ったお土産の紙袋が、風に揺られガサガサと音を立てた。