赤い糸40,075km
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「お疲れ〜」
「あ、お疲れ」
「お疲れ様です」
コートを脱いで、赤葦の隣に腰を下ろす。前も来た、二人の行きつけの定食屋。俺は前回と同じく鰤の照り焼き、久世と赤葦は二人揃って豚カツを注文した。なんでまた“三人”なのかと言うと、まぁお決まりの流れだ。散々悩んだ末に送った「バレンタインのご予定は?」というメッセージに、赤葦と食事に行くけど一緒にどうか、と返ってきて今に至る。ほんっと、当たり前のように赤葦の名前が出てくるんだよな。最初からそんな気はしてたし、もういいんだけどさ。メニュー表を脇に片付けると、久世は少し落ち着かない様子で自分の荷物を確認し始めた。
───きた…。
何も言わずにこの人からチョコを貰えるなんて思ってない。俺はもう、ちゃんと現実的に距離を縮めていく覚悟を決めた。だからバレンタインの予定を聞いた時に、事前に申請済みだ。
◯> 因みに、チョコとか用意すんの?
◯< 赤葦くんには毎年用意してるよ
◯> 今年は俺にもあったり?
◯< ?
◯< チョコ好きなの?
◯> そりゃもうとんでもなく大好き
◯< 意外だね
◯> なので俺にも用意してくれません?
◯> 勿論お返しはちゃんとするんで
◯< お返しはいいよ
◯< 了解です
……と、まぁ、彼女には俺にチョコをあげたい意思はゼロっぽいけど、形式上はバレンタインチョコを貰えることが決定している。「今渡しちゃっていいかな」と控えめに言う久世に赤葦が穏やかに返事をして、俺も頷く。…うおお…、お願いして用意してもらった物だとしても、この人からバレンタインチョコ貰えるの、嬉しいし緊張する。ガサ、と紙袋の揺れる音がして、それを提げた両手が差し出される。俺と赤葦で、別々のを用意してくれたようだ。「どうぞ!」と言ってくれるので、お礼を言って受け取る。シンプルな紙袋の中を覗くと、これまたシンプルな小さな箱が入っている。小さな……、小さな箱。
・・・いや、嬉しい、嬉しいよ、嬉しいんだけど────小さくね・・?多分これ、中身2粒…だと思う。いや全然何も不満はないんだけど、赤葦の方は紙袋の大きさ的に2粒は絶対有り得ないし、そうなると、なんで俺にはこの量にしようと思ったんだろう…。いい、けど。全然いいけど。俺が細かいこと気にしてる間に、久世と赤葦は「悩んだけど結局去年と同じのになった」とか話してる。そうだよな?久世ってこういうのかなり考えて選んでくれるタイプだよな?じゃあどういう意味合いで俺にこれを選んでくれたんだ?いやほんと、不満とかじゃないんだけど。でも顔に出てしまっていたのか、久世に「好きじゃないやつだった…?」なんて心配させてしまうから、もう直接聞いてみる。
「いや……その、思いの外可愛いサイズ感だったから、びっくりしたというか…」
「あ、黒尾には量が少ないのを選んだよ」
「な、なんで?」
「え、だって
たくさん貰ってるだろうから…」
数秒、音が聞こえなくなる。
・・・・・貰ってない。
一個も貰ってねぇよ・・・。
いやまぁ確かに?学生時代はたくさん頂いたりしたこともありましたけど?社会人になってそんなんないって…。うちの職場オッサンばっかだし…てかもし貰っても断るし……。くっそ〜…やっぱ手強いなこの人…。昔からそうだけど、「モテモテだね〜、それじゃさよなら」みたいな感じで思いっきり距離取ってくんだよな…地味に効くからやめてほしい…。
「…言っとくけど、お前以外から貰ってないから」
「そうなの?!…あ、協会って女の人少ない…?」
小さく鼻で笑った音が隣から聞こえてくる。
他の人からは貰ってないのに、久世にはくれってお願いしてんだから、よっぽど鈍感でない限りその意味が分かりそうなものなのに、彼女のアンサーは“周囲に女性が居ないから”。……耐えろ。今の俺はまだその程度の位置付けだ。「じゃあもっと多いやつにしたら良かったね」と申し訳なさそうに言う彼女に不服そうにしたことを謝って、改めてお礼を言う。長椅子にそっと紙袋を置くと、注文していた料理が運ばれてきた。
「ムスビィとアドラーズって何ポイント差だっけ」
「えーと…3pt差。直接対決も残ってるし、レギュラーラウンドの順位もまだまだ変わりそうだね」
今季のVリーグも残すところ1ヶ月弱。この二人は木兎が所属するチームを一番に応援していて、豚カツを頬張りながらレギュラーラウンドを何位通過できるか予想を立て始めた。熱心に話す合間に、久世が口元を隠しながら欠伸をする。酔っている時以外で眠そうにしているのは珍しい。寝不足の原因って、スマホ見てたらついつい遅くなって…とかがよくあるけど、この人に限ってはそういうのなさそうだ。昨日残業でもしたんだろうか。赤葦も全く同じことを考えていたようで、久世にさらっと質問を投げかける。すると彼女は「ちょっと夜更かししちゃっただけ」と曖昧に笑った。…怪しい。基本、この人は嘘はつかない。しかも相手はズブズブの赤葦だ。コイツにさえ言えない何かがあったのか?それとも、俺が居るから言えない?なんて無駄な邪推をしていると、二の腕をぐっぐっと小突かれる。何かと思えば、赤葦がこっちに視線もやらずに肘で俺を突いていた。それは何かを促すような行為だけど……え、ごめん、全然分かんねぇんだけど。俺がそのまま箸を進めていると、今度は足を蹴られる。なに?!隣を見ても、奴はこちらに一瞥もくれない。な、なんだ?何に気付けって言ってるんだ…?情報が増えた訳でもないので、考えてみたってやっぱり分からない。赤葦は諦めたのかふぅ、と息をついた。俺から見たら呆れ果てた溜め息。久世から見たらちょっと一息ついただけみたいな絶妙なやつ。本当に徹底してやがるな…。話はまたVリーグに戻ったり、各々の仕事の愚痴になったりしながら、それなりに平穏な時間が過ぎた。
個別で会計を済ませ、店を後にする。三人とも真冬の風から逃げるように自然と駅の入口へ歩を進めると、赤葦が「久世さん」と声を掛ける。
「カバンの中にもう一つ紙袋が見えたんだけど…、それは久世さんの分?」
久世がぴたりと立ち止まるので、俺達もそれを振り返る。カバンの中にもう一つ…?…確かに、ちょっと見えてたかも。久世の使う革製のトートバッグは持ち手が長く、それがへろりと重量に従うと結構中身が露出しやすい。でもあんまり人のカバンの中ジロジロ見るのは良くないだろ。そう思って赤葦の方を見やれば、奴は「お前が言わないから仕方なく言ってやった」みたいな目でこっちを見ていた。怖。久世は焦った様子で「こ、これは…」って口篭っていたけど、一度俯くと意を決したように顔を上げる。
「な、なんでもいいからとにかくチョコが欲しい人!」
シュビッ!
手を挙げて希望者を募る様子に呆気に取られていると、赤葦は当然のように「はい」と挙手する。えっ?全然分からないが、俺も便乗して同じように手を挙げる。すると久世はカバンから紙袋を取り出し、その中から手のひらサイズの四角い包みを二つ取り出した。「毒味、味見済みだから多分大丈夫だと思うけど、全然捨てちゃってもいいから…!」という前置きの後に差し出されたものを受け取る。ブラウニー?いや、ガトーショコラか?2cmほどの厚みの一切れが半透明な紙で丁寧に包まれ、外側の透明な袋にはリボン付きのシールが貼られている。
「ありがとう。家宝にする。」
「捨てるか食べるかの二択にしてね」
そんな二人の会話が右耳から左耳へと通過していく。
え・・・?これって・・・?
味見した…捨てちゃってもいい…って言い方は……え?!これ、久世の手作り?!
ここでようやく、点と点が線になる。夜更かしの原因は間違いなくコレだ。一つずつ丁寧に丁寧にラッピングしている姿が目に浮かぶ。夜更かしと、謎の紙袋…赤葦はこの二つの情報だけで手作りチョコが隠されてるって見抜いたのか?!えっぐ。こっわ。もしかしたら久世はお菓子作りだけはたまにやるとか、そういう情報があったのかも知れないけど、それにしてもだろ。小突かれたくらいじゃ気付けねぇっつの。…いや、それはもういい。手のひらの上のチョコをもう一度よく見る。如何せんラッピングが綺麗なもんだから、売り物だと言われても納得する出来栄えだ。これを久世が…?指ザクザクしちゃってお料理できないこの子が…?
「…作っ…たの…?」
「ほ、本気でやればできるの…!」
残念ながら謎のファイティングポーズにツッコむ余裕はない。
本当に、この人の手作りなんだ、これ…。別に俺のために作ってくれた訳じゃない。でも、手作りチョコが貰えるなんて全く想定してなかったから、じわじわと嬉しさが込み上げて口角が上がってしまう。片手でそれを隠し、「俺も家宝にするわ」と言えば、「捨てるか食べるかの二択にして?!」と赤葦の時と同様のツッコミをもらう。久世は照れくさいのか、寒いから早く屋内に行こうと歩き出した。少し遅れて、赤葦と俺も付いていく。
「…何か聞きたいことは」
ボソ、前方の久世に聞こえない声量で赤葦が尋ねてくる。聞きたいことなんかそりゃ山ほどあるけど、彼女に気取られないように手短に済ませる必要がある。「手作りは毎年貰ってんの?」赤葦にだけギリギリ届く声量で聞くと、「いえ、初めてです」と返ってくる。驚いて奴の顔色を窺おうとしたが、それを見越したかのように足を早めて久世の隣まで行ってしまった。質問は一つまでだったらしい。
……赤葦も、初めてなのか。俺も二人に追いつき、駅へ続く階段を降りる。…都合のいいように、解釈してしまいそうになる。だってそうだろ。なんでその情報を俺にくれるんだよ。やっぱり赤葦は、俺と久世を引き合わせようとしてるんじゃないかって、どうしても考えてしまう。改札へ向かう間、久世は「職場の人にも食べてもらったから大丈夫なはず…!」と更に予防線を張った。その相手が男なのか女なのかは分からないし、なんで急に手作りしようと思ったのかも分からない。ただ、俺の持つ紙袋の中に、この人が作ってくれたチョコがある。それだけが事実。
──────────
仕事を切り上げ、徒歩圏内のファミレスへ向かう。
久世をどこに誘うか悩んで、何が食いたいか直接聞いた結果、ファミレスという選択肢を出してくれたのでそれに乗っかった。俺はどこだっていいし、こういう場所でいいと思ってもらえるのは、きっとそれだけ気安い関係になれたってことだ。彼女はまだ来ていないようなので、先に適当なテーブル席について待つ。俺と久世は、普段使ってる沿線、駅は違うものの、実は職場だけはかなり近い。俺の職場から徒歩圏内のファミレスは、久世の職場からも徒歩圏内だ。数分待つと、カランカランと誰かが入店してくる音がする。自然と入口へ視線をやると、その人とパッと目が合う。
「え」
入店してきたのは、久世…サン、で、間違いない。俺に気付いた彼女は案内しようとする店員に断りを入れ、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。コツ、コツ、という普段はしない足音が近付く。彼女は普段、彼女が務めるメーカーのカジュアルブランドのスニーカーを履いていることが多い。もしくは、カジュアル寄りのローファーとか、とにかくこういう音が鳴るような靴を履いているのは初めて見る。……いや、靴、ってか…、もう、全部。白いワンピースと、その下はスカート。なんか髪もいつもとちょっと違う。細かいことは分かんないけど、とにかく、ヤバい。ヤバい。なんだこれ。なんだこの爆美女は。え?ここただのファミレスだよな?
「お待たせ」
「アッ いや ウン お疲れ」
席までやってきた爆美女戦士は柔らかく微笑み、するりとコートを脱いで向かいのソファに座った。
…………ア…???
ちょっと待って、え、これ幻覚?幻覚かな?
座ってしまうと上半身しか見えないけど、それでも十分の破壊力がある。ワンピースは毛足の長いふわふわした生地で、それだけで女性らしい柔らかさが表現されているように思う。髪はハーフアップにしてるのか、横の毛が拗られるように後ろへ纏められていて、普段とシルエットが違う。
やっっ…ば。
なんで久世サンが突然そんな格好をしているのかは分からないが、俺は顔が変にニヤけないように堪えつつ、可能な限り普段通りに接した。それぞれメインメニューを頼み、ポップコーンシュリンプをシェアする。ここは割とドリンクバーが豪華なファミレスで、注ぎに行った彼女が「ポンプ式のシロップがあったよ!?」って嬉しそうに報告してくる。もうギャップないじゃんそれ。クール系美女がお子様モードになるギャップを楽しんでたのに、今日はもう可愛い女性が可愛いだけじゃん。ハァ???……駄目だ脳が破壊されてる。あんまり視界の真ん中に入れるのはやめよう。
俺は手元の鯖の味噌煮に視線を落とし、冷静な内に今日話すべきことを切り出した。一つ目はバレンタインのチョコのお礼。手作りチョコを受け取った時、確かお礼を言い忘れていたし、翌日大切に食べたらめっちゃ美味かった。それを伝えると、「お腹壊さなかった?」と控えめな反応をされる。本当に美味かったともう一度念を押そうとすると、高校時代の俺の腹壊しエピソードとかをされてしまって不発に終わる。ちくしょう。ダサいとこばっか覚えててくれやがって…。
ただ、大切なのは二つ目だ。
「……でさ、21日空いてる?祝日。お返ししたいんだけど」
「あ、春分の日があるんだっけ。空いてるよ」
オッッッシャァァァア…!!!
心の中でガッツポーズし、雄叫びを上げる。
実はもう断られない前提で動いていたから、久世の都合も悪くなくて本当に良かった。来たる3月21日。ホワイトデーは少し過ぎてしまうけど、お花見でもどうかと思ってリサーチを済ませてある。早咲き桜で有名な都内の某植物公園。調べてみると、今年から各季節の花が見頃を迎える時期は混雑緩和のために予約制となったらしい。慌てて予約を入れてみると、確約のメールが返ってきた。次の日に再びサイトを確認すると、21日はバツ印が付けられていたから、マジでギリギリ。今日みたいに平日の夜じゃなくて、休日の昼から二人で会うのは、再会してからは初めてだ。いや、高校生の時も無かったか。その約束を取り付けられるとなれば、そりゃ叫びたくもなる。
「じゃあ、花見でもしよ。もう桜咲いてるだろうから」
「お花見!いいね」
ニコ、と笑う姿に心臓が跳ねる。ホワイトデーデートが決まって浮かれてるのもあるけど、やっぱりちょっと、今日、可愛すぎやしないか…?オッサンみたいな発想で申し訳ないが、今日のこの人は、「お、これからデートかい?」って言いたくなっちゃうくらい完璧にめかしこまれている。そんな装いで来てくれて嬉しいような、でも理由が気になるような、とにかくソワソワしてしまって、視線が定まらない。それが本人にもバレてしまったのか、クスクスと笑われる。怪訝な顔をするでもなく笑ってくれたことに、また心臓が跳ねる。
「……ふふ、可愛い?」
「……え、?」
ア??
彼女が目を細めて微笑むと、俺達を包む空気がほわわんと甘くなる。えっ。なにこれ。えっ?いいの?可愛いって言って、いいの?こういう雰囲気は俺の望んでいることなはずなのに、そうなった要因が分からなすぎて戸惑う。そんな俺を置き去りにして、上機嫌な久世はつらつらと喋り出す。
「ほら、前に“美女枠”だって教えてくれたでしょ?だからね、店員さんに相談して私でも着れそうな可愛いコーディネートを組んでもらったんだ。何度も着て、やっと自分でも違和感なくなってきたの。どう?いい感じかな?」
ぐにゃ〜りと空間が歪むような感覚がする。脳破壊。脳破壊だ。ニコニコして何を言うかと思えば……。美女枠。確かに言った。もう何ヶ月か前のことだ。そしてそれについては考えているとも聞いていた。でもさ、俺が言いたかったのは女性という自覚を持ってほしいとか、綺麗だからより警戒心を持ってほしいとか、そういうことであって、決して“美女なんだから可愛い服を着るべし”なんて言ってないのよ…!!むしろ、真逆!自分の魅力に気付いて警戒をしろっつったの!なんで警戒心ゼロのまま魅力を向上してきた???
「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛…」
頭を抱えると、彼女は慌てて「あれ?!違った?!職場の人とか赤葦くんは変じゃないって言ってくれたんだけど…」と言う。俺より先に赤葦が見てんのかよ!!くそっ!あと職場の人って男?!女?!とりあえず、まずは誤解を生まないようにしなくちゃならない。
「……いいと、思います…。…すごく…」
下顔面を手で覆いながらそう伝えれば、彼女はへへんと得意気に笑う。アア………なんっか…ズレてるけど…、もう…いいか……可愛いから……。
「じゃあこれで“美女枠”への理解度は十分かな?……あれ?美女枠だから何って言われてたんだっけ?」
「ウン…まだお勉強してほしいことはいっぱいあるんだけど…、今日はいいや、脳破壊されちゃってるから…」
「脳破壊………?」
俺がどんだけダメージを喰らってるのかなんて、この爆美女戦士には関係なしだ。新しい常識を迎える難しさがどうとか、店員さんの的確なアドバイスがどうとか語ってくれてるけど、ごめんな、もう可愛いってことしか分かんない。相変わらず食事中は幸せそうだし、多分、“美女枠を理解せよという課題”をクリアした達成感もあるみたいで、やたらと機嫌が良さそうだ。なぁにこれ。本当にヤバいって。そろそろ限界くるって。俺視点だと、好きな子がおめかしして来てくれて、俺に褒められて喜んでくれてる…っていう激ヤバ激アツ案件だ。でも、この人視点では全くそうはなってないことくらい、もう分かってる。だから浮かれそうになるのをどうにか抑え込み、その場を凌いだ。
「黒尾、こっちじゃないでしょ?」
「駅まで付いてく。普段どこ歩いてんの?」
ファミレスを出て、お互い真っ直ぐ帰ろうとすればここで解散になってしまう。それが惜しくて付いていこうとすると、ちょっと嫌そうな顔をされる。送るって言ったら絶対断られるだろうから、あくまで世間話の延長の体を取ると、「…反対側だよ?」と言いながらもなんとか許してもらえた。俺も毎日通る大通りを、いつもとは反対方向へ進む。確かに、職場の近くとは言えこっち側には全然来ないな。途中、久世は職場の位置とか、たまに寄るパン屋とかを教えてくれる。こんなに近くに勤めてたのに、何年も会えなかったのか。…まぁ、そんなもんか。そう思うと、コツコツという足音がすぐ隣から聞こえることが、より嬉しい。
「駅にカフェあるから、コーヒーでも奢ろうか?」
「いやなんでだよ」
「だってそっちの駅まで戻るの結構かかるでしょ?」
彼女が毎日利用する駅と、そのすぐ近くのカフェの看板が見えてくる。せっかく律儀な提案をしてくれたけど、ちょっと歩くくらいなんてことはないし、別に送ってあげてる訳じゃない。俺が一緒に居たくて付いてきただけだ。コーヒーをお断りすると、久世はお返しができないことに少しむくれる。ほんっとに律儀で、健気で、可愛い。ついその横顔を見詰めていると、それに気付いた彼女が「うん?…あ、全身コーデ見る?」なんて言って、ちょっと離れてくるり、くるりと左右に回転して全身をよく見せてくれる。俺今どんな顔してんだろ。「こんな長いワンピースの下にボトム履いていいなんて知らなかった〜」なんて言って、ロングコートを少し巻くってワンピースのスリットなんかも紹介してくれちゃう。…なぁ、なんでそんな可愛いんだよ。追いついてまた隣を歩くと、久世は左手の袖口をくいっと引っ張り、右手でコートの袖を抑えて「これすっっごくほあっほあなの。触る?」と手首を差し出してくる。俺は静かに喉を鳴らし、差し出された袖口にそっと触れた。
「…お、マジだ、ふわっふわ」
「ほあっほあ、ね。すごいよね」
ほあ、ほあ。ゆるく握った彼女の手首を、親指で撫でる。このまま引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまうことだってできるのに、久世はそんな可能性を微塵も考えていない。目が合うと、自慢げににこりと笑う。…なぁ、もういいかなお嬢さん。気付いてなさそうだけど、実は僕たち、今日結構いい雰囲気なんすよ。くいっと腕を引き、半歩距離を詰める。もう脳みそ壊されちゃったからさ、嫌がられたらどうしようとか、あんまり考えられない。すぐ近くにある彼女の顔を見下ろすと、驚いて見上げる瞳に吸い込まれそうになる。ほんっと綺麗な目。昔から変わってない。別に女性らしい服装自体にやられてる訳じゃねぇんだよ。かっちりしたパンツスタイルだろうが、ジャージだろうが、俺にとってお前はずっと、
「……可愛い、」
あ、
なんか、かなりガチめのやつが出ちゃった。
さすがにちょっと後悔していると、久世は目を見開いて硬直し、やがて視線を逸らし、そして、その顔がみるみる内に赤くなる。
えっ
えっ
……マジ?
…マジで?
俺に、可愛いって言われて、照れるの?この人。ぶわっと体温が上昇し、背中の汗腺が開く。…マジか。この人にもこういうの、ちゃんと効くのかよ。
「…う、うん、可愛い、よね、」
久世は俯き、何故か俺の発言に同意してくる。あくまで服の話だと思ってんだな。いや、でもさ、その反応はさ、
「……本当に服のことだと思ってんの?」
なんか声低くなってる自分をキモいと思う自分も居るけど、今は目の前のこの人に全神経が集中してて、さほど気にならない。この人が俺に対して、“そういう”反応をしてくれてる。こんなの、浮かれるなって方が無理な話だろ。久世は眉を下げて困惑し、「ふ、服の話しかしてない…!」って抵抗しようとする。距離を取って俺の腕を振り払おうとするけど、そう簡単には離してやらない。もう調子乗っちゃってるからね、俺。離す気がないと悟ると、もう力技で逃げようとするから、手は離さないまま、彼女に引っ張られるように歩く。耳まで真っ赤にして声にならない声を上げる久世が可愛くて、多分今、俺の顔溶けてると思う。なぁ、気付いてくれた?俺の気持ち。最強鈍感ちゃんでもさすがに分かった?まだ知らないフリする?突如訪れた“付き合う前の一番楽しい時期”みたいな雰囲気に飲まれ、俺に手を掴まれたままズカズカ駅に向かおうとするその背中に「か〜わいい、」って投げかける。可愛いその人はまた小さく悲鳴を上げ、腕をぶんぶんと振り回す。そうこうしている内に駅の前まで着いてしまった。迷いながらも歩みを止めた彼女の手首を、少しだけ引いてみる。動いてはくれないけど、俺が名残惜しんでいることが伝わればそれでいい。
「じゃ、じゃあ、帰る」
「…帰したくねぇなぁ」
「…っこ!この服は…!NONOTOWNでもお買い求めいただけます…!!」
「ふっふふ、どーしても服の話ってことにしてぇのね」
俺がその服買ってどうすんだよ。まだまだ調子に乗りたいところだけど、随分テンパってるみたいだし、今日のところは逃がしてやるか。手の力を緩めてやると、ババッと振り払われ、ダダッと走って逃げられる。あ〜あ〜もう、照れちゃって。このまま帰っちゃうのか、とその背中を眺めていると、久世は駅の階段を数段駆け上がったところで振り返る。
「じゃ、じゃあねっ!気を付けて帰ってね!」
「はぁ〜い。久世サンもな」
俺の返事を聞き届けると、プイッ!と背を翻し、今度こそ振り返らずに行ってしまった。一人残された俺は、ニヤける顔を手で覆い、その場で悶える。
ア……??アアア……???
い、今、今、確実に“男女”の雰囲気だったよな……?!間違いなく俺のこと意識してくれてたよな…?!おあああああ……?!?!?ぐっと眉を下げた久世の表情を思い出すと、心臓がばくんばくんと音を立てる。別に俺のことを好きになってくれた、とはまでは思ってない。でももう、脈ナシとは思えない。確実に、あの人を恋愛のフィールドに引きずり込めた。そして、あの人にとって俺は、アリだ。
───ヤバい。
ヤバいヤバいヤバい。
額にも汗が滲んでくる。落ち着かなくて、結局駅前のカフェに入ってコーヒーを頼む。こうなったらもう、バレンタインのことも、都合よく解釈していいんじゃないのか。赤葦の言動も。いつからだ?いや、過ぎたことはもういいか。大事なのはここからだ。
コーヒーを片手に、来た道を真っ直ぐ戻る。
次のデートが、勝負どころだ。
相手が対応しきれていない今、畳み掛けるしかない。俺はもう引く気はない。すぐに好きになってくれなくてもいい。もっと俺のことを意識してくれ。ただの旧友、ちょっと親しい友人じゃなく、男として。これまでもバレバレのアピールをしてきたけど、もっとやりすぎなくらいじゃなきゃあの人には通用しない。桜を見た後は、どこに連れ出そう。もうベッタベタでコッテコテなデートプランでいい。そんでもしまた今日みたいな反応してくれるなら…、もう、一旦告白すんのもアリかも知れない。
ぬるめで作ってもらったコーヒーをゴクゴクと呷る。まだファミレスの辺りまで戻って来ただけだというのに、味も香りも味わわないまま、紙カップの中身は無くなってしまった。