赤い糸40,075km
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シャキシャキシャキ…。小気味よい歯応えと優しめの甘辛い味付け。鼻から抜ける胡麻の香り…。お父さん…もとい、黒尾が作ってくれたきんぴらごぼうを、月曜の夜に一人でいただく。その美味しさをしかと噛み締めつつ、長く生きてるとこんなことがあるんだな〜とぼんやり考える。高校生の自分に「黒尾が作り置きしてくれた料理を食べてるよ」なんて伝えたらひっくり返ってしまいそうだ。土曜の夜から日曜の夜まで、黒尾はこの部屋で過ごした。居心地の良い空間を提供できたかは定かじゃないけど、さっさと帰りたいみたいな雰囲気は感じられなかった。それどころか、ご飯を作ってくれてる時なんかはむしろ張り切っていて、世話好きに拍車がかかっているようだった。なんで黒尾が私の部屋で手料理を振舞ってくれてるんだ?と理解に苦しみ、宇宙を彷徨いそうになったけど、研磨の家でも同じような感じだったから、もはや人の世話を焼くのが癖みたいなものなんだろうなって納得した。最高の献立を考えてくれて、余ったもので次の日のご飯まで作ってくれて…。すごすぎる。なんであの人がまだ結婚してないんだろう。絶対に引く手数多なはずのに。そういえば大阪で「忘れられない人が居る」って言ってたっけ。その人とは今は会えてないのかな。どこに居る人なんだろう。また会えたらいいのに。味の染みた大根を頬張って、噛むほどにじゅわじゅわと溢れる幸せを飲み込む。黒尾の味付けは優しい。お店を開くなら、『優しさ食堂』とかがいいと思う。空っぽになったお皿に向けて手を合わせた後、味の感想と勝手に決めた店名をLINEで伝える。お礼としては一応夕飯のお寿司も奢ったけど、黒尾が求めたのはこっちだから、できるだけ誠心誠意感謝と感動を込めた。
◯< めっちゃ長文笑
◯< また開店してほしかったらいつでもどうぞ〜
多分もう二度とはないけど、そんなことを言うのもなんだか微妙なので、上機嫌!って感じのスタンプを返しておく。
あの顔で、あの身長で、あの性格で、あの生活力……。そういうことに疎い私でも、この人はモテるぞ!!というのがビンビン伝わってくる。高校生の時だってモテてたけど、今はもっとなんじゃないかな。本当にすごい人で、遠い人だ。それに比べて私は生活力の無さとか手先の不器用さを露呈させてしまったし、隠したかったジロ吉もバレてしまった。ダメダメだ。スマホが鳴り、LINEの返信が来たことを知らせてくれる。画面を確認すると、黒尾からスタンプが返ってきていた。………こ、これは……ブサにゃんずの、スタン…プ……。
あ〜〜〜〜〜〜
これは 終わった
本人はどうやらジロ吉が自分に似ていることには気付かなかったようだけど、もし黒尾がこのスタンプを何の気なしに研磨に送ったりなんかしたら
「なにこのスタンプ。クロに似てるね」
「え?そうか?」
「うん、そっくり」
「これ、久世の好きなキャラなんだけど」
「ふ〜ん、透香ってクロのこと好きなんだ」
「え…マジか……(困)」
ってなるに違いない!!!絶対なる!お終いだ!!もうお終いだぁぁ…………
スマホの画面を消して項垂れる。死…?死かな……?もし、バレてしまったらどうしたらいいんだろう。あれだけずっと“ただのマネージャーです”、“ただの旧友です”って態度を取っておきながら、実は違いました〜人生で唯一の恋でした〜なんて、気色悪いにも程がある。いや、黒尾は優しいから気色悪いとまでは思わないかも知れないけど、絶対にすごく困るだろうし、裏切られたような気持ちになるかも知れない。死だ。死でも償いきれないことだ。ローテーブルの前で膝を抱えてべそをかく。どうしよう、どうしよう。今からでも黒尾の記憶を改ざんして、ジロ吉のことを知らない状態にできないだろうか。なんなら、再会していないことにできないだろうか。……無理なのは分かってる。それならせめて、最悪の中の最善を探してみよう。つい最悪の中の最悪ケースを想定してしまうけど、唯一の恋かどうかは私が言わなければ誰も知らないことだ。それに、私がいつからジロ吉を好きなのか黒尾は知らない。───つまり、こうすればいい。
私がジロ吉のグッズを集めるようになったのはここ数年の話、ということにする。黒尾とは一切連絡を取っていなかった訳だし、黒尾を意識したものではない、とする。それでもツッコまれた場合はむしろ開き直って「似てて愛着が湧く」とサラッと言う。サラッとが重要。ここまできたらむしろ「高校生の時から黒尾が推し」とかまで言っちゃった方が軽い感じになる気がする。黒尾のことを素敵だと思うのはとてもとても普通のことで、なにも私だけが特別な感情を抱いている訳ではない。だから何も恥ずかしいこともやましいこともありません。というスタンスを貫く。
こ、これだ〜…!これならイケるでしょ。
対策を練ったところで、お皿洗いを始める。そういえば高校生の時はこんな脳内会議を毎日のようにしていたなぁ。あの時は“マネージャー”という役割が盾になってくれてたけど、その盾を持たない今は、より綿密に策を講じる必要がある。本当は恋心を偽りたくなんかないけど、黒尾に不快な思いをさせないためだ。仕方ない。だからせめて、しばらくは連絡が途絶えるといいんだけど…………。
──────────
◯< 家居る?一瞬でいいんだけど
年をまたぎ、1月中旬。
川崎で試合を観て、夕飯を食べて帰宅したタイミングでLINEが来る。………これって、居るって言ったら来るの?今から??居ないって言いたいけど、日曜のこの時間は普通居るよね…黒尾もそれを見越して連絡をくれているはずだし、嘘をつくのはやっぱり良くないから、素直に返事をするしかなくなる。
◯> 居るよ どうしたの?
◯< 30分後くらいにちょっと顔出すわ
うわぁ……来るんだぁ……30分後……。何の用だろう。先月会ってからまだ1ヶ月も経ってないのに、連絡の頻度は相変わらず高い。でも不満そうな顔をしたら失礼だから、30分後に自然な旧友の顔ができるようにしておかなくちゃ。程なくしてまたLINEのメッセージが届き、「もう着く」というので立ち上がって玄関前でソワソワしていると、足音が聞こえてくる。「着いた」というメッセージを確認して、ドアを開けた。
「おす。悪いな急に」
「ううん、どうぞ上がって」
外は寒いから室内へと誘導しようとすると、黒尾は「じゃあ玄関で」と言って後ろ手でドアを閉めた。その手首にはなにやら大きな袋が提げられていて、狭い玄関に押し潰されガサ、と音がする。…それで、一体何の用なんだろう。私が聞く前に、黒尾はその大きな袋から中身を取り出し、「ほい、」と言って渡してくる。もっっふん。押し付けられた柔らかくて大きい物体が落っこちないように慌てて抱きとめる。……ちゃんと見なくても分かる。これは、つい最近新しく出たジロ吉のぬいぐるみだ。先月、私がゲームセンターに出るなんて情報を渡したから、取ってきてくれちゃったんだ、この人は。…そんな。当然ながらに、強請ったつもりはなかった。そんなつもりじゃなかった。私のぬいぐるみを触るのを止めてほしくて、気に入ったなら自分用のをお求め下さいって意味で言ったのに。どうしよう。黒尾の顔色を窺うと、彼は彼で不安の混じったような表情をしていた。
「…やっぱ、そのサイズ急に貰っても困る?」
「あ、え、えと……」
お節介が迷惑になっていないか不安がるその表情は、昔もよく見たものだ。こういうところ、変わっちゃってたら良かったのに。好きだなと思うところが何一つ減っていなくて困ってしまう。
「ここで飼うのが大変なら連れて帰る。遠慮してるだけなら貰って」
「……あ、あの、こんなつもりで言ったわけじゃ…」
「あ?ああ、そりゃそう。俺が勝手に取ってきただけだよ」
こういう優しさに対して、素直に喜ぶ可愛げなんて持ち合わせてない。そもそも私にこれを受け取る資格なんてない。でも受け取らなかったらこの人はきっと寂しそうな顔をする。でもでも、一体いくらかけて取ってきてくれたんだろう。お金もそうだし、労力だってかかってるはず。この子を受け取ったとして、私から黒尾に返せるものがない。もち…と腕の中の大きなぬいぐるみを揉みながら思案していると、黒尾が助け舟を出してくれる。
「受け取りやすくするなら……そうだな…、たまに、無性にクレーンゲームで遊びたい時とかあるじゃん。別に欲しい景品ねぇのに。そんな時、友人の好きなキャラの景品があったら?」
「…や、やってみるかも」
「そんで、取れたら?」
「あ、あげる、かも」
「だろ? それ、ってことで、どう?」
ここまで言ってもらって迷うのはもはや失礼だ。彼はどこまでも優しい人だから、今の話はただただ私の罪悪感を溶かすためだけの例え話で、実際は初めからジロ吉の確保のためにゲームセンターへ向かってくれた可能性が高い。自惚れとかではなく、昔からずっとそういう人だ、この人は。こういう優しさは、できればもう私には向けてほしくない。そのためには突っぱねた方がいいんだろうけど、そんな事ができるはずもない。余計なお世話だったか…って、肩を落とす姿は見たくないから。
「あ、ありがとう…」
もぎゅもぎゅ…とぬいぐるみのお腹を揉みながら感謝を伝える。もっと嬉しそうにできないのか私は。可愛くないな。いや、可愛かったことなんてないんだけど。黒尾は今でも真正面から目を見て感謝されるのはちょっと苦手なようで、ほんの少し硬直してからゆっくりと顔を綻ばせた。
「へっへへ、どーいたしまして。」
「?!」
そして、伸びてきた右手が、ジロ吉の頭ではなく私の頭をぐしゃぐしゃと撫で回してくる。
あ
これ絶対間違えてる
わしゃわしゃわしゃ……としたところで、黒尾も間違いに気付いのか、弾かれたように右手を引っ込める。
「ごっ…!!ごめん!!つい、昔のノリで…!」
「……お父さん…、娘はもうアラサーです……」
「…うん…、お父さんももうアラサーだったわ…、悪い…」
どうやら、間違えたのは撫でる頭ではなく距離感だったらしい。確かに高校生の時はよく髪をぐしゃぐしゃにしてくれたものだ。あの頃はまぁ…許されていたような気がするけど、今この年齢でやると破壊力が強い。脳細胞が何百万も死んでしまった。お互いに気まずいので、お父さん呼びで緩和を試みると黒尾も乗ってくれる。…この人って、ちょっと人との距離感変なとこあるよね。私もきっとズレてるんだろうから人のことは言えないけど、黒尾は“普通”で“正常”って雰囲気を出しながら、突然スルッと懐に潜り込んでくるような時がある。あれ?そこって境界線なかったっけ?ってびっくりするけど、不快にはさせないからすごい。さすがはモテ男だ。微妙な空気の中、黒尾は「じゃあ、用はそんだけだから」と言って帰ろうとする。玄関先で無償で物をいただいてそのまま帰すのは不義理な気がして、お茶くらい出すよって言ったけど断られてしまう。
「夜勝手に訪ねてきた男を部屋に上げない。お父さんとの約束。OK?」
「お、おーけー……、…??」
お父さんは“勝手に訪ねてきた男”に含まれるんだろうか…という疑問は残るけど、引き止めたって本当にお茶しか出せないし、今のところは流しておく。ただ、貰った物のお礼はしなくちゃいけない。お金を出したらまた怒られてしまいそうだから、直接何がいいか聞いてみると、次の食事の時に奢ってくれと言う。つ、次……。まだ次があるのか……と気が遠くなるのを抑えて、「分かった」と笑って見せた。
「ほいじゃ、暖かくしてなさいよ」
「はいお父さん」
「俺出てったらすぐ鍵閉めるのよ?」
「やっぱりお母さん…?」
「お父さんです」
なんだこの会話…と冷静になって笑ってしまう。そして黒尾もひとしきり笑った後、満足そうに外へと出て行った。足音が遠のいたのを確認してから、音を立てないようにそろりとドアを開けて外に出る。1月の風がセーターの縫い目の隙間を通り抜けていって、ぬいぐるみをぎゅうと抱えて耐え忍ぶ。通路から少しだけ身を乗り出すと、階段を降りていった黒尾がエントランスへ向かっていくのが見えた。昔と変わらない、変に逆立った髪型。でも少し短くなったから、トサカ!って感じはあんまりしなくなってしまった。より万人受けしそうな仕上がりに、あれが可愛かったのになぁなんて勝手に寂しくなる。このくらいの距離…いや、もっと遠くから、この遠い背中をたまに見られたら、私はそれで十分なのに、なんでまた高頻度で会うようになってしまったんだろう。こそこそ見るのも軽犯罪法違反になりかねないから、全く顔を合わせなかった10年が私にとっては適切な距離だったのに。そこに居たら、見てしまう。黒尾はエントランスの奥へ進み、もうここからは見えなくなるというところで、何故か振り向く。
えっ
私は当然びっくりしてるけど、黒尾も同じようにびっくりして固まってしまった。
え、え、うそ、どうしよう
少し前もこんなことがあった。改札前で別れてしばらく歩いてから、最後に背中を見送れないかなと思って振り向くと、黒尾はその場から動いておらず、目が合ってしまい非常に気まずい思いをした。こういう時にできることは一つしかない。適当に手を振ること。ただそれだけ。抱いているジロ吉の手を掴み、それをぴこぴこと振って見せる。黒尾は一拍置いてから手を振り返してくれて、そしてエントランスの奥へと消えて行った。……目元をくしゃっと細める笑い方も、変わっちゃってたら良かったのに。
よろよろと自分の部屋に帰り、ソファに背中からダイブする。ずしりと重みのあるぬいぐるみをぎゅうぎゅうと抱き締め、叫び出したいのをどうにか堪えた。駄目だあの人。完全にお父さんモードだ。昔もそうだった。極稀に、溶けちゃうんじゃないかってくらい優しい目で見てくることがあった。その性質はそのままに、魅力だけグレードアップしてしまってるのが今の黒尾だ。無理…。無理だよぉ…。心臓の痛みに耐えていると、スマホから通知音が響いて反射的に飛び上がる。送り主を確認すると…ひぃ。今見送ったばかりの黒尾鉄朗氏。内容は…「ちゃんと鍵閉めた?」って……、こういうことしてたら、あの人はいつか刺されてしまうんじゃないだろうか。私は黒尾の世話好きすぎる習性を知ってるからいいけど、勘違いする人だって絶対に居るはずだ。とはいえ私は黒尾の女性関係に口を出せるような立場ではない。旧友しろ。ただただ旧友しろー!
◯> 閉めました!ぬいぐるみありがとう。気を付けて帰ってね
◯< 偉い偉い
◯< てか年始の挨拶忘れたわ
◯< あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
およよよよ。
メッセージ一つ返して終わるかと思ったら、ピコンピコンと次々に送られてくる。しかも「今年もよろしく」はちょっと…、よろしくしないよ!次、ぬいぐるみのお礼に食事を奢ったらそれで終わりだよ!うぐぐぐぐ……、あけおめのスタンプだけ返して終わらせちゃっていいかな…ちゃんと挨拶してくれてるのに失礼かな…。いや、そもそも黒尾は定型文を言っているだけで、そこに深い意味なんてない。…うん、私が自意識過剰なだけ。深呼吸をして心拍を落ち着かせてから、彼と同じように年始の挨拶を送った。…よし、これで終わ…… ピコンピコン …………。な、何故なのか…。膝の上に置いたジロ吉をもちもち撫でて、波立つ心を鎮める。高校生の頃は“マネージャー”という盾で大抵のことはガードできていた。でも今の旧友モードは弱すぎる。生身であの人と対峙するなんて正気の沙汰じゃない。……でも、やるしかない。ペラッペラの盾にしがみつきながらメッセージを確認すると、“次”の飲食店について提案してくれていた。リンクから情報を見てみると、メインメニューを頼めばサラダバーやデザートバーが付いてくるシステムの、家族連れや学生に人気そうなお店だった。えーっ!楽しそう、、、だけど、黒尾がこのお店を…?と思うとピンと来ない。何かの手違いかな?スワイプしてトーク画面に戻ると、それが手違いじゃないことが一目で分かる。
◯< お子様はこういうとこ好きそう
ぼん! ぼん!
もうジロ吉を叩いてしまう。ごめん、ごめんね。……何だこの人…本当にいつか刺されるよ……。しかもこれ、揶揄いも勿論含まれてるけど、ちゃんと私に楽しそうと思わせてるのが憎い。相手に合わせて選んでるんだ……一体何が目的なんだろう。見た目通り、いつか壺でも買わされてしまうんだろうか。「もうアラサーですってば」と返すと、「あれ、外した?」って返ってきて、うわぁぁただの純粋な気遣いだったーー!!と大慌てでフォローする。そしたら今度は小馬鹿にしたようなスタンプが返ってきて……もう、もう、なに?!どっち?!なんなの?!私はずっと何をしてるの?!完全に遊ばれてる。掌の上でコロコロされている。もうやだ。
◯> お礼なんだから黒尾の食べたいものにしてください!
◯< じゃあここにする
◯< **日とかどう?
提案された日取りを承諾し、マナーモードにしたスマホをソファに叩き付けてお風呂に入る準備をする。もういいい。もう疲れた。もう考えない。なんて思っても結局考えてしまって、ソファの上が定位置になったジロ吉を前に頭を抱える日々が続いた。
─────────
「旅費精算のチェック完了しました。山本さんの分だけ交際費になっていたので、会議費に修正済みです。その他は問題ありません」
「あ〜っ、ありがとうねぇ」
「あ、あと、コンプライアンス研修の登録今日までなので、もしお忘れたでしたら…」
「やだっ、すっかり忘れてたわ」
いつもお互いの作業を相互チェックしている隣の席の森田さんに確認結果などを伝える。一回り近く年上の気さくな女性で、私の最近の服装の変化にも「ちょっとお洋服の系統変わってきた?似合ってるわ〜」と言ってくれた人だ。今日はこの後黒尾とご飯に行くので、美女枠として買った服は着てきていない。ちょっとずつ慣れてきているものの、成果発表ができるのはもう少し先になりそうだ。本日のタスクを全て終え、机の上を整頓してウェットティッシュで拭き、森田さんに挨拶をして退勤する。
昨夜、「駅からちょっと歩くから暖かい格好してきなさいよ」とお父さんから連絡があったので、一番あったかいロングコートと大きいマフラーを身にまとって目的地へ向かう。駅を出て真っ直ぐ行き、大通りを右へ曲がると、都内にしては広めの駐車場がある例の飲食店が見えた。…あそこか。寒さで垂れそうになる鼻をスンスンと啜りながら歩いていると、後ろから人が走ってくる音がする。
「ッやぁ〜っと追いついた…!」
振り向くと、少し息を上げた黒尾が居た。「やべ、汗かいた」と言ってマフラーを外す姿に、そんな走って来なくても中で待つからいいのに…と思ったままのことを言うと、「走りたくなったんですぅ〜」と唇を尖らせる。
「あの子とはどう?仲良くしてる?」
「あー…、日々、ソファの取り合いをしてます」
「っはは!あそこ居心地いいもんな」
なんて。ぬいぐるみを本物の猫みたいに扱った会話をしながらお店まで歩く。今日はちゃんと、ジロ吉のお礼という理由があって会っている。隣で楽しそうに笑われると擽ったくなってしまうけど、それは私だけの問題。ぬいぐるみを獲ってくれた友人へのお礼。それだけ。大丈夫。ちゃんと旧友の枠に収まってる。
「私は…チーズハンバーグにしようかな」
「あ〜美味そうだよなそれ。俺も同じのにしよ」
メインメニューを選び、店員さんに注文を伝える。このお店には海鮮系のメニューはないから魚じゃないのは当然なんだけど、黒尾がハンバーグ…は、ちょっとイメージないなぁと考えてしまう。意外そうな顔をしているのがバレてしまったので素直に聞いてみると、魚じゃなくてお肉を食べる日も勿論あるし、たまにはジャンクフードだって食べるらしい。意外だ。栄養バランスが〜とか、添加物が〜とか言うのかと思った。そしたら「でも野菜は毎日ちゃんと食いたいよな」とか「ジャンクフード食ったら次の飯はちゃんとしたもんを〜」とかごちゃごちゃ言い出したから、ウン、思った通りの人だ。なんて勝手に納得した。
さてさて。
サラダバーにありつく権利を得たので、ウキウキで席を立つ。レタス、ブロッコリー、トマト、きゅうり、枝豆、コーン、ヤングコーン…。輝きを放つ野菜達を端から順番に眺め、まずは全ラインナップを確認していく。コールスローとポテトサラダがあって…あ!サーモンのマリネだ!あとスープバーもあるの…?コンソメスープと…カレーだ!ご飯もある!デザートは…あ!アイス!自分で丸く掬うやつだ!カットフルーツもある!え!すごい!
「黒尾黒尾!サーモンあるよ」
「んー?お魚あった?」
二人分のお皿を取ってきてくれた黒尾に好きそうなものがあることを伝えると、妙に優し〜〜い感じの反応をされてしまい、自分がはしゃいでいることに気付かされてしまう。お礼を言ってお皿を受け取り、小学生のようにウキウキしていた心をすっと落ち着かせる。こういうところがお子様って言われてしまうんだろうな…。でもご馳走を前にしてテンションを上げずにいるなんて…できるかな。クールな大人はどんな感じで食べ物を取るんだろう。黒尾を観察すると、特に普段と変わらない表情、雰囲気でお皿に野菜を盛っている。じゃあ私もはしゃがない…!真顔をキープしてみせる。
「…どした?」
「なっ、なにが」
「いや、さっきまでお花舞ってたのに急に無くなったからさ」
「お花……??」
何の話??
心の中でヤングコーンいっぱい取っちゃお♪と呟きつつも真顔をキープすることに成功していると、黒尾が顔を覗き込んできて意味不明なことを言ってくる。「嫌いなもんでもあった?それか体調悪い?」って心配されて、気付く。私が食べ物の前ではしゃがないことは体調不良を疑うレベルでおかしいことなんだ…!それほどまでに、私はお子様で当たり前のものと思われているんだ……!そんな……。純粋に心配の目を向けられてしまって居た堪れなくなる。
「嫌いなものもないし体調も悪くないです…。年相応になろうとしただけです…」
「はぁ?………あー、お子様って言ったのは別に悪い意味じゃねぇからな?なんならお前が大はしゃぎするのを見るためにここに来てるまであるから」
「 ? 」
「ほら、美味そうに飯食ってるだけのYouTuberとか居るじゃん、あんな感じ」
なるほど……?アラサー女性が小学生のようにサラダバーではしゃぐというエンタメ…?なる…ほど…??黒尾がそのエンタメを求めているのなら、今日“お礼”のために来ている私はピエロになるべきだ。ちっぽけな羞恥心や自尊心を振り払い、「じゃ、じゃあまず一皿目完了っ!」と言って野菜で山盛りのお皿を自席へと置きに行く。すぐにスープバーのもとへカムバックすると、黒尾は満足そうに笑う。この人が笑うなら、もうそれでいいや。
「ハンバーグ柔らかい!美味しいね」
「だな〜」
「わかめスープになってた〜!」
「良かったねぇ」
「やっぱりチョコミントにすれば良かったかな…」
「もう制覇しちゃいな」
なん…なんだろう……。
美味しいし楽しいけど、ものすっっごく生暖かい目で見られてる気がして居心地が悪い…!「俺取ってきてやろーか?自分でやりたい?」と聞いてくる声も笑いを含んでいるから、馬鹿にされてる…と思って睨もうとすると、想像以上に優しい顔をしていて慌てて逸らす。…え〜ん…逃げ場がないよぅ……。手元のストロベリーアイスに視線を落としながら「じ、自分でやる…!」って返せば、何故かまた笑われる。もう助けてください。
結局黒尾の言った通りアイスもフルーツも全制覇し、会計を済ませてお店を後にする。これでお終い。貸し借り無し。これで最後絶対絶対最後。ムッとしてるであろう顔をマフラーに埋めて寒空の下を歩く。あとは駅までの10分と少しを耐えればいい。それでお終い。
「なに、拗ねちゃった?」
「拗、ねてない…」
「…俺そんな馬鹿にしてる感じになっちゃってた?できるだけ普通にしてたつもりなんだけど…」
?
普通では…ないんじゃないだろうか。いやでも黒尾は保護者ムーブ全開が標準の可能性もあるし…分かんない。とにかく、これでもう終わりなんだから彼が何かを気にする必要なんてない。黒尾の態度は問題なくて、私がお子ちゃまなだけだと言えばそうじゃないんだよな〜とボヤきはじめる。んーとかあーとか言った後、「要するにさ、」と夜空に白い息を吐く。
「久世と飯食うのが楽しいってこと。…俺は、な」
ぐしゃあ。
旧友という名のペラッペラの盾がひしゃげる。……いや、いやいやいやいや違うでしょ。友人とご飯食べるのはそりゃ楽しいでしょ。黒尾は何も特別なことなんて言ってないし、この盾も攻撃なんて受けてないはず。勝手に曲解して勝手に警戒するなんて失礼。万死。万死に値す。
「お楽しみいただけたなら何よりです…」
「あ〜、そうじゃねぇんだけどなぁ〜…。まぁこれからか」
こ れ か ら ?
これからがあると??
もしかしなくても今後も同じような頻度でご飯に行ったりするつもりなんだろうかこの人は。何のために…、いやだから友人としてだよね。せっかく再会したからって理由はもう無くても、普通に連絡取れる友人が居るならそうするってだけだよね。黒尾って多分、ちょっと寂しがり屋な側面もありそうだし、一人で外食するって選択肢がないタイプなのかも…ウンウンそっかそっか…。ぐちゃぐちゃな頭の中を強引にまとめて、「さ、寒いね〜」とか適当なことを言って気を紛らわせる。寒さなんてもうよく分かってないのに。
駅で別れて帰宅すると、どっと疲れが押し寄せる。腰を下ろす前に色々とやるべきことをやってしまいたいのに、ついそのまま床にべしゃっと倒れ込んだ。本当に疲れたし、なんだかすり減った。癒しを求め、腕を伸ばしてソファの上のぬいぐるみをもふもふしたけど、この子なんてダイレクトに黒尾を思い浮かばせるものだから、また辛くなって触るのをやめた。
………これから、どうしよう。
黒尾の前でどういう顔をしているべきなのか、正解が分からない。…いや、正解を持っていないんだ。親しい友人の顔を作ることができない。かくなる上は、もう腹を括らなきゃいけないのかも知れない。毎日会っていた高校時代ですら守り抜いた恋心を、捨て去る覚悟を。
ごろり。
ローテーブルとソファの間の狭い空間で仰向けになり、白い天井をぼんやりと眺める。黒尾のことを好きじゃなくなったら、私はどうなっちゃうんだろう。まるで想像がつかないし、そんなのはもはや別人な気がする。でもこの感情さえ無ければ、問題は全て解決する。……いや、仮に一度捨てれたところで、復活しないと言い切れるだろうか。そもそも、捨て去る方法だって思いつきそうにない。…いっそ伝えてしまう?…いや、それも駄目だ。自分が楽になるために黒尾を困らせる訳にはいかない。それに、ドン引きして距離を置いてくれたらいいけど、気を遣われてそれ以降も変わらない距離感で…なんてことになったらそれこそ地獄だ。伝えたい訳でもないのに、リスクが大きすぎる。
黒尾は、楽しそうだったな、今日。
ということは、今日みたいなのが正解?……うん、そうだ。辛いから選択肢から除外してしまっただけで、黒尾の掌の上で踊るピエロが最適解だ。親しい友人の顔なんて要らない。…それなら、できる。できると言うより、そうなってしまう。……よし。方針が定まってきたところで、上体を起こして膝を抱く。ピエロになるということは、己の憐れさに気付かないフリをすることだ。もしくは気付いてなお、相手を笑顔にさせることに徹すること。私は黒尾の笑顔が大好き。だから多分、もうちょっと頑張れる。
立ち上がってマフラーとコートを脱ぎ、ハンガーに掛けに行く。今日頑張ったピエロさんには入浴剤をあげよっかな〜。ふんふんと鼻歌を歌ってみながら、お風呂の準備に向かった。