赤い糸40,075km
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「……ん〜……、んぅ……?」
「っいて、…いて、……んぁ…?」
肩や足にゲシゲシと押し退けるような衝撃を感じ、泥のようになっていた意識が緩やかに浮上する。……なんだ?なんか蹴られてる…。何に…?誰に……?てか今日って…何曜日………。そこで、自分の置かれている状況をバチッと思い出し、目を開く。
「………………?!?」
目の前には、俺と同じく目を見開いて硬直する久世が居た。
バッッ!!!
同時に起き上がり、距離を取る。
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい。昨日の俺、意思弱すぎだろ!!なにしてくれてんだ!!こんなんドン引き絶交案件だろうが!!!!
「ち、ちがっ、これは、その、」
「ごめんなさい!!!」
「…あ、ア……??」
俺が弁明しようとしてごにょごにょ言っている内に、久世は床に正座をして、美しい土下座をキメて見せた。
「……!!や、やめろ…!オイ…!!」
「申し訳ございませんでした!!!」
「バカ!!やめろって!!」
慌てて俺もベッドから降り、同じく姿勢を低くして彼女の謝罪を止める。いや、止めたいのに止まってくれない。頭を床にぐりぐりと押し付け、謝罪の言葉を繰り返している。やめろぉぉぉぉぉそれが一番傷付くぅぅぅぅぅ。「止まれ!!ストップ!!」とキツめに言うと、やっと謝罪は止むが土下座の姿勢は崩されない。顔を上げろと命令すると、やっとその表情が窺える。……この前とおんなじ、完全なる絶望顔だ。…デコ赤いし。はぁ〜と溜息をつくと、またもや前と同じく久世を縮こまらせてしまう。…違う。違うんだよ、色々と。
「1から10まで俺が説明するから黙って聞いてて」
「は、はい……」
「まず、何も起こってない。俺もお前も寝てただけ。睡眠。純粋な睡眠。オーケー?」
まず一番大事なことを伝えると、久世は眉を下げたままではあるけど、コクコクと頷いた。そして、これまた前回と同じく全く記憶がないんだろうということも確認し、思った通りだった。お前は多分客人にベッドを使わせようとして、譲ったことを忘れて自分も入ってしまったんだって、それだけのことだって事実を伝える。なるべく軽〜い感じで言ったのに、彼女の顔は晴れるどころかどんどんと曇っていく。なんだ、どうすりゃいんだ。
「ごめ…………、あ、謝ったら怒る…?」
「怒る」
久世はびっくりして、そして、俺と同じように「じゃあどうすればいいんだ…?」って顔してる。コイツのことは、ほんの少しずつだが分かってきた。ベタベタなナンパ野郎をそうだと認識することすらできないほど、自分だけをそういった概念から弾いてしまっている。つまり、俺を男として見てないってより、自分が女として見られる可能性を考えてない。どうすっかな。なんつったらいいんだろう。寝起きで冴えない頭をガシガシ掻きながら言葉を探していると、俺の話が終わったと思ったのか、久世が喋りだしてしまう。
「今回のも…お咎めなし、なの…?…えっと、黒尾はもっと警戒した方がいいよ…、なんか、危ないよ…」
お?????
そ れは 俺が ずっと お前に 言ってる やつ
「なんで俺が心配されてんのぉ……?」
「だって、黒尾モテるでしょ?悪い人が寄ってくることもあるかも知れないし…、もう少し気を付けた方がいいんじゃないかな…」
「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
なーにが起きてる??なんで俺が言いたいことを丸々この人が言ってんだ??危ないってなんだよ気を付けるってなんだよお前じゃなきゃ流されてねーよ!!なんで朝から床で正座してこんな話してんの?頭を抱える俺を、彼女は心配そうに見ている。くそっ、常識が通じねぇ。そんな彼女の斜め上の辺りに、「私が育てました」みたいな顔した赤葦の幻覚が見えて、頭をぶんぶん振って振り払う。
「分かった、まずお前の言い分は分かった。気を付ける。ってか気を付けてる。…で、俺もお前におんなじことが言いたいんだけど、…この前から言ってんだけど、そこんとこどう?」
「あ、美女枠理論?」
「え?あー、それそれ」
反発しても仕方がない。だからとりあえず久世の主張を飲み込み、こちらの主張も聞いてもらう。久世はすぐにピンときたようで、前に俺が苦し紛れに伝えたワードをすぐに出す。そして、それについては噛み砕いて理解を深めている最中だと胸を張って言う。そっ……かぁ。考えてくれてはいるんだな…、そうか……。こっちからすりゃ急務なんだけど、この人真面目すぎるから自分で納得しないと次進めないんだな……。
「さっきお前が言ったことそのまま返すけどさ、自覚ないかも知んないけど久世サンもモテるはずなのよ。だから昨日言ってたみたいなクソナンパ野郎とかも寄ってきちゃうワケ。だからもう少し気を付けてくれ」
「う、うん……、ちょっと時間かかるけど、考えます」
「うん、考えといて」
なんかまだ納得できないって顔してるけど、とりあえず、ほんっっの少しずつは前に進んでる。軌道修正ができたなら、後は彼女の歩みを待つだけだ。早く自覚してもらって早く俺の気持ちに気付いてほしいけど、まぁ持久戦は得意だし、待つよ。…ってことで、朝からこんな話はやめましょって切り上げる。そういえばクリスマスだぞ今日。この後どうすんだ?さっさと帰るべきなんだろうけど…もし、もし許されるなら、帰りたくは…ない。クリスマスを二人で過ごせるなんていう千載一遇のチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。相手がそんなこと意識していなかったとしても、俺には十分価値のあることだ。ただ、勿論強引に居座るつもりはない。つまり、全ては彼女の出方次第だ。
「まだ結構早いね…、黒尾は、今日の予定は?」
「や、特になんも無い」
「そっか。じゃあ二度寝する?」
おっ??何その同棲カップルみたいな発言…、いやいや、違う。彼女は「一緒に」なんて言ってない。ここまでの文脈的にも言うわけがない。俺の勝手な期待だ。久世は「あんまり眠れなかったんじゃない?」と俺の顔をチラッと見ながら言う。クマでも出来ているのか、相当疲れた顔をしているのか、やはり純粋な心配から休息を勧められている。……これ、断ったら帰る流れになっちまうかな。返事に迷っていると、「何時に起こす?」と二度寝する前提の質問を投げかけられる。ええええ、この人に起こしてもらうの…?この人のベッドで寝て…?そんなことが許されんの…?寝れるかどうかはさておき、ここは一つ、睡眠サイクル的にはどうこう…って話す彼女にまるっと流されてみる。
「じゃあ後で起こしにくるね、おやすみ」
「おやすみ…」
寝癖でハネた髪を抑えながら、満足そうに微笑む久世の姿を目に焼きつける。カララ…とドアが閉まって、俺は一人、寝室に残された。・・・よし!もう考えるのはやめよう。もし、起こしてくれた後も一緒に過ごせるんだとしたら、また相当な気力を使うことになる。それなら今は回復に専念しよう。………ウン。ベッドに潜り込むけど、しばらく寝付くことはできなかった。
─────────
遠くから何かの音がして、穏やかに意識が浮上する。
ブォォォォォ……カタン、そして、カララ…と寝室のドアが開かれる。
「あ、ドライヤーの音で起きた?そろそろ時間だけど、どう?まだ寝ててもいいよ」
「ここは休憩所か……?」
上体を起こしながら、寝起きの掠れた声でなんとかツッコむ。結局しっかり寝れてしまったようで、二度寝する前より頭がスッキリしている感じがする。絶対なんか良いマットレスとか使ってんなコレ。ベッドも広いし、寝心地が良すぎる。身体をぐぐっと伸ばし、ベッドから降りる。久世の姿をよく見てみると、寝癖は直ってるし、着てるルームウェアも色が違う。昨日はベージュっぽいので、今着てるのは水色っぽい感じのやつだ。さっきドライヤー使ってたんだったら、俺が寝てる間に風呂入ったんだな。………。
「黒尾もシャワー浴びる?なんかスウェットとか用意されてるの、昨日の私がやったのかな?」
「あー、うん…そう」
なんか……、いいのか、これ。この人の優しさにつけ込んで、こんな風に日常に混ぜてもらっちゃっていいんだろうか。どこまで図々しくなって良くて、どこで引くべきなのか、判断が難しい。とはいえ、シャワーは普通に浴びたいし、今はこの人の提案を断ったら「じゃあ帰る?」って流れになるだろうから、あんまり深く考えずにシャワーを借りることにする。久世はニコニコと微笑み、ボディーソープとかシャンプーとかの説明をしてくれた。バスルームは換気扇が回っているものの、当然まだ湿度が残っていて、それを気にしてしまうとじわりとメンタルが削られていく。彼女が使っているボディーソープとかは、別にTHE・女性向けの商品って訳ではないけど、男が選ぶ物とはやっぱり違うから、なんか全部いい匂いするし、つまり久世がこの匂いってことで……、とか、やましいことを考えそうになる。思考の猶予を残しちゃ駄目だ。カラスの行水みたいな速度でバスルームを後にし、用意してくれてたものを借り、髪も乾かして、脱衣所から出る。……ふぅ。セーーーフ。
「あ、スウェット着れた?ちょっと丈短かったかな」
「いや、大丈夫っす、どーも…」
ほんとは元々自分が着てた服着ても良かったんだけど、こっちの方が居座れる確率が高そうだからこっちを借りた。…って、全部計算してやってんのキモいか?でも久世はそんなことには全く気付かない様子で、貸してくれたこの黒いスウェットはお兄さんが間違えて買った物だと話してくれる。お兄さんは結構あっさりと服を手放すタイプで、彼女としては大きい分には着れるからと引き取り、何度か着たんだそうだ。……へぇ……。じゃあ、別に赤葦用って訳でもないのか。
…さて、部屋の掛け時計を見ると、時刻は午前10時過ぎ。ここからどうする?どうなる?久世は俺が二度寝してた間に朝食を摂ったらしく、俺はどうするかと窺ってくる。昨日食いすぎたせいで、別に腹は減ってない。迷いつつも正直にそう言うと、じゃあ飲み物だけ、と言ってくれるから、どうにか場が繋がる。…よし。
「ほうじ茶か、緑茶、紅茶、スティックだとカフェオレとミルクティー、ココアがあります!どれがいい?」
「…じゃあ、ほうじ茶もらっていい?」
「おっけー!」
昨日と同じ場所に座り、ほうじ茶のティーバッグとお湯を入れてくれたマグカップを受け取る。そういえば、このキャラクターのことは昨夜調べてみたけど、情報が少なすぎるし、世の中に猫のキャラクターが多すぎて特定できなかった。昨日から俺に渡されるマグカップは茶色のやつで、こっちに描かれてる猫は多分彼女が好きな黒猫とは別のキャラだ。ちょうど話題が欲しいタイミングだし、黒いマグカップにココアを淹れて上機嫌な彼女に直接聞いてみる。
「このマグカップの猫ってさ、なんてキャラクター?」
「……アー、コレハ、貰い物だから、分かんない」
「いやそれは嘘だろ。そこのブランケットも同じキャラクだし、寝室にもぬいぐるみあったよな?」
どーー考えても嘘ついてますって態度で分からないとか言うから、つい細かく証拠を突きつけてしまう。すると久世は「ぐぅ…」とだけ言って、顔を覆って俯く。キャラクターグッズ持ってるのって、そんな恥ずかしいことか?今日日そういう推しとか居るの普通じゃね?彼女が恥ずかしがるなんて珍しいから、調子に乗って問い詰めたくなってしまうけど、それをぐっと堪えて、最も情報を得られるであろう方向へ舵を切る。
「いや、昨日からコイツら可愛いなって思っててさ、なんてやつか教えてくんね?」
誘導してることはバレてそうだけど、久世は渋々といった風に「……ブサにゃんず。」と教えてくれる。よっしゃ情報ゲット〜。さっとスマホで調べてみると、5匹の猫のキャラクターがヒットする。あーなるほど、鼻ぺちゃだったり目付きが悪かったり…そういうじわじわ愛着が湧く感じのキャラってことか。そんで久世が好きな黒猫は……お、コイツだ。
「ジロ吉が好きなのか」
「……………」
「っはは、なんで隠したがんだよ」
目も口もギューッと閉じて最後の抵抗をする姿につい笑ってしまう。珍し。この人はバレーとか食い物とか、好きなものに対しては全力で大好きー!ってなっちゃうのに、こういう隠したがる好きもあるのか。まぁ確かにちょっとイメージとは違うか。こっちの白猫の……ツンちぃ?ってやつのが久世っぽい。……てかちょっと久世に似てんなこの子。この、絶対絶対懐きません!やめて話しかけないで、みたいな冷たい目…、うん、久世にそっくりだわ。
「俺、ツンちぃ推しになったわ」
「ええ…、無理に話合わせなくていいよ…」
「無理じゃない。可愛いじゃんツンちぃ」
ヤバい。この人が照れてんの本当に珍しすぎてやっぱ調子乗ってきちゃった。「ジロ吉ちゃんと見せてよ」っつって、立ち上がって寝室にぬいぐるみを取りに行く。久世は「あああ…」って情けない声を零し、頭を抱えるだけで阻止しては来なかった。マジで何がそんなに恥ずかしいんだ?まぁ可愛いから恥ずかしがっといてくれていいんだけどさ。ベッドサイドに置かれたちょっとデカめのぬいぐるみを持って部屋に戻る。胡座をかいた足の上にジロ吉を置いて、その顔をもにもにと撫でる。悪いことでも企んでそうな目付きと、片方だけ上がった口角。ふ〜ん、これが好きなのか。ふ〜ん。
「コイツもまぁまぁ可愛いじゃん」
「………」
「うちにも1匹迎えるかな」
「………来月ゲームセンターに出るよ…」
「お、まじ?」
ジロ吉を抱きながらまたスマホでささっと調べると、確かに来月新しいプライズが出るっぽい。これよりも更に一回り大きめの、まさしく抱いて寝る用ですって感じのサイズ感だ。ほほ〜ん。いいこと聞いたわ。俺が呑気にぬいぐるみで遊んで寛いでいると、久世は「…時間、あるなら、さ、」って何かを提案しようとする。ちょっと食い気味で「ある。なに?」って返せば、一緒に観たい試合がある、なんて、俺にとってはクリスマスプレゼントみたいなことを言ってくれる。えっ、俺と一緒に観たいなって思っ…たの…?なにそれ。最高なんだけど。試合を観るってことは、こっから少なくとも一時間、二時間はここに居ていいってことだ。えぇ嬉し。快諾すると、久世はいそいそとノートPCをいじりだす。俺の記憶が混濁してるだけで、俺達って実はもう付き合ってましたか?サンタさん、ありがとう!…とか、アホなことを考えてしまうくらい、嬉しい。
─────────
「ほらここも!今度はブロックアウト狙われたことに気付いて手を下げてるの!」
「おー、さっすがツッキー」
久世が俺と観たいと思ってくれたのは、先月のツッキーの試合だった。相手チームのエースとの駆け引きがとにかく面白い、と熱弁してくれて、観てても確かに面白い……けど、ごめん。そんなに集中できてない。
モニターに映す準備ができた彼女はソファに座り、そして俺にも座るように促した。昨日は出番がなかった、二人掛けのソファ。俺には断る理由がないから隣りに腰を下ろすと、「はいっ」てちょっと不貞腐れた感じでブランケットを膝に掛けられる。ジロ吉の顔が付いてる方をどうぞ、ってことなんだろうけど、気にするべきなのは多分そこじゃなくて、二人で一つのブランケットを使うことだと思うんだけど……キミはどう思うカナ?何も思ってないカナ?僕は結構あの…、ドキドキするんですケド。
ってな感じで、ちょっと幸せすぎて大して試合に集中できてない。第4セットになるとツッキーのブロックポイントも増えてきて、確かにこりゃいい試合だ。結果は3-1で仙台の勝ち。Vリーグオブザマッチ、略してVOMに選ばれたのもツッキー。これだけの大活躍だ。当然だろう。俺の隣の子はぱちぱちぱちぱちと画面の中へ拍手を送っている。可愛い。もう1個1個が全部可愛い。付き合ってるみたいな距離感、じゃなくて、本当に付き合ってたら、その1個1個に対して全部「可愛い」って言うのに。残念ながらそういう関係じゃない。試合を見終わったなら、もう帰らなきゃ駄目かなって考えなきゃいけないような関係だ。
「師匠としてどう?」
「いや師匠とかもう恐れ多いわ。高校の時ちょこっと面倒見ただけだし。まぁツッキーはほんとセンスいいよな。攻撃も色々試してるみたいだし、言うことナシ」
ふふふ、と隣で自然に笑ってくれるのが嬉しい。バレーの話だったら、俺達が擦れ違うことはない。もうこのままずっと、ここでこうしてバレーを観て過ごしたい。サンタさん頼む。もう十分幸せだけど、どうか今日一日、この人との時間を俺にください…!イマジナリーサンタさんがほっほっほと笑う。意を決して、「他にも観たいのあんの?」って聞くと、久世は目を輝かせて「あるよ!」って言う。…よし。よし…!心の中で強く、強くガッツポーズをする。どれにしよっかなって探す彼女に、もう片っ端から観ようぜって言えば、また嬉しそうにしてくれて、どんどん満たされていく。
「あ、でもその前にお昼ご飯じゃない?出前でも頼んじゃう?」
彼女に言われてやっと時計を確認すると、確かにもういい時間になっていた。俺の腹もさすがに空いてきたし、昼飯…昼飯か。出前取るのも勿論いいけど、ここで俺が作るよとか言ったらアピールになったりしねぇかな。この前研磨んちで鍋作っただけでもめちゃめちゃ喜んでもらえたし…言うだけ言ってみるか。
「なんか食材余ってんなら、テキトーに作ってやろーか?」
「へ」
「冷蔵庫とか見ちゃって平気?」
俺が立ち上がってキッチンへ向かうと、久世もバタバタッと立ち上がって冷蔵庫の前に立ちはだかる。
「み、見ては駄目です」
「………、そう言われるとさぁ…、見たくなっちゃうのが人間の愚かなところだよなぁ」
見られたくないってことは、実は結構ガサツで中がぐちゃぐちゃとか、もしくはロクに自炊しなくてすっからかんとか、そんなところだろう。…そんなん知りたすぎる。好きな子の、しかもなんでもきっちりやってそうなこの人の、ちょっと崩れた生活感、見たすぎる。強引に冷蔵庫の取手に手を掛け、彼女の制止を振り切ってそれを開く。その中身は、ケーキの箱と、多分ちょっとした漬物、マヨネーズとかの調味料系が少しと、ヨーグルト。……だけ。
……へぇ〜。
料理しねぇんだ。
ふぅ〜ん……。
…ぶっちゃけ、好都合だ。口角が上がってしまうのが自分で分かる。
「おーおー、ロクなもんねぇなぁ」
「あああああ………」
顔を覆う彼女を尻目に、キッチン内を物色させてもらう。なるほどなるほど。道具と調味料は最低限揃えているものの、基本は冷食かインスタントって感じね。いや、外食が好きなのかもな。へ〜ぇ…なんだよ、この人にもちゃんとこういう隙あるんじゃん。しかも、俺の得意分野が刺さるやつ。俄然やる気出てきたわ。
「よし、ちょっと買い物行くぞ」
「へ」
「ほい、さっさと着替える〜」
「え、えええ」
困惑する久世をそのままに、俺は脱衣所借りるから、と言って畳んで置いてた服を持ってさっさと向かう。そして彼女が寝室で着替えてるのを待つ間、勝手に米を研いで炊飯器にセットしておく。何作るかはまだ決めてないけど、米あって困ることはないだろ。彼女がわたわたとカバンに財布を入れた辺りで俺もカバンを持ち、二人で部屋を後にする。やば。なんか本当に同棲してるみたいじゃね?とか勝手にソワソワしながら、近くのスーパーを教えてもらって、二人でそこへ向かった。
─────────
「何食いたい?リクエストは?」
「え?!なんでも作れちゃうの?!」
「なんでもではねぇけど…、家庭料理なら大抵はイケんじゃね?」
びゃぁぁぁ…と熱い尊敬の眼差しを向けられる。やばい、これ、ほんっとに調子に乗りそう。スーパーの入口でカゴを手に取ると、私が持つって聞かないから仕方なく持たせてやる。リクエストはすぐには出てこないみたいだし…どうすっかな。
「昨日チキン食ったから鶏は一旦ナシだろ?そしたら豚か魚だな。野菜も入れられるやつだとすると…生姜焼きとか、回鍋肉とか…あ、豚汁とか?」
声に出して献立を考え、久世の反応を見ると、どれも好きぃって感じで目を輝かせている。じゃあ色々野菜入れられる豚汁にすっかな。あとは鮭でも焼けば十分だろ。献立が決まったところで、まずは野菜売り場へ行く。根野菜はできるだけ真っ直ぐでしっかり重いやつを選ぶといいぞ〜とか、ちょっとした豆知識なんかを披露しながら大根、人参、ごぼうを選んでいく。ちょっとウザい可能性もあるかなと思ったけど、彼女はキラキラの目を向けてすごいすごいって煽ててくれるから、マジで調子に乗るぞコレ。昼飯に必要なものと、プラスでいくつかのお節介をカゴに入れてレジに向かう。カゴは多少なりとも重いはずなのに、最後まで俺には持たせてくれなかった。強情なとこ変わってねぇな。会計は俺が勝って、泊めてもらったお礼ってことで言いくるめた。そんで帰りの荷物持ちでまた揉める。大した距離じゃないけど、意中の女性に重たいもん持たせる男なんか居なくね?いや居るかも知んないけど、俺は嫌。お互い譲らず、何故か折衷案として一緒に持つことになった。エコバッグの持ち手をそれぞれで掴んで歩く。……これは、同棲カップルの中でも超ラブラブな奴等がすることなのでは……??久世はそんなこと1ミリも考えてないだろうけど、通りすがりの人は100%そう思うだろうな。意識してんのは俺だけかって寂しさはそりゃあるけど、今日のところはただ幸せを噛み締めさせてもらう。
「おーし、パパッと作るか〜」
「はい先生…!」
帰宅し、それぞれまた部屋着に着替えてキッチンに立つ。学習意欲が高まってそうなこの人に教えながら作りたい気持ちもあるけど、もうお昼時は過ぎてるし、今回は効率重視かな。あ、この家ピーラーねぇのか。皮剥きは危ねぇし…うん、待機だな。
「お前にもできそうなことあったら任せるから、一旦待機!」
「はい先生!」
久世は言われた通りにその場でピシッと待機する意思を見せたが、すぐに一、二歩寄ってきて俺の手元を見学し始める。そんなガッツリ見られるとちょっと緊張すんな。気を紛らわすためにも、自炊しないの意外だなって話を振ってみる。最低限のものは揃ってるところを見ると、恐らく挑戦はしたはずだ。彼女の返答も俺の思った通りで、意気込んでやってみたものの、大失敗をしてやめてしまったんだそうだ。可愛い失敗エピソードが聞けるかと思って「黒焦げにでもした?」と聞いてみると、そもそも料理は完成しなかったと言う。なんだそりゃ。
「レンジ爆破とか…?」
「いや、そこまでじゃないんだけど…、指をね、ザクザクしちゃって」
「指をザクザク???」
めちゃくちゃ怖いワードが聞こえて思わず復唱する。詳しく聞くと、お腹が空いて注意力散漫になり手元が狂ってすーぐ指を切ってしまうらしい。何度やってもそうなるから、諦めたんだそうだ。
「お腹空いたな、早く食べたいな、って思いながら、お料理の段取り考えて、繊細な作業をするのってすッッごく難しくない?みんな当たり前みたいにやってるけど、もっと誇るべきことだよ!すごいことだよ!」
キリッ…!と熱弁する久世サンを他所に、食材をカットしていく。とりあえずこの人に包丁持たせんのはナシ。一生食う専で居ろ。こんにゃくの袋開けといて、とかの危なくない作業だけお願いして、豚汁の下準備は完了。その後も基本的には見学してもらって、99.9%俺が作った飯が完成する。
「いただきまーす!」
「はい召し上がれ〜」
ローテーブルには二人分の豚汁、焼き鮭、白米が並んでいる。お行儀よく手を合わせてから彼女が手を添えたのは豚汁の丼。不味くはないと思うけど、やっぱちょっと緊張する。箸でつままれたいくつかの具材が彼女の口に運ばれるのをついじっと見てしまう。もぐもぐと何度か咀嚼され、そして、「美味し〜〜〜♡」と感嘆の声が上がる。ほっとしたのも束の間、賞賛の嵐を浴びせられ、さすがに照れ臭くなる。
「大袈裟…、こんくらい普通だって」
「普通じゃないよ!ぱぱぱ〜ってあっという間に作ってたし、すんごく美味しいし、間違いなく天才!すごい!美味しい!幸せ!」
「う、ぐ……、喜んでいただけたなら何よりデス…」
もうプロポーズしよっかな?とか考える浮かれ馬鹿をどうにか沈め、ギリギリ平静を保つ。真正面から褒められて、顔は変なことになってると思うけど。というか、バレー以外でこの人との相性がいいもん、初めて見つけたわ。俺は世話焼くの好きだし、料理もまぁできる。久世は料理ができなくて、食うことが大好き。完璧にピースハマってんじゃん。しかもこれ、赤葦はやってねぇんじゃねぇかな。完全に、俺だけの強み。きた〜…これだ〜……。ばあちゃん…俺に料理教えてくれてありがとう…!綺麗に食い終わると、彼女はまたお行儀よくご馳走様をして、その後も賞賛は止まない。
「本当に何でもできちゃうんだねぇ…。黒尾みたいな人を優良物件って言うんだろうね」
浮かれてぽわぽわしていた心が、ストンと現在地まで落っこちる。…そうだ。この人はこういう人だし、俺はまだこういうことを言われてしまうような立場だ。今のは褒め言葉ではあるのかも知れないけど、俺がアピールしてるのはお前にだけなのに、勝手に市場に出された感じがして、到底嬉しいとは思えない。ニコニコで上機嫌な彼女が、ほんの数秒前よりずっと遠くに感じる。いや、そもそも俺が勝手に近付けたと思っただけで、これが本来の俺達の距離感だ。……いちいち傷付いてられん。相手は自分を恋愛市場に置いたことすらない人だ。すぐにどうこうなれるはずもない。俺の話も牛歩の歩みではあるけど理解しようとしてくれてるし、時間がかかるのは承知の上だ。焦るな。返事をしない俺を不思議そうに見る久世に「なんでもない」って誤魔化して、食器を片付ける。とりあえず今は、今与えられてる信頼と距離感を大切にしよう。お皿洗いはできますって言うからそれは任せて、俺は気を取り直してその隣で作業する。
「…?なんか作るの?」
「そ。作るの。食材余ったから」
余ったからというか、最初からそのつもりで買ったんだけど。作り置きとして豚バラ大根ときんぴらごぼう、あと完全なるお節介で買った卵はいくつか味玉にしてやろうと思ってる。献身的なお世話に見えて、ただ胃袋掴みてーだけの打算的な行動だ。ちょっとでも爪痕残したくて必死だもの。久世は皿洗いを終えると「見学いいですか!」ってまた手元を覗き込んでくる。それに「いいですヨ」って返して、大根を2cmくらいの厚みの半月切りにしていく。卵茹でるくらいならこの人にもできるかなと思って指示すると、張り切ってお湯を沸かし始める。本当はもっと色々教えてあげた方がいいんだろうけど、教えたら教えたですぐに出来るようになっちゃいそうだから、今はまだ教えない。
「タッパーかジッパー付いてる袋とかある?」
「ございます!」
「おっけ。じゃあこれに入れとくから、明日にでも食え」
渡されたタッパーに作ったものを詰めると、久世は「私が食べるもの作ってくれてたの?!」と驚く。いやそりゃそうだろ。ほいほいほいっと3つ渡してやると、絶句したままそれを受け取り、信じられないという顔をしてタッパーと俺を交互に見る。
「えっ、えぇ…?!ありがとう…!ど、どうしよう、お礼、何がいい…?」
「んー?……じゃあ、食ったら食ったって連絡して」
素直に受け取ってもらえただけで嬉しいからお礼なんて必要ないけど、せっかく何がいいか聞いてくれたから、ちょっとだけ欲を出す。絶対に断られないことで、俺にとってはめちゃめちゃ嬉しいこと。普通こんなことしたら「え?もしかして私のこと好き…?」ってバレそうなもんだけど、そこはさすがの久世サン。「感想を伝えるだけでお礼になるの…?」と首を傾げている。お前が俺の作ったもん食って、俺のこと思い浮かべて、俺に連絡くれる。お礼どころの騒ぎじゃねーわ。ってことをそのまま言う訳にもいかないので、作る側にとっては一番嬉しいことなんだぞ〜とか言って納得してもらえた。
「世話好きがグレードアップしてるね…。もはやお母さんだ」
「おか……、いやせめてお父さんにしといて」
そういえば高校生の時も何度かお父さんって呼ばれてたな。あの頃から変われてない…と悲観するのはやめておこう。この歳であの頃みたいな距離感に戻れてることの方が奇跡だ。そしていつか、お前が色々自覚した時には、俺が理想の旦那さんの第一候補になってやる。
────────
その後はまた彼女がチョイスした試合を観る。Vリーグだけじゃなくて、国際試合とか、夜久が居るロシアのリーグ戦とか、カテゴリーは様々だ。俺の膝の上にはジロ吉を乗せ、午前と同じく二人でソファに腰掛け一つのブランケットを共有する。久世はまったり&ウキウキ、俺はドキドキ&ソワソワって感じで一試合観て、昨日の残りのケーキを食いつつもう一試合観て……時間が過ぎていく。夕方になってさすがに帰ろうとすると、奢りたいからやっぱり出前を取ろうって引き止められて、もう一試合観ながら寿司を食った。
「さすがにそろそろ帰るわ。ジロ吉と一緒にお見送りして」
「何故……、ぬいぐるみは持たないけど、駅まで送るよ」
「いやそれはいいって。寒いし。ほらこの子持って、玄関まで来て」
「ええ、、」
久世はムスッとしたまま俺に渡されたジロ吉を抱き上げ、仕方なく言う通りにしてくれる。名残惜しさはあるけど、これ以上居たらもう日常に帰れなくなるから、そそくさとコートを羽織って部屋を後にする。まるで夢と魔法の国で丸一日はしゃいだみたいな充足感と疲労感だ。今夜はよく寝れそ。
「そんじゃまたな〜、いい子にしてろよ」
靴を履いて振り返り、久世が抱くぬいぐるみの頭をぐりぐりと撫で付ける。「そんな…本物の猫みたいな…」とぶつくさツッコまれるけど、俺としてはまたコイツに会えるような関係性になってやるって意味を込めた発言だ。今は伝わんなくていーけど。玄関ドアを開けると冷たい空気が吹き込み、二人一緒に寒さに声を上げる。彼女は寒がりながらも靴を履いて外まで見送ろうとするから、それは本気で遠慮して、暖かくしてなさいって言えばまたお母さんだと言われる。
「お父さんです。…じゃ、長いことお邪魔しました。また飯でも行こうぜ」
「うん…。気をつけて帰ってね」
「おう、…じゃ」
小さく手を振る彼女に最後に笑いかけてドアを閉める。年末の夜は当然寒い。でも、そんなことはどうでも良くなるくらい、心は暖まっていた。まだまだ恋人になんてなれそうにないけど、このクリスマスという日に好きな人の時間を独占できたんだ。十分すぎる。昨夜、どうにか赤葦のプレッシャーに負けなかった自分を褒めてやりたい。白い息を吐きながら、色んな意味で濃密だった時間を振り返る。昨日は久世と赤葦の独特の空気感に圧倒されて苦しみ、その後はラスボスに詰められ、酔って寝ぼけた久世に今回も爆弾を投下されて、耐え抜いたら朝に土下座され……いやこの段階でちょっと多過ぎんな。その後も色々ありすぎて、サクッと振り返れるような内容じゃない。ただ、彼女の日常に入り込めたのは確かだ。こっちが付け入ろうとすれば何も拒まれずにズブズブと許容されてしまうから、そこは少し恐ろしかった。きっと赤葦もこんなことを繰り返して、今の位置に居るんじゃないだろうか。でも俺は奴と同じ道は辿らない。いつかちゃんと俺の気持ちを理解してもらえるように、ちょっとずつでもズレた認識を正していく。攻略の手順が定まったなら、もう迷わない。
──18の俺、28の俺が、お前の延長戦を引き受けてやる。
電車内で寝落ちそうになるのをギリギリ耐え、なんとか帰宅した。