赤い糸40,075km
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◯< 大変お世話になっております。先日は定食屋にてご一緒させて
いただいた後、黒尾様にご送迎いただいたとうかがいました。
誠にありがとうございました。そして申し訳ございませんでし
た。つきましては、改めてお礼とお詫びを申し上げたく、僭
越ながら、近々お時間を頂戴できませんでしょうか。ご多用の
ところ恐縮ではございますが、ご検討いただけますと幸いで
す。何卒よろしくお願い申し上げます。
はぁぁぁぁ〜〜〜………。
駅のホーム、少しだけ上を向いて心の中だけで溜め息を吐く。一時間ほどの残業を終えて帰路に着き、スマホを確認するといくつかの通知が入っていた。その中、一際堅苦しく仰々しいこのメッセージは、数日前に俺の理性を吹き飛ばしてくれちゃった人…久世サンからのものだ。ちょっと待って、見なかったことにしていい?この人の場合、これがネタじゃない可能性のが高い。あんなことがあったのに向こうは覚えてねぇんじゃねぇかって思ってたけど、確信した。絶ッッ対覚えてないだろコレ。いや分かってたよ?でも覚えてないならな〜んでこんなに壁作られてんの?突破して来たのそっちのくせに。つーかお詫びってなんだよ。覚えてもねーくせに何を侘んだよ。…くっそ。もうやだ。結局全て俺の一人相撲だったと、答え合わせをしたくない。俺はあの夜のせいで、強制的に“今の久世サン”に向き合わされた。当たり前に頭の中はあの人のことばっかりだし、認めたくないけど、彼女はもう“10年前に好きだった子”じゃない。それなのにこの、ビジネスメールにしても固すぎる文章はなんだよ。あの夜から俺がどんな気持ちで………。はぁ〜〜〜……。今度は実際に溜め息が出て、周囲の人にちょっと振り返られてしまった。
身体を縮めて満員電車に乗り込み、なんて返信すべきかぐるぐると考える。会う時間はそりゃ作れる。で?会って、よく分かんないけど改めて謝罪?されて?そんで?綺麗さっぱり精算して?旧友どころか、私達ちょっとした知人ですよね〜ってか?はぁ?無理なんですけど。いや、その、とにかくまだそういうの決まってないんだよこっちは。ちょっと待ってくれ。あの夜あの人が言った言葉が、例えば「好き♡」とかだったらこんなに悩まなかった。さすがにそんなことは誰にでもホイホイ言わないはずだ。でも「カッコいい」とか「男の人だ」とかは全然言いそう。俺じゃなくても音駒の奴らに会ったら普通に言いそう。想像に容易すぎ。熱っぽく見えたのは酒が入っていたのと、俺のフィルターとかで説明がついてしまう。そしたら俺は、“誰にでもするようなことをされて一人で勝手に盛り上がった男”ってことになる。泣く。全然泣く。
ぎゅうぎゅう詰めの電車からどうにか抜け出して帰宅しても、返信内容はまだまとまらない。断るつもりはないけど、多分これ、赤葦に仕向けられてるっぽいんだよな。「鍵を返す機会を作りましたよ」って声が聞こえてくるもん。今の俺には、おっかない恋敵に会うことよりも、久世に会うことの方が怖い。あの人には、あの夜の俺も、俺の10年も、丸ごと否定する力がある。そして俺自身がこの10年を丸ごと否定してでも彼女に向き合おうとしたとして、それを無駄だと粉砕してくる力まである。…怖すぎる。
◯> 畏まりすぎ
◯> 木曜以外なら多分大丈夫
ちゃちゃっと晩飯を作って、もそもそ食いながらやっと返信を送る。どういう訳か、俺には会わないって選択肢はない。もう分からん。スマホを裏返してローテーブルに置き、また箸を進めていると数分で返信が来る。
◯< ご返信ありがとうございます。では水曜はいかがでしょう。
お時間をいただけるのであればお食事をご馳走させてくださ
い。いくつかお食事処をピックアップいたしましたので、お好
みのお店があるかご確認いただきたくお願い申し上げます。
「………………。」
畏まんなっつってんだろ。新規取引先の社長か?俺は。あーもう嫌、もういい。俺がこの人を、とかナシナシ。無理無理。手に負えん。降参。もう考える気力もなくて、「お好きなとこどうぞ」と返して通知を切った。
───────────
久世が選んだのは、自席の七輪で魚介類を焼いて食える居酒屋だった。どこで見付けてくんだよ、こんな俺が好きそうなとこ。普通なら喜ばしいことだが、今はその気遣いが壁にしか思えない。階段でビルの2階に上がり店内に入る。「久世で予約してます」と店員に伝えると、騒がしい団体客とは反対側の、仕切りがあって絶妙に個室感のあるテーブルへ案内される。そこには既に難しい顔をした彼女の姿があって、俺に気付くとサッと立ち上がる。
「うーす、お疲れお疲れ」
「っあ、お、お疲れ…」
久世から感じる“誠心誠意謝らせていただきますオーラ”を全力で無視して席に着く。俺の軽めのノリを見た彼女は、少し迷ってから座り直してくれた。そう、もうお詫びとかそんなのいいから、美味いもん食おうぜ、穏やかにさ。メニューを手に取り、アレが美味そうとかこんな店知らなかったとか、普通のテンションで話す。久世は明らかに俺の顔色を窺っているが、基本は同じくらいのテンションで返してくれる。定番っぽいホタテやサザエ、干物、サイドメニューもいくつか頼むと、どうしても会話が途切れる。…絶対くる。彼女の謝罪モードを起動させたくなくて何か話題を探すけど、「最近急に寒くなってきたな」「そうだね」の1ラリーで終了。俺は無力。そしてついに、久世が「…あの、」と話し始めてしまう。
「前回の食事代と、あくまで予測だけど、送ってくれた時の交通費…などを包んでまいりましたので、お納めください……。本当にお世話になりまして……すみません………」
・・・金出してきたよこの人。
なにその綺麗な封筒。
すぐに返す言葉が見付からず、頭を下げて封筒を差し出したまま動かない彼女を、俺も動かずにただ見る。胃のあたりがズシズシと重くなっていく。俺がなんの反応も示さないから、久世はそろっと顔を上げて様子を窺ってくる。その顔のなんとまぁ不安そうなこと。でも絶対俺の方が可哀想だぞ、この状況。酔っちゃった好きな子送り届けて?勝手に盛り上がって手出しかけたのに?頭下げられて金出されて??意味分かんねぇだろ。
「…一旦それしまえ」
「……」
「しまえ」
「はい…」
渋々といった様子で引き下げられた封筒だが、またすぐに取り出すためなのか、カバンからひょっこりと顔を覗かせている。もっと奥底にしまえや、ンなもん。はぁ、と重い息を漏らすと、彼女がしゅんと小さくなる。ああ〜もう。
「金とかはいいよ別に」
「……で、でも…」
「いい。要らん。大した額じゃねぇだろ」
「そ、んなことないと思う…し、…迷惑料も、入ってるから…」
「は?」
なんつった?迷惑料?
俺がフリーズしているのをいいことに、久世はケジメをつけたいだのなんだの宣っている。自分が何をしたのか一切覚えてないから、請求された分だけ迷惑料を払うとか、不快な思いをさせたなら慰謝料を払うとか、マジで訳の分からないことばかりを言っている。でもその表情は真剣そのもので、俺が体験したあの夜とはまるで別世界みたいに感じる。あの夜俺は、お前が俺を男として見てくれてるんじゃないかって思ったんだよ。金で解決できるようなことじゃねぇんだよ。悪かったな勝手に勘違いして。
「どっちかっつーと今の方が不快。あの日はただ可愛かっただけだわ」
あっ、
口が滑ったことを自覚して後悔するのと同時に、久世の真っ青な顔が目に映る。
「いっ、いっ、いっ、慰謝料…!慰謝料…!ごめんなさい、ごめんなさい、慰謝料を…!」
「お、おお落ち着け!」
久世がカタカタと震えながら財布を開くと、中には想像の3倍くらいの紙幣が入っていた。なんでそんな現金持ち歩いてんだ。タイミング悪く頼んでいた品も届いたので、とりあえずここは落ち着かせることを最優先にする。俺も落ち着きたい。急に何言っちゃってんの動揺しすぎだろ。慰謝料払う、要らん、の攻防をどうにか辛勝し、頑固な彼女を黙らせる。トングで貝を七輪に置き、殻の上にバターをひとかけと醤油を垂らして少し待つと、くつくつと汁が踊りはじめる。あーあ、こんなに美味そうなのに、何やってんの俺ら。眉を下げ、換気扇に吸われていく煙をチラチラ見ていた彼女が、恐る恐る「…あのぅ、」と声を出す。俺も別にギスギスしたい訳じゃないから、「はい、なぁに」ってできるだけ柔らかく返す。敵意はないし、多分俺達はどっちも悪くない。
「私は何か…根本的に何かが分かっていない気がするんだけど…、えっと、迷惑をかけた日より今の方が不快というのは…、その、どういう事か聞いても…?」
久世なりの歩み寄りだということは分かるし、俺もサラッと答えてやりたい。でも今の俺のモヤモヤをなんて説明する?願わくばお前が俺の事を特別に思ってくれていて、あの日の記憶もちゃんとあって、恥ずかしいって照れたりなんかして…そんなことを期待したのに何一つ叶わず、男のプライドが大きく傷付き、今も好きだと認めざるを得なくなった相手には壁を作られ、果てには慰謝料なんかを押し付けられそうになって…。え、待って俺可哀想すぎない?悪意はないんだろうけど、罪だろ、さすがに。でもそんなこと馬鹿正直に言えねぇしなぁ…。
回答を一旦保留にさせてもらい、とりあえず食べ頃になったホタテを食わせる。焼肉でもなんでもそうだけど、俺はこういうのは全部自分でやりたい派だ。相手がやりたそうにしていないのでれば、食材は全てこちらで管理させてもらう。久世は申し訳なさそうに皿を差し出し、過剰に感謝をすると、そこに置かれたホタテにふぅふぅ息をかけた。それを観察していると、彼女の揺れる瞳と目が合う。「ワタクシめが先に食べてしまってよろしいんで…?」みたいな視線だ。だからなんでそんなへりくだってんの?やっぱりあの夜の記憶があって、俺が手出してきたからドン引きしてる…とかのがまだ納得できんだけど。そして納得して死ぬ。俺が先に手元のホタテに口をつけてやると、やっと久世も食べ始める。うーん、嫌だな、この距離感。食べるの大好きな彼女は、目をキラッキラに輝かせるけど、どうにかキリッと表情を固め、己を律しているようだ。俺が思ってるのとは全然違う罪の意識があるんだろう。
「うまっ」
「うん…!」
濃厚な味わいと、鼻から抜ける磯の香りに素直に美味いと言うと、すぐさま力強い同意が返ってきて笑いそうになる。もういいよ、美味そうに食えよお前は。俺も大分落ち着いてきて、網の上を整備しながら、保留にしていた先程の質問について考える。アレに答えることは、今はできない。というか、答えたとしても久世の方に予備知識が足りなすぎて理解してもらえない気がする。根本的にズレている何かは、俺が探っていったほうが早い。
「さっきの質問さ、久世サンが根本的に分かってないことは、俺が探ってく方針にしてもいい?絶対お前のがレベル低いし」
「…は、はい。分かんないけど、レベルは低いと思う…。お願いします…」
「おっけー」
ついでに飯は好きなだけ美味そうに食えってことも言って、久世からも「面目ない…」と合意を得た。…さて、ぶっちゃけ気になってることはたくさんある。何から聞くかな。まずはやっぱり、彼女が異常なまでに引け目を感じていることについては聞いておきたいよな。そりゃ確かに酔っ払いの自分を送ってもらったら「マジごめん、ありがとな」とは思うけど、こんなに過剰に謝罪を繰り返したりはしない。しかも自分が何をしたのか覚えていないなら、尚のこと何に謝ってんだ?考えても分からないから、そのままざっくりと質問してみる。
「じゃあまずさ、何についてそんなに謝ってんの?」
「っえ、えぇと…、お手を煩わせてしまったことや…時間やお金をかけさせてしまったことについて……です」
「いやだから俺は取引先の社長かっつーの」
久世は不思議そうに首を傾げる。そっかこのツッコミは心の中でしかしてなかったんだっけか。でも高校の同級生、しかも同じ部活で結構親しくしてた相手に「お手を煩わせる」とか言う?なんなのこの距離感。俺ってそんなに遠慮しなきゃいけない相手なの?俺に世話焼かれることは、金払わなきゃいけないようなことなの?
「あー…もしかして、俺がお節介野郎だって忘れた?」
「忘れてないけど…、さすがに範疇を超えたのではないかと…。あと、記憶がないのも怖くて…何か粗相をしてしまったかも知れないけど、その内容を聞くのも恐ろしいから、全てお金で許してもらおうとしました…」
「んあー…なるほど…?」
金を払って俺を片付けたいというより、自分の未知の罪について金で蓋しようとした訳か。まぁそれなら分からんでもない…か?久世はだし巻き玉子を箸で一口大に切り、小さく頂きますを言って口に運ぶ。もきゅもきゅ、ふんふん、見るからに美味しさに打ち震えてるから、「美味い?」って聞くと力強い肯定が返ってくる。ほんと気ぃ抜けるし、もう全部許しちゃいそうになる。流れで俺も一切れ貰ったけど、だし巻き玉子はまじで美味い。優しさを具現化した食い物。しかし、酔ってて記憶残ってない女の子が、送った男に金を出すってやっぱなんか違くねぇかな。自分が何かしちゃったかも、より、何かされちゃったかもって心配する方が先じゃね?この人、そういう“男女”の感覚、ちゃんとあんのか?目の前の彼女はもうすっかり“女性”で、食事中に髪を耳にかける仕草なんかは、一般的に考えても魅力的だと思う。悲しみとか苛立ちとかあったはずなのに、簡単に絆されてむしろ心配になってくる。これが惚れた弱みってやつなんかね。「一個例え話していい?」って前置きをして、彼女の認識を確認する。
「久世サンの親しい女友達が、酔って寝ちゃってるとします。その子を知人男性が家まで送ります。これどう思う?」
「知人男性はどのくらい信用できる人?」
「それは久世サンには分かんない」
「う〜〜〜ん……、私を呼んでくれれば、私が連れて帰るのに、と思います」
「おっ、それはなんで?」
「え、だって、ほら、なんか…、あの、危ないかも知れないじゃん」
「おぉ〜。ちゃんと分かってんじゃん。偉い偉い」
「馬鹿にされている…?」と訝しむ彼女にサザエを食わせてご機嫌を取る。そうそう、くるんって取るの。上手上手。はい美味しいね〜。…さて、そろそろ核心に迫っちゃうけど、なんて聞こうかな。男女のその辺の距離感は分かってはいて、女性側は警戒すべきだってことも分かってる。それなのにあの日のことにはそれが適用されてる気配がない。もしかして自分は適用外だと思っちゃってる?それとも俺を男と思ってない?いや「男の人だ」っつったじゃん。…いや、うん、俺の事を聞くのは危険だ。あくまで彼女の自己認識を探る方向にしよう。
「今の例え話さ、久世サンとお友達が逆の立場だったら、お友達も同じように久世サンのこと心配するって思わない?危ないんじゃないの、って」
「うん、心配はしてくれるかも。でも私は大丈夫」
「なんで」
「よっぽど変な人でもなきゃ、私のことそんな風に見る人居ないし」
・・・?
…ズレの核心、来たぞこれ。
何言ってんだこの人?なん……はぁ?何を根拠にそんな人居ないっつってんだ?居ますけど?目の前に。あと君が一番信頼してる男も君のことそういう目で見てるからね、言わないだけで。え?本当に待って?いや分かるよ、この人って基本自己評価低いし、高校生の時とかだったらまぁ、格好良すぎて同世代の支持は集まんないか〜って思えたけどさ。今の君はもう…疑いようもなくモテてるはずだもの。外見もそうだけど、賢さと穏やかさを両方孕んだ雰囲気とか、学生時代は真面目すぎって言われたかも知んないけど、この年齢になると理論的に話し合いができる女性ってプラスにしかなんないからね。それでいて美味いもん食わせてやりゃ少女みたいに喜ぶし?やべぇだろ。その辺の魅力全部自覚なしってこと?自己認識10年前のまんま?そんなことある?
「……告白とかされない?」
つい、考えてることをそのまま口にしてしまう。それに後悔するより先に、久世が「されないよ」って笑う。いや笑い事じゃね〜〜〜。えっ、されない?ほんとに?なんでだ?…あ、嫌なことに気付いた。一人の男の姿が頭に浮かぶ。赤葦京治、奴は10年間この人の一番近くに居たと言っていた。つまり、奴がこの人に悪い虫が付かないようにしてたんだ。真顔でハエたたきをぶん回す姿が容易に想像できる。その教育方針って合ってんの?確かに俺という悪い虫は、その教育のおかげで今こんなにもズタボロになってる訳だけど、強行突破する奴だって居るだろ。いつでも必ず赤葦が守れるって訳でもねーんだから、本人にもちゃんと危機管理させた方がいいに決まってる。こんないい女が警戒心ゼロで生きてんの危なすぎるわ。俺が顔を引き攣らせて考えていると、だいぶリラックスしてきたらしい久世は「そもそも信用してない人とお酒飲まないよ」なんて呑気なことを言う。はい残念〜。俺は手出そうとしました〜。信用に足る男じゃないですぅ〜。…泣いていい?とりあえずまずは自分のことを分かってもらわないと話にならない。
「今日一個だけ覚えて帰ってほしいんだけどさ」
「…コンビ名?」
「違ぇわ。えっなに、お笑いとか好きなの」
「好き」
あ、へぇ…そうなの…。じゃなくて。今のよく反応できたな俺。コンビ名だけでも覚えて帰ってください〜ってのは、お笑いライブの呼び込みや前座をする若手芸人が何度も繰り返し言うセリフだ。一回だけ見に行ったことあるから分かったけど、普通ピンと来ねぇぞそれ。ってか、ふぅん…、お笑い好きなんだ…。この人の好きなものってバレーと食い物しか知らなかったけど、へぇ〜、ふぅ〜ん…覚えとこ。いやだから違くて。くそっ、簡単に俺の脳をジャックすんな。久世は伝わったことにご満悦の様子で微笑んでいる。くそ〜〜、すーぐ絆されそうになる。まぁ謝罪モードより全然いいんだけどさ。「ごめん、なんて言おうとした?」って話を戻してくれるから、まぁ許してやらんこともないけども。わざとらしく咳払いをして真面目な話だと伝えれば、彼女も箸を置いて背筋を伸ばす。
「今から言うことはあくまで一般論な?」
「はい」
「すぐには理解できないかも知んないけど、とにかく聞け」
「はい」
「…えー、久世サン。君は世間一般から見て……普通に“美女枠”です。」
「・・・・・?!」
おぉ…絵に描いた様なスペースキャット……。俺の言ったことが余程想定外だったのか、彼女は宇宙に行っちゃったっぽい。そして全然帰ってこない。本当に帰ってこない。呼び掛けにも応じないからだし巻き玉子を人質に取ると、やっと彼女の意識が地球に戻ってくる。でもまだ長い睫毛をパッサパッサと揺らし、何一つ理解はできていないようだ。赤葦…、お前が保護しすぎたせいだぞ。なんて心の中で恨み言を零しつつ、地球での会話を再開する。
「なので、ちゃんと警戒心を持つべきだと思いマス。オーケー?」
「…wait……、えっと…?び、じょ、わく……?ビ ジョ ワ ク……びじょ、び、ビジョワ……ビ、び、」
「壊れちゃった…」
まさかここまで地球の常識が通じないとは…。もうこの人のことは宇宙人だと思おう。そうすれば俺の気持ちが何一つ伝わらないのも頷ける。だって宇宙人だもん。どうにか落ち着かせて話を聞くと、同性から美形だと評されたことはあれど、異性からは本当に一度も無いらしい。多分この人がそう受け取ってないだけで何度かはあるはずだけど、あとはもう全部赤葦のせいだな。頑張れ、飲み込め、って説得を続けた結果、「我ハ美女枠…」とまで言えるようになった。よーしよしよし。もう俺も疲れたし、今日のとこはこんなもんでいいだろ。最後にもうちょい食いたくてメニューを見ると、自分で味噌塗って焼ける焼きおにぎりが目に留まる。久世にも食うか聞くと、困惑したまま確かに頷くので二人前追加注文した。それが届くのを待っていると、地球人らしい喋り方に戻った久世が「…先生、質問が」と話し掛けてくる。
「はいどうぞ久世さん」
「結局のところ、先生が“今が不快”と仰ったことや、“あの日は可愛かった”…?と仰ったことについては、その意味合いを教えていただくことはできないのでしょうか…?今の“美女枠”の話が関連する場合、美女が酔っている又は寝ている状態を一律で可愛いと表現した。…もしくは、本当に一律で可愛いと捉えていて、多少面倒を掛けられても多めに見れるので謝罪は不要。…こういうこと…?ですか?」
ニコーッと笑顔を貼り付けて一旦耐える。先生もう疲れちゃったんだけど。まぁでも久世からしたら、根本的なズレを修正したかったのに急に「君は美女」とか言われたら意味分からんか。警戒しろって言われても、元の話とは違うもんな。分かった。俺はもう大人。最後まで話に付き合ってやるわ。…言える範囲で。
「まぁ、そう。合ってる。謝罪は不要。」
「えぇ、ほんとに…?結構守備範囲が広いんだね」
「守備範囲とは」
「あ、いや、許せる範囲というか、好みの範囲というか…、私が仮に美女枠だとしても、黒尾の好みとは違うだろうから」
・・・おぉ、すっごい。すごいな。何が何でも俺の手からすり抜けて行くじゃん。俺が「世間一般的に見て〜」とか濁したのも悪いんだけど、なんで俺の好みの範囲外だと思ってんだ?自分の魅力にも気付いてねぇし、魅力があったとて俺には刺さらんと思ってたってこと?それで警戒心ゼロだったの?もう10年も前からお前が中心だが??なんて当然言えないので、「そんなことないヨ…」と返すので精一杯だ。
「…そっか、分かった。とりあえずあの日のことは、美女枠だったが為に運良くお咎めなしになった、ってことなんだね」
「ウン…」
「…となると、今の方が不快だと言わせてしまったのは…、分かった!お咎めなしなのに執拗に謝罪と返済をしようとしたのが良くなかった…で合ってる?」
「…ウン…」
「…ほんと?」
彼女なりに『新常識“美女枠”』を踏まえて再解釈してくれてるけど、やっぱりそれは絶妙にズレている。いやドンピシャの回答出されたらそれはそれでヤバいんだけど、本当に宇宙人なんだなぁこの人って。まぁ広〜〜い意味では大体合ってるし、今日のとこはほんと、もうそれでいいです。でも久世は俺の返事のちょっとした間に気付いて突っ込んでくる。恋愛面だけ宇宙人で、それ以外は観察眼が鋭くて思慮深い地球人なの、変わってないんかーい。今はまだその解像度でいいって伝えると、彼女もやっと納得してくれる。届いたおにぎりにいそいそと味噌を塗って七輪に置くと、なんとも芳ばしい香りが漂ってくる。疲れてる時にこういう素朴な食い物っていいよな。久世の分もやっていいか聞いたら、申し訳なさそうにしながらも、俺がやりたそうだからって譲ってくれた。やってあげんのが好きなんだよ俺。特に美味そうに食う人には。久世は案の定美味そうに焼きおにぎりを食ってくれるし、この人と飯食うと、俺ももっと味わって食おうって思うんだよな。疲れた心身に焼きおにぎりがあまりに沁みて、ちょっと涙が出そうになった。
───────────
久世が会計を済ませてくれて、二人で店を出る。ご馳走になったお礼を言うと、彼女は返済額が足りていないことをまだ気にしているようだった。ほんっと真面目ちゃんなんだから。今日は一切アルコールを摂取してないから、しっかりした足取りの彼女と並んで駅を目指す。もう入口は見えていて、あと数分で解散になるだろう。そこでやっと、重要なことを思い出す。今日俺は、鍵を返しに来たんだった。やべっと声を漏らしてカバンの中のポケットを漁る。コロンと丸いキーホルダーの感触がしてそれを取り出し、家主へと差し出す。
「忘れるとこだった。…これ」
「…あぁ、赤葦くんの。忘れてた」
「ッソウ、赤葦クンの。返しといてネ」
彼女は自分家の鍵を当然のように人の物だと言って受け取る。なんだかもう笑うしかない。最後にきっちりトドメを刺すの、相変わらずの久世さんクオリティじゃん。ご健在なようでなにより。しんどい状態が続き過ぎて、クライマーズ・ハイみたいになってきた。ヘラヘラ笑う俺を久世は怪訝な表情で観察している。お前が俺をこうしたんだよ。駅に着いたら別の電車に乗ることになるだろうし、時間の無さとハイで判断力がガバガバになり、ずっと言おうか迷ってたことを簡単に口にしてしまう。
「そういやさぁ、研磨が一回連れて来いっつってたんだよね」
「っえ、研磨が…?ってことは、コヅケンハウスに…?」
「そ」
気心知れすぎた幼馴染が買った一軒家。研磨の家には何の用もなくてもたまによく行くけど、この前行った時、「なに?なんかあったの?」って唐突に聞かれた。研磨曰く、変な顔でぼうっとしていたんだそうだ。…なにか、なんて特に心当たりはなかった。もしあるとするならば、この人と再会したことくらい。研磨の前で嘘ついたってどうせバレるから、そのまま答えてみた結果、その内連れて来なよってな流れになった。研磨が久世に会いたくて言ってるってよりも、俺が久世に会うための口実を作ってくれてんだってことは分かる。それと同時に、研磨がそうするってことは、俺はそんなに未練タラタラに見えんのかい、とも思った。その口実を使うか使わないか、ずっとぐるぐる考えていた。そんで結局、使った。まぁタラタラですよね、未練は。どうせなら纏まった時間が取れないかと、休日で予定の空いてる日がないか聞いてみる。もうハイだからなんでも聞けちゃう。久世はスマホで予定を確認して、12月の第二週なら現地観戦の予定はないと教えてくれる。…ほぼ一ヶ月後か、結構先だな。って、いやいや、こんなにボロボロにされてんだから、そんなすぐ会わなくていいだろ。あー…もうこれって引き返せないとこまで来ちゃってんのかな、俺。駅に続く階段を降り、改札の近くで立ち止まって俺も予定を確認する。
「10、11か…。あー、じゃあ11でいい?日曜」
「私はいいけど…研磨は?」
「アイツはずっと家いるから大丈夫」
じゃあまた連絡する、別れの意でそう伝えれば久世も頷いて、自分が乗る路線の改札に向かっていく。…疲れたなぁ今日は。高校生の時は部活っていう共通の打ち込むものがあったから分かり合える時間も多かったけど、それがないと常識の擦り合わせすらままならない。なんとなく、すぐには動かずに彼女の遠ざかっていく背中を眺める。なんで俺はあの人を見てしまうんだろう。これまで人並み程度には女性と関わってきたけど、あんなに難儀な人は他に居なかった。俺もあの人の前では何も上手くいかないし、どう考えても相性は良くない。でももう相性云々とかそういう次元じゃないって、10年前にも既に一度結論付けている。小さくなった彼女の背中がひるがえり、多分、バチッと目が合った。久世は俺がまだじっと見送っていたことに心底驚いた様子で肩を跳ねさせ、そして控えめに手を振る。俺がなんとも言えない気持ちのまま手を振り返すと、それを見た彼女は今度こそ背を向け、パタパタと去って行った。
あの人と再会してから、俺の日々には悩みと苦しみが増えた。でも、あの人が居なかった10年より、ずっと今を生きている感じがする。…どうせ、ただでは逃げられないんだ。俺も改札を通り、ホームへと足を進めた。