赤い糸40,075km
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担当作家の自宅の廊下、いくつか溜まっているゴミ袋と並んで三角座りをしながらおにぎりを食べる。締め切り前は基本、集中したいから一人にしてくれと言われていて、俺に出来ることはこうして待つことくらいだ。約束の時間はもう過ぎている。原稿が上がるのが遅くなれば、その皺寄せを食らうのは編集だ。つまり俺だ。もう慣れっこだからいいけど…。2つ目のおにぎりを開封しようとしたところで、床に置いていたスマホの画面が光る。
◯< 鍵どうすんの
それは黒尾さんからのLINEの通知だった。早ければ当日にこういった連絡が来るかもと思っていたが、丸一日後か。ふむ…。昨日三人で食事をし、久世さんには酔ってもらって、黒尾さんにそれを送るように言い渡した。その後二人がどうなったのか、いくつかのパターンを考えてみる。
◆1. 関係が大きく進展した
俺としてはそうなれと思って仕向けたことだが、多分ないな。何故なら黒尾さんは相変わらずの様子だったから。
◆2. 何事もなく健全に送り届けた
まぁこれが一番確率が高いだろう。でも、それなら昨夜の内に連絡が来ている気がする。そうなったらまた彼のヘタレっぷりをネタにチクチク刺してやろうと思っていたのに、そうはならなかった。
◆3. 久世さんから何かしらの爆弾投下があった
これも有り得るな。酔った時の久世さんは非常に素直だ。昨日の様子からして、彼女はやはり黒尾さんの前では徹底して恋心を封印している。酔ったからといってそう簡単に好きだなんだと言う可能性は低いが、些細な言葉で黒尾さんの頭をぶん殴っていてもおかしくはない。その場合の黒尾さんの行動は…
【3-A】自分が未練タラタラであることを認め、ようやく向き合う覚悟を決める
…いや、ないな。この場合、鍵をどうするかの判断をこちらに委ねるのはあまりに情けない。黒尾さんだって覚悟さえ決まれば「本人に返しておく」くらい言える人だろ。他の男から合鍵なんか渡されたら、俺ならそうする。二度とソイツには渡さない。
【3-B】満身創痍で逃げ帰った
…これか。これだな。結局覚悟も何も決まらず、ダメージだけ受けて帰ったんだろう。それでこの連絡まで丸一日を要した。
なるほどなるほど。
思考を回しつつ、LINEの返信を打つ。返す言葉は最初から決まっている。
◯> どうしたいんですか?
察しのいいあの人は、俺の言葉の持つ意味をちゃんと汲み取るはずだ。そうですよ、俺は貴方の覚悟を問うている。ずっと。そしてそれがまだふにゃふにゃのペラッペラだということも分かっている。分かっていて、それが許せないから、こうして刺し続けてしまう。自分でも意地が悪いなと思うけど、これくらいは全然可愛いものだろう。俺はずっと久世さんのそばで幸せを噛み締めながら、正々堂々と傷付いてきた。何度も0%を確認して、いつまでも、いつまで経っても、黒尾さんの亡霊の足元にも及ばなかった。亡霊のくせにいつまで彼女を独占するつもりだ。こんなに想われていて、なんで手放した。消えるなら彼女の中から完全に消えろよ。そうでないなら責任を取りに来い。敗北者にすらさせてもらえないまま、恨みつらみを溜め続けてきた。ソイツがやっと実体を持ったんだ。そりゃあ滅多刺しにもしたくなるだろ。
◯< 泳がそうとすんな
◯< どうすんだよ?
弱いなぁ、この人は。
あんなに今も好きで仕方ないって顔をするくせに、なんでこんな弱腰なんだ?好きだから、弱いのか?俺にはよく分からない感覚だ。一体何に怯えているんだろう。もう10年も前からずっと、欲しいものを手にしているはずなのに。確かに久世さんの好意は本人には分かりづらいのかも知れない。でも、絶対に0.1%も無い、とは思っていないはずだ。俺ならその時点で動くのに。慎重で保守的な黒尾さんは、100%を確信するまで動けないとでもいうんだろうか。脆弱すぎて話にならない。戦いにならない。刺しても刺しても、なんの手応えもない。はぁ、と溜め息をついて、おにぎりを齧る。いい加減にしろよ。黒尾さんにもう何の未練もないようなら、俺だって覚悟を決めるつもりでいた。
──俺は、女神の幸せの所在を探している。
彼女はいつも俺の隣で自然体で笑い、そこで幸せで居てくれる。このまま一緒になるのも一つの答えなんじゃないかって思うし、俺も彼女と同じで、一番欲しいもの以外は手に入る。俺の一番欲しいものは、もう何をしたって手に入らないと分かった。でも彼女は違う。本人が望んでいなかったとしても、久世さんの想い人であるこの弱い男は、久世さんのことが好きなんだ。情けないなりに、10年前も、今も。一般的に考えれば、好きな人と一緒になることが一番の幸せなんじゃないだろうか。それなのにこの男はどうしようもなく不甲斐ないし、久世さんの心も黒尾さんの前では窮屈そうだ。俺の隣の方が安らげる?それともやっぱり、黒尾さんの隣にこそ、彼女の真の幸せがあるんだろうか。…もう、不確かなまま逃げるのは許さない。俺が彼女を失うとか、黒尾さんが傷付くとか、どうでもいい。久世さんにも無理を強いるかも知れないけど、確かめさせてくれ。貴女の幸せがどこにあるのか。
◯> 考えます
◯> 命より大事に持っていてください
おにぎりのゴミを小さくまとめ、すぐ横にあるゴミ袋の結び目を少しだけ開いて、そこに押し込む。原稿はまだだろうか。頑張っているはずだから、声を掛けて水を差すことはできない。長時間の坐骨への負担を避けるため、一度立ち上がって屈伸する。黒尾さんから「お前に返すよ」と返信が来たけど、わざとすぐに既読を付けて無視した。
───────────
その後原稿を受け取り、作家を労いつつさらっとページ数やノドの確認だけして自社ビルへ急行する。編集長や写植スタッフに連携を取っていると、死んだ顔した同僚達も同じようにバタバタと仕事していた。俺はどうにか終電前に作業を終わらせ、机や椅子や床で転がる同僚を尻目にふらりと職場を後にした。…これで一安心、とはならない。明日は明日で会議がある。土曜だというのに午前から出社だ。スマホを取り出して、久世さんにモーニングコールをお願いしておく。俺はどうにも朝は駄目だ。その点、彼女は強い。一緒に寝泊まりした時は必ず彼女の方が先に起きているし、寝起きの悪い俺を辛抱強く起こしてくれる。嫌な顔もせず、何なら楽しそうに。申し訳ないって気持ちも当然あるけど、久世さんには手放しで頼ってほしいから、こちらも手放しで頼る。迷惑そうだと思ったら、そこで初めて止めたらいいんだ。
「赤葦くーん」
「赤葦くーん、起きて、時間だよ〜」
「パン屋さん寄ってきたんだ〜」
「くるみパンとベーコンエピ、塩パン、クロックムッシュ、どれがいい?」
愛しい声が聞こえてきて、意識が徐々に浮上していく。なんだか眩しい…、カーテン開けてくれたんだな…。あ、パンの匂い…。まだ目は開かないし、ろくに何も考えてないけど、「くるみ…」って返事をする自分の声が耳から入ってくる。また久世さんの声がして、起きなきゃと思うのに、心地好すぎてこのまま寝ていたくなる。布団をかき集め、光を遮るように潜り込む。身体も意識も、深く、深く、落ちていく。その感覚が気持ち良くて、全てをベッドに委ねていると、突如、木兎さんの大きな声が響いた。心臓がばくんと跳ね、飛び起きる。目に映ったのは、スマホを持って笑う女神の姿。
「ヘイヘイヘーーイ!!!ボクトビーーーム!!!
ヘイヘイヘーーイ!!!ボク…」
「あはは!おはよう」
彼女がスマホの画面を触ると、木兎さんの声はぷつりと止まった。何かしらの音声を流していたのだと、寝起きの頭でも分かる。えーと、なんで女神がここに…?…そうか、モーニングコールを頼んで…、土曜日だから久世さんは休みで、直接来てくれたのか。まだ寝ている喉でどうにか「おはよう…」と返す。眉間を指で強く押し、少しでも思考をハッキリさせようとするが、本格的な覚醒にはまだまだ時間が掛かりそうだ。久世さんは「温かいコーヒー買ってきたから、冷めないうちに朝ごはん食べよ」と言って俺の腕を引く。寝起きでぬくぬくの俺には、彼女の掌は少し冷たい。ベッドから足を降ろし、引っ張られるがままに歩く。洗面台まで連れて行かれるとその手は離され、「私クロックムッシュ食べちゃうね〜」と言って部屋の中央へ戻っていく。ぼんやりと鏡の中の自分を見る。なんとも眠そうな顔だ。冷たい水で洗ってやると、幾分か目が開いたような気がする。
「やっぱりここのパンおいしい…!」
穏やかな朝の光。パンとコーヒーの香り。女神の笑顔。俺が画家なら、この光景を教会の壁に大きく描いて、“幸福”と名前を付けるのに。彼女の向かいに座ってコーヒーを啜ると、やっと少しずつ脳が覚めてくる。久世さんは休日の、出掛ける時の格好をしていて、今週もまたどこかへ試合を観に行くんだろうということがわかる。パンを貰いながら今日はどこに行くのかと聞くと、仙台だと言う。ということは、月島の試合か。あと牛タン、ずんだ餅…と、食べる予定のものも教えてくれる。シーズン中の久世さんは、試合を観に行って、各地で美味しいものを食べて帰る、というのが毎週のルーティンだ。俺も一緒に行きたいところだが、仕事柄なかなか予定が立てづらい。会場ではファン友達と会うことも多いようだし、大学時代の友人と行くこともあって、久世さん自身は特に寂しさは感じていないようだ。元々一人でどこへでも行ける人だし、ついて行きたいと思うのはただの俺の願いだ。
幸せな朝食を終えて、出社のために最低限の身嗜みを整える。久世さんと一緒に家を出ようとすると、昨夜の内に一袋にまとめておいたゴミ袋が無くなっていることに気付く。俺が起きる時間には大抵収集は終わってしまっているし、管理人から夜のゴミ出しはしないように言われているから、タイミングが合わずについ溜まってしまうことも多い。それをこうして、朝型の久世さんがたまに出してくれる。彼女にはこの部屋の鍵を渡してある。万が一何かあった時はここに逃げ込んでくれたらいいし、何もなくてもいつだって来てくれていい。しかし今日に至るまで、彼女がここを逃げ場として使ったことはない。逃げ込む必要がないのはいいことだ。彼女の身に危険が迫っていないなら、それに越した事はない。それに、俺にとっては完全なる癒しとして、こうして訪れてくれる。今日みたいに起こしに来てくれたり、夜ご飯を買ってきてくれたり、お土産を買ってきてくれたり、美味しそうなものを見つけたからと俺の分まで買ってきてくれたり……。考えてみたら、何かを一緒に食べてばかりだな。まぁ社会人同士で会うとなれば、そんなもんか。
「ゴミ出してくれた?ありがとう」
「いいえ〜。お世話になってるからね」
あ。
そういえば。
玄関を出て外の空気を吸うと、やっと思考が完全にクリアになる。そして、一昨日の夜について話さなくてはならなかったことを思い出す。自分が全て責任を取るといった態度でお酒を勧め、結局、他の男に任せた。それは不測の事態でもなんでもなく、始めからそのつもりで。つまり騙したようなものだ。あの時黒尾さんに言われたように、久世さんからの信用はガクッと落ちるだろう。でも俺はもうとうの昔に決めている。黒尾さんが現れたら、答えが出るまで暴く。久世さんが大切に大切にしまっている恋心には触れない。俺が触れていいものではないし、決して誰にも踏み躙らせない。だけど黒尾さんにだけは、それに触れる権利があると思う。全てお膳立てした上で彼女が拒絶するなら、それでもいい。でももし、彼女の恋心に絡みつく鎖が解けることがあるのなら、俺はそれを見届けたい。
朝は美味しいパンを食べて、これからバレーを観に行く久世さんの足取りは軽い。ごめんね、多分少し、いやかなり、その足を重くさせてしまう。
「そういえば、一昨日のことなんだけど」
「うん?」
「俺あの後結局呼び出しくらって。久世さんのことは黒尾さんに任せたんだけど…大丈夫だった?」
じくりと胸が痛む。
11月の朝は元々肌寒いのに、更に何度か気温が下がったような感覚がする。彼女が「…あ…、そうなの…?」と言うまでの数秒で、俺が築いてきた信頼は何年分巻き戻ってしまったのだろう。言葉にしなくても、顔を見なくても、彼女の心の揺らぎや温度が手に取るように分かる。まずは俺が呼び出されたということが本当か嘘か。嘘なんだとしたら何故そんな嘘を吐くのか。やはり昔から自分の恋心は知られていて、良かれと思って二人にしたのではないか。──それなら、余計なことはしないでほしい。触るな、と拒絶されているのを肌で感じる。ごめん。でももう止まるつもりはないんだ。
「鍵も渡しちゃったから、その内受け取っておいてもらえるかな。俺よりは予定合わせやすいだろうし」
「……そっ…か、分かった」
嗚呼、クソ。その沈んだ声を聞くと、やっぱり黒尾さんなんて現れない方が良かったんじゃないかと思ってしまう。この10年、トラブル以外で彼女の表情が曇ることなんてほとんどなかった。俺の隣で幸せで居てくれたんだ。やっぱりあんなヘタレに情けをかけてやるべきじゃなかったか?いや違う、あんな人はどうでもいい。俺はいつだってこの人のために動いている。分かってたはずだろ。信用を失うことも、彼女に無理をさせることも。それなのにどうしようもなく、どうしようもなく、恨めしい。なんの覚悟もなくふらっと現れただけで、こんなにも彼女の心を揺らすなんて。
「ね、ねぇ、待って、酔ってる時の私って、具体的にどういう感じ?だ、大丈夫なのかな」
久世さんは感情の整理が早い。今優先すべきことを取捨選択し、すぐに片付かないものは一時保管フォルダにでも入れておくんだろう。俺への疑念も一旦保留になったようだ。そりゃそうか、彼女が一番気になるのは、黒尾さんのことだもんな。…懐かしいな、この感覚。高校生の頃は、俺が黒尾さんに勝てることなんて久世さんへの理解度くらいなものだった。でも今は、俺は誰よりも彼女のそばに居る。黒尾さんに負けているところなんて、たった一つしかない。一つしかないからこそ、それがあまりにも鋭く痛む。…分かっていたのにな。本当に、羨ましくて仕方がない。
「たまに本格的に寝ちゃう時もあるけど…、大体はただの眠い人だよ。寝起きの俺と同じようなものじゃないかな」
「寝起きの赤葦くんと同じ…」
彼女の不安を拭うべく、努めて穏やかに話す。こうしてまた、保留にしてくれた信頼値を維持していくしかない。久世さんは俺の寝起きの悪さを大したことないと思ってくれているようで、「それなら大丈夫かな…?」なんて言っている。不安にさせるから言わないけど、俺の寝起きと同じってことは、結構アレってことだ。合宿の時なんかはよく木葉さんに蹴飛ばされたりもしていた。酔ってる時の彼女も、まぁまぁ手がかかる。記憶は5分おきくらいにリセットされるし、寝てしまうと本当に動かない。でもそれを伝えたら真っ青になってしまうだろうから、良いふうに受け取ってくれたならそれでいい。貴女が黒尾さんに遠慮する必要なんてないんだ。いくらでも迷惑をかければいい。そもそも、そんなのは迷惑とは言わない。俺達にとっては、甘くて苦いご褒美でしかない。
駅までの道のり、久世さんはずっと難しい顔をしていた。定食屋の会計も恐らく黒尾さんが支払ったと伝えると、食事代、交通費、迷惑料…と黒尾さんへの返済額を真剣に見積もっていた。俺とはもうどのくらい貸し借りがあるかなんてお互い気にしないのに、相手が黒尾さんだと一生懸命に精算しようとする。その差に、優越と痛みを両方感じる。懐かしの、苦渋と辛酸の海。俺はもうここで息ができるようになってしまった。あの夜に何があったかは分からないけど、ダメージを受けて帰ったであろう黒尾さんは、何も覚えていない久世さんから迷惑料なんて提示されて耐えられるかな。「返さなくていいから次奢ってくれ」くらい言えるんだろうか。…あんまり期待しない方がいいな。この二人は、こと恋愛においては相性が悪い。最悪と言ってもいい。強く深い愛を持ちながら一切を望まない彼女と、求めてるくせに、自分が傷付く覚悟も、相手を暴く覚悟もない男。もし俺がこんな風に想われていたなら、彼女の恋心に絡む鎖を大型ニッパーで切断して、多少怖がらせて泣かせてしまっても最短距離で抱きしめに行くのに。彼女が好きになったのが、俺だったなら良かったんだ。俺のためにも、彼女のためにも。…なんていうのは流石に烏滸がましいか。久世さんの黒尾さんを想う心は美しい。彼女がその想いを大切にする限り、俺も大切にする。だからさっさと鎖を解きに来い。鍵を開けに来い。アンタの役目だろ、最弱の恋敵。
「じゃあ、気を付けて」
「うん、赤葦くんも仕事、ほどほどに頑張って」
ターミナル駅へ向かう久世さんより数駅前で電車を降りる。ピークは超えているものの、まだ多くの人で混雑するホームで、何の気なしに発車直前の電車を振り返る。ぱちっと久世さんと目が合うと、彼女は何かを思い出したような顔をした。しかしすぐに電車のドアは閉まり、発車してしまう。…何を伝えようとしたのだろう。信頼関係が揺れている今、彼女の些細な言動も見逃すことはできない。あの夜のことで、まだ何か聞きたいことがあった?黒尾さんに返す金額の相談?精算と鍵の受け渡しのためにどこに誘えばいいのか、とか?それとも黒尾さんの…何か、何だろう。何かあるのであれば、LINEが来るか。改札を出た所でスマホを確認してみると、既に久世さんからメッセージが入っていた。
◯< 牛タン買えたら買ってくる?
あまりにも想定していなかった呑気さに、数秒思考が止まる。
……そうか、彼女が伝えたかったのは、いつも通りの、いつも通りすぎる、こんなことだったのか。
喉の奥がぎゅっと締まる。これは安堵か、幸福か、痛みか、その全てか。スマホの画面を開いたまま、自社ビルを目指して歩き出す。久世さんのおかげで時間はちょうどいい。秋の風はサラリと乾いていて心地良く、同時に侘しさもある。
俺はいずれ彼女を失うだろう。
そうなったら世界の色は、匂いは、どう変わるんだろう。朝はどんな風にやってきて、日々はどんな風に流れて、俺はどうやって呼吸をするのか。両想いになれないことは始めから分かっていた。恋は成就させてナンボだと考える人には、俺の11年は理解できないかも知れない。それでも長年の恋を、愛を、誰にも無駄だなんて言わせない。彼女の笑顔ならいくらでも思い浮かぶし、俺もその隣で笑っていた。大切にし合うのが当たり前で、彼女との思い出は全てが輝いている。痛ましい失恋をするくらいなら出会わなければ良かった、なんて到底思えない。俺はもう、彼女からたくさんのものを貰っている。それを糧に、きっと生きていけるはずだ。俺の隣には居なくても、久世さんが笑って過ごせる世界ならば。
◯> 久世さんが買うならついでに買ってきて
LINEを返して、いつも通り社員証を取り出しながら自社ビルへ入る。すぐに了解の意のスタンプが返ってきて、それを確認したらスマホをしまう。さぁ、今日も仕事をしよう。恋敵が不甲斐ないおかげで、こんな当たり前の日々はまだもう少しだけ続くだろう。俺の大切な人、それまではどうか俺に微笑んでくれ。貴女が真の幸せを見つける、その日まで。