赤い糸40,075km
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「ご覧いただきましたように、セットカウント3-1で、我らがブラックジャッカルが勝利しました!!皆様、今一度大きな拍手を選手達に送りましょう!!」
2022年10月22日、大阪。
V.LEAGUE Division1 MEN MSBYブラックジャッカルのホーム開幕戦が行われた。さすがは実力も人気も高いチーム。まだシーズンは始まったばかりだと言うのに、会場は満員だ。ホーム初戦を勝利で飾り、選手達はコートの周りをぐるっと歩きファンに手を振っている。会場の隅に佇む俺に気付いた木兎がドヤ顔を向けてくるが、俺じゃなくてお客さんを見ろバカ、と片手であしらっておく。試合は楽しく観させてもらったが、俺は観客として来てる訳じゃない。開幕して以来、東奔西走各会場を巡り、今季から加わった選手、スタッフとお近付きになるべく名刺を配っていた。人脈ってほーんと大事。つい先週も、バレー教室の講師が体調不良で来られなくなった際、知り合いの元Vリーガーが急遽駆け付けてくれて、おかげで子供達には予定通り楽しんでもらうことができた。今日はまだ挨拶できてないターゲットが数人居るから、この後それだけ済ませれば一応仕事は終わりだ。Vの会場運営についてはうちの管轄じゃないけど、どうせ暇だし何か手伝えることあったら手伝うか。
「♪──ご来場いただき、ありがとうございました。お忘れ物・落とし物なさいませんようお気をつけてお帰りください。」
会場アナウンスが鳴り、観客達がぞろぞろと出口へ向かっていく。「ありがとうございました〜」と会場スタッフに紛れ、帰る観客に挨拶する。コートでは出場機会のなかった選手達が練習を始めていて、熱心なファンはそれも全て観たいと席に残っていた。試合後の会場内は、「あの神ディグやばくなかった?」とか、「やっぱりコートでよく声出す選手が好き」とか、「初めて観たけど迫力すごかった!」とか、たくさんの人の感想がさわさわと聞こえてくる。
うん。
今日もバレーボールは面白いです。
「んおああ〜〜?!?」
木兎の間抜けな声が響く。クールダウンを済ませ、客席に残るファンに手を振りながら控え室に向かう途中のようだ。アリーナのほぼ対角に居るのに、そのよく通る声はハッキリと聞こえてくる。大方知り合いでも見つけたんだろ。俺は軽く向けた視線をすぐに戻し、また「ありがとうございました〜」と通路を歩いていく観客に笑顔を向ける。その時、
「お前、久世だろー?!そうだよな?!」
──────・・・
「見てたかー?!今日の俺の活躍!!」
──・・・・・
ゆるりと身体の向きを変え、反対側のアリーナエンド席、木兎が話し掛けている客席へ視線を向ける。
そこに居るのは、全く見覚えのない女性。
いや、
知ってる。
知ってる人だ。
足が勝手に歩き出す。
もっと早く、とも思うし、行くな、とも思う。
行ってどうするんだ、とも。
出口に向かう人々の波に逆走する。
俺は今どうやって歩いてる?どんな顔してる?
分からない。何も分からない。
耳が遠くなったかのように、場内の喧騒が聞こえなくなる。視界が狭くなり、段々と近付く“その人”しか見えない。
「おー黒尾!!お前もう会った?!」
会ってねぇよ。
会ってない。
もう10年近く、会ってない。
木兎に声を掛けられ、その女性もこちらに気付く。随分雰囲気が変わった。高校生の頃はどこか中性的な雰囲気もあったのに、これじゃただの美人なお姉さんだ。少し見開かれた瞳はやたらと綺麗で、あの頃と何も変わってない。その真っ直ぐな瞳に見詰められると、まるで心の深淵まで見透かされているような感覚に陥る。その目に俺はどう映ってる?木兎の呼び掛けに応じないまま、2人のすぐそばまで辿り着き、足を止める。
「……よォ、」
どっから声出してんだってくらいカッスカスで弱々しい音を漏らすと、彼女は瞳を柔らかく細め、「久しぶり」と微笑む。それだけで心臓がぐらぐらと揺れ、身体中に血液が巡る。
……居る。…ここに。……本当に?
ぼけっとしている俺をよそに、二人は試合のことなどを話している。「最後に会ったのいつだっけ」「Vリーグデビューの時だったか?」って、じゃあ俺より会ってんじゃねぇか。なんでだよ。俺の口からはなんの言葉も出てこない。込み上げてくる何かがあまりに大きく、喉につっかえる。
「♪──当会場は17時を以て完全閉館となります。ご来場いただきました皆様、どうか余裕を持った撤収作業にご協力をお願いいたします。」
「あ、もう出なきゃ」
「じゃあ木兎、今後も応援してるからね」
「おう!今後も応援されてる!」
「黒尾も、またどこかで」
えっ、
え?
えっ、待って、全然追い付けてない。
彼女は蕩けるほど優しい笑みを残し、一抹の未練もなく背を向けて歩き出してしまう。会場にはまだまだ居座ろうとする客も居るのに、アナウンスに従うクソ真面目なところは変わっていないようだ。一歩、二歩、スタスタ歩くその姿が、何故かスローモーションに見える。待って、待ってくれよ。嘘だろ、俺まだ何も、
いや、いい。これでいい。
この動揺は、俺が17、18だった頃のものだ。
10年経ってんだぞ。
今追って、何になるんだよ。
10年前の話だ。もう終わってる話だ。
だから、さっきから勝手に動くなよ、俺の身体。
「ッ久世!」
呼び止め、追い付く。
どうしたいのかなんて分かってない。思考と行動がまるで一致しないし、どっちが本音なのかも分からない。久世は振り返り、どうしたのと首を傾げて俺の言葉を待っている。
目の前に居る。
久世が。
「この後、時間ある?」
「……あるけど…」
「じゃあ、ちょっと待っててくんない?仕事マッハで片付けるから」
「いいよゆっくりで。どこで待ってればいい?」「んえっと、あー、じゃあ、物販やってるとこらへん居てくれると助かる」
「分かった」
「マジですぐ、すぐ行くから」
「ゆっくりでいいって。じゃあまた後でね」
今度こそスタスタと会場を後にするその背を、ぼけっと眺める。口は勝手に回ったが、頭は全然回ってない。「また後でね」って、言ったよな。後で、また、
放心する俺の肩に、ドシンと重たい腕が置かれる。一部始終を見ていた木兎に「おほほぉ?なんだぁ?青春か?」と煽られるが、ろくに構っていられず、否定もできず、小さく「うるせぇ」と言うことしかできなかった。
その後、結局なんだかんだと人に捕まり、それが絶対いい顔しておきたい相手だったから無碍にはできず、数十分が経ってしまった。内心冷や汗ダラダラだし、実際シャカシャカ早歩きしてて軽く汗が滲んでいる。客の退場時間は過ぎているから、正面の出入口は閉鎖されている。関係者用の出入口に回り、外に出るとまた回って物販ブースを目指す。こんなに待たせるつもりはなかった。10分、15分で全部片付く想定だったんだ。久世はまだ待ってくれているだろうか。帰ってしまっていても仕方がない。どれくらい時間があるかは聞いていないし、今日東京に帰るなら電車の都合だってあるだろう。期待しない方がいい。でももし待ってくれているなら、一刻も早く行くべきだ。気付いたら走っていて、物販のテントが見えた頃には息が上がっていた。10月の空気を吸い込むと、ほんのりと血の匂いがする。物販ブースは撤収作業の大詰めといったところで、クリアケースに詰められたグッズを車へ積み込んでいる。息を整えながら周囲を見渡すが、あの人の姿はない。やっぱり、もう遅かったんだろうか。胃の辺りがずしりと重たくなるのを押さえながら、車で死角になっている方にも視線を巡らせる。少し離れた先、端っこの柵の辺りに、あの人は居た。スマホを覗き込む瞳はどこか楽しそうで、そんな彼女を“今”見ている事実、彼女が俺を何十分も待っていてくれたという事実に、その場でしばらく立ち止まってしまう。いやいや、これ以上待たせるなよ、と自分でツッコミを入れ、久世の元へと駆け寄る。
「悪い!待たせた。時間、大丈夫か?」
「お疲れ〜、大丈夫だよ」
声を掛けると、顔を上げた久世はふにゃりと笑い、少し間延びした声で返事をくれる。多分、意図的だろ、それ。待たせたことを俺が気にしなくて済むように、あえて呑気そうに振舞ってくれる。…変わらないな、そういうとこ。とはいえ甘えるわけにもいかない。今日の帰りの予定を聞いてみると、このまま大阪で一泊し、明日はまた府内の別の会場の試合を観に行くらしい。つまり焦って帰る必要はない。「黒尾は?」と聞かれて、ちょっと返答を考える。俺も明日は別の会場に行く予定があるが、それは静岡だ。宿も静岡で取ってあるから今日中に移動しなきゃならない。新幹線は既に予約済みで、こだまでのんびり行く予定だった。でもそれを言ったら、多分すぐ解散になる。別にこの後何かを期待している訳ではないけど、俺は名古屋に移動する予定だ、と軽い嘘をついた。
そして、その場で少し会話をする。今日の試合のこととか木兎のこととか、お互いに今も都内に住んでることとか、あまりにも当たり障りのない内容だ。本当は聞きたいこととか言いたいことがたくさんある気がするのに、何も出てこないし、踏み込んでいいのかも分からない。こんなとこでずっと喋ってていいはずがないのに、どこかに移動しようとも言い出せない。どうしよう、どうしようと冷や汗をかきながら口先だけで喋っていると、久世の腹がきゅるるると鳴る。
「…おなかすいた……」
久世はしゅん…と眉を下げ、腹を抑える。これはどう考えてもチャンスだ。今なら自然な流れで飯に誘える。言え!普通に「飯行くか」って言え!それなのに、俺の中の一番臆病な俺が、断られたらどう責任取ってくれんだ!って騒いで、踏み出せない。
「私ご飯食べに行くけど、黒尾どうする?」
神ィ!!
向こうから誘ってくれたんなら臆病な俺も文句ないだろ。相手のおかげで自然に「飯行くか〜、何食いたい?」って言えるけど、カッコつけの俺がそのダサさに頭を抱えてる。10年経っているとはいえ、人はそんなに変わらない。この人の前では、俺はいつもダサかったはずだ。
─────────
電車に揺られ、新大阪へ向かう。スマホで飲食店を探すフリをして、新幹線の予約内容を変更した。名古屋まではのぞみにして、そこからこだまに乗り換える。そのルートでの終電を取った。別に時間が余ったらそれはそれでいい。ターミナル駅の中のカフェや土産屋は遅くまで営業してるし、時間は潰せるだろう。隣で吊革を掴む久世に「おなかすいたね…」と同意を求められ、適当に「だな〜」と返す。でもごめん、それどころじゃなくてよく分かんないわ。脳内の俺Aが「何がそれどころじゃないんだ?」って問うと、俺Bは沈黙する。あんま18歳の俺を虐めてやるなよ、アイツ繊細なんだから。新大阪駅に着き、はぐれないように気を遣いながらホームから上がる。お互いこの駅は利用し慣れているようで、自然と飲食店が集まるエリアに足を向けた。
「大阪よく来んの?」
「うん、試合多いしね」
「そんなV観に来てんの?」
「そりゃあもう、シーズン中は毎週末のように」
マジか。
だったら今までも同じ会場に居たことあったんじゃねぇか?なんで一度も気付かなかったんだろう。「見つけようとしてなかっただろ」と、俺Cが言う。そうか、そうだったのか。そうかも知れない。さっきからやたら脳内の俺がうるさい。隅に追いやられていたり、忘れられていたり、どこかに置いて行かれたりしていた俺達が、急に再集結しているようだ。その要因はやっぱり、「パスタ…オムライス…中華…」と飲食店を吟味しているこの人、久世透香だろう。この人と一緒に、俺の一部はどこかに消えていた。そして今日、帰ってきた。少しだけ先を歩く彼女は、「何食べたい?」ってちょくちょく振り向く。俺はなんでもいいとしか言えない。そう言われるのが一番困るだろうということは分かるけど、本当になんでもいいんだ。久世が食いたいもんを選んでほしい。困らせてしまったかと心配する暇もなく、彼女は「ほんと?天丼…、さっき天丼見かけて…」と瞳を輝かせ、先を歩いていく。連れて行かれた和定食屋はちょうどすぐ入れそうだし、店員に二人だと伝えて入店した。
「お、焼き魚御膳あんじゃん。これにしよ」
「天丼と〜…、わ、あら汁ある!単品で両方頼んじゃおっかな〜」
「いんでない?…お前、飲む?」
「ううん、好きだけど弱いから飲まない」
「ああそう?んー…」
「気にせずどうぞー」
別に飲む必要もないんだけど、なんとなく完全な素面でいるのも耐えられない気がして、とりあえず生を注文した。注文が完了した後も久世はタブレットのメニューを見てあれもこれも美味しそうだと呟いている。会場で話していた時は彼女の方も距離感を計りかねている様子があったが、食い物のことになるとちょっとIQ下がっちゃうの、変わってないんだな。
一つずつ、思い出す。蘇る。
料理が届くと、目をキラッキラに輝かせ、手を合わせて真剣に感謝している。なんというか、昔より素直になった気がする。高校生の頃は無意識に溢れちゃうって感じだったけど、今はむしろ意識的にご飯への愛を表現しているように見える。これまで彼女が誰とどう食事をしてきたのかは知る由もないが、変わっていないところもあれば、こうして成長を感じる部分もある。さて、俺は今どんな気持ちだ?ビールを呷りながら脳内へ問いかけると、「寂しい」「嬉しい」「悲しい」と声が重なって、よく分からなかった。
「っはぁ〜〜…、五臓六腑に染み渡るぅ〜…♡」
「大袈裟だな。でもまぁ確かに」
久世はちょっとデカいあら汁の器を両手で包み、一口飲んで心底幸せそうに感嘆を吐く。俺も御膳の小さめな味噌汁を飲んで、それが喉から胸へ、胸から腹へと温かく染み渡るのを確かに感じた。
飯を食ってる時というのは、人間は自然と気分よく話せるものだ。仕事の話、旧友の話、最近のバレー界の話・・・。ゆっくり話して、ゆっくり食う。新幹線、変えて良かった。久世と話すことに慣れてきて、彼女の今の姿を少し観察させてもらう。ロングではないが、昔と比べたら伸びた髪。眼を伏せる度に微かに煌めく瞼、柔らかな質感のセーター、つるりと整った指先…。俺はこの人の私服とかまともに見たことは無かったはずだから比較はできないけど、今の彼女は完全に想定外だ。なんて言ったらいいんだろう、なんというか、完成度が高い。メイクとか、ネイルとか、そういうのはあんまり興味がないままの方が久世らしいような気もするけど、10年も経っているし、俺の知らないところで色々あったんだろう。見ていることがバレて、彼女は「ん?」と首を傾げる。絶妙にセクハラにもなりそうな話題だけど、「なんかお洒落になったなと思って」と軽めのテンションで言ってみる。すると久世は意外にも「よくぞ気付いてくれました!」と、意気揚々と話し始める。
「大学の友達にお洒落な子が居てね、前に一緒にパーソナルカラー診断とか、そういうの一式受けたらそれがすっごく奥深くて!面白くなって、講座受けて、自分でも資格取ったんだ。元々好きな服とかも無かったし、”似合うもの”っていう判断基準とその知識があるとすっごい楽なの!お勧めだよ」
「おう、おう……おん?」
ぱーそなる……?なんだっけそれ、なんとかベ〜ってやつ?俺はそういうのあんま詳しくないけど、なんか役に立つものなんだなってことは分かった。というか、容姿を話題に出すことにビビっていたのに思いの外強めの熱量が返ってきて、更にビビってしまった。久世は引き気味の俺に気付き、「語りすぎ失礼…」と己を律している。「ファッションも理論で解決できると知り、非常に感銘を受けたという話でした…」と簡潔にまとめ、話題を畳む。なるほど。そういうことならこの人らしいなと思う。つまりは勉強だ。高校生の時も知識、スキルを習得することに積極的な人だったし、今のファッションも勉強の賜物だと伝えたかったんだろう。それでこの完成度って訳か。納得納得。
そうして少しずつ、踏み込んだ話題も出せそうな雰囲気になる。脳内の俺達があーだこーだ言うので、一列に並ぶように指示を出していると、久世の方が先にぶっ込んでくる。
「まだ、結婚してないの?」
「…まだ、って何?してないけど」
「そうなんだ…。黒尾のことだから、もう結婚してるかと思ってた。すごくお似合いだったし」
「ん、ん?ん?何の話してんの」
脳内の俺達がぐちゃぐちゃになる。せっかく整理し始めてたのに。
聞いてみると、久世はこの10年間で何度か俺のことを見掛けたことがあるらしい。まずこの事実でパニックな訳だが、「素敵な女性と歩いてたから、てっきり…。まだ続いてはいる…よね?」と更に頓珍漢なことを言われる。しかもそれは大学生の時だと言う。何年前の話だよ。続いてる方が奇跡だろ、多分。大学生なんてそんなもんだろ…多分。「続いてねぇよ、フツーに。」と返すと、彼女は驚いた顔をして、その瞳が少し光を失う。そっか、と小さく溢すその様子は、どう見ても納得がいっていないようで、妙に引っかかる。どういう感情?それ。それを見てる俺は、どういう感情?どっちも分からん。口は勝手に動いて、「言いたいことがあるなら言ってごらんなさいよ」と茶化す。茶化したところで、この人からはマジレスが返って来てしまうことを、10年で忘れてしまった。
「うーん…なんだか、らしくないな、って。黒尾は”好きなものはずっと好き!”ってタイプだと思ってたから……」
「…もしかして、忘れられない人が居る…?」
まるで独り言のように溢された言葉に、一瞬呼吸が止まる。
そしてまた一つ、思い出す。
この人はこうして、当たり前みたいに俺の本質を突いてくる人だった。高校生の俺はそれが嬉しくて、痛かったんだった。久世は返事をしない俺に踏み込みすぎたと謝り、丼に残っている米を口に運んだ。ただの旧友としての会話なら、そんなにおかしくはないはずだ。俺が軽く返事をできなかったのは、18歳の俺が、当時のこの人のことを好きだったからだ。本気で好きだった、と、思い出してしまう。でもこりゃ本当に1ミリも伝わってなかったっぽいぞ。俺に”忘れられない人”が居るとして、仮に、居るとして、それはきっとこの人だと思う。でもそんな可能性は微塵も感じてくれてない。マジでドンマイ、18の俺。やっと俺も口を開き、彼女が「私が黒尾の何を知ってんだって感じだね…」と再び謝罪をしてくるのを遮る。
「いや、合ってるよ。合っ…てるから、俺の話はストップ。お前はどうなんだよ?」
「なにが?」
「だから、結婚とか、恋人とか」
少し重たくなってしまった空気を変えるべく、声色を軽めにして久世に話題を振る。すると何故か彼女は笑い、「私は全然だよ」なんて言う。その薬指に何も付けていないことは確認済みだったが、全然ってどういう意味?なんで笑ってんの?確か高校生の時は、恋愛感情とか無いって言ってたんだっけ?それが今も変わらず、ってことか?本人がそうだったとしても、こんだけいい女になっちまってんだから、周りはほっとかねぇだろ。そこまで考えて、脳内の俺たちは全員沈黙する。…はいはい、話題変えますよ〜。不自然にならないように、海の結婚式の時の話とかで場を繋ぐ。
食事を終えた久世は再びメニューを熱心に見て、「わらび餅…白玉…」と呟いているので、注文するように勧める。なんだかんだ長居してしまったし、店に対してもその方がいいだろう。デザートも食い終わると、彼女は「そろそろ行こうか」と言う。新幹線のおおよその時間は伝えてあったから、それに少し余裕を持たせた、完璧な時間だ。パパッと会計を済ませ、食事に満足したことを話しながら店を出る。土産屋がまだ営業しているのを見た久世が、真っ直ぐ改札に向かうのかと聞いてきて、それに頷く。今日土産を買っても荷物になるし、せいぜい改札内でコーヒーでも買うくらいだ。当たり前のように一緒に新幹線の改札へ足を向けてくれるから、そっちの時間は大丈夫かと聞くと、「全然大丈夫。せっかくだしお見送りするよ」と微笑まれる。彼女の優しさには混じり気がない。純粋に、旧友として、楽しく過ごしてくれた。そして笑顔で終わりに導く。それを痛いと感じてしまうのは、18の俺の名残だろう。改札に着き、電子掲示板を見上げてホームの番号を確認する。久世も俺の隣で一緒に発車時間を確認し、そして一歩、離れる。
「じゃあ、元気でね」
「…………うん、久世もな」
彼女の綺麗な瞳が柔らかく細められ、その優しい微笑みに終わりを告げられる。俺も可能な限り、慈しみを込めて微笑み返す。10年前、本気で好きだった人。また会えて嬉しかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、まるで整理できていないけど、それだけは確かだ。「じゃあ気をつけて帰れよ」と言うと、「黒尾も」と返ってくる。スマホを右手に握り、改札に向かう。
スマホをかざすそのギリギリのところで、振り返る。
久世はまだこちらを見ていて、俺が振り返ったことに驚いている。なんだか喉の上の辺り、目や鼻と繋がっているところが痛い。胃もキリキリと痛んで、痛いのは嫌なのに、痛くなくする方法が分からない。
俺はもう痛いのは嫌なんだよ。
改札を通ってしまえば、楽になれるだろうか。
18の俺は顔を覆い、首を横に振る。泣いているようだ。……そうか、悲しかったんだな、俺は。傷付いていたんだな、あの時。10年かけて、やっと自分の痛みに寄り添ってやれる。
ここで引き返すのは、27の俺にとって怖いことだけど、でも、あの時ほどじゃない。
だったらここは、18の俺のために動いてやろう。
大丈夫。俺はもう大人だ。
「……連絡先、教えてくんない、」
久世の元に戻り、右手に持つスマホを差し出す。
彼女は俺の顔を数秒見上げて、ふわっと笑った。
「なんでそんな緊張してるの。教えるよ、普通に」
久世のLINEのアイコンは、めちゃくちゃ美味そうな豚カツの写真だった。
結局コーヒーを買うのも忘れ、新幹線の中、静岡までずっとその豚カツを眺めた。