赤い糸40,075km
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「赤葦くん!こっちー!」
────・・・天使・・・?
入学式や学部別のガイダンスなども終わり、棟の正面入口で久世さんと合流する。この後、キャンパス内を一通り案内してもらう約束だ。しかしその久世さんが、これまで以上に強く光り輝いている。
白のワンピースだと……?!
一体なぜそんなものを着ているんだ……?!
彼女の私服はもう何度も見てきた。ファミレスやカフェ、果てには俺の部屋にまで来て受験勉強をサポートしてくれた時、彼女は大抵スポーツブランドの服を着ていた。ファッションにはあまり頓着が無く、機能性に全振り。俺は彼女のそういうところも素敵だと思っていた……のに。今日の久世さんは真っ白なワンピースに爽やかなデニムジャケットを身に纏っている。髪にも何かキラキラした装飾を付けていて、まるでお洒落な大学生だ。
はて。
一体全体何が起こっているんだ。
いや勿論似合っている。
似合っているし、この世のものとは思えないほど美しいけど。
俺の中の勝手な“久世透香像”からは逸脱している。
これは本当に彼女か……?
「……」
「……?」
「………」
「……!あ、服?これアキちゃんの!私のじゃないよ」
アキちゃんさん。よく久世さんの話に出てくるちょっとミーハーなご友人だ。俺も大会の時に彼女の隣に居るのを見たことがある。話を聞いてみると、久世さんは最近ご友人達の着せ替え人形にされているらしい。なるほど納得だ。確かに彼女はスタイルが良いし、マネキンにするにはもってこいの素材だ。良かった、俺の解釈が間違っていなくて。
「赤葦くんはスーツかっこいいね」
「ありがとうございます」
今日から彼女と同じ大学に通う。
キャンパスは広いけど、他の学部と比べたらこじんまりとまとまっている方だ。学食や図書館も一つしかないし、1、2年は共通科目で同じ授業を受けることもあるようだから、それなりに顔を合わせる機会も多そうだ。
久世さんと、同じ学校。
夢みたいだな。
別にそのためだけにここに来た訳ではないけど、大きな志望動機になったのは言うまでもない。端から端まで案内してもらい、例のアキちゃんさん(秋山さん)、よっちゃんさん(三好さん)とも挨拶をして、初日はふわふわした気分で帰った。
大学は実家からも通える距離だったけど、朝はできるだけ寝ていたいから近くに部屋を借りた。生活力にはそんなに自信がないが…まぁ、米さえ炊いておけばどうにかなる。洗濯や掃除も最低限やれてればそれでいいだろ。別に誰が見るわけでもなし。そんな生活に少し慣れてきた頃、近くの本屋でバイトを始めた。これまで、久世さんと2人で食事なんかをした時は、大体彼女に払わせてしまっていた。当然断ってはいたが、バイトしてるからと押し切られていた。それを取り戻すべく、今後は暫く俺が奢りたい。もう勉強を見てもらうという口実はないが、キャンパスでは思っていた以上に顔を合わせる機会が多いし、自然な流れで誘うことも難しくなさそうだ。
真柴という友人もできて、そいつと一緒にサークルに入った。久世さんも所属する、ゆるゆるのバレーサークルだ。たまたま同じ日にセッター犬Tシャツを着てきてしまい、ペアルックだなんだと周囲に言われるのも、相手が久世さんなら悪くない。真柴と秋山さんがハマっているゲームが同じだとかでグループとして親しくなり、タイミングが会う日は一緒に昼食を摂るのが当たり前になった。
そんな、ある日のこと。
「赤葦くんさ、透香の彼氏のフリしてくれない?」
「っちょっ…と、よっちゃん、」
俺と真柴が先に席に着いていると、それぞれ料理の乗ったお盆を持った久世さん達がやってくる。そして、にわかに理解し難いセリフを言われる。…彼氏?のフリ?三好さん、そして秋山さんはどこか険しい表情をしていて、久世さんは眉を下げている。全く状況が理解できない。
「この子、ストーカーされてるんだって」
「は?」
ストーカー?
久世さんは、怒られた子供のように小さくなっている。
クソ。
俺がそばに居ながら、なんでそんなことに。
彼女が何か思い悩んでいることには気付いていた。
ご飯を食べてもいつもより喜ばないし、物憂げな表情をすることも多かった。でも、話してくれると思っていた。彼女の中で言葉を整理できたら、必ず俺に話してくれると、思っていた。それなのに、ストーカー被害…?
「実家の近くにまで来られたみたいで、私らの家来なよって言っても聞かないから…」
「だってそれで二人にまで怖い思いさせるの嫌だし…」
「なんで俺に言ってくれなかったんですか」
正面に座る彼女は、また一層小さくなる。真っ直ぐ視線を突き刺して待つと、重たい口が開かれる。返事は分かっている。巻き込みたくなかったから。予想通りの言葉と、予想通りの弱々しい声。隠されることで俺が怒るということは、彼女も重々分かっていたんだろう。それでも言わなかった。言ってくれなかった。それじゃ、なんのためにそばに居るのか分からない。
「巻き込まれない方が迷惑です。あなたの身に何か起きているなら、必ず俺を巻き込んでください。」
「……」
久世さんは口をつぐみ、俯いてしまう。簡単に頷けないほどに、憔悴しているということだ。こんなことなら、待つんじゃなかった。元気がないと気付いた時に、すぐに踏み込むべきだった。
「で、彼氏のフリというと?」
「…うん、やっぱり私達女が一緒に居たところで大して効かなそうだし…できることも限界があるから…」
お二人から、久世さんの被害の内容を聞く。
カスはどうやらこのキャンパスに通うもう一つの学部の男。久世さんの認識としては、去年の選択授業で一緒だったような気がする…という程度らしい。ゴミクズは直接接触してくることはなく、久世さんも最初は偶然見掛けることが多いだけだと思っていたらしい。しかし、地元の駅で見掛け、バイト帰りの公園で見掛け、その時にシャッター音が聞こえた気がして、いよいよ一人で抱えきれなくなったようだ。…クソが。◯ね。
つまり、超ネチネチ監視系のクソキモストーカーだ。地元までついてきて、盗撮して…、更にエスカレートしないとも言い切れない。なんで俺が世界で一番大切にしている人がそんな目に遭っているんだ。クソが。◯ね。
久世さんを極力一人にしないのは勿論だが、確かに女性陣で行動するより明確に“男”が居た方が抑止力になるだろう。俺は大柄な方だし、相手が標準体型くらいの男ならマウントも取れるはず。ご友人達が俺に彼氏のフリをと依頼するのは、非常に合理的で納得できる。
「すみませんが久世さんに拒否権はありません。ほとぼりが冷めるまで、俺を常時そばに置いてください。」
彼女は頷かない。でも、拒否もしない。
それでいい。
貴女がまた安心して笑えるような空間を、俺が取り戻してみせる。
────とはいえ、
サクッと根本解決とはいかない。
すぐに警察に突き出せるような証拠はないし、俺は久世さんのそばを離れる訳にいかない。それに、彼女が今求めてるものは安息であって、解決へ向けた戦いではない。だからやはり、ほとぼりが冷めるのを待つしかなかった。
可能な限りスケジュールを合わせ、三好さん秋山さんの協力も借りて、久世さんが一人になる時間を徹底的に無くす。一旦バイトは休んでもらい、どうしても俺達がそばに居れない時は人の多い場所で待機してもらうようにした。彼女を自宅まで送り届けることも何度もあったが、さすがに時間がかかり、本人が申し訳ない、一人で帰ると言い始めてしまったので、ご友人達のお力添えもあり、半ば強引に俺の部屋に泊まってもらう運びになった。俺の部屋が彼女にとって安全かどうかは、俺次第だが。
「片付けてくるので、5分だけ待っていてください」
「あ、うん…、ごめんね」
玄関で少しだけ待ってもらい、片付けと掃除をする。元々物は少ないから、洗濯物と今朝脱いだままの部屋着、あと空のペットボトルなどをササッと片付け、あとは各所を粘着クリーナーで執拗にコロコロし、フローリングワイパーをかけて爆走で玄関に戻る。久世さんは「そんな綺麗にしなくて大丈夫だよ」と言うけど、これは俺の問題だ。平均的な男子大学生よりは整っているはずだけど、自宅でまで常に整理整頓を心掛けている訳じゃないから、女子に見せられるレベルではない。それが我が女神、久世さんであれば尚更。
「どうぞ」と言って促すと、彼女は「お邪魔します」と靴を脱ぐ。うわぁ。うわぁ。久世さんが……俺の部屋に………???実家の部屋に来てくれたこともあったけど、一人で暮らしている生活感丸出しの空間となれば、また少し違う。いつもの居住スペースが、まるで別世界のように感じる。あ、しまった。リセッシュするのを忘れてしまったけど、何かが臭ったりしていないだろうか。というか、狭い1Kの部屋だ。彼女にどこに居てもらい、俺はどこに居ればいいんだ?心の内の騒がしさとは裏腹に、「好きに寛いでください」と言って大きめのビーズクッションを指す。久世さんはそれに控えめに腰を下ろすが、想定外に沈み込んだことに少し慌てている。
可愛い。
えっ。
えっ?
今夜、この人とここで2人……?
彼女はご友人達の協力の元、宿泊に必要な物は全て持参している状態だ。外はもうじき暗くなる。彼女の身の安全を考えれば、朝までここに居てもらうのが最善だ。
───俺さえ安全な男であれば。
ご友人達は、何か勘違いをしている。
俺と久世さんが既に両想いで、何故かまだ付き合っていないだけ、そういう関係性だと思われているらしい。ストーカー被害について教えてくれたあの日の時点で、俺の家に匿うように言われていた。俺はそれを無謀だと判断したから、往復2時間かけて彼女を実家まで送っていたというのに。
俺は確かに理性的な方だし、辛抱強さもあると思う。でも、欲望には結構忠実な方だ。当然ながらに手を出す予定なんかはない。有り得ない。あってはならない。彼女が今ここにいる理由は、『安全のため』に他ならない。それでも、ほんの少しのキッカケで、何かが起こってしまう危うさは確かにある。俺は彼女が好きだ。そして、その想いは一方通行だ。だからあまり信用されても困る。とはいえ、現状久世さんを匿える男は俺くらいだから、やっぱり俺が守るしかない。クソゴミカスからも、俺からも。
「何か…手伝えること、ないかな…」
小さいローテーブルでコンビニ弁当を食べ終え、ゴミをまとめると、久世さんは手持ち無沙汰な様子で右往左往した。ストーカー被害で精神的に消耗しているのは勿論だが、ご友人や俺にこうして匿われていることも、彼女にとっては自分を責める理由になってしまう。元々彼女は働き者で、何かしらの役割を与えられた方が活き活きする人だということは知っている。しかし、今は特に思い浮かばない。部屋の掃除や洗濯を任せる訳にはいかない。いつどこでどんなボロが出るか分かったもんじゃない。明日の朝のゴミ出しも…駄目だ。ほんの数分、ほんの少しの距離だって彼女を一人にはできない。俺が思案していると、久世さんはしゅんと小さくなってしまう。何か、何かないだろうか、彼女にお願いしたいこと。
「…手伝うとは、少し違うんですが」
「うん」
「もし良ければ、俺の好きな本を読んでみてほしいです。気分転換にもなりますし、感想とか話せたら嬉しいです。」
「え、よ、読む!読みたい!」
何か提案しなくてはと頭をフル回転した時、視界の中、棚に並べられた本が目についた。まだあまり数はないが、バイトしていて気になった新刊などをちょくちょく買っては読んでいた。ジャンルは様々だ。今の彼女に勧めるなら…あまり暗くない話の方がいいだろう。どれを読んでもらうかじっくり考えるためにと、できるだけ自然な流れでシャワーを勧める。そのシャワーの音を気にしないようにしながら、本棚の中を物色する。人怖系の作品は今は除外するとして、ファンタジーとかはちょうど良いかも知れない。最近読んだディストピア系の作品は結構面白かったし、穏やかで心温まる結末だった。まずはこれを勧めてみよう。
シャワーを済ませた久世さんを直視しないようにしながら本を渡し、自分もシャワーを浴びに行く。バスルームに残っている湿度に、なんとも言えない気持ちが込み上げてくる。駄目だ、鎮まれ。何か他のことを考えるんだ。今考えるべきことは、当然彼女が遭っているストーカー被害について。現状、俺はまだそのゴミカスを見たことはない。ただ、ご友人達は久世さんと居ると視線を感じ、その先には例のクズが居るらしい。やはり女性だけで居ると舐められてしまうようだ。ご友人達はカスのSNSアカウントを特定し、その投稿内容を俺にも連携してくれている。特定に至った理由は簡単だ。これまでに何度か妙なアカウントから反応が来て、不審に思っていたらしい。その時の投稿を確認してみると、どれも久世さんに関連するものばかり。それに気付いたご友人達はアカウントを限定公開とし、今は一方的にゴミ野郎のアカウントを監視している。内容はどれも気色の悪いポエムのような文章。久世さんに心酔している自分自身に心酔している、といった様子だ。クソが。○ね。俺達が彼女を匿うようになってからは、俺達を“壁”と表現して、久世さんともっと通じ合いたいなどと宣っている。○ね。とりあえずはやはり、男が居ることをアピールし、クソが諦めたようなポエムを書くまでそばに居続けることしかできない。
…黒尾さんなら、どうしていただろう。
そもそも、あの人は一体どこへ行ったんだ。
久世さんは高校卒業後、親しい友人以外の全ての連絡先を失ったと言っていた。俺に聞いてくれれば、木兎さん経由で黒尾さんの連絡先を教えることは可能なのに、聞いては来なかった。黒尾さんとは去年の夏に会った。わざわざ森然高校まで後輩を見に来た黒尾さんは、特に変わらない様子でヘラヘラ笑っていたものの、俺とは目も合わせずに帰って行った。…おかしい。…まさかフラれた?いや、それなら久世さんの様子からでも読み取れるはず。なんなんだ。何があったんだ。俺からは繋げ直してやるもんか、と思っていたけど、本当にこれでいいのか、とも思う。
「赤葦くん!これ、面白いね!」
「お気に召しました?」
「召しました!」
部屋に戻ると、本を読む久世さんの瞳はキラキラと輝いていた。良かった。束の間でも現実の脅威を忘れ、物語に没入できるなら、それはきっと良い事だ。そして、彼女の髪が濡れたままであることに気付き、ドライヤーが無いことを謝罪する。そのうち買うつもりでずっと忘れていた。今後も彼女が泊まる可能性は大いにあるし、早急に買わねば。そしてそして、ついに就寝時間が迫る。
「私床でいいので…!キッチンの床でも貸してもらえれば十分なので…!」
「それを俺が許すと思いますか」
「ゆるして」
「すみません、許しません。」
項垂れる久世さんを尻目に、ベッドのシーツを替える。替えがあって本当に良かった。枕にはタオルを被せ、今日のところはこれで寝てもらおう。「ではおやすみなさい」と部屋を出て行こうとすると、すぐに引き止められる。キッチンの床で転がろうという思惑はバレバレなようだ。10分ほど真剣に協議した結果、俺はラグとクッション、ブランケットで寝ることになった。勿論同じ部屋で。距離を置こうにも、家賃の安さで選んだこの部屋は狭いし、俺の身体はデカい。どうしても彼女の穏やかな寝息が聞こえる距離に横になるしかなかった。ローテーブルを部屋の外に出してしまえばよかったと気付くも、あとの祭りだ。物理的にも精神的にも安眠には程遠い。ただ天井を見上げている内に、外が明るくなってきた。
─────────
久世さんがうちに泊まるのも、もう何度目か分からない。時間がある時は実家まで送っていたが、こうも同じ部屋で過ごすことに慣れてしまうと、もう一生ここに居てくれたらいいんじゃないかとさえ思えてくる。相変わらず俺が危うくなる瞬間はあるけれど、太腿を抓ったり頬を引っ叩いたりしてどうにか平穏な空間を守れている。それなりに寝れるようにもなったし、朝髭を剃るのをまじまじと観察されることにもいよいよ慣れた。ドライヤーは結局二人で買いに行き、彼女が選んで買ってくれた。寝床問題については解決していないものの、お互い思考回路が似ているようで、同じ日に同じメーカーの寝袋が2つ届いた。せっかくだからと、二人並んで寝袋で寝る奇妙な夜もあった。生活力もお互い似たようなもので、食事は基本米だけ炊き、おかずはスーパーやコンビニで調達した。洗濯は透けないネットに下着類を入れて一緒に洗い、干したりしまったりは各自でやった。その他もまぁ、特に問題ない。俺の部屋には次第に彼女の私物が増えていき、そのどれもが尊いものに思える。久世さんは俺の勧めた本を読んだり、その感想で盛り上がったりして、笑顔も少しずつ増えてきた。匿い生活は概ね順調だ。
ゴミカスの動向も少しずつ変化があった。
ポエムの内容は俺という悪魔から久世さんを救い出そうとしているようなストーリーになり、俺もキャンパス内やバイト先で視線を感じ、クソゴミカスの姿を捉えられるようになった。奴は想像していた通りの平均的な体格の男で、もし何かあっても俺一人でどうにかできそうだった。睨み付け、こちらから接近しようとすると、その冴えない男は簡単に逃げていく。その程度の覚悟で彼女に近付こうとするなクソが。こっちは刺し違える覚悟もできている。来るなら来い。そして正式に制裁を受けろ。そう思うが、ゴミクズにはそんな度胸は無いらしく、ポエムの内容も次第に諦めの色が見え始めてきた。三好さん、秋山さんも視線を感じることが減ってきたらしく、ストーカー問題は緩やかに収束へ向かった。
「うげ。アイツだ」
食堂で5人で昼食を摂っていると、秋山さんが顔を歪める。その視線の先を追って振り返ると、例のゴミカス。遠くの席に座る奴は、こちらに背を向けている。お二人から聞いていた通り、久世さんへのストーカー行為はもうしなくなったようだ。同様に奴の背中をじっと見ていた久世さんが、おもむろに何かを呟く。
「…駄目だ、」
「?」
「私が我慢すればいい、じゃ駄目だ」
「手伝って赤葦くん!」
「、はい。」
何も理解出来ないまま、協力を誓う。
彼女の話では、奴は遠くの席の女子を観察し、何やら怪しげなスマホ操作をしていたらしい。またストーカー行為をしているなら、どうにか阻止したいと言う。すると、三好さん達が気まずそうに口を開く。奴のSNSを見る限り、どうやら次のターゲットに粘着し始めていること、そして、久世さんが気にするだろうからとその情報を連携しなかったことを話してくれた。それは優しい判断だと思うし、久世さんも二人へ感謝を述べている。そして、根本解決を目指し、二人にも協力を依頼する。決して表立ったことはさせない、引き続きSNSの監視と記録をしてほしいと言う内容に、三好さんも秋山さんも二つ返事で了承する。俺もお二人も当然、久世さんのメンタル面や身の安全が心配になるけれど、この人はこうなったら止まらない。万が一何かあったとしても、俺が支えればいい。俺の友人の真柴にも協力させる。あまり気は効かないが、顔の広い男だ。役に立つだろう。
「計画を立てよう。可能な限り安全かつ早急に、然るべき処置をとる。野放しにはしておけない。」
力強い言葉に、俺達も確かに頷く。
彼女はやるとなったらやる。その瞳の強さは、彼女が音駒のマネージャーをしていた時、公式戦の時などによくしていた瞳と似ている。久世透香さんの、臨戦態勢の時の力強さだ。
三好さんの彼氏も招集され、6人で久世さんのノートに目を落とす。知恵を出し合い、作戦が決まった。
◆フェーズ1. 現在のターゲットとの接触
現在ゴミカス(机上ではカスとする)に付き纏われている新たな被害者(机上ではA子さんとする)、まずは彼女とコンタクトを取る。しかしその動向をカスに気取られる訳にはいかない。ここで真柴を使う。真柴の友人が、A子さんの友人と接点があるらしいため、そこから繋いでもらうことになった。LINEで連絡を取り合うのは、同じ被害者である久世さん。A子さんを励ましつつ、現在証拠集めを行っていることなどを伝え、協力を要請する。当然、こちらからも出来うる限りの支援を約束する。
◆フェーズ2. 証拠集め
フェーズ1と並行して、カスのこれまでのストーカー行為について資料を作成する。自宅付近で見掛けた日時、SNSの投稿、全てを紙ベースにしてファイリングを行う。これは主に三好さん、秋山さんが担当した。更に決定的な証拠を掴むべく、使える人脈を全て使い、常時多角的にカスを見張る。俺と久世さんはそんなに顔が広くないため、これは主に三好さんの彼氏…高橋さんが買って出てくれた。俺と久世さんも実働部隊となり、A子さんの自宅近辺を張り、カスが現れたことを写真に収めた。
◆フェーズ3. SNSでの呼び掛け
俺と久世さんはろくにSNSを使っていないため疎かったが、他4人はこれを強く勧めた。ネットの影響力というとは凄まじいらしい。晒し上げてやろうかとも思ったが、真柴がそう提案すると久世さんが瞬時に却下した。話し合った結果、匿名アカウントを作成し、ストーカー被害に悩む人へ大学の相談窓口を紹介するような内容を投稿することにした。不審な行動を見かけた人も気軽に情報提供するように促す。噂好きの学生が「何かあったのか?」と話題にし、いとも簡単に広まっていく。これは、じんわりとカスの首を絞めると同時に、久世さんやA子さんという実際の被害者が逆恨みされる可能性を下げることにも繋がる。
◆フェーズ4. 警察、大学への相談
それなりに証拠をまとめたら、然るべき機関へ提出する。大学がなあなあで流さないよう、先に警察へ相談した。すぐに何かして貰える訳じゃないことは俺も久世さんも分かっていたが、名前を出して相談記録を残すことに意味がある。大学へは警察に相談済みであることを伝えた上で、被害者が複数人居ることを強調して話した。地味ながら二人分の被害記録と、周囲の人間による証言もあり、大学としてはカスに事実確認を行ってくれるという流れになった。
そして、久世さんのストーカー被害が発覚してから2月半ほどで、カスは自主退学した。
「みんな本当にありがとうございました!!今日は好きなだけ食べてください!!」
焼肉屋で各々飲み物を注文し、オレンジジュースを掲げた久世さんが言う。カス撃退のミッションを乗り越えた俺達6人は、以前よりずっと親しくなっていた。彼女は本気で6人分奢るつもりなんだろうが、他5人は普通に自分の分は自分で払うつもりで来ている。「みんなの協力と、適切な制裁にカンパーイ!」という久世さんの音頭でグラスを合わせ、勝利の宴が始まった。
久世さんはすっかり元気だ。
肉と米をもりもりと頬張り、それはそれは幸せそうに顔を綻ばせている。
匿われていた時は本当に弱っていたが、自ら戦線に立ち、己を奮い立たせることで回復するのは非常に彼女らしい。ただ、あのゴミクズ野郎がいつ逆恨みしてまた現れるか分からない。どうしても不安は残るし、多少無理をしていたり、強がっている部分もあるんだと思うが、これが彼女なりの進み方だ。その強さと柔らかさは本当に尊敬できるし、俺は久世さんのそう言うところが特に好きだ。カス撃退ミッションに当然のように巻き込んでくれたことも嬉しかった。俺も自然と箸が進み、俺達の食いっぷりに三好さんは少し引いていた。
A子さんとはカスが退学してからようやく対面で話した。彼女は転居したようだが、今のところ追加の被害は受けていないらしい。それでも不安や恐怖心は簡単にはなくならない。久世さんは今後ももし何かあれば連絡してほしいと伝え、感謝を述べるA子さんの背をそっとさすった。
─────────
それからの大学生活は、まるで薔薇色だった。
俺はもう久世さんの偽装彼氏ではない。というか、そもそもそれらしいこともしていなかったのに、他の4人には当たり前のようにカップル扱いされた。俺も久世さんも違うとは言うが、わざわざ強く否定もしない。特に不都合がないからだ。グループで居ると、俺達二人では起こりえなかったであろうことも経験できた。全員で浴衣を着て花火を見に行ったり、海水浴に行ったり、テーマパークで遊んだり、キャンプをしたり、イルミネーションを見に行ったり……。人生の幸運を煮詰めたような日々に、これが華の大学生活か〜なんて、冷静を装った自分がどこかで言う。
久世さんとは変わらず俺の部屋で過ごすこともあるし、本を読み耽っているうちに遅い時間になれば、そのまま泊まってもらうこともしばしばだ。狭い部屋、お風呂上がりの好きな人、無防備に眠る姿。…ぐらぐらする。今は匿っている訳ではない。久世さん、この部屋は別に安全な場所じゃないですよ。むしろ、貴女にとって最も危険な場所だ。寝袋でスヤスヤと眠る彼女の頬に手を伸ばし、止める。彼女からは依然として恋愛感情は向けられていない。恐らく、1%たりとも。贅沢は言わない。ほんの1%、いや、0.1%でもいい。俺を男として見てくれ。そしたら、必ず俺が貴女を幸せにする。始まりなんかはどんな形だっていい。全ての責任を取るし、幸せにする自信がある。俺は貴女のことならなんだって分かる。分かっているからこそ、0.1%すらないことも、よく分かっている。
「……」
彼女の顔にかかる髪をすっと払い、俺もベッドに潜り込んだ。
「木兎のプレーは相変わらず気持ちいいねー」
「そうですね。…挨拶行かないと拗ねるかな」
久世さんが行ってあげてと言うので立ち上がると、彼女も飲み物を買うためと一緒に席を立つ。
季節はあっという間に巡り、今日は秋季リーグを観に都内の大学の体育館に来ていた。木兎さんが出場した第1試合が終わり、顔を見せるために1階に降りる。体育館から出て来た木兎さんはすぐに俺に気付き、大きく声を上げて近寄ってくる。相変わらずだ。試合の感想やちょっとした近況などを話し、チームメイトに回収されていくのを見届けて2階席に戻る。今日はいつもの6人で来ていて、バレーに詳しくない真柴と高橋さんには、経験者が隣に座って解説をしていた。真柴の膝に軽く衝突しつつ、久世さんの隣に腰を下ろす。既に第2試合は始まっており、彼女はそれを食い入るように見詰めている。せっかく買ったお茶も未開封のまま、まるでここに居ないかのように、アリーナへ全神経を注いでいる。彼女は集中すると周りが見えなくなるきらいがあるが、これは違う。何かに目を奪われている。試合内容はまぁまぁ面白いが、さっきの木兎さん達とさほど変わらない。コートの中の選手達も知り合いという訳ではなさそうだ。
じゃあなんだ?
アリーナを見渡し、見付ける。
久世さんの目と心を奪う存在。
かつての恋敵。
いや、今もか。
ジリリと胸が焼け焦げるような感覚を懐かしく思う。あの人の居ない世界で、俺は幸せだった。想いは届かずとも、確実に彼女の一番で居られた。俺のものにはなってくれないけど、誰のものにもならない。彼女は誰のことも特別な目では見ない。そういう世界だった。
────何もしていないくせに。
久世さんの口から黒尾さんの名前が出たことはなかったし、長く時間を共にしていても連絡を取っている気配はなかった。三年近く、接触していないはずなんだ、この二人は。
黒尾さんは第2セットの中盤からコートに入ってきた。嗚呼痛い、痛いな。久世さんの横顔は美しい。慈しみに満ちた瞳、それが向けられるのは、この世でたった一人。高校の頃は一瞬でしまい込まれたその視線は、今では全解放されている。本当に、黒尾さんにさえバレなければそれでいいんだな、この人は。そうか。そうだよな。
黒尾さんの居ない世界で、俺はどこか期待していたんだ。彼女がいつの日か俺を選んでくれるんじゃないかと。0.1%もないと知りながら、いつの日かは、と。でも違う。彼女の100%は既にあの人のものだ。三年、何もしていないくせに。「うぇーいナイス〜」じゃない。バレーしてる場合じゃないだろ、気付けよ。彼女はここに居る。何してんだ、アンタは。恋敵を憎く思ってしまうが、久世さんはこれ以上ないほどに幸せそうに微笑んでいる。何が正解かなんて分からない。黒尾さんのいない世界で、俺も彼女も幸せだ。でも、さっさと奪っていけよと思ってしまう。彼女の100%を独占しておいて、何もしないなんて、どうしたって許せない。この後ぶん殴りにでも行ってやろうか。いやでも、久世さんはそれを望まない。
何年経っても、関わっていてもいなくても、彼女は黒尾さんを好きで居続ける。
これは俺にとっては絶望でもあり、希望でもある。
俺は久世さんに好きになってもらいたいし、恋人になりたいとも思っている。でも、実際に彼女が俺を好きになったら、それはそれで解釈違いを起こすだろう。貴女のその怖いくらいに純白な恋心が、俺は好きなんだ。ほんの0.1%も他の男に向けない。あまりにも情熱的なのに、それを一人で抱えている。そのいじらしさが好きなんだ。変わらない。ずっと。あの第三体育館で初めて一緒に自主練した日から、貴女はずっと眩しい。
─────────
「お疲れ様。お寿司買ってきたよ」
「ありがとうございます…」
大学卒業後、出版社に就職した俺は瞬く間に社畜になった。
久しぶりにまともな時間に帰宅すると、少しして久世さんが訪ねてくる。こうして彼女と飯を食う時間だけが俺の癒しだ。
彼女とは変わらず…というか、もはや家族以上に親しい存在になってしまった。結局、俺達の世界に黒尾さんは現れない。あの人が居ないのであれば、俺の胸が痛むことは少なくなる。痛まないのであれば、恋心の輪郭は曖昧になっていく。もう自分でも分からない。愛していることは確かだが、恋は死んだのかも知れない。もう、この人が生きてるならそれでいい。
「お湯もらうね〜」
「うん…」
「お味噌汁、わかめとなめこどっちがいい?」
「なめこがいいな」
「はーい」
疲労で思考能力が落ち、ぼんやりした返事しかできない。久世さんがテーブルに寿司とインスタント味噌汁を並べてくれて、一緒に手を合わせていただきますをする。久しぶりのまともな食事、そして、美味しそうに食べる彼女を見ていると、なんだか少し泣きそうになる。温かい味噌汁を飲むと、過労とストレスでボロボロの身体がほっと解けていく。
「はぁ〜〜……結婚してくれ…」
脳が終わっている。
久世さんとは一緒に居すぎて、ろくに言葉も選ばなくなってきていた。疲れている時は特に、欲望がそのまま口から溢れていく。今のは大丈夫か?冗談として流してもらえる範囲だっただろうか。分からない。もう本当に疲れていて、大して頭が働かない。何食わぬ顔でイカを口に運び咀嚼していると、少し思案していた彼女が口を開く。
「赤葦くんが50歳になっても独りだったら、結婚しよっか」
流石に脳を叩き起こす。
冗談…でもなさそうな言い方だった。
万が一病院に運ばれたりしても家族じゃないと連絡来ないもんね、と、彼女は相変わらず淡々と話す。確かに、俺達はもう既にズブズブの関係だ。将来的に本物の家族になるのが自然な流れではあると思う。男として惚れてもらえなくても、この人となら穏やかな老後を送れることは間違いないだろう。
でもまだ、この人を囲ってしまうには早い。
「久世さんが50歳になっても独身だったら、にしよう」
「うん…うん?一年縮まった?」
タイムリミットまで、あと25年。
俺からこの人を奪う権利があるのは、あのヘタレだけだ。
待っててやるから、奪いに来い。
俺は彼女を喜ばせる術、大切にする術を知っている。
黒尾さんが来ないなら、俺が幸せにする。
パックの上の寿司は、特に相談をしなくても相手の好きなネタを譲り合い、減っていった。