赤い糸40,075km
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────あれ?
自室で一人、大学の合格祝いで買ってもらったスマートフォンを操作し、首を傾げる。
機種変更と同時に通信会社も乗り換えたから、友人、知人達にメールアドレスの変更を知らせようと思うのだけど、連絡先が……ない。最初は表示が遅れているだけかもと思ったけど、この『連絡先』というアプリを何度開き直してみても、それは真っ白。1件も登録されていない。
???
スマホを触るのは初めてだし、そもそもこういった文明の利器には明るくない。何か操作ミスをしてしまったんだろうか。分からない。ここに表示されてなくても、友人知人達の連絡先さえ分かればいいんだけど、元々使っていたガラパゴス携帯は、機種変の時に「安全に処分しますよ」と言われて渡したので、もう手元には残っていない。
───どうすれば???
本当に親しい友人とは、SNSでも繋がっていた。ユーザーID、パスワードをどうにか思い出し、自分の現状を書いて初投稿すると、すぐに友人達から反応が返ってくる。そのやり取りを総括すると、つまりこういうことらしい。
1. データ移行が失敗している
2. とりあえず携帯ショップへ相談へ行くべし
3. それで駄目なら駄目
4. 多分望み薄
5. 相手が電話番号を知っていればLINEで繋がれる可能性あり
まずは指示通りにLINEというものにアカウントを作成する。これで見つけてもらえる可能性があるらしい。翌日、機種変をした携帯ショップへ行って事情を説明したけど、平謝りされるだけで、結局連絡先のデータは戻って来なかった。
実際のところ、どうしても必要な連絡先は友人達くらいだ。
いや、あと、赤葦くんとは結構頻繁にやり取りしてたし、今後も色々話したい。彼には電話番号も伝えていたはずだから、どうにかそれで再び連絡が取れることを願うばかりだ。
バレー部で連絡先を知ってたのは黒尾と海くんだけだけど、もしかしたら「一緒に後輩の応援に行こう」とか、そういう連絡はあるかも知れない。だからできればメアド変更を知らせたいけど、でも、この先一度も連絡が来ないってことも全然有り得る。それぞれ別々の大学に行くんだし、そうしたらまた別々の人間関係ができていく。それに、後輩の応援に行けばそこで会えるかも知れない。もし連絡をくれていたんだとしたら、その時に謝ろう。
大半の連絡先を失ったことは心細かったけど、どこかで安心している自分も居た。
引き出しの中に仕舞っていたクッキー缶を取り出す。
これは私の宝箱だ。
中にはルーズリーフが1枚と、ストラップが2つ入っている。久しぶりにそのルーズリーフを取り出し、折り目を開く。
『分からないことは何でも黒尾くんに聞くこと。』
一番下の行、赤いペンで書かれたその文字を見てほくそ笑む。私がマネージャーになる前、思いつく仕事内容を箇条書きにして、黒尾がそれに回答してくれた時に書いてくれたものだ。嬉しかった。当時も、今見ても、本当に嬉しい気持ちでいっぱいになる。ストラップは2011年の親善試合で買ったもの。黒尾と初めてちゃんと会話するきっかけになった物だ。もう一つは、なぜか黒尾から貰ってしまったバボちゃん。この3点セットが、私の宝物。
私にとっては本当に大切なものだけど、私がこれらを大切にしていることは、多分気持ちの悪いことだ。
私は元々、黒尾くんに一目惚れしてからバレーの話をするまでの一年近く、一切の接点がないまま彼を好きでいた。だから、バレー部を引退し、卒業してまた接点を失っても、変わらずに好きでいる。これは多分ちょっと変で、気持ちの悪いことなんだと思う。でも本人にバレないなら何も問題はない。だから、連絡手段も失い、より明確に接点を失うことで、バレる可能性が限りなく低くなり安堵している。黒尾はきっと大学でも人気者になるんだろうな。バレー続けるんだったら、少しくらいはプレーしているところが見たいな。でも、全く見れなかったとしてもきっと変わらない。きっと私は、この先もずっと彼のことが好きだ。
──────────
4月の中旬、大学から帰ってきてスマホを確認すると、電話アプリにバッジが付いている。誰かから着信があったようだ。電話番号だけ見ても誰だか分からないけれど、もしかしたら私が連絡先を失ってしまった誰かかも知れないから、意を決して折り返しの電話を掛けてみる。1コール、2コール、3コール目で音が止まり、すぐに向こうから声がする。
「あ、久世さん。赤葦です。」
「…あ、あ…………あ゛か゛あ゛し゛く゛ん゛ん゛…!!」
聞き慣れたその声に、心の底から安心し、膝から崩れ落ちる。
「メールが送れなくなってしまって。その様子だと、やっぱり何かトラブルですか?」
赤葦くんは淡々と状況把握を進めていて、その相変わらずさに救われる。私は促されるままに起きたことを説明し、彼はそれをスムーズに理解してくれた。そこから小一時間ほど近況を報告し合い、今後はLINEで連絡を取ろうと約束をして電話を切った。
ベッドに倒れ込み、長く息を吐く。
赤葦くんならきっとまた繋がってくれると信じていたけど、不安だった。
大学ではまだ全然友達ができていない。それどころか、人が多すぎて萎縮して、誰ともろくに会話できていない。高校の友人達とは連絡を取っているけど、それぞれ新しい環境でのことを話していて、なんだか自分だけが置いて行かれているような感覚があった。心細かった。それを、赤葦くんに聞いてほしいって思っていた。本当に甘えすぎだけど、彼ならきっと、全部快く聞いてくれると思った。
だから、またこうして繋がってくれて、聞いてくれて、変わらないその穏やかな声が、本当に救いだった。
◯> 友達ってどうやって作ったらいいのかな
◯< 俺もその辺のことはあんまりアドバイスできないですね…
◯< ただ、久世さんの場合、バレーの話なら初対面の相手でもできると思うので、バレー好きが分かるようにしておくのはどうですか?
◯> 確かに!バレー好きな人が話しかけてくれたら一番嬉しい
◯< 何か分かりやすいグッズとかないですか?
◯> 代表のランチトートある [写真]
◯< 完璧です
◯< 俺も念を送っておきます
◯< ご武運を
赤葦くんにアドバイスしてもらった通り、バレー好きが分かるようなグッズを使うようにして一週間。なんと同じ授業をとっている子が話しかけてくれた。元々スポーツ学に特化した学部だし、絶対に一人くらいはバレー好きが居てくれると期待していた。彼女は元バレー部で、大学では緩めのサークルに入る予定だと言う。そのサークルでは月に2回ほど体育館を借りて、適当に集まったメンバーで適当にバレーをするらしい。一人で入るのが不安だからと、私に声を掛けてくれた。正直私はサークルに入るつもりはなかった。人付き合いは苦手だし、大学生ってちょっと怖いし。でも声を掛けてくれた三好さんは、明るい感じの人なのに本当に心細そうで、一見人付き合いが得意そうな人も実は不安を抱えているんだなって思った。それに、そのサークルはいつ辞めてもいいらしいし、全く行かなくてもいいらしい。つまり、入ること自体にはリスクがない。数日考え、三好さんと一緒にそのサークルに入ってみることにした。この決断ができたのは、間違いなく高校での経験のおかげ。私をマネージャーに誘ってくれた、好きな人のおかげだ。
◯> 今日7年ぶりにトス上げた
◯< うわ
◯< 見たかったです
◯> 下手すぎて悔しい 練習したい
◯> ゆるサークルなのに燃えてきちゃった
◯< あなたはそういう人ですから
サークルには怖い人は居なかった。
男女混合で、本当にゆる〜く集まって、各々でボールを触って遊んだだけ。私と三好さんはコートの端っこを借りて、パスとかちょっとしたコンビ練なんかをしてみた。一応全体に向けて自己紹介はしたけど、その後の新歓は強制参加じゃなかったから行かなかった。三好さんも一緒に帰ろうとするから、私に気を遣わずに行っていいんだよと伝えると、「いやいや怖いから!私も帰りたい!」と言っていて、彼女とは是非仲良くなりたいと思った。
高校時代、マネージャーとしてボールには触っていたけど、プレーをするのは小学生の時以来。知識だけは頭にいっぱい詰まっているのに、自分のトスはまるでポンコツだ。イメージした動きが実際にできないのは悔しくて、私はその日から、実家の部屋でぽすぽすとボールを触るようになった。
◯< 練習に付いてくるのがやっとな1年が居るんですが、部長として何か声を掛けた方がいいんでしょうか
◯> メニューはこなせてるの?
◯< 一応全部やってるようです
◯> 偉いね!そしたらお疲れ様って言ってあげるだけでいいんじゃないかな
◯> 赤葦くんみたいな部長さんが見ててくれて、労ってくれるだけで十分だと思うよ
◯< そうですかね
◯> 私ならそう
◯< ありがとうございます。やってみます。
LINEはメールよりも気軽で、赤葦くんとのやり取りも以前よりずっと増えた。文明の利器、すごい。赤葦くんはよく、部長としてどうするべきかってことを相談してくれる。彼はしっかり者だから、多分部員達にはそつなくこなしているように見えているんじゃないだろうか。でも赤葦くんの中では前任の部長───木兎という存在はとても大きかったし、それなのにタイプがまるで違うから、参考にはできない。とはいえ私だって部長を努めた経験なんてないから大したアドバイスはできない。でも、人心掌握に長けた人を、近くで見てきた。赤葦くんには当然、赤葦くんの良さがある。だけどもっと柔らかく寄り添いたいと言うのなら、参考にすべきはこっちの部長だった人だ。多分赤葦くんもそれを分かっているから、私に相談してくれている。
数日後、例の1年生に声を掛けたら泣かれたという報告が来る。なんと、赤葦部長は1年生達に怖い人だと思われていたらしい。私にとっては世界グランプリレベルで穏やかで優しい人だけど、確かに表情はあまり変わらないし、キリッとしてるし、キビキビしてるし、隙がないというか……“春高準優勝のセッター”という憧れフィルターがかかると、確かにちょっと近寄り難いのかも知れない。とはいえ今回の件で誤解も解けたようだし、きっともう大丈夫だろう。
──────────
「あれ?トート変えちゃったの?」
「あ、あれは…その…友達を…作りたくて…」
食堂で三好さん──よっちゃんと、アキちゃんと一緒にご飯を食べる。アキちゃんは男子バレー日本代表のガチ勢で、私が使っていたグッズのランチトートを見つけてすごい勢いで話し掛けてくれた子だ。それ以来、私達はよく3人で過ごしている。二人と仲良くなれたから、あれはもうお役御免だ。真っ赤でちょっと目立つトートじゃなく、今日は同じようなサイズ感の別のものを持ってきていた。理由を話すと、二人はちょっと照れくさそうに笑ってくれた。
「てか、そのキャラなに?初めて見た」
「これ、ブサにゃんずのジロ吉。可愛いでしょ」
今日持ってきたトートは、ジロ吉という黒猫のキャラクターのグッズだ。パッと見は黒無地に見えるけど、小さく刺繍がされている。ジロ吉は目付きが悪く、意地悪そうに見えるけど、実はとっても優しい子だ。駅で開かれていたポップアップストアで出会い、何故かすぐに好きになってしまった。そしてしばらくしてから、ちょっと黒尾に似ていることに気付いてしまって、高校ではグッズの文房具などを持って行くのをやめた。どんだけ好きなんだ。本当にこれだから私は気持ち悪い。でもここには黒尾は居ないし、黒尾を知ってる人も多分居ない。だからもういいでしょってことで、解禁した。
「え〜なんか意外。こっちのが透香っぽい」
「他の子も可愛いけど、私はジロ吉一筋」
よっちゃんがスマホでブサにゃんずを調べ、他のキャラクターを指差す。それに対して一筋、なんて、気持ち悪いことを言ってしまった。今のはあくまでジロ吉の話だけど、それを黒尾に変換したとしても成立してしまう。恋心の破片が外に漏れ出た瞬間、それが罪悪感になってしまうのはなんでだろう。帰っておいで。やっぱりできるだけ、自分の中に留めておこう。
季節はもう夏。
今日は後輩達のインターハイを応援しに来ている。都内に住んでるアキちゃんも一緒に来てくれて、二人で上の方の席で見守った。試合前、飲み物を買いに行くと見知った人を見掛ける。嬉しくなって声を掛けようとしたけど、お連れ様が居るようなので一旦様子を見る。海くんの隣に居るのは、音駒の同級生の女子だ。私は全然面識がなかったけど、優しい雰囲気の子ってイメージがある。えっ。えっ。二人は…つ、付き合ってるんですか…?!なんだか緊張してしまって、結局話し掛けずに席に戻った。
試合後、応援席に挨拶に来てくれた後輩達に拍手を送ると、犬岡くんが気付いてくれる。「あっちに海さん居ますよー!!会いましたー?!」って指で示された方を向くと、遠くの席の海くんとバッチリ目が合った。笑顔で手を振り合うけど、お互い接点のない連れが居るから、わざわざ会って話したりはしなかった。
黒尾と夜久くんは来ていないみたいだった。
夜久くんはバレー続けるって言ってたし、来てないってことは黒尾もきっとプレーヤー続けてるんだろうな。そりゃ忙しいよね。もし「一緒に応援に行こう」とか連絡くれてたら謝ろうと思ってたけど、どうやら杞憂で済んだようで良かった。
赤葦くんの試合もバッチリ観戦し、その感想はLINEに投げつけておいた。
「アキちゃん、付き合ってくれてありがとう」
「いや〜楽しかったよ〜!未来の龍神が居るかも知れないしね〜」
帰り道、アキちゃんと電車の中で話す。彼女は言葉通り、観戦を楽しんでくれていた。今日観た試合についてひとしきり語った後、話題は夏休みのことに移る。大学生の夏休みというのは異様に長い。高校の友人や、よっちゃんアキちゃんとも遊ぶ予定はあるけど、それだけでは凌ぎきれないほど時間がある。去年、一昨年の夏があまりに眩しく、充実していたから、突然温度差があると風邪を引いてしまいそうだ。とはいえそんなすぐに何かを思いつく訳でもない。乗り換えの駅でアキちゃんと別れ、駅構内を歩いていると、ふと壁に貼られたポスターに目がいく。『バイト募集中』……。バイト…バイトかぁ…。時間を有効に使うには持ってこいの選択肢だ。でも、人見知りで不器用な自分にできるバイトなんてあるんだろうか。
◯< オススメの問題集とかありますか?
数日後、赤葦くんからLINEが来る。
彼は元々うちの学部に興味があり、私から話を聞いて、より意志を固めたようだ。現状では第一志望にしている、ということは既に聞いている。私は自室の本棚から受験勉強に使っていた問題集や参考書を取り出し、机に並べた。
◯> 結局役に立ったなってやつはこの辺! [写真]
◯> とにかく早いうちから英語やるといいよ!
◯> 私が使ってたやつ、一応綺麗に取っておいてあるけど使う?
◯> まず英語!兎にも角にも英語だよ!
◯< 英語が最重要、把握しました。
◯< 貸していただけるんですか?
渡しに行ける日程を聞いて、赤葦くんの地元のファミレスで話そうと約束した。暇を持て余す私と違い、彼は多忙だ。遠慮されたけど、私が行くと言って押し切った。
毎日大学まで一時間かけて通っていることを考えれば、赤葦くんの地元は結構近くに感じる。知らない街並みを進み、お財布に優しいファミリーレストランに入店する。赤葦くんからはついさっき部活が終わったという連絡が来たから、到着には少し時間がかかるだろう。私は先にドリンクバーとデザートを注文し、こっそり舌鼓を打ちながら待機した。
「すみません、お待たせしました」
「お疲れ様」
少ししてやって来た赤葦くんは、申し訳なさそうに謝りながら向かいのソファに座る。私はもちろん気にしていないし、…それよりも、彼の着てるTシャツの方が気になる。…セッター犬……?多分それはいわゆる“おもしろTシャツ”なんだけど、赤葦くんが着ていると面白さで選んだのか、可愛さで選んだのか、何も考えていないのか、絶妙に分からない。しかも「参考書重たかったですよね、ほんとわざわざすみません」なんてキリッとした顔で言うから、シュールすぎてつい笑ってしまう。
「んふ、ふふふ」
「……?なにか…あ、コレですか?」
「ふふ、そう、それ。可愛いね」
私が笑っている理由に気付いた赤葦くんは、ちょこっとだけ照れくさそうにしながら「今日は無地のにする予定だったんですけど…気に入っていただけたなら良かったです」なんてまた冷静に言うから、本当にシュール。私これからこのTシャツを視界を入れて勉強の話するのかぁ。楽しいなぁ。私も昔はセッターの端くれだったし、そのTシャツ欲しいなって言ったらどこで買ったか教えてくれた。後で本当に買っちゃおうかな。
「先に普通に食べてもいいですか、腹減ってて」
「いいよいいよ!私も食べよっかな」
「………既にデザートを食べたんですね」
「…バレた…」
伝票を確認されてしまい、ティラミスを食べたことがバレてしまった。いくら赤葦くんとはいえ、年下の男の子に食いしん坊がバレるのはちょっと恥ずかしい。でも彼は特に気にした様子もなくメニューに目を落とした。そうだよね。赤葦くんはそういうのを面白がったりする人じゃないよね。私もメニューを眺めながら、何食べるのって聞いてみると、アレとコレとソレとって結構な品数が返ってくる。赤葦くんって結構食べるんだ。本人的には男子高生なんてこんなもんらしいけど、多分ちょっと多い方だと思うよ。でもそれは指摘せず、私も一品増やして注文した。…やった!
料理が届くと、赤葦くんは意外にも一口を大きめに取り、頬を膨らませながらカツカツ、モグモグと食べ進めていく。男の子っぽい食べ方だ。周囲よりずっと大人びて見えるけど、ちゃんと高校生なんだなぁ。なんて考えながらついその様子を見詰めていると、それに気付いた赤葦くんがスプーンを止める。
「…すみません、食べ方汚いですか?」
「えっ?!全然!違くて。気持ちのいい食べ方するなって思っただけ」
「そう…ですか…?」
疑り深い彼に、首を縦に振って肯定しまくる。赤葦くんの食べる勢いはちょっと控えめになってしまったけど、これ以上言及するのはやめよう。そして私も目の前のご馳走にありつく。うんんまぁ〜〜♡信じられない。この価格でこんなに美味しいなんて、そんなのって合法なの?この世の理から逸脱しているっ!世界の均衡が崩れるぅ!……とかなんとか。デリシャスパンチで揺れる脳で適当に喋ると、赤葦くんは「…ふ、」って笑ってくれたり、「そうですね」って相槌を打ってくれたりして、それがとても心地良い。
───さて、お腹が満たされたところで本題だ。
店員さんが食器を下げてくれたら、テーブルの上を軽く拭いて、例のブツを並べる。まずは英語の問題集。これと参考書の第1章がリンクしてるから、最初はこれをやり込んで、時間かかってもいいから一切躓かなくなるまでやった方がいい。問題集の方の解説は親切じゃないから、もはや見る必要はない。全部参考書に載ってる。基礎が頭に入ったら、そこからやっと過去問。ほかの教科は過去問から始めちゃっても大丈夫だと思う。
「なるほど…」
「ペラペラ喋っても忘れちゃうよね。あくまで私のやり方だけど、メモ書くね。」
自分がしていた受験勉強、終わってみてこうすれば良かったと思うことを説明すると、赤葦くんは難しい顔をした。そりゃそうだ。彼はまだ自分なりの勉強法を確立していないらしく、一旦私のやり方を教えてほしいと言ってくれたのでつらつら喋ったが、急にそんなに頭に入るはずもない。ルーズリーフを取り出し、後から見ても分かるように内容をまとめる。私が特に躓いた問題と、その解説ページに付箋を貼り、いつ頃、どこまで理解できているとベストかもメモする。
「これは…無料でやっていただく範囲を超えている気が…」
「そうっ!それ!それなんだけどさ!」
「エッ」
「私、個別指導の塾講師のバイトに応募しようか迷ってて…、私にできると思う…?」
「それは……」
この数日、自分に向いているバイト、やりたいバイトはないかずっと考えていた。そんな中、地元の塾にバイト募集のポスターが貼ってあるのを見つけ、ちょっとやってみたいかも、と思った。今まで友達とかには教えるの上手いって言ってもらえたことあるけど、お給料をいただけるほどのことができるかは自信がない。でもバイトなんてきっとみんな最初は同じだ。自分の中ではもう応募してみようって意思は決まっているけど、できれば誰かに背中を押してほしい。できれば、信用できる誰かに。
「絶対に、できると思います。」
「ぜったいに…」
「絶対に。できます。久世さんなら。」
「そして俺はそこに入会します。」
「あはは!赤葦くんは個人的に呼んでよ。お勉強会しよ」
これ以上ないくらいに信用している人に、「絶対」と言ってもらえた。よし。最後の一押しありがとう。塾には明日、電話をしてみよう。この日はこの後、赤葦くんに数問やってみてもらって、ちょっと塾講師の練習をさせてもらった。
そして、私は無事にバイトを始めた。夏休みはバイトの準備、バイト、友人とのお出掛け、赤葦くんとの勉強会、ちょこっとバレーの練習…。去年ほどでないにしろ、充実した時間を過ごすことができた。
──────────
音駒の後輩や赤葦くんの高校バレーを最後まで見届け、私は大学2年生になった。
赤葦くんはうちの学部に合格し、しかも私と同じゆるいバレーのサークルに入った。そもそも大学ではプレーヤーを続ける気がないから、推薦ではなく一般を受ける、というのは知っていたけど、彼とこうしてキャンパスで会い、サークルではネットを挟んでバレーしたりして…なんだか不思議な感覚だ。色々とトラブルなんかもあり、その時に大いに力を貸してくれた赤葦くんとは、本当にずっと一緒に居た。同じ人とこんなに一緒に過ごしたことはないってくらい、寝ても覚めてもずっと赤葦くんが隣に居た。私にとって彼は、もはや家族のような存在だ。
サークルのメンバーとも親しくなって、私、よっちゃん、アキちゃんと、よっちゃんの彼氏くん、赤葦くん、赤葦くんの友達。この6人で遊びに行くことも多い。体験型の脱出ゲームをしてみたり、キャンプに行ったり…高校時代とはまた違った青春だ。近くでよっちゃんカップルを見ていると、もしかして私と赤葦くんの距離感は適切じゃないんじゃないかって気がした。赤葦くんはどっからどう見ても男の子…というか男性というか…とにかく女性じゃない。私も最近はアキちゃん達に好きにコーディネートを組まれ、スカートとか履くこともあるし、男性に見間違えられることはあまり無さそうだ。男女……。男女なんだな、私と赤葦くんは。彼と一緒に居ても全然そんな感じはしないけど、このまま一緒に居ていいんだろうか?少なくとも、赤葦くんに彼女なんてできたら絶対にこの距離感はまずい。それくらいは私にも分かる。でもそんな話は聞いたことがないから、正面で親子丼食べを頬張る彼に直接聞いてみる。
「赤葦くんは好きな人とか居たりしないの?ずっと私と一緒に居て大丈夫?」
「はい。大丈夫です。」
「俺も久世さんと同じようなものなので。」
…同じ?
言葉の真意が分からず、その顔をじっと見てみるけど、にこっと微笑まれ、それまでだ。これ以上言葉で説明してくれる気はないらしい。
───私には居るよ、好きな人。ずっとずっと、同じ人。
でもそれは話したことがない。大抵の事は何でもすぐ赤葦くんに話すけど、黒尾のことだけは言ったことがない。ということは、私は恋をしない人間だと思われている?そして、赤葦くんもそれと同じ?…いや、彼のことだから、もしかしたら気付いている可能性もある。だとすると、赤葦くんも片想いをしているのだろうか。私と同じように、遠い人に。
親しき仲にも礼儀あり。
彼が踏み込まずに居てくれるように、私もそうするべきだ。
赤葦くんは決して嘘はつかない。
優しい人だけど、YES/NOはハッキリと示してくれる。「一緒に居て大丈夫か」の返答はYESだった。それなら、私は貰った言葉だけ受け取っておく。
大学の授業も楽しいし、バイトもやりがいがある。真面目だけが取り柄の私だけど、探せばそれを活かせる場所だってある。それを教えてくれたのは音駒のバレー部、そこに誘ってくれたあの人のおかげ。会わなくなって1年経っても、2年経っても、まだあのクッキー缶を撫でることがある。一生気持ち悪くてごめんね。でも本当に黒尾に会うことがないから、罪悪感は薄れ、だいぶ楽になってきた。
私が3年の時の9月、みんなで秋季リーグを観に行った。
赤葦くんとは去年もインカレとかを観に行って、木兎を応援したりちょっと挨拶したりなんかもした。木兎は既にチームの中心のような存在になっていて、赤葦くんと二人、勝手に『後方彼氏ヅラ』というのをしてしまった。
今日の会場には、黒尾が通っているはずの大学も来ている。木兎の試合を見終え、飲み物を買って、次の試合。見渡してみると、リザーブにその姿があった。私の記憶の中よりもう一回り大きくなった身体、ぎゅっと腕を組む癖、軽薄そうな笑みと、真剣な眼差し、変な髪型。……やっぱりバレー続けてるんだ。爽やかな色味のユニフォームは、なんだかまるで似合っていない。いや、私が見慣れていないだけだ。私の中の彼は、ずっと赤だから。
第2セット中盤、××大の選手交代。パドルを持ってコート横に走ってきたのは、黒尾だ。交代する選手と肩を叩き合い、コートに入ってくる。そしてすぐさま仲間とコミュニケーションを取る。こっち来たら俺が取る。そっち行ったら頼む。そういう連携こそがバレーボール。変わってないな、やっぱり。相手のサーブは交代したばかりの黒尾を狙ったショートサーブ。それを黒尾はオーバーで綺麗に返した。…うわ、オーバーめちゃくちゃ上手くなってる…!さすがだなぁ。クイックもそんな確度で打てるようになったの?!相変わらず嫌なブロックする〜。えっ?!そんなサーブ見たことない!
当然だ。
最後に黒尾のプレーを見てから、もう3年近くが経っている。知らないことの方が多い。…ポジションは変わってないんだな。黒尾は苦手なプレーがないし、大学であの身長ならスパイカーへの転向も打診されただろうに。自らミドルを志願したのか、それともブロックの精度を買われたのか。私には知る由もない。層の厚い強豪でベンチ入りして、ちゃんと公式戦で起用されるなんて、やっぱりすごいな。試合出てるんだったら、もっと観に行──くのはやめておこう。ストーカーみたいになっちゃうからね。
ネット際、意表を突かれたボールに反応し、器用にその身体をしならせてパスを上げる。繋がったボールはエースに託され、得点した。コートの中で仲間と喜びを分かち合うその笑顔は、変わってない。
あ〜〜……。どうしよう。
ちょっと泣きそう。
変わらない。
全然変わらない熱量で、今も君が好き。
──────────
混雑する駅構内、歪な足音が響く。
慣れないパンプスで見事に靴擦れし、歩く度鋭い痛みが走る。
足もそうだし、心もボロボロだ。
4年になって本格的に就活がスタートし、今日も面接を受けていた。たくさん準備した。ハキハキ喋る練習、自分の短所を長所に言い換える言葉達。それなりに上手くできる時もあるけど、コミュニケーション能力の高い人達と比べられるとひとたまりもない。そもそも今日のあの大人達はなんなんだ。アレがこれから一緒に働く人を探す態度なのか。誠意を感じない。圧迫面接まがいのことをされ、今日は特段落ち込んでいる。もうさっさと帰って寝よう。足を引きずりながらターミナル駅を歩いていると、何かを見付けた気がして、パッと振り返る。
人混みの中、頭一つ出ている男性の後ろ姿。
その、寝癖。
───黒尾だ。
ぼけっと突っ立っていると、人にぶつかる。邪魔にならないところに移動してもう一度振り返ると、まだあの頭が見えた。その隣りには、女性が歩いている。よっちゃん達を見てるから分かる。あれはカップルで、デート中だ。
当然、声は掛けない。別に忘れられているとは思ってない。あの人は旧友も大切にする人だと思うから、偶然会って声を掛けたら喜んでくれる気がする。でも今は駄目だ。それに、そもそも私が望んでいない。話すことがないし、あの人は遠くていい。こうして遠くで、幸せにしているところが見れたなら、それが最高。
とはいえ、勝手に人のプライベートを盗み見てしまうのは忍びないし……帰ろう。
「ッい…!!…った、」
靴擦れしていたことを忘れ、思いっきり傷口にパンプスの淵を突き刺してしまう。痛い。すごく痛い、けど、大丈夫。好きな人が幸せにやってる姿を見れたから、なんだか強くなれる気がする。隣に居た女性は、黒尾とすごくお似合いだった。彼が選んだ人なら、絶対に素敵な人だ。今日受けた面接のことも、もう忘れよう。黒尾は幸せに過ごしている。それだけで、力が湧いてくる。私も私の道をしっかり歩こう。かかとを浮かせ、ホームに続く階段を降りる。二週間後には大本命のスポーツメーカーの面接も控えている。くよくよしている暇があったら、好印象な表情でも練習しよう。
結局いつまでも、あの人が私を前に進めてくれる。
気持ち悪くてごめんね。
ありがとう、原動力になってくれて。
もう二度とこんな偶然はないだろう。
なくていい。
どこかで幸せで居て。
発車ベルが鳴り響き、乗り慣れた電車のドアが閉まった。
大学の卒業式は想像していたよりもずっとあっさりしていて、式典の進行もスムーズだった。
「綺麗です。女神かと思いました。」
「大袈裟!ありがとう。来年は赤葦くんの袴姿見に来るね」
「俺は多分スーツかな…」
いつもの6人で集まって写真を撮って、別れを惜しんだり、励まし合ったりする。大学生活も意外とあっという間だ。交友関係は最低限だったけど、素敵な友達とたくさん思い出を作れたし、サークルでバレーしたのも本当に楽しかった。バイトの経験も自信に繋がったし、我ながらとっても健全な青春の日々を送れたと思う。
私の就職先は、大本命だったスポーツメーカー。
バレーボーラーなら誰しもがお世話になったことがあるだろうメーカーだ。まだどんな部署に所属するかは分からないけど、どこだっていい。私の仕事が、巡り巡ってどこかのバレーボーラーに繋がるかもしれない。そう思えるだけで十分だ。
「ツーショット貰ってもいいですか」
「えっ!珍しいね、いいよ」
「私撮ろうか?」
赤葦くんが珍しく写真を撮ろうと言ってきて、二人で並ぶ。お互い被写体になるのは慣れていないから、ポーズとかどうしたらいいのか分からず、棒立ち×2だ。よっちゃんが色々指示してくれるけど、私達にはハードルが高く、なんだか上手くいかない。困惑した瞳と目が合って、お互いの不器用さを笑い合う。「おっ?!めっちゃ良いの撮れたよ〜」と言ってよっちゃんが見せてくれた写真は、自然に笑っていて、確かに良い感じだ。赤葦くんも満足したようで、「家宝にする」なんてまた大袈裟なことを言う。私別に何のご利益もないよ。
一週間後には社会人だ。
不安や緊張も大きいけれど、希望や期待、やる気も十分にある。
バレーボールは昔から好きだったけど、高校でマネージャーをやっていなかったら、ここまでの熱量ではなかったはずだ。何度も、何度でも思う。私の人生は、好きになったあの人に導かれている。
桜はまだ咲いていない。
見頃になった時、予定が合えばみんなでお花見をしよう。
そんな約束を残し、キャンパスを後にした。