赤い糸40,075km
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卒業式の日、あっちこっちから声を掛けられている内に、久世は帰ってしまっていた。本当は教室でももっと話したかったし、卒業アルバムにも何か書いてほしかったのに、運命の悪戯なのかまるでタイミングが合わなかった。彼女の方からは、何も求められなかった。俺のことはマジで部活仲間で完結してしまったっぽい。分かってはいたけど実際突き付けられると結構堪える。まぁこれから頑張るけど。
2日経ち、俺の進路も無事に確定した。
第一志望の大学に合格し、再び音駒高校へ赴いてお世話になった先生方にも報告した。久世にもすぐメールして、すぐお祝いの返事が返ってきた。そっからは大忙しだ。合格者向けの冊子が届いたら、入学手続きの書類作成、学生寮の申請、そんで抽選に負けたから個人でのアパート探し、家電は新生活セットとかいうやつが冊子でも紹介されてるけど、細かい食器とか生活雑貨とかも当然買い揃える必要がある。チャリは…入居してからそっちで買う方がいいか。服とかも追加で必要か?買い出しやら何やら、やらなきゃいけないことはいっぱいあったけど、最近ばあちゃんは膝を悪くしているから、できるだけ負担を掛けたくなかった。どうしても保護者が必要な時だけ父さんにお願いして、ほとんどのことは一人でどうにかした。そんな感じでバタバタしている内に、気付いたら2週間近くが経っていた。
ベッドに腰を下ろし、携帯の画面と睨み合う。新規メール作成画面。宛先はもちろん久世だ。
なんて誘おう。
そもそも、どこに誘うんだ?
春休み中に必ず二人で会う。そう決めていたけど、いざとなるとなんて連絡したらいいのか分からない。俺はただ会いたいだけなんだけど、そんなことをそのまま伝えられる関係性じゃない。そういうことが言えないから、こうして一歩ずつ距離を縮めようとしている。何か良い口実がないだろうか。早速後輩達の練習覗きに行こうぜ〜、とか?いや、それだとやっぱり部活仲間の範囲を越えられない。他にないか?そもそも高校生カップルとかってどこ行ってんだ?久世はゲーセンとかカラオケってタイプじゃないし、急に水族館とか誘うのはちょっと…アレだよな。いや俺は見たいよ?お魚を食い物として見て目を輝かせる久世サン。お勉強モードに入る可能性もあるな。もしくは意外と綺麗〜とか言うんだろうか。知りたい。でも、まだハードル高い。重要なのは断られないことだ。マジでどこだっていいんだ俺は、あの子が居れば。もし俺が久世に「公園の砂場で遊ぼう」って誘われたら二つ返事でOKするし、なんなら走って行く。全力でお城とか作る。でも俺から久世を誘う場合、そんなのは許されない。どうしたらいいんだ。どうしたら会ってくれるんだ。必死に考えてみても、俺の中にその答えはない。
─────────────
暇な日あったらどっか遊びに行かね?
─────────────
かれこれ数十分が経過した。
画面に映し出されているのは、日時も用件もふわっとしたクソメール。
もう無理だ。入試より疲れた。このクソメールが今の俺にできる精一杯だ。とりあえず何ラリーかして様子を見させてくれ。長く息を吐いて、覚悟を決める。そして、力んで震える親指で送信ボタンを押した。
「っっはぁぁぁぁぁ、」
携帯を両手で固く握り、祈るように額に当てる。
送った。
一体なんて返信が来るんだろう。
期待と不安を奥歯で噛み締めていると、手の中の携帯が震えて驚く。返信が来るには早すぎるし、この着信音は久世のじゃない。なんだよ間が悪ぃな…。少し苛立ちつつ、受信メールを確認した。
──────────────
Your message could not be delivered to:
****************@******.***
Reason: 550 5.1.1 User unknown
Please check the email address and try again.
──────────────
・・・・・?
送信したメールを確認する。
ちゃんと送信ボックスに入ってるし、宛先はアドレス帳に登録してる『久世さん』。念のためメアドがおかしなことになっていないか確認するけど、別に何も間違ってない。
コピーして新規作成、そして再送してみる。
──────────────
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****************@******.***
Reason: 550 5.1.1 User unknown
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──────────────
・・・・・?
コピーして新規作成
送信
──────────────
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****************@******.***
Reason: 550 5.1.1 User unknown
Please check the email address and try again.
──────────────
・・・・・。
血液が冷えていく。
肺のあたりが勝手に痙攣し、短く空気を取り込む。
吸って、 吸って、 吸って 、
指先の感覚が鈍り、全身から冷えた汗が噴き出す。
落ち着けよ。
タイミングが悪かっただけだろ。
あの子は急に着信拒否とかするような人じゃない。
きっとそのうち、呑気にメアド変更の連絡が来る。
───でももし来なかったら?
「…っっは、 っは 、」
視界が黒く歪み、耳鳴りがしてくる。
腹の中身が頭に登ってきて、口の中に酸っぱい液が溜まる。
あー。駄目だ。駄目なやつだこれは。
どこかで冷静な判断を下し、ベッドに背中を預ける。
目に入る光が痛くて、瞼で遮断する。
適当に携帯を放り出して、両手で目元を覆った。
落ち着け。
息は吐くものだ。ゆっくり。長く。
「ふ、う、 う、っは、あ、っっは、っは」
大丈夫だから。大丈夫。大丈夫だって。大袈裟だな。
落ち着けって。
大丈夫だから。
身体の過剰な反応を鎮めるべく、自分を宥める。
考えない。
根拠のない「大丈夫」を繰り返して、どうにか息をする。
───────
どれくらいそうしていたのかも分からない。
汗で冷やされた身体がブルルッと震え、それを機にゆっくりと瞼を上げてみる。視界、呼吸、脈拍、正常。まだ多少耳鳴りはするけど、大分落ち着いた。のそりと上体を起こし、手を握ったり開いたりしてみる。指先の感覚も正常。大丈夫だ。俺は大丈夫だ。
まったく、俺達は本当にタイミングが悪いな。
俺が知っている連絡先は、メールアドレスだけ。今まで毎日当たり前のようにそこに居たから、電話番号を聞く機会がなかった。それなのにメアド変更のタイミングで連絡しちまうなんてなぁ。肝が冷えたわ。ほんっとに。さっさと変更したって連絡してくれよ、マジで。
だけど、
次の日も、その次の日も、
一週間経っても、
春休みが終わっても、
あの子から連絡が来ることはなかった。
───────────────────────
───────────────
────── ・・・
「黒尾〜、今日の飲み来てくれよ〜、女子来るからさ〜」
「部活だっつってんだろ。つーか、未成年が堂々と飲酒宣言すんな」
「お前ってほんと、見かけによらずカタブツだよな〜」
「法律守っただけでカタブツ呼ばわりやめろ」
2限が終わり、食堂へ向かう。前に授業でペアを組んだことがきっかけでよく話すようになった高城は、分かりやすく大学生!ってノリの奴だ。食堂は嘘みたいに広く、それなのに混雑し、列ができていた。
大学生活にも段々と慣れてきた。
広すぎて何度も迷子になりかけたキャンパスも、今じゃ最短ルートの抜け道まで把握している。敷地内をチャリで移動するという違和感ももう無くなった。空きコマで課題やるのにちょうどいい場所も何ヶ所か頭に入ってる。一人暮らしも案外なんとかなる。もう少し余裕が出てきたら、ちゃんと自炊して節約もできるようになんねぇと。あと、部活はキッツイけどやっぱ楽しい。うちのバレー部はインカレでも常に上位に食い込む強豪だ。練習はハードで、マジで1回ゲロ吐きそうになったけど、なんとか付いていけてる。既にプロ契約が決まっている先輩も居て、そんな環境に身を置けることが喜ばしい。俺は元々要領は良い方だし、そこそこ順風満帆って感じに過ごせている。ただ、たまに、俺の腹の中には内臓なんか一個も入ってないんじゃないかって思うことがある。でも生きてるし、器用に生きていけてる。
地元にも頻繁に帰っている。1時間半くらいで帰れるし、ばあちゃんの飯食わしてもらって、研磨とだべったりして、高校の頃とそんなに変わらない。都合が合えば後輩達の練習にも顔を出した。自分の部活も忙しいから、大会とかの応援は必ず行けるって訳じゃないけど、行ける時は行った。アイツに会ったりしたか?誰か連絡先を知らないか?そう聞こうとしたこともあった。でも、何故か声帯はビクともせず、脳も処理をやめてしまう。俺が話題に出さなければ、他の誰からもその名前は出てこない。もしかしてあの人は、始めから居なかったんだろうか。俺は何か幻でも見ていたんだろうか。でも夏が過ぎた頃、一度だけ研磨に「そういえば透香とはどうなったの」と聞かれた。なんて返事をしたのかは、もう覚えていない。
──────
「黒尾来るっつったら女子もメンバー増えたわ」
「ああそう」
「マジで助かるわ〜!可愛い子来るかなぁ」
2年生になった頃には、俺もすっかり“大学生”になっていた。周りのテンションに反抗するのもなんだか大人気ないし、これが普通だって言うならそれでいいんだ。軽い誘いも3回に1回くらいは乗るし、飲まなきゃ雰囲気壊しちまうんだったら飲む。人との繋りってのは大事だ。今はただの騒がしい大学生かも知れないが、この人脈がいつどこで活きてくるかは分からない。別に無理してるって訳でもない。こういうのは元々得意な方だ。
部活が終わり、いつも通り常設されているシャワールームで軽く汗を流して、急いでバス停へ向かう。駅前で下車し、高城が予約したチェーン居酒屋へ入った。LINEで連絡がきていた奥の方のテーブルへ向かうと、一際騒がしい集団が居る。ほんっと大学生はこれだから…。既に出来上がってる友人達と軽く言葉を交わし、空いている端っこの席に腰を下ろした。
「お、お疲れ様です」
「どうも、お疲れっす」
隣の女子は初めて見る子だ。というか、女子全員知らん子だ。どこでどう繋がってどう誘ってんのか分からないが、友人達は彼女が欲しいとか言って必死に出会いを求めている。もちろんそれが叶うこともあるけど、気付いたら別れた〜とか嘆いてて、結局同じことの繰り返しだ。俺はそういうのにはあんまり乗り気じゃない。でも、多少がっつくくらいが一般的な大学生だと言うのなら、意地張って拒否するつもりもない。
「黒尾1杯目どうする〜〜?」
「当たり前のように飲まそうとすんな。あ、烏龍茶お願いします」
高城がアルコールのメニューを差し出してくるのを躱し、店員に注文する。今日は先輩も居ないし、雰囲気的に飲まなくても大丈夫そうだ。それに、気になっていることもある。隣の子の前に置かれたグラス、その側面は乾いているのに、下には水が溜まっていて、中身は満タン。手を付けずに長時間放置されているように見える。
「えーと、弓道部って言ってたか?学部とかどこなの」
「弓道部は私とこの子の二人でー、それぞれ友達を連れてきましたー!」
「なるほどね」
たった一つ事前に知らされていた情報を元に話し掛けると、奥の席の気さくそうな子が色々と紹介してくれる。ちゃんとした自己紹介とかは俺が来る前に済ませたんだろうから、俺もちゃちゃっと手短に伝えると、「もう全部聞いた〜」と言われる。そっすか。
……で、だ。
軽く喋ってみた感じ、隣の子はこの中では一番大人しいタイプっぽい。1年生らしいから、萎縮してるってのもあるんだろうけど。そんな子の前に手付かずのカクテル。…うーん。
「…これさ、好きで注文した?」
他の奴に聞こえないよう声を潜めて聞いてみると、その子はギクッとして、言い淀んだ。うん。俺が思っていた通りの反応だ。
「飲まなくていいよ。烏龍茶と交換な」
「っえ、」
彼女の前のぬるくなったカクテルと、手元に届いていた烏龍茶の位置をくるっと交換する。そして、了承も待たずにグラスに口を付けた。あまっ。ぬるっ。冷えてないカシスオレンジはなんだか美味しくないけれど、まぁ不味くもない。別に好きではないけど、嫌いでもない。彼女……確か、石田さんはおろおろしながらも、「すみません、ありがとうございます…」って言って烏龍茶に口を付けた。
そこから1時間半ほど経ち、最終バスの時間が迫ってくる。男共と2年の女子はこの後カラオケ行こ〜とか話してるからいいとして、1年の子達はちょっと帰りたそうだ。
「バス無くなるし帰るわ。つうか、このタイミングで一旦解散にしね?」
「お前帰るなよ〜。えっ、他にも帰りたい子居んの?」
「…えっ、と」
「帰りづらい雰囲気作んな。いいから全員財布出して」
基本は割り勘、端数分だけ男が多めに出して、それを纏めてさっさと会計に向かう。バス来る。ヤバい。いい気分で話してる奴らを尻目にそそくさと店を出ようとすると、1年女子が帰っていいのかキョロキョロしていることに気付く。ちょうど目が合ったから、ジェスチャーで「ヅラかるぞ」って伝えると、2人はパタパタと駆け寄ってきた。
「2人はバス?駅?」
「駅です」
「そっか、じゃお疲れ。気を付けてな」
店の外でパパッと解散して、バス停に向かおうと大股で三歩くらい進むと「あ、あ、ぁあの!!」と呼び止められる。振り向くと、石田さんが緊張した面持ちで駆け寄ってきて、ずいっとスマホを差し出した。
「LINE………!教えてください……!!」
「………あ、うん」
特に断る理由もなく、LINEのアカウントを交換する。「お礼をさせていただきたくて…!」って話を続ける石田さんに、ほんっっとに申し訳ないけどバス来ちゃうからまたLINEで!っつってそこで別れる。
その日から、石田さんとはよく会うようになった。いや、会うようになった、なんてとぼけるつもりはない。彼女は明らかに、そういう意味で距離を縮めようとしてくれていた。最初は少し戸惑ったけど、今ではもう悪い気はしていない。彼女とは会話のテンポが合う気がするし、俺のちょっとした一言で笑ってくれて、喜んでくれる。そういう反応が、男心をがっちり掴む。「部活頑張ってください」なんて、青春の代名詞みたいなレモンのはちみつ漬けを差し入れしてくれて、いよいよ曖昧な態度を取るのが申し訳なくなる。中庭の休憩スペースで一緒に昼飯を食った後、俺の方から告白した。
お互いに初めての恋人だった。
俺が部活で忙しいせいで寂しい思いをさせてしまうこともあるけど、できるだけ彼女のために時間を捻出した。他の女子が来るような飲み会には行かないようにしたし、不安や不満を抱えていないかしつこいくらい聞いた。付き合う前にスマホのアルバムに残っていた他の子の写真も消したし、実家の机の上にずっと置きっぱなしだったあの箱も捨てた。高3の誕生日に貰ったお菓子の箱。何かに使えるような丈夫な箱でもないし、もう取っておくことはできない。ゴミ箱に落とした時の、嫌になるほど軽い音が、妙に耳に残った。
交際は順調で、気付いたら半年が経過していた。ちゃんと大切にできてるって手応えがあったし、彼女が隣で笑ってくれるだけで満たされた。それなのに。
「もういいよ鉄っちゃん。好きになろうとしてくれてありがとう。」
ある日、部屋でダラダラ喋った後、彼女が突然そう言い出した。
いや、突然でもないか。本当はちょっと気付いていた。何かがズレているって。彼女の求めるているものは、俺には無いんだって。玄関に向かってしまう彼女を追うこともできない。そのくせ、ちゃんと好きだったよ、なんて口が勝手に動く。最低だ。分かってた。俺は彼女を利用して自分の欲を満たしていただけだ。求められることに喜び、それに応えられることに喜び、”いい彼氏”で居られることに満足していた。でも好きだったのも多分嘘じゃないんだ。笑った時に八重歯がチラッと見えて、ちょっとやんちゃな印象になるとことか、好きだったよ、ちゃんと好きだった、はずだ。
俺がフラれたと知ると、友人達は大層喜んだ。もう合法で酒が飲める年齢になっていたから、悪い奴らに勧められるがままに飲んで、吐いた。吐くものが腹に入っていたことに謎に安堵したけど、結局それも全部出ていってしまった。俺の臓物は、一体いつ、どこに行ってしまったんだ。
──────
3年になると、俺は公式試合でもコートに入れてもらえるようになった。大学レベルでは俺の身長は平均のちょい上くらい。ミドルブロッカーとしてはちょっと心許ない高さだ。俺は絶対にミドルじゃなきゃ嫌ってこともなかったけど、監督がブロックの技術を買ってくれて、結局ポジション変更はしなかった。バレーは楽しいし、Vリーグのチームからもいくつか声を掛けてもらってるけど、俺がやりたいことは多分違う。この先もずっとプレーヤーで居たいとは思っていない。それよりもっと、バレーボールは面白いってことを多くの人に知ってほしい。指導者ってのも楽しそうだけど、これもまたちょっと違う。多分俺向いてない。チームとしての戦略考えたり、個性に合わせた育成とかは得意な方だと思うけど、いざ選手の運命を握るとなると、その責任は計り知れない。ある種ギャンブルに挑むような感覚だ。俺はそこが足りないと思う。…まぁつまり、進路どうしようって話だ。
「黒尾ー、ちょっといいか」
「ハイ!!」
クールダウン中、監督に呼ばれて走って向かう。「お前、Vのチームは断っていいんだよな?」と言われて、ほんの少しだけ悩むけど、肯定した。季節はもう冬で、就活に向けたセミナーの案内なども来るようになった。同期にはVリーグのチームへアナリストとして入部することが決まってる奴もいる。それもマジで楽しそうだけど、今からじゃ遅い。そして、基本そういうのは監督経由で話が回ってくる。うちの大学はかなりバレー界とズブズブだ。協会の重鎮、有名な指導者、トレーナー、アナリスト、もちろん選手も、うちの出身者はめちゃくちゃ多い。ぶっちゃけ俺がここを選んだ一番の理由はそこだ。うちの監督はそこら辺との繋がりが深く、そのコネで将来的にもバレーに深く関われると期待した。ただ、当然全員が全員ってわけじゃない。
「じゃあよ、お前、協会どうだ?」
「…はっ、えっ」
「本部の方に一人、コミュニケーション能力高い奴が欲しいって言われててよ、プレーヤー続ける気ねぇなら、どうだ?」
「……ッぜ、是非!!是非お願いします!!」
監督は笑って、「じゃあ話しとく」と言った。
───協会。
日本バレーボール協会。
JVA。
一般企業のように毎年採用選考などは行われていない財団。それこそ、こうしてツテやタイミングが合わなければ入れないような組織だ。 そこと今、繋がった。これまで先輩後輩、同期、どんな奴とも上手く付き合ってきたことが評価された。まだ詳細は聞いていないけど、協会に入れるなら、当然バレーボールと関わり続けることになる。もし望むような業務内容じゃなかったとしても、その組織内で人脈を作れば、更に先の将来に活きることは必至だ。
数週間後、ごく普通のビルの一室で、監督の後輩だというJVA職員から説明を受けた。配属される可能性があるのは、普及、広報、マーケティング…その辺りらしい。そんなの、俺が一番やりたいことだ。聞き上手なその人の前で、恩師との出会いや、バレーボールという競技そのものへの敬意、特に、もっとバレーボールを知ってほしいと思っていることを熱く語ってしまう。職員の方は満足そうに微笑んでくれた。今日はあくまで説明。一度持ち帰り、また監督経由で意思を伝えることになった。翌日、早速監督に是非とも協会で働きたいという旨を伝え、そこから書類を作成、提出、面談をした。そして、一般企業の就活が本格化する前に、JVAから内々定を貰うことができた。
「うっそ、JVA?!進路JVA?!」
「ま〜じで運が良かった。今でもちょっと信じられん。」
同じゼミで、女バレの篠崎に事の顛末を伝える。
彼女も既に進路がほぼ決まっていて、今は2つのV2チーム、どちらにするかだけ迷っているようだ。
「じゃあ今日はお祝いしちゃう?」
「お。奢り?」
「今日だけね!」
ゼミの連中とはかなり仲が良く、特に篠崎とはバレーの話もできるし、自然と一緒に過ごす時間が増えていた。近場の飯屋にチャリで行き、乾杯する。周囲より一足お先に進路が決まり、就活へのプレッシャーから解放された俺達はちょっとテンションが高めだ。もう自分の飲み方も分かっていて、帰りにチャリでフラつかない程度に抑えつつも、気分良く飲んだ。進路の話、部活の話、卒論の話……。ほぼ同じ立場だから、話すことは尽きない。その自然な流れの中で、「黒尾はなんで彼女作んないの?」と聞かれてギクッとする。前の彼女にフラれてから、そういうことには消極的になった。俺は相手を対等に見れていなかった。安全圏に身を置き、求められたものだけ提供して承認欲求を満たしていた。そんな自分の浅ましさが嫌になり、自然と女子とそういう雰囲気になることを避けてきた。まぁでも、よくある事と言えばそうなのかも知れない。元カノへの申し訳ない気持ちは消えないけれど、もう過去の話だ。別に隠すようなことでもないし、そのまま全部話してしまう。
「多分俺向いてないんだわ、そーゆーの」
「ふーん」
篠崎は興味があるんだかないんだかよく分からないような相槌を打つ。そういうものなんだろう。サラッと話が流れていくのが、不思議と心地良い。
4年になり、俺達は比較的余裕を持って卒論に取り掛かった。ゼミの後、そのまま篠崎と一緒に図書館へ行ったり、別にそんな話すわけでもないのに一緒にカフェで作業したりと、篠崎が同じ空間に居るのが当たり前になった。ある日、彼女が私服で登校してきたことがあった。まぁ普段から私服っちゃ私服なんだけど、うちの大学は男子も女子もほぼ全員ジャージかスウェットで過ごしているから、それ以外の装いを見ると物珍しく思ってしまう。そうだよな、コイツも女子なんだよな、なんて、失礼ながらに認識を改めた。お互いに大学の近くに住んでるから、ちょっと体調が悪い時とかは看病しに行ったり、そんなことしてたらお互いの部屋で作業すんのも当たり前になったり、あれ?男女でこの距離感って大丈夫なんだっけ?って不安になった頃、それを見透かしたように「いっそ付き合う?」って提案される。
「それって今となんか変わんの?」
「変わんないならそれはそれでいいじゃん」
「うーん…」
「そんなに気張らなくても。ものは試し、じゃない?」
俺はあんまり乗り気じゃなかったけど、前の彼女とうまく行かなかった話を知った上での提案だったし、篠崎とは既にこれ以上ないくらい対等。前回と同じことにはならなそうだと踏んで、頷いてみた。その時の篠崎のちょっと嬉しそうな横顔に、今までと違う感覚がブワッと広がる。単純だ。
何が変わるんだって思ってたけど、下の名前で呼び合ったりしてみると、意外とすんなりそういう感じになる。でも気まずくはならない。こういうのを相性が良いっていうのかも知れない。
数ヶ月経ち、彼女が卒業後に所属するチームが正式に決まった。九州のチームだ。卒業したら俺達の関係はどうなるんだろう。彼女がそばに居なくなるのは寂しい。里奈は俺の日常に完全に溶け込んでいた。でも正直、俺はずっと自分の気持ちに自信がなかった。分からないんだ。恋なのか愛なのか情なのか。そんなものハッキリ区別する必要もないんだろうけど、相手が向けてくれる感情と見合っていない気がして、ずっと申し訳なさを抱えていた。だって里奈は多分、俺のことをちゃんと好きだ。重くならないように振舞ってくれているけど、分かる。俺が分からないのは自分の腹の中だ。俺はまた何か間違えているんだろうか。分からない。分からないままの俺を、里奈は分かっていると思う。結局また甘えている。いいのか、こんなんで。風が乾いてくる季節、俺の不安はまたしても見透かされる。
「ごめん、ここまでにしよっか」
「鉄朗の穴は、私じゃ塞げないね」
「お互い次に進も」
穴って、なに。
なんて聞く余裕はなかった。
前の彼女と同じように玄関へ向かって行ってしまう彼女を、またしても俺は追わない。これ以上、甘えられない。
「大切だと思ってたのは本当だ」
零すようにそう伝えると、里奈は「知ってる」と言って笑う。またゼミで。気まずくなんないようにしよ。彼女はどこまでも大人で、優しかった。なんで俺なんかのことを好きになってくれたんだ。勿体なさすぎる。次は絶対、幸せになってくれ。閉まっていく玄関の隙間から、ビュウと秋の風が吹き込む。それが俺の身体を通り抜けていった。
────────
最後のインカレに、卒論の提出。とにかくバッタバタで、寂しさを噛み締める時間はそんなに多くはなかった。そもそも、俺の身体に空いているらしい空洞は、もう何年も前からこうだった気がする。一時的に埋めてくれた人が居ただけで、これは元々こうだった。なんで空いてんだっけ、これ。忘れた。
荷物を段ボールに詰め、部屋を綺麗に掃除する。もう大学に来る用事はほとんど無い。JVAからは正式に内定を貰っていて、来週から手伝いに行かせてもらう予定になっている。出張とかも多くなるらしいけど、拠点は東京だから、一旦実家に戻って、また都内で部屋を探すつもりだ。
こっちでの生活は、色々あったけど充実していたと思う。
交友関係も広かったし、部活の仲間達の連絡先もしっっかり登録してある。誰がどのチームに行くとか、どの企業のどの部署に入るとか、そういう情報も全部全部メモった。いつかまた連絡させてもらうだろう。
石田さんと篠崎には、悪いことをしたと思う。もしかしたらもう本人達は俺の事なんか気にしていないかも知れないが、どうか俺みたいなのじゃなく、ちゃんと自分を持った男と幸せになってほしいと願うばかりだ。
実家に戻った翌日、とある病院を訪れる。
ここに、猫又監督が入院されているらしい。俺はどうしてもJVAへ勤めることになったと伝えたくて、時間を取ってもらった。病室のドアを開けると、記憶の中より更に丸まった背中が見える。「お久しぶりです」と声を掛けて、微笑んでくれる元気そうな姿に安堵しながら椅子に腰掛ける。協会に務めることになりましたと伝えると、細い目が見開かれ、再び細められる。
「お前はほんっと、バレーが好きだよなぁ」
「監督のおかげですよ」
俺も誰かのネットを下げたい。俺がまだガキの頃、監督がそうしてくれたように、そういう仕事ができたら最高だと思っていた。そして、運良くそれを叶えるための絶好の環境を得た。後は全力でやるだけだ。思わず童心に返ったように語ってしまったけど、監督が嬉しそうに笑ってくれるから、俺も素直に嬉しくなる。
「競技人口増やしてみせますんで、まだまだお元気で居てくださいよ」
「こりゃ、くたばる訳にはいかねぇなぁ」
30分ほど談笑して引き上げる。
望んだ通りの進路が決まり、恩師にも喜んでもらえて、俺の人生は本当に恵まれている。
病院を出ると冷たい風が吹き付け、マフラーに顔を埋めて耐え忍ぶ。ぐしゃぐしゃとポケットの中のカイロを握りしめて駅に向かうと、懐かしい母校の制服に身を包んだ男女とすれ違う。陽に透けて輝くショートヘアの女子高生を認識した瞬間、胃が逆転したような感覚に襲われ、口元を覆う。いやいやいやいや、怪しいだろ。ごめんね、なんでもないからね。別にその子達はこっちなんか見ちゃいなかったけど、なんだか自分が不審者みたいな気がして、心の中で謝っておく。吐き気はすぐ収まった。一体なんだったんだ───いや、考えても仕方の無いことだ。
そんなことより、明日はスーツを作りに行く。その場しのぎのリクルートスーツじゃなく、ちゃんとしたやつ。これから仕事で使うことになる一張羅だ。目を向けるべきは目の前に広がる未来のこと。不安や緊張は1%くらい。希望や期待、やる気が99%くらいだ。
俺の人生は本当に恵まれている。強がりとかじゃなく、本気でそう思ってる。
足りないものなんて何もないはずだ。