赤い糸40,075km
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ピロリロリン、ピロリロリン、ピロリロリン
「ふぅーーー……」
携帯のアラームを止めて、シャーペンを赤ペンに持ち変える。長文を読むのも大分慣れてきた。採点をすると、一問だけ間違っている。あー…この構文、他の問題でも間違えたやつだ。解説ページを開いて読み込み、もう一度英文を読み解く。ここでbeingが省略されてるんだ。だからここの主語はheじゃない。自分が引っかかりやすいところを重点的に復習し、ノートにまとめる。試験はもう来週。そこそこの自信はあるものの、安心なんてできない。でもちょっと頭が疲れてきた。少し休憩しようかななんて考えていると、携帯が新着メールを知らせる音を鳴らす。受信フォルダを見てみると、差出人は赤葦くんだった。
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お忙しいところすみません。
せっかくバレンタインなのでチョコでも差し入れしたいんですが、一瞬だけでもお時間貰えませんか。
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バレンタイン……。確かに今日は2月14日。例年ならコンビニやスーパーの特設コーナーを見て実感するけど、今年はずっと引きこもって勉強していたからすっかり忘れていた。えー…チョコ……食べたいなぁ……。疲れた脳が糖分を欲しがり、涎が垂れそうになる。ちょうど休憩しようとしていたこともあって、直ぐに返信する。
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嬉しい!!
部活終わったとこかな?
私もちょっと散歩したいと思ってたんだけど、どこ行けばいい?
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ありがとうございます。
では××駅まで伺うので、そこでいいですか?
30分くらいで着くと思います。
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了解!
じゃあまた後で。
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スムーズなやり取りをして、駅に向かうべく支度をする。最寄り駅までは10分ほどで着くけど、少し遠回りでもして散歩しよう。兄が冬休みに置いていった風を通さないアウターに袖を通し、ウォークマンと財布だけ持って家を出る。
イヤホンから流れてくるのは、過去問の付録として付いていた英文の教材だ。無駄に公園の中を歩いたりしながら、その内容を頭の中で噛み砕く。…これ、過去問でやった問題文だ。確かこの一文が引っかけで、ノートにもまとめた。自分の勉強の成果がちゃんと身になっていることを感じつつ、駅の方へ向かう。その途中、コンビニの前を通りかかり、なんとなくその中を眺める。ガラスの扉の向こうには、有名なお店のチョコが並んでいた。
───私も赤葦くんにチョコ買って行こうかな。
まだ時間に余裕があるし、そもそも貰うだけなんて気が引ける。彼には本当にお世話になっているし、せっかく当日会えるならチョコを贈らない理由はない。コンビニに入り、一番無難そうなものを選ぶ。赤葦くんの好みは分からないけど、多分そんなに量は要らないだろうし、オーソドックスなもので正解な気がする。私は自分が食べる分を買いたい気持ちを必死に抑えながら、赤葦くん用のチョコだけ購入してどうにかコンビニを抜け出す。危なかった。これから赤葦くんがチョコをくれるというのに、久しぶりに見るお菓子売り場には新商品も多く並んでいて、つい誘惑に負けそうになってしまった。そうこうしている内にちょうどいい時間になってくる。私は今度こそ真っ直ぐに駅へ向かった。
改札の近くで待っていると、定期券をかざす音と共に人々がぞろぞろと改札を抜けて来る。その中に背の高い男の子を見付けて、顔が見えるようにちょっと移動する。
「あ」
「赤葦くん!お疲れ様」
「お疲れ様です。すみません、わざわざ」
「それはこっちのセリフ」
軽く話しつつ、どことなく違和感を覚える。赤葦くんは制服姿で、濃いグレーチェックのマフラーと黒い手袋をしていた。初めて見るその姿がなんだかとても新鮮で、ついまじまじと観察してしまう。私の知ってる赤葦くんはいつもハーフパンツを履いていたから、スラックスを綺麗に着こなしているとまるで別人のようだ。「足長いね」なんて思ったことをそのまま口にすると、「センタープレスが入ってると、そう見えるんですかね」と相変わらずのマジレスが返ってきて嬉しくなる。これぞ赤葦くんだ。私の好きなコミュニケーションを自然としてくれる。また思ったままにマフラーが可愛いと伝えると、平坦な声で「ありがとうございます」って言うけど、ちょこっとだけ照れたのが分かる。顔も声も変わらないけど、なんとなく。雰囲気で。
そんなやり取りを少しした後、赤葦くんが手に持っているビニール袋をスっと差し出す。有り難く受けとると、中には定番チョコレート菓子がぎっしり入っていた。
「色々考えはしたんですが、久世さんなら質より量かなと思いまして」
「えー!正解!すごい!ありがとう!」
よく見てみると、ついさっき買おうとして我慢した新商品も入っている。エスパーだ。赤葦くんは絶対エスパーだ。喜びをまたそのまま表現して、赤葦くんが全部にマジレスしてくれる。彼との会話は、幼馴染だっけ?と思うほど心地が良い。そんな彼に、自分もチョコを用意してきたことを思い出す。
「赤葦くんにはね、量より質かなって思って」
「え、」
小さい紙袋を差し出すと、赤葦くんは停止してしまう。瞬きもしない。完全停止。いつも冷静な彼がこんな風に処理落ちするなんて珍しい。もしかしてチョコ嫌いだった?と聞いてみると、やっと瞬きと呼吸が再開される。
「…頂いていいんですか」
「もちろん。赤葦くんに買ってきたんだよ」
「……ありがとうございます…」
まるで壊れ物みたいに丁重に受け取られ、なんだかくすぐったくなる。そういえば人にチョコを贈るのは初めてだ。今までのバレンタインといえば、クラスや後輩の女の子がチョコをくれたり、自分で買ったりして食べた記憶ばっかりだ。そのこともそのまま伝える。赤葦くんと居る時、私の脳と口は直通だ。親しい女友達と居る時でさえもう少し考えてから話すのに、いつの間にかこうなってしまった。もはや調教、洗脳レベルだなと思うほどに、己の意志とは関係なくそうなってしまう。つらつらと話し終えると、間ができる。…あれ?おかしいな。赤葦くんはいつもすぐ返事をしてくれるのに。
「………本当に俺が貰っていいんですか」
「うん?うん。」
赤葦くんはじっと紙袋を見詰めている。まじまじと、本当にここに存在するのか?って確かめるように。そしてゆっくりと私と視線を合わせて、「大切にします」って言う。コンビニでサッと買ってきただけのチョコなんだけど、今この瞬間にとんでもない価値になった気がする。理由は分からないけど。私も大切に頂くねってコンビニ袋をかかげると、「勉強中の糖分補給にしてください」と柔く微笑まれる。
そこから赤葦くんが乗る電車が来るまで、木兎が引退してからも毎日のように練習に来ることや、私の第一志望の学部に赤葦くんも興味があることなんかを話した。改札の奥に消えていく彼に最後に手を振って、再びイヤホンをして歩き出す。聴こえてくる内容は、留学生の日記のようなストーリー。メインは異文化交流、語学学習の大変さ。その中で、ホストファミリーの娘に淡い感情を抱いていることが伝わってくる。食卓に並ぶ時、彼女のすぐ隣に座っていいものか悩んだという一文。リアルだし、とても共感できる。こうして当たり前のように英語を聞き取れるようになったことが、自信に繋がっていく。そして同時に、自分の恋のことを思い出す。
引退してから、黒尾にはぱったり会わなくなった。
会わなくなったのは黒尾だけじゃなく、他のバレー部のみんなもそうだし、友達もそうなんだけど。黒尾と会わなくなって、私の恋心はやっと解放された。とはいえ基本的には勉強に集中しているから、そんなに好き好きって想い続けている訳じゃないけど、近くに居た1年半の間に起きたことを思い返して、たまに悶絶している。抜け駆けになってしまわないようにと自制していたけど、今黒尾を好きな子達に顔向けできるかと言われれば微妙だ。最後の最後までマネージャーの枠を越えないようにするつもりだったのに、春高の夜は絶対越えてしまっていた。でももうそれも終わったから、大目に見てほしい。
私と黒尾を繋いでいたのはバレーだけ。
もう私はマネージャーじゃない。ただのクラスメイトだ。引退後も黒尾はたまに勉強の進捗とかをメールで聞いてくる。まぁこれはクラスメイトの範囲だろう。同じように春高まで部活に打ち込んで、そこから難関校を目指す仲間はそう居ないし、これくらいが適切な距離感。いや、本来なら私が彼と気さくにメールしているのもちょっとおかしい。元々彼は手の届かない人で、私はその背中を見ているだけで十分幸せだった。光のように駆け抜けていった1年半は、私の宝物だ。思い返すと、本当に夢みたいな時間。これ以上なんてない。
私の中の黒尾は、あっという間に“黒尾くん”に還っていく。
───────
連日の試験を乗り越え、私の大学受験は終わった。
何度も胃液がせり上がってきそうになったけど、その度にバレー部のみんなの姿を思い浮かべた。やり切った。全てぶつけた。みんなのように。
そして卒業式前夜。
第一志望の大学の合否が発表される。
0時になったと同時にページにアクセスしてみるけど、一向に繋がる気配がない。そこから1時間近く粘ってみるものの、結局合否の確認はできなかった。明日…というか今日は卒業式だし、そんなに夜更かしはしたくない。私は確認するのを諦め、落ち着かない気持ちのままベッドに潜った。
朝、携帯の目覚ましアラームを止めて、そのまま合否発表のページにアクセスしてみる。
……繋がった。
上半身を起こし、何度か深呼吸をする。受験番号と生年月日を入力して、震える指で確認ボタンを押す。
映し出されたのは、『入学手続きの案内』。
ベッドから飛び出し、リビングまで駆け下りる。家族に受かったことを伝え、喜びと安堵で泣いた。大学受験は当然自分のために頑張っていたことだけど、心のどこかでバレー部のため、黒尾のためとも思っていた。私が第一志望に落ちたら、春高まで残ったせいで…と考える大人もきっと居る。きっと黒尾も、ちょっとそう思う。だからそうはさせたくなかった。私が最後までバレー部に居たことを、間違いにはしたくなかった。
これで一抹の不安もなく卒業できる。
これで、一つも思い残すことなく黒尾とさようならができる。
風の強い日だった。
冬の突き刺すような寒さは和らぎ、少し丸くなった空気が風に磨かれて過ぎて行く。制服のプリーツスカートが揺れ、乱れた髪を手櫛で直す。3年間通った音駒高校。この校舎に足を踏み入れるのも、今日で最後だ。
教室に入ると、すぐに黒尾と目が合う。一目散に目の前までやって来て、「どうだった?」と真剣な面持ちで聞いてくる。お互いの第一志望の結果が出る日程は連絡済みだから、私の合否を伺っているということは分かる。でも黒尾の方は確か明後日だったはずだ。先に伝えてしまっていいんだろうか。そんな私の戸惑いなんて最初から分かっていたかのように、「いいから、早く」と催促される。もし自分の方が発表が後だったら、多分私も先に相手の合否を聞く。じっと私の言葉を待つ黒尾に、覚悟を決めて口を開く。
「…受かりました…!」
「……!すげぇ…!さっすがだなお前…!」
彼は自分のことのように喜び、そして掌をかかげた。ハイタッチを求めるその手を素直に叩く。目元をくしゃっと綻ばせ、ニィィと歯を見せて笑うその表情に、胸がキュンと音を立てる。クラスメイト達の視線が少し気になるけど、もういっか、最後だし。でも「ご利益もらっとこ」なんて言って私の近くの空気を頭に被るのはさすがに恥ずかしいからやめてほしい。黒尾がまだ結果を待っている状態だと気付いたクラスメイト達が「まだ進路決まってねぇの?」と話し掛けてきて、私はタイミングをみてその輪から外れる。ほどなくしてHRが始まり、卒業式が始まった。
式の後は再びHR。担任の先生から最後の言葉を貰い、スケジュールとしてはこれで全て完了だ。ただ、この後バレー部で集合する予定があるので、私はそそくさと教室を抜け出す。黒尾や夜久くんは人気者だからちょっと遅くなるかな、なんて考えながら廊下を進むと、途中で海くんと合流する。二人で約束の中庭に向かい、既に集まっていた後輩達と改めて別れを惜しむ。やっぱり遅れてやってきた夜久くん、更に遅れて黒尾がやってくると、猫又監督から最後の激励を貰う。
春の風の中、鼻を啜る音と笑い声が響いていた。中庭には私達と同じように部活単位で集まっている集団の他に、教室を離れた卒業生グループ、そんな卒業生を見守る在校生達が徐々に増えていった。離れがたくてバレー部のみんなとダラダラ話しつつ、後輩の女の子に声を掛けられて度々輪から外れる。委員会が一緒だった子や、文化祭の時に話した子。その内の一人がリボンを下さいと言ってくれたので、プチッと外して渡した。慕われるのは純粋に嬉しい。再びバレー部の輪に戻ると、今度は黒尾が呼び出されていく。彼はやっぱり人気者で、男子からも女子からも引っ張り凧だ。ボタンとかネクタイとか、全部売り切れてるんじゃないだろうか。そうこうしている内に、友人達を待たせていることに気が付く。名残惜しいけれど、行かなくちゃ。
バレー部のみんなには引退の時も気持ちを伝えたし、今日も十分話せた。反対に、私がバレー部に入ってからこれまで、友人達とはあまり一緒に過ごす時間が取れていなかった。だから春休みはいっぱい遊ぼうねと約束しているし、今日も一緒に帰る約束だ。
「じゃあね、みんな。また試合観に行くからね」
「ありがとうございました」「お世話になりました」「大学の勉強頑張ってください」そう言ってくれる仲間達に手を振り、校門の近くで待つ友人達の元に向かう。少し歩いたところで振り返ると、黒尾もバレー部の輪に戻って来ていた。風で独特の髪型とブレザーが揺れる。そこにはやっぱりボタンはもう付いていなさそうだ。
その背中が、なぜかあの日の黒尾くんとリンクする。
1年生の時の夏、たまたま見かけたバレー部の練習。
そこで黒尾くんに一目惚れした。
ボロボロでボールを追うその泥臭さい姿と、それでも楽しそうに笑う、どこまでも純真で美しいバレー愛。
人を食ったような態度の裏に隠した繊細さ。
高校生らしからぬ繊細な気遣いと、どこまでも柔らかい優しさ。
部長としての責任感の強さや面倒見の良さ。
大好きなバレーに真摯に向き合う姿。
バレーを愛しているが故のプレースタイルと、それを驕らない姿勢。
仲間に向ける温かい瞳。
たまに年相応に無邪気にくしゃっと笑う顔。
好きだった。
君のことが、ずっと。
ついにその想いがバレないまま卒業できたことを誇らしく思う。でも、ごめん。直視すると、この想いはあまりにも大きく、あまりにも重たい。一人で抱えきれないこの想いを、ほんの少しだけ、この場所に置いていってもいいだろうか。ほんの少しだけ、この音駒高校に。
「透香ー?」と校門の外で友人が呼ぶ。それに「今行く」と返事をして数歩歩み寄り、本当に最後、最後にもう一度だけ振り返る。
…変な髪型。
風に揺れるその寝癖が、この世の何より愛おしい。
───黒尾くん。
頭の中、あの日の君が振り返る。
「 大好き 」
声が落ちてしまう前に、一際強く吹いた風が攫っていく。
安堵、寂しさ、虚しさ、誇らしさ、愛しさ、簡単に言葉にできない感情が押し寄せ、鼻の奥がつんと痛む。
仲間達と笑い合うその背中を目に焼き付け、背を向ける。
帰りがてら、実はずっと黒尾のことが好きだったんだって、友人達に聞いてもらおう。校門の外で待つ友人達の元へ駆け寄る。そして、音駒高校の敷地から、外へと足を踏み出した。