赤い糸40,075km
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1月6日、夜。
「…あ、ココア買うの?」
今朝の移動中、研磨に「透香の好きなココア入ってたよ」と教えてもらったから、早速ホテルのロビーに買いに来ると、ちょうど研磨と鉢合わせる。その手には既に缶が握られていて、それはまさしく私がこよなく愛するメーカーのココアで嬉しくなる。研磨に返事とお礼をして、はやる気持ちを抑えながら購入していると、研磨はストーブに一番近いソファに腰を下ろした。なんと、ちょっとここで話に付き合ってくれるらしい。私もその向かいに腰を下ろすと、「人少なくなって快適…」なんて言うから、さすがに苦笑いするしかない。同じホテルにはうちの他にも二校くらい宿泊していたけど、一回戦で敗退してしまったのか、そもそもバレー部の人達では無かったのか、どちらにせよ今夜はその気配はない。
「…透香はさ、俺たちが苦しんでる時楽しそうだよね」
「急に人聞き悪いなぁ…。どういうこと?」
ココアの甘さと暖かさに包まれていると、研磨が唐突に話し出す。でもその内容は全く身に覚えがない。
「今日の試合もさ、俺ボロボロなのに、TOの時とか試合後とかすっごいニコニコ見てたでしょ…」
「見てた…。ごめん、楽しくて」
「ふふ…、結構戦闘狂だよね、透香って」
戦闘狂…。そのワードはいかがなものかと思うけど、実際、今日の試合はすごく興奮した。対戦相手の早流川工業はうちに負けないくらい粘り強くて、戦略的。それに対して研磨が出した案が、ただ耐えるだけの対策じゃなくて、むしろ罠に嵌めるような、好戦的な作戦。しかも自分が一番つらい役割を担うことを、自ら提案した。そんなの興奮しないわけがない。ニコニコしていた自覚はないけど、全国という舞台で輝く仲間達を誇らしく思っていたのは事実。
「確かに、デュース一生見てたいなって思ってた」
「…透香はそんなに騒がないってだけで、実は翔陽とか木兎サンとかと同じカテゴリーだよね」
「えっ、嬉しい」
私が素直に喜ぶと、研磨はちょっと渋い顔をしてココアを啜った。あの二人のバレーへの向き合い方は大好きだから、同じだと言ってもらえるのは純粋に嬉しい。でも確かにバレー楽しいぜ!うおお!って感じで、研磨からしたらちょっと騒がしすぎるのかも知れない。でも、研磨と日向くんは、紛れもなく“友達”。
「明日はその日向くんと試合だね、楽しみだね」
「うん…、そうだね」
「あ?研磨?…と、久世?珍しいな、お前らがわざわざこういうとこで喋んの」
黒尾の声がして、その姿を確認すると、私と研磨は示し合わせたかのように立ち上がる。「なんで俺来たら解散?!」ってショックを受けてる黒尾を尻目に、空き缶をゴミ箱に捨てて階段に向かう。
「春高楽しいねって話してただけだよ」
「俺はそんな話してないけど…、まぁ烏野とやるのは楽しみだねって話してたよ」
「ああ…そう…」
「ちゃんと歯磨きなさいよー」って言う黒尾の声に適当に返事をして部屋に戻る。そんな、いつもと変わらない夜。
そしてついに、カラスとのナワバリ争いが始まる。
三日目ともなると、見慣れてきた天井の高さ、照明。応援席には旗が立てられ、いつものメンバーの他に学校のみんなも多く詰め掛けているようだ。もしマネージャーになっていなかったら、私もあそこにいたかも知れない。いや、家で配信を観ていただけかも。もしくは、それすらしなかったかも知れない。キュ、と、仲間達と同じフロアを歩く。こんなに近くに居る権利を、与えられている。試合中にマネージャーができることなんかない。でも、生半可な気持ちでここに居る訳でもない。ふと、烏野のベンチに視線をやると、清水さんは真っ直ぐに仲間の背中を見詰めていた。そうだよね、私達にできること、それだよね。いつも通りの円陣、そして、いつも以上の気合い入れをしてコートに向かう仲間達を、ただ誇らしく思う。一片の曇りもなく、ただ、信じている。
1点目から怒涛のラリーが続き、そして、影山くん日向くんのあのとんでもない速攻でやっとボールが落ちる。「あはは!」とつい笑ってしまう。失点は失点だけど、大丈夫。みんななら必ず対策して、慣れるはず。だからこうして純粋にバレーボールに胸を躍らせることができる。日向くんのサーブからのレセプション、烏野には初めて見せる同時多発位置差攻撃。それに、月島くんが付いてくる。さすが───!ワンタッチを取られ、烏野のカウンターも同時多発位置差攻撃。澤村くんにトスが上がったのを見て、福永くんと黒尾が無駄のない横移動で付いていく。そして、しっかりと前に伸ばされた腕が、完璧にそのスパイクを捉える。
「ナイスブロックーー!!」
「いぞいぞ鉄朗ー!!押せ押せ鉄朗ー!!」
ドシャットが決まると、会場は一気に盛り上がる。墨田の時も思ったけど、この応援団の声援は、頼もしいなんてものじゃない。フローターの子にSAを獲られてTOを取り、その後うちも黒尾のSAがあり、烏野にTOを取らせる。2点を追いかけるような試合運びの中、互いに20点代に乗った辺りから研磨の策がじわりと効いてくる。そして23-23、また黒尾のブロックが出て、ここで烏野に追いつく。さすが主将と言った働きっぷりだ。いつにも増して、頼もしい。デュースの末、音駒が第1セットを先取した。
「楽しそうね〜」
コートを移動中、黒尾が隣に来る。昨夜研磨に指摘されたように、またニヤニヤしてしまっていたんだろう。でもそりゃニヤニヤするでしょ、こんな試合。私は高まった情熱をそのままに、第1セットの黒尾の活躍っぷりを賞賛した。大事な場面でのドシャットも、ネチネチブロックも、サービスエースも、クイックも、地味だけど熟練されたレシーブの数々も。黒尾はまさしくオールラウンダーで、彼のプレーの良さを語ったら一晩じゃ足りない。1番が書かれたその背中をパシパシと叩きながら語ると、黒尾は「わかった、わかったから…!」と照れてしまったようだ。意外と褒められ慣れてないよね、この人。
「次も頼むよキャプテン」
「…はーい」
ベンチのそばに荷物を下ろして、いつになく饒舌な研磨の話を聞く。この試合、うちの戦略は”徹底した日向くん潰し”。とにかく、彼に助走をさせない。1歩出遅れさせるだけでもいい。そうすることで、考慮すべき選択肢、そのパーセンテージは変わる。
第2セット。2,3点のビハインドを抱えながらも、確実に日向くんの牽制には成功していた。その羽根を少しずつ捥ぎ、飛べなくしていく。日向くんにトスが上がる可能性が低いなら、ブロッカーの思考はクリアになる。そして20-19。うちの守備は、完璧に完成する。打っても必ず捕まる、拾われるという圧力が、相手スパイカーのミスを誘い、ボールに触れずして得点する。───これが、音駒の完成形。日向くんは完全に鳥籠の中。このまま音駒ペースなら、ストレートで勝負がついてしまいそうな雰囲気がある。「フォローー!!」仲間に声援を送りつつ、日向くんの様子を観察する。いつものような覇気はないけれど、希望も失っていない表情。音駒のマネージャーとしては、研磨の戦略が綺麗にはまっていることを喜ぶべきで、このままの流れで勝利することを願うべきだと思う。でも、どうせなら。どうせなら、もっとバチバチにやり合いたい。菅原くんがお祭りだと言っていたように、どうしてもこの試合に、勝敗を超えた熱さを求めてしまう。勝手に、このまま終わる日向くんであってほしくないと思ってしまう。福永くんのサーブが白帯を掠め、烏野のレシーブが乱れる。ここからの速い攻撃はないだろうし、田中くんは牽制した。エースに託すのが定石のこの場面───
「オープン!!!」
────オープン・・・??!
えっ?はっ?センターオープン・・・?!
センター攻撃は速さが武器。それが背の低い日向くんなら尚更。
真っ向勝負するの?うちの守備に対して?速さという武器を捨てて?影山くんの、美しく、高いトス。それに合わせて、たっぷりと助走した日向くんが飛ぶ。今までもよく飛ぶ選手だったけど、それ以上に、彼は空中高くに、飛んだ。そして振りかぶったその手は、ボールにミートせず指先だけを掠める形になる。予期せぬ放物線を描いたボールは、うちのコートへと落ちてしまう。
──今…のは……?
まぐれで得点になったものの、背の低い日向くんでオープン勝負なんて無謀すぎない?いやでもさっきの跳躍力なら、武器になってしまう…のか…?でもトス合ってなかったしやっぱりもうやらない?ぐるぐると思考する内に、すぐ次のプレーが始まってしまう。
「ッナ、ナイスカット!」
ラリーが続く中、再び影山くんが「オープン!」と言う。リエーフくん、虎くん、研磨の3枚が付くけれど、日向くんが最高到達点まで辿り着く前に、ブロックの方が先に落ちてしまう。そして、研磨の手の上から打ち込まれる。22-23、烏野に逆転を許す。…駄目だ、ごめん。2セット目のこの点数で逆転されたのにこんなこと思うのは間違ってる。でも。
楽しくなってきた──!
犬岡くんや手白くんを投入してこちらも仕掛けるけれど、息を吹き返した日向くんに引っ張られたように調子を上げた烏野に、セットを奪われる。勝敗は、第3セットへと持ち越された。
セットカウント1-1、これはイーブンに見えてイーブンじゃない。3セットマッチの試合では、第2セットの最後の雰囲気がそのまま勝敗に直結するパターンも多いし、日向くんも新しい武器を持って戦線に帰ってきた。だから本当は何か気の利いたことでも言った方がいいんだろうけど、ごめんね。今私、絶対ニヤニヤしてる。みんなにドリンクやタオルを渡しながら、その背中を叩く。みんななら大丈夫、と簡単に言える状況でもない。でも、負けたらどうしようなんてことも考えない。そんな余地もなく、ただ次のセットが楽しみで仕方がない。監督、コーチ、私も含めた全員で円陣を組むと、黒尾が「ご褒美タイムだ」と言う。その言葉に、飛び跳ねて喜ぶ。
───世界が、キラキラして見える。
「やっっくーん!!ナイスレシーーブ!!!」
「ナイスキィィ虎くん!!」
「ナイスワンチ!!」
まるで自分の腕にもボールの衝撃が伝わるような迫力、没入感。ベンチにまで伝わる緊迫と高揚、疲労、快感。目の前で繰り広げられているのは、間違いなく、最ッッ高のバレーボール。
リエーフくんのブロックでコースを絞らせ、東峰くんのスパイクが抜けていく先、そこに、ちゃんと黒尾が居る。胸の辺りの高さのボールは取りづらい、けど、上手く体を捻って腕に当てる。それがちゃんと、Aパスになる。───これぞ音駒。コートの中で声高らかに笑う黒尾は、多分今世界で一番カッコいい。クイックは月島くんにワンタッチを取られ、烏野の攻撃も最短、高さ勝負。クイックが決まると、月島くんは笑う。バレーボールが楽しいかと聞かれて微妙そうな顔していた彼が、気付けばこんなにも楽しそうにバレーをしている。西谷くんのスーパーレシーブ、虎くんの冷静なレセプションからの極上ストレート。みんなの120%が発揮されているのが分かる。研磨も珍しく意地になって食らいついてるし、2セット目と同様に投入した犬岡くん、手白くんも活躍してくれてる。影山くんのトスは相変わらずキレッキレ、烏野の攻撃力は衰える気配がない。第3セット、しかもラリーの多い試合、それでもまだ同時多発位置差攻撃をしてくる。烏野は殴ることをやめないし、うちも守ることをやめない。
───楽しい、楽しいね、
世界中のバレーボーラーの中で、これほど純粋にバレーを楽しいと思える試合を経験できる人は、どれくらい居るのだろう。
乳酸の溜まる足、ままならない呼吸で鈍る思考。それでも考える。それでもボールを追う。ボールを落としたら負け、そして、繋いだ先、また相手が何をしてくるのか見てみたい。それを阻止してみたい。まだ、もっと、こうしていたい。
私はただベンチに座っているだけ。それでも伝わる。飲まれる。心が揺れて、勝手に涙が出てくるけれど、多分笑ってる。
「ナ゛イスレシィィブ…!!」
田中くんのストレートを海くんが拾い、会場が響めく。私達は驚かない。だって海くんだから。今まで一緒に練習してきたから。綺麗に返ったパス、研磨がその下に入る。虎くんがトスを呼んで、リエーフくんも助走に入る。そして。
21-25。
汗まみれのボールは研磨の指先で滑り、床に落ちた。
試合終了の笛が鳴り響き、くたりと身体の力が抜ける。
そんな私の背中を、猫又監督がポンポンと叩いてくれた。
コートの中のみんなは当然ぐったりして、フラフラしながら酸素を取り込んでいる。その姿は、この世のどんなものよりカッコよくて美しい。リザーブから黒尾がやってきて、研磨と話して何やら騒がしくしている。夜久くん達がそれを指差して笑っていて、じんわりと、終わったことを実感する。
「ありがとうございました!!!」
整列する選手達と一緒に、精一杯の声を出す。こんな試合を、この場所で見させてもらえた。これまで頑張ってきたみんなと、烏野に、心からの感謝が湧き上がる。両チームが讃え合った後、みんなが監督の元へ集合する。涙でぐちゃぐちゃの後輩達を見ると、私もまた鼻の奥がツンと痛む。隣では直井コーチも肩を揺らして泣いているし、別に我慢するものでもないか。はたはた溢れる涙をそのままに、愛しい愛しい仲間達の姿を眺める。黒尾は泣かないよね、いっつも。でも絶対、心は一緒。タイミングを見て、私は烏野のベンチに走る。腕を広げてくれた清水さんに抱きついて、背中を叩き合う。「ありがとう」「頑張ってね」「応援してるね」自分が何を言っているのかよく分かっていないけど、清水さんは「うん」と力強く返事をしてくれる。撤収作業しながら見つけた谷地さんにもハグ攻撃をして、コートを後にする。自分用に持っていたポケットティッシュを夜久くんや後輩達にも回して、一緒にビビッと鼻をかんでいると、通りすがりの黒尾がガシガシと頭を撫でて行く。…このカッコつけめ。でも今日くらいは許すことにする。
荷物をサッと片付けて戻ると、すぐ隣のコートではまだ梟谷の3回戦が行われていて、そのちょうど最後のプレーを見ることができた。勝利を収めた梟谷メンバーがはけてくる時、地味に赤葦くんにアピールしてみるとすぐに気付いてこちらに来てくれる。
「準々決勝進出おめでとう!」
「ありがとうございます。…そちらは、お疲れ様でした。」
「うん!最高に楽しかった」
赤葦くんは柔らかく微笑み、そしてチラリと視線を上に向ける。何か気になるのかと聞いてみると、どうやら私の髪が跳ね散らしていたらしい。絶対さっきの黒尾のせいだ。急いで直し、次の試合は客席から応援することを伝えた。
最後にもう一度、この位置から高い天井を見上げ、その景色を焼き付ける。そして、私達音駒はアリーナから撤収した。
──────
梟谷、そして烏野の準々決勝を見届け、ホテルに戻る。
最後のミーティングをして、明日の登校のことについても連絡が回る。遅刻は当然として、1,2年生は可能な限り出席。3年はもう自由登校だ。春高が終わると同時に、高校生活も終わっていく。
ご飯の後、自室で赤葦くんへのメールを打ち込む。カコカコと携帯を揺らし、遠慮なく長文で試合の感想を書き込んでいく。梟谷は準決勝進出。本当にすごいことだ。清水さんにもお疲れ様と受験も頑張ろうって思いの丈を送信すると、とうとう現実に引き戻される。うちは敗退した。つまりは、引退。…実感ないなぁ。少し風に当たりたくなって、部指定のウィンドブレーカーを羽織ってホテルから出る。これに袖を通すのも今日で最後か、なんて、じんわり感傷に浸る。今までずっと、勝利のイメージだけを持って突っ走ってきた。一度も、負けた時の準備なんてしてこなかった。だから、時間差でどうしたらいいのか分からなくなる。試合は最高だった。あんなに素敵な引退時試合はそうそうない。未練もない。でも、そっか、明日は無いんだ。終わったんだ。全部。冷たい空気が鼻腔に突き刺さる。…少し歩こう。べそべそしながら歩くなんて不審者だけど、この辺はそこまで人通りが多くない。宿の敷地を出て、一つ角を曲がったところで、後ろから声を掛けられる。
「どこ行くんだよ」
「……黒尾、」
なんで居るの、と聞く前に「お前が出てくの見えたから」と答えが返ってくる。黒尾はウィンドブレーカーを着ていないから、冷たい風がひゅうと吹くと肩を狭くして「さみっ」と震える。寒いなら早くホテルに戻ったらいいのに、黒尾はそのまま塀に背を預けてしまう。それはここで私と話すという意思表示。黒尾とこうして二人で話すのも、きっと最後。まだ部室の片付けとかはあるけど、基本はそれぞれ受験勉強に追われてろくに登校しないだろうし、そうなれば顔を合わせることもない。だからつい、「早く戻りなよ」とは言えず、私もその場で立ち止まる。
「…私今、センチメンタルだけど」
「ふは。自己申告制」
黒尾の笑いが、白く空気に溶けていく。それをこんな距離で見詰めるのも、最後。きゅううと胸が狭くなる。多分今、マネージャーとしてずっと応援してきた部長を見ていると同時に、ただの恋する人間として、ただ好きな人として、見てしまっている。でも最後だから、どうか許してほしい。今は制御ができない。黒尾は空を見上げながら、「…ありがとな、」と呟く。
「お前がマネージャーになってくれて良かった。…って、何度思ったか分かんねぇわ」
私の涙腺を緩ませるのには十分な言葉。喉がギュッと閉じてしまうけれど、私にも伝えたいことがある。グッと堪えて、冷たい空気を吸う。
「…ありがとうは、こっちのセリフ。黒尾が誘ってくれなかったら、経験できなかったことが沢山あった。…まさか自分が、こんなふうに青春するなんて、思ってもみなかった…」
あの日、黒尾が部活を見に来いって、マネージャーになってほしいって言ってくれなかったら、私は今ここに居ない。入部したばかりの頃は本当に黒尾だけが頼りで、なんでもかんでも全部黒尾に聞いていた。季節が巡って他のみんなや新入生とも仲良くなって、毎日部活の時間がなりより楽しみだった。合宿で出会った赤葦くんや木兎、自主練メンバーの成長を見守れるのも本当に誇らしくて、その全てで、この人がそばに居た。全て、この人が与えてくれたもの。ちゃんと目を見て伝えたくて、震えた声で「…黒尾」と呼んでみる。すると彼はゆっくりと顔をこちらに向ける。その瞳は少し揺れているように見えて、私の心もまた揺れる。でも、ちゃんと言いたい。この人に。
「マネージャーに誘ってくれてありがとう。………た、のしが、った…」
ガシャリ。
ウィンドブレーカーが音を立てる。
目の前には、黒尾が着てるパーカーのフード、その内側。
ぎゅううと力強く圧迫されるように、抱き締められている。
驚きで涙が引っ込みそうになるけれど、黒尾が震えるていることに気付いて、結局泣く。ぐぐっと更に抱き込まれて、肩口に空を見上げるようにして泣く。青春の終わりの寂しさと、これまでの全ての感動と、感謝と、とにかくいっぱい、色んな気持ちが、涙になって溢れてくる。耳の後で鼻をすする音がして、もしかして黒尾も泣いているんじゃないかって思ったら、無意識にその背中に腕を回していた。黒尾はビクッと身体を強ばらせた後、またぎゅうと腕を回し直して鼻をすすった。…泣けるなら、泣いたらいい。カッコつけのこの人のことだから、もしかしたら泣くのが下手なのかも知れない。私は自分もボロボロ泣いてるくせに、黒尾の背中をポンポンと撫でる。寒空の下、二人でしばらく、そうしていた。
お互いの呼吸が落ち着いた頃、ゆっくりと腕の拘束が解かれる。二人ともズビズビと鼻をすすっていて、とてもじゃないがこんな至近距離で顔を見ることはできない。私はこれまた自分用に持ってきていたポケットティッシュを取り出し、「要る?」と聞いてみる。「要る」と短く返事が返ってきたから、差し出された手に一枚渡して、自分も一枚取り出して鼻をかむ。
「戻ろっか、」
「ん…」
いつもより口数の少ない黒尾と、少し緊張しながら歩く。宿の敷地内を進んだところで、「ベクチッッ!!」と大きめのくしゃみが響く。私が身体の冷えを心配する前に、黒尾が「ダサ…」と恥ずかしそうに零すから、その相変わらずさになんだか笑えてしまう。
「ダサくないよ。今日の黒尾は、誰が何と言おうと、世界で一番カッコよかった。」
あ、これも、マネージャーとしての言葉じゃなかったかも知れない。どれだけ恋情が滲んでしまっているのか、もう分からない。だけど許して。本当に最後だから。黒尾は少し呆けた後、顔を覆って「泣かそうとすんの禁止」って怒りだした。そんな姿を笑いながらホテルに入り、その温かさに身体の緊張が緩む。「暖かくして寝なさいよー」なんていつもの黒尾の真似して言ってみると、彼はまた照れ隠しで「どうも」って怒ったような声色で言う。だけどその後、階段を登って別れる時、柔らかく、これ以上ないくらい優しい声で「おやすみ」って言う。彼の目元は少しだけ赤くなっていて、それがたまらなく愛おしい。
「おやすみ」
同じように返して、1人用の宿泊部屋に向かう。
引退の実感、寂しさ、色んな感情を、言葉以上に共有することができて、心があたたかく、安定する。
こうして、2013年1月7日、春高三日目の夜は更けていった。