赤い糸40,075km
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合宿2日目の夜。なんとなく嫌な予感がして薄暗い校舎の中を歩く。気になるのは、久世と赤葦のこと。あの二人は気が合うようでやたらと仲が良い。それは別に今に始まったことじゃなく、変わったのは俺の方だ。俺が久世のことをそういう意味で好きになってからは、二人の関係性がどういうものなのか気になって仕方がない。見たまんま、ただの気の合う友人なのか、それとももっと特別な何かなのか。最近赤葦が俺に向ける目がやたらと冷たい気がして、妙な焦りを感じる。そんな中、主将副将会議に入浴にと行動を共にした赤葦が、木兎を適当に躱してそそくさとどこかへ向かって行く。怪しすぎるだろ。正直すぐさま尾行したいところだったが、さすがにそれは諦めて一度部屋に戻る。でもどうしても気になってしまい、今に至るというわけだ。
マジで何やってんだろ俺。アイツのこと好きなのかもってなってから、ずっと調子がおかしい。頭を搔いて溜息を吐きながら歩く。本当にアホらしい。もう戻るか、と考えた時、遠くの自販機の辺りから人の話し声がすることに気付く。耳を澄ませてみると、それは男女の声だ。こんな時間に逢瀬とはいただけねぇな。大事な合同合宿、何か問題を起こされたら面倒だ。ここに来てるマネちゃん達はみんなしっかり者に見えたけど、男の方はどうか分からない。チャラついたような奴なら、しっかり釘刺さねぇと。そう思って近付いていくと、その声が聞き慣れたものによく似ていることに気付く。嫌な予感の正体って、まさかコレかよ。自販機の奥、そのベンチに座っていたのは、予想通り久世と赤葦だった。
「お前らこんなとこで話してんの?」
そう言う自分の声は、想像以上に動揺を孕んでいた。しかも久世がこうしたことは去年からだとサラッと言うから、動揺が加速する。去年はまだ彼女はマネージャーになったばっかりで、赤葦とだって初対面だったはずだ。その時からこうして二人きりで会っていたなんて想像もしていなかった。せいぜい練習試合や合宿とかで会った時には一番よく喋る相手…くらいだと思っていたのに。久世の方はこの場面を見られても特にいつも通りの態度だ。やましいことがないんだろう。なら、赤葦の方は…?チラッと様子を窺うと、鋭く睨まれた気がしてサッと逸らしてしまう。怖ッ。えっ。怖いんですけど。最近冷たいと思っていたのは気のせいじゃなかったのか。それってやっぱ、赤葦は久世のことが好きで、いつもそばに居られる俺の事を敵視してるってこと…だよな…?もしかしてとは思ってたけど、やっぱりそうなのかよ。二人はしっかりと距離を置いて座っていて、そこにいかがわしい雰囲気はない。赤葦の方がどう思っていようが、相手は最強のフラグクラッシャー、久世だ。俺だって幾度となく心を挫かれてきた。そうそう何か起こったりしないだろう。赤葦だって問題を起こすような奴じゃない。というか、この二人はどちらかと言うとド真面目な堅物タイプだ。このまま二人きりにするのは癪だが、とりあえずは、まぁ、いい。
「まぁいいや、お前らに限って妙なことは起きねぇだろうし」
無自覚に、言葉がチクチクと鋭さを持つ。赤葦の眼光もやはり鋭い。それを受け止めながら、俺も今度は引かない。んな怖い顔すんなって。確かにお前よりずっと久世と会える機会は多いけど、そんな俺でも暖簾に腕押しなんだから、俺を敵視したって何にもなんねぇよ。気持ちは分かるけど。
久世に追い払われてその場を後にする。あの子はなんっも分かってないんだろうな、自分がどう思われているのか。気付いてほしいような、気付いてほしくないような。もし俺達の気持ちに気付いたとして、彼女はどうするんだろう。困惑して…一生懸命考えて…、そんで、多分どっちも振られる。そもそも、久世って恋愛感情とかあるんだろうか?そっから怪しい。無いなら無いでしんどいが、有るなら有るで、赤葦と二人きりで過ごすのを見過ごす訳には行かない。どうせ俺が何を聞いたって彼女は大した動揺も見せないし、明日聞いてみるか。俺は部屋に戻り、少し早いがもう消灯だと言って仲間達を布団に入れ、自分も床に着く。そしていつものように枕を引き寄せる。止まらない思考を無理やり抑えつけ、目を閉じた。
─────
翌日。
朝食のために食堂へ向かう久世を発見し、取っ捕まえる。当然拒否されるが、彼女は人の多い場所で騒ぐことを嫌うから、強引にいってしまえば意外と押し切れる。そんなこんなで一緒に朝食を摂る権利を無理やり獲得した。向いの席に座る彼女は不貞腐れているけど、俺には聞かなきゃいけないことがある。食堂が賑わってくるその前に、俺はさっさと話題を切り出した。
「単刀直入に聞くけどさ、お前って恋愛感情とかある?」
彼女はゆっくりと瞬きをし、俺の質問の意図を考えているようだ。ん?と首を傾げ、顎に手を当てて長考に入るその姿は、まぁ想定の範囲内だ。普通急にこんなこと聞かれたら、多少なりともドキッとしたりするもんなんじゃねーの。お前だって一応多感な高校生だろ。でもやっぱり久世は普通とは違ぇよなぁなんて考えながら眺めていると、彼女がやっと口を開く。
「昨日赤葦くんと二人でいたから?」
「えっ、あぁ、まぁ、そう」
「何も無いよ?」
グサッ。
あんな仲良いのにそんな当たり前みたいな顔で言われると、なんか俺にまで刺さるんだけど。赤葦まだ食堂に来てねぇよな?!と辺りを見渡す。良かった、まだ来てない。
「多分、私が誰かとどうこうなることなんて無いよ?一生。」
グサーーーッッ。
「……ア………ソウ……?」
「うん」
「ソッカァ…」
一生無いなんてなんで言い切れるんだよと問い詰めたいところではあるが、これ以上は俺のHPがもたない。やめだやめ。休戦休戦。
「マネージャー業に支障が出ることなんて無いから、安心して。」
「…ハイ……。」
俺は別にそんなことを心配した訳じゃないんだけど、久世はなんだそんな事が気になってたのか〜みたいな顔で勝手に納得したようだ。箸を進め、美味そうに焼き鮭を食っている。この子に恋愛はまだ早いってことなんだろうな……。飯を食ってる時の彼女は、惚れた欲目なしでも可愛い。久世は綺麗だけど、クールな雰囲気が格好良すぎて、男子高生にとってあまり恋愛対象に入るようなタイプじゃない。本人もそう思ってるんだろうし、そこは否定しない。でもこういう姿を見たら、彼女のことを好きになる奴なんていくらでも居るはずだ。一度気になってしまったが最後。よく見てりゃ可愛いところがボロボロ出てくるし、とにかく頑張り屋さんで尊敬できるところもたくさんある。凛とした表情が綻び、ゆるりと目を細めて微笑まれたりしたらもう心臓を掴まれたも同然だ。もしかして俺だけ特別?って思わせるのが上手い。無自覚に。そんで本人は恋愛?ナニソレ美味しいの?状態だもんな〜〜。はぁ〜、しんど。
「あ!!赤葦くんのことは勿論大好きだよ?!分かってると思うけど」
「ウン。分かってる。」
駄目だ。久世が何を言ってもダメージになる。とりあえず彼女は今恋愛というもの自体が眼中になく、しかも一生無いとさえ思っている。つまり、ライバルが居たとしても、俺もソイツもみんなみんな無しだ。完全脈無し!全員死んでいます。もし彼女に無理やり手を出すような奴だったら流石にどうにかするけど、赤葦はそんな奴じゃない。深追いしたところで何か良い方向に進むとは思えないし、首を突っ込むのはやめておこう。まぁやんわりと動向は窺わせてもらうけど。でも多分、アイツは自分を戒めてでも、久世が困るようなことは絶対にしない気がする。俺も、とりあえず引退までは本格的に動くつもりはない。今死んでるし。
とりあえず俺がこの合宿中にやるべきことは、これ以上久世の可愛いところに気付く奴が増えるのを阻止すること。この子の傍には常に俺が居るぞとアピールして牽制すること。本人には普通に嫌がられるけど、脈無しがいくらマイナスになったってもう関係ないだろう。
─────
「うちの子どこ行ったー?」
「お前はこっちな〜」
「あんま俺から離れないよーに。」
「おーい、うちの可愛いマネちゃん」
連日繰り返す他校の奴らへの牽制は、つい調子に乗ってエスカレートしていた。離れたところに居る時は必ず目で追うし、ちょっと不自然になってでも俺の影に隠して他の奴の目に触れないようにする。そんなことを続けていると、とうとう久世は振り返りもしなくなってしまった。
「そんな人は居ません。」
「…いや、お前のことだけど」
やっと振り向いた彼女は、死ぬほど嫌そうな顔をしている。嫌がることは分かってたけど、実際その顔を向けられるとやっぱりキツい。でも目的を達成するためにはここで引いちゃ駄目だ。俺はあくまで平静を装って久世と対峙する。
「そういうの、何のためにやってるの?」
「お前に変な虫が付かないように」
「は?」
ひっ。
今まで聞いた中で一番冷たい声じゃん。真夏だというのに、俺達の周りだけ雪が降るんじゃないかってくらい空気が冷たい。試合間の休憩中、俺達の氷点下の雰囲気に気付いた奴らがチラチラこっちを見ている気がする。見るな。好きな子に詰められてる俺を見るな。
「ここに来てる人達は、みんな真剣にバレーをしに来てるんじゃないの」
「そりゃそうだけど…」
久世はマジで男子高生を舐めてる。そりゃバレーをやりに来てんだけどさ。可愛いマネちゃん居たら普通に視線を奪われるし、お近付きになれねーかなとか色々考えたり行動したりするもんなんだよ。バレーに打ち込むこととそれは並行して存在すんの。多分言っても分かんねぇだろうけど。彼女は回収したボトルを抱えながら、深く重たい溜息を吐いた。なにもそんな怒んなくてもよくね?
「私に対してそういうのやめてよ、必要ないでしょ」
「は?」
今度は俺の口から冷たい声が出る。必要ないってなんだよ。というか、私に対しては?その言い方だと、他の子に同じようなことするのは納得だけど自分にだけはするなっつってんの??はぁ???俺はお前が好きだからやってんだけど。そんなの周りの奴らだってとっくに気付いてんだけど。でもそんなの久世は知ったこっちゃないんだよな。分かってる。でも、じわりと憤りが込み上げてきて睨み合ってしまう。彼女も引かない、けど、ふっとその睫毛が伏せられる。その顔は、怒っているというよりも悲しんでいるように見える。
「私そんな浮かれポンチに見える?」
「…え、」
「合宿中は他校とか関係なく色んな仕事するし、確かにこういう時しか話せない人とは積極的に話す時間作ったりしてるけど、一番大事なのは音駒のみんなのサポートをすることだよ。…真面目に、やってるつもりなんだけど」
……お、おお…。
認識の齟齬がえぐすぎて声も出ねぇ。お前がいつも俺達のことを一番に考えてくれてるのなんて分かってるしクソ真面目なのも当然分かってる。でもコイツは、他校の男と関わって浮ついてマネージャー業を疎かにするんじゃないかって、俺がそう疑ってると思った訳だ。違いすぎる。全然、話が通じなさすぎる。
返す言葉も見つからず、焦りと苛立ちが募ってきた時、夜久がスッと入ってくる。
「久世、お前が真面目にやってくれてるのなんて分かってる。このアホが気にしてんのはそういうことじゃねぇ」
アホ、と親指で指されるがそれはもういい。助けてやっくん。この子ほんっと何も分かってないんだけど。俺は夜久が入ってきたことで緊迫した雰囲気が中和されたことにホッと息をつく。久世の方は怒られた子供みたいに眉を下げて、夜久の話を真摯に聞いている。
「お前は自分が恋愛対象とかになることはないって思ってんのかも知れねぇけどな。こんだけの人数が居りゃ、お前がタイプだって奴が一人二人居たって何も不思議じゃないだろ」
びっくり。え、そうなの?と聞こえてくるくらい、彼女は驚いている。というか夜久の言うことは素直に受け入れるのなに?俺も似たよーなこと言わなかったっけ?……あれ?言ってないっけ?
「で、それでお前が浮かれるだなんて思っちゃいねぇよ。お前がマネージャー業手ぇ抜いたことなんかねぇだろ」
あーこれだこれ。そういうの全部はっきり言葉にするからズルいよなやっくんて。久世も「分かってくれてる…!」って感激して目を輝かせてる。俺に足りないのはそーゆーとこね。
「でもな、お前がどんだけ頑張ってくれてるのか大して知りもしない奴がヘラヘラ寄ってきたら、なんかムカつくんだよ。このアホはそれが嫌であんな馬鹿みたいなことしてんだ。」
馬鹿とかアホとか散々な言われようだけど、事実なので黙っておく。久世は夜久の言葉を受けて少し考え、そして「ガビーン!」とか「ピシャーン!」みたいな効果音が聞こえてくるような、そういうことかー!って顔をする。大方、逆の立場で考えてみたりしたんだろう。恋愛面を除けば、コイツは別に察しが悪い方じゃない。俺の間抜けな独占欲とかは何一つ分かってないだろうけど、今はざっくりと状況を理解してくれればもう十分だ。
「…でも…やめてほしい……」
さっきみたいにキツい言い方じゃなく、下手からお願いするように言われて俺もグラつく。夜久も「確かにやり方がガキくせぇよな」と同調していて、それについては本当に俺もそう思うけど、でも効果はあるだろ。あからさまにやり過ぎたから逆にガチじゃないと思われてる可能性もあるけど、少なくとも俺が久世をめちゃくちゃ気に掛けてるってことは合宿に参加してる全員に伝わったはずだ。伝わった…から、牽制としてはもう十分…か?
「完全にはやめないけど……ちょっと、控えるわ」
「うん、お願いします」
久世はホッとしたように表情を和らげる。正直、うちの可愛い子〜とか言うのこっちも若干緊張すんだけどな。でもそれで少しでも照れたりしてくれたらな〜なんて期待してたんだけど、結果としては怒らせて困らせちまったわけだ。ほんと、この子相手だと何一つ思い通りにいかない。
「またコイツがウザいことしてきたら俺に言えよ、追い払ってやるから」
「ありがとやっくん」
…俺の味方って存在しねぇのかな……。まぁ彼女と変に気まずくならないようにしてくれた夜久には感謝しかない。休憩時間が終わり、久世は慌てて追加ドリンクを作りに走っていった。その後ろ姿をぼうっと見詰めていると、隣の夜久が「お前の恋が全然進展してねーの、すげー愉快」と言ってくる。それを聞いて少し離れたところに居る研磨と海も笑っているようだ。うるせぇな。相手が相手なんだからしょうがねぇだろ。俺は大袈裟に溜息を吐いて、「オラ、次のコート行くぞ」と話題を切り替えた。
この日の戦績もまずまず好調。他校の戦術も盗みつつ、俺達は着実に成長していた。1年はそりゃまだ未熟だけど、精一杯食らいついてくれてるし、2,3年の安定感、練度は梟谷にだって負けてない。後はやっぱり攻撃面。山本もエースとして十二分に頑張ってくれてはいるが、チームとして決定力に欠けるのは相変わらずの課題だ。仲間達に少しでも楽させてやりたいし、合宿が終わったらまた厚めにサーブ練するか。春高までには必ず、崩すだけじゃなくちゃんと単品で点を取れるようにする。俺個人の目標としてはそこだ。
試合を全て終え、涼を求めて外に出る。もう日も傾いていているし、そもそも森然は立地が良いから、ゆったりと流れる風も東京ほど温くない。適当に腰を下ろして見渡すと、烏野の連中もやっとペナルティを終えたようだった。他の奴らも今日の合同練習を全て終え、思い思いに散っていく。森然だからと言って、当然暑いものは暑い訳で、はしゃいで水を被ってる奴らも居る。それを元気だな〜なんて眺めていると、体育館の裏から現れた久世がその近くまで小走りでやってくる。ホースVSバケツで水をぶっかけ合う他校の後輩を見て、ちょっといいなーって思ったろ。絶対。目が輝いてんのよ。彼女はああ見えて子供っぽいところがあるから、ああいうじゃれ合いも結構好きなんだろう。久世がその二人を避けて通り過ぎようとした時、ちょうど満タンのバケツが翻される。もう一人はそれを素早く避けて、ホースの先を窄めて応戦する。
「うぶ、」
その両方が、久世にクリーンヒットした。
その光景を目にした全員が息を飲む中、俺の身体は無意識に動いていた。いつ立ち上がってどんだけの歩幅で歩いてんだか全く分からないが、一目散に彼女の元へ向かう。彼女は呑気に「ありゃ…」とか言って、びしょ濡れになったTシャツの裾をウエスト辺りまでたくし上げ、そこでジョバッと服を絞った。
「バッッ…!ッカじゃねぇの!??!!」
目の前まで辿り着き、彼女の両肩を掴みながら怒鳴る。久世はただただびっくりして固まっている。固まっているから、Tシャツを掴む手はそのままで、彼女のウエストから腰へのライン、白い肌が剥き出しのままになっている。
「手ぇ離せ!!!」
「ハイッ!!」
俺の剣幕に、久世が素直に従って手を離す。でも、だからって何も解決していない。俺達が着ているのと同じ、うっすいメッシュのTシャツが、彼女の身体にこれでもかと張り付き、そのシルエットを露わにしている。誰も見るな…!!俺も見るな!!とりあえず俺が壁になってるから他の奴らからは見えてないはずだけど、どうしたらいいんだコレ、俺のシャツ被せるか?!この汗くっさいシャツを?!そうだ、マネちゃんズは?!こういうのは女子に任せんのが一番だろ。首だけで振り返り辺りを見渡すが、マネちゃんの姿はない。役立たずの男共が呆然としているだけだ。水遊びをしていた二人組は顔を真っ青にして謝っているが、今構ってる暇ない、後にしてくれ。でも久世は「大丈夫だよ」とでも言いたいのかその二人の方へ顔を出そうとするので、シンプルな腕力でそれを抑えつける。動くな、頼むから。………とりあえず、まずは避難だ。
「回れ右」
「?!」
「そのまま前進」
「わわ」
掴んでいた彼女の肩をクルッと回し、背を向けさせる。そしてまた肩を掴み、グイグイと押して歩かせる。……はぁ。どうすっかなコレ…。後ろを向かせたことに油断し、視線を落とす。
アッ、
くっきりと浮き彫りになった下着のラインを見てしまい、ぎゅっと目を瞑る。
…………正直さ、こないだ二人で買い出し行った時のやつ。俺まだアレをゴリゴリに引き摺ってんだよね。じわじわ罪悪感で結構しんどくなってるワケ。それなのにこういう追い討ちみたいなのはさぁ〜〜〜〜…………。
…うだうだ言っても仕方がない。俺は顔を上げて、決して下を見ないようにして目を開けた。体育館の裏には、大きい倉庫がある。一旦そこに入って、どうするか考えよう。
「……裾絞ったら怒る?」
「怒る」
「……」
倉庫の中へ久世を押し込み、やっとその肩を離す。俺が目元をぐっと抑えてどうするべきか考えていると、久世がまた呑気なことを言うのですぐ黙らせる。…とはいえ、本当にどうしたらいいんだ?素材的に、真昼間ならすぐ乾きそうだけど、今はもう夕方だし、あまりにもぐっしょり濡れすぎている。着替えなんて当然ないし、それを取りに行かせる訳にも行かない。コイツを一人にして俺が取りに行くのも不安だ。やっぱ一時的に俺の着せとくしかねぇのか…?いやでもすげー汗かいてるし、それは最後の手段にしたい。
「…ねぇ、じゃあ、お願いしてもいい?」
「あ?」
声を掛けられて、思わず顔を上げそうになるのを既で止める。彼女の顔色は窺えないが、その声色には相変わらず恥じらいはなく、ただほんの少しだけ控えめだ。
「私この中で脱ぐから、黒尾が外で絞ってきてくれない?」
「…………………??」
「生地薄いし、一回絞っちゃえばそれで万事解決だと思うんだけど」
………?脱 ぐ ?
いや、なんでそれOKもらえると思った?
脱ぐ………?脱…………………。
いや、男子だったら分かるよ?むしろ男ならその場でパッと脱いでギャッと絞ってはい解決だ。そもそも男の体に布が張り付いたから何だって話だし。でもキミ女の子………。そう思うと女子って色々不便だな。…じゃなくて、えーと、えーと?なんだっけ?だめだもう頭がまわらない。
へぷしっ。
小さなくしゃみが聞こえる。この倉庫の周りは高い木が生い茂っていて、一日中日陰になっていたんだろう、倉庫の中の空気は外よりずっと涼しい。コイツをこのままにしておく訳にもいかない。クソ、もう分かんねぇ。
「…じゃあ、そう…する……か…??」
「うん!ちょっと、もうちょっと奥まで来て」
一応彼女にも多少恥じらいがあるようで、物を避けて倉庫の奥まで進んでいく。それを足元だけ見てゆっくり付いて行き、身体の向きを180度変える。俺はもう、何も考えないことにした。背中の方に手を出して待つと、「お願いします!」とびしょ濡れの布が指先に押し付けられる。それをしっかりと握って、一度倉庫の外に出る。
ジョババババババ
ジョワッ
ピチャチャ、タタタ……
俺今、絶対真顔。
親の仇かってくらい固く絞ったTシャツを広げてパパッと伸ばす。これならもう張り付かないだろうし、着てりゃすぐ乾きそうだ。よし、すぐに戻っ────待て。落ち着け。このまま普通に歩いていって良いわけないだろ。でもこの倉庫の中のことはそんなに把握していない。後ろ歩きは危険すぎる。俺は片手で目元を覆い、絶対に自分の足元しか見えないようにして倉庫の奥を目指した。えっと、確かこっちの方だよな。つい先程の曖昧な記憶を頼りに物の間を進む。「ありがとー」と声がする方へ右腕を伸ばすが、Tシャツを受け取られる気配はない。まだ遠いのか?さっき俺はここまで奥には来なかったから、もうどのルートで行けばいいのか分からない。でも声がしたのは多分こっちだろ。そう思って進むと、何かに左肩を強打する。
「だッッ……!?」
「ッ!」
反射的に手を離し、視覚に頼る。
体が右に傾き、古いボールが乱雑に放り込まれた鉄製のカゴに吸い込まれそうになる。これ絶対痛いやつ…!バランスを取ろうとしても右足のすぐ横には何かがあって、体重を移すことが出来ない。もう諦めて痛みに備えていると、俺の右腕が強い力で前方に引き寄せられる。
ゴンッ!
「いッッ!!…でッ………!」
「あ!ごめん!」
次の瞬間、俺はデコを壁に強打した。
どうやらドンガラガッシャンは免れたようだが、じんじんと痛むデコと左肩の感覚に唸る。というか今、何が起きた?左を振り返ると、そこにはこれまた古ぼけたバスケットゴールが置いてあり、なるほどあれにぶつかったのかと納得する。そんでよろけて、えーっと….。
はた、と思い出す。
右手に握った湿ったTシャツ。
俺と壁との間にある、柔らかいもの。
一歩後ずさりをして、状況を見る。
俺は多分、死んだ方がいい。
───男には2種類ある。
好きな子でガンガンえろいこと考えるタイプの奴と、ある一定を超えると罪悪感の方がデカくなりそれ以上考えられなくなる奴。
ちなみに俺は後者で、ついさっきその一定を超えた。思いっきり超えた。そんなつもりじゃなかった。本当だ。俺はあの子のことをそんな即物的な目で見たい訳じゃない。そりゃ女の子として好きだし多少のラッキースケベは歓迎する。でも俺は彼女のことを人として尊敬してるし、とにかくその、もう、殺してくれ。さっきのはどう考えても事故、だけど、でも事故だったとしても気持ち悪いとか思われるのは仕方ないことだ。というか本人が気にしなかったとしても俺が気にする。本当にこんなつもりじゃなかった。それなのに自分の中には確かに昂りもあって、どうしようもなく男であることが悔しくて、浅ましくて嫌になる。もうやだ。ほんとごめん。泣きそ。
「すごいカラカラだー!ありがとね〜」なんて言う久世の声がだんだん近くなる。呑気だなあ!!もう!!
「よし!自主練行こ──えぇ?!大丈夫?!」
倉庫から出てきたらしい彼女の声がクリアに聞こえてくる。そして俺が蹲って顔を覆っていることに気付き、慌てた様子で駆け寄ってくる。───なんでそんな普通?年頃の女の子が下着姿見られたんだから、もうちょっとくらい照れたり何なりするもんなんじゃねぇの?…いや、今そういう反応されたら俺が保たないからいいんだけどさ。
「ぶつけたとこ痛い?」
「頭打って具合悪くなっちゃった?」
「だ、大丈夫?ごめんね、大丈夫?」
俺の周りを右往左往しながら心配してくれるその様子に、胸が痛くなる。本当にごめん。今だけ彼女にとって無害な生き物になれないだろうか。猫とか。なんて現実逃避している間も、久世はオロオロと俺の体調を気に掛けている。……はぁ、本当に、情けない。
「…なんでもない、行くか」
立ち上がり、顔も合わせられずに歩き出す。後ろを付いてくる彼女が、ぶつけた額や肩が痛んでいないかと聞いてきて、そこでやっとぶつけたこと自体を思い出す。言われてみれば多少痛むが、大したことはない。振り向きもせずに適当に返事をして、思考を巡らせる。今俺が考えるべきことは、どう気持ちを切り替えるかということだ。せっかくの合同合宿。ここでしかできないことはたくさんあるし、ツッキーの育成もかなり楽しくなってきた。ボケッとして過ごすなんてあまりにも勿体ない。でも自主練には久世も居るし、集中できる自信はそんなにない。どうすっかな。なんなら木兎のスパイクを顔面に食らったりしたらスッキリするだろうか。いや、それよりも赤葦にぶん殴ってもらった方がいいか?ぐるぐると考えている内に、第三体育館の側まで来てしまった。その扉に向かっていると、斜め後ろを歩いていた久世がピタリと足を止める。
「…私、今日は虎くんの方手伝いに行こうかな」
そう言われて、流石に振り返る。久世はニコリと微笑み、片手を振って踵を返してしまう。完全に気を遣わせた。最悪だ。
「久世、」
コイツが自主練メンバーを大好きだってことは嫌ってほど知ってるし、急に来なくなったら、俺だけじゃなく他の奴らだって気になるはずだ。というか何より、居てほしい。俺がバレーしてる時、その傍らにはお前が居てほしい。それはお前をマネージャーに誘った一年前から、ずっと変わらない。名前を呼んで引き留めると、彼女は「ん?」と優しい声音で振り返る。子供っぽいところもあるかと思えば、こうして俺のモヤモヤを見抜いて優しく身を引こうとしたりもする。この人には、本当に敵わない。
「ごめん、ちゃんと集中するから、今日も居てほしい」
俺がそう言うと、彼女は真意を探るように数秒俺の瞳の奥を覗き、そしてゆるりと微笑む。そのあまりにも優しく溶ける瞳が、俺は好きだ。
よし決めた。今日は後輩指導もしつつ、コイツの目を一番輝かせるようなプレーをしよう。そう決意しながら、嬉しそうに駆け寄って来る久世と一緒にいつもの第三体育館に足を踏み入れた。
────
「うおぉおお!?黒尾さんスゲー!!」
「またドシャット!!」
「ナイスブロック〜!」
自分でも単純だとは思うが、アイツにいいとこ見せたいと思うと自然と動きが良くなる。ぐぎぎと悔しがる木兎をネット越しに煽ってから、今のポイントをツッキーとリエーフに解説する。俺の説明で足りないところを久世が補足してくれて、リエーフもやっと理解できたようだ。トスを見てからの無駄のない横移動、ジャンプのタイミング、手の出し方、読み合い。俺のブロックについて事細かに分析し、お手本として話すその横顔はキラキラと輝いている。
原点回帰。
結局俺と久世は、バレーで通じ合っている時が一番分かり合える。俺が欲張って求めなければ、こうして良い関係で居られるんだ。それならば今は、それを大事にしたい。
「赤葦!トス寄越せ!」
「お願いします!」
「せー…のっ!」
木兎の踏み切りにほんの少しだけ遅らせて3枚ブロックを合わせる。ツッキーは完璧。リエーフはまぁ及第点だ。この3枚、どう攻略してくる?力強いスイングから、ボールを打つ瞬間、その勢いが死ぬ。───フェイント…!ふわりとブロックの上を通過し、壁の後ろへボールが落ちていく。空中で身体を捻り、着地と同時にそのボールを上げる。「黒尾ナイスー!」と久世が沸く声が聞こえる。ほんとこういう名もなきプレー大好きよなお前。分かる。俺も好き。俺が繋いだボールを、なんとかツッキーも繋ぐ。不恰好ながらも高く上げられたそれを、リエーフが打ち返す。まだまだ下手くそだけど、それを打てんのは強みだわ。体勢を立て直し相手コートを見ると、リエーフのスパイクは赤葦によって上げられたようだ。アイツ最近全体的に完成度高くなってきてんだよな。でもこれで赤葦はトスを上げられない。すかさず木兎がボールの下に入る。ラストはチビちゃんか。「2枚で付け!タイミング我慢!」二人に指示を出して、俺は少し下がる。チビちゃんはブロックアウトを狙ったんだろうけど、ツッキーが読んだな。うまく衝撃を吸ってくれた。弾かれたボールを追い、身体を伸ばしてレシーブする。「ツッキー!」この二人でトスを任せられるとしたら、考えるまでもなくツッキーの方だ。俺が言うまでもなくネット際で構えるツッキーがリエーフにトスを上げる。木兎と赤葦がブロックに付いてくるが、うちの馬鹿は思ってる以上に馬鹿だ。木兎のフェイント、チビちゃんのブロックアウトを見た上で、それでも自分はフルスイング。そうだと思ったわ!そのスパイクは木兎の手に阻まれ、そのままの勢いで落ちてくる。音駒のレシーブ力舐めんな…!ブロックフォローの練習どんだけやってると思ってんだ!我ながら完璧!そしてすぐ下がり、助走距離を確保する。ツッキーにトスを上げてもらい、それに合わせて飛び込む。木兎はムキになってんな、ならコレが効くだろ。俺はボールをぴっと横に流すように木兎の指先に当てた。「ッア!!」そしてやっとボールが床に落ちる。コートのこっち側、サイドラインを割ったところに。
「今の!今のなに?!…ですか?!ブロックアウト?!」
「そ。チビちゃんがやろうとしてんのと一緒。ただ、今のはフツーにブロックされる可能性もあるから、結構リスキーだけどな」
「ほおおぉー!!」
は〜あ疲れた。でも今のラリー、俺大活躍じゃね?そりゃ1年抱えてやってんだから活躍しなきゃ困るんだけど。重めのラリーが終わったところで、久世がタオルとドリンクを配り回っている。そして俺の元へ来て、「120点」と言って、最高の笑顔を見せてくれる。…うん。この笑顔が見れればいいんだよ俺は。とりあえず、当分は。
少しだけ休憩したらまた3対3の再開だ。
チームの成長と課題、個人技の課題、そしてライバル達と切磋琢磨できるこの環境。一瞬たりとも無駄にできない。久世のことや赤葦のことも気にはなるけど、多分こうして慌ただしく感情が揺れることは幸せなことで、俺は今確実に充実している。高校三年の夏、可能な限り、全てを大事に味わいたい。