赤い糸40,075km
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ヘイヘイ!さっさと自主練しようぜ〜!」
「急かすな」
「行こ行こ〜」
蝉時雨が包む中、今年も森然での合同合宿が始まっていた。
昼の練習試合を終えると、去年と同じく木兎さん、黒尾さん、久世さんと一緒に第三体育館へ向かう。
久世さんは、相変わらずキラキラと輝いている。彼女のことを知り、好きになってから、あっという間に一年が経過していた。練習試合などで会う度、俺を見つけてパッと表情を明るくする彼女に心臓を鷲掴みにされる。会える機会が少ない分、メールでの連絡もマメにしていて、彼女の方からも他愛もない話題を持ち掛けてくれることもある。彼女のことを好きでいることは、もうすっかり俺の“普通”になっていた。
「赤葦くんD上手くなったね!」
「ありがとうございます」
好きです。
屈託のない笑顔を向けてくれる久世さんに、心の中だけで告白をする。貴女のことが好きです。彼女は本当に俺の事をよく気にかけてくれて、俺の見ている限りでは、音駒の人達よりも優先して話し掛けに来てくれる。つまりは、かなり好かれている自信がある。こうして体育館から別の体育館へ移動する時も、当たり前のように俺の隣に並んでくれる。それなのに心の中でしか告白しないのは、分かっているからだ。久世さんの想い人が誰なのか。
「赤葦もすっかり正セッターの貫禄出たよな〜」
前を歩く黒尾さんがぬっと身体を傾けて会話に参加してくる。
───やっぱり来たか。
俺→久世さん→黒尾さんという構図は、最近変わりつつある。というか、恐らく明確に変わった。初夏の辺りに行った練習試合の時から嫌な予感はしていたが、やっぱりそうだ。完全に、黒尾さんからも久世さんに矢印が向いている。これまでの黒尾さんは、久世さんのことを可愛がりながらも恋愛感情は持っていなかったように思う。条件さえ揃えば誰にでも向けるような親切心、お節介の範疇を超えていなかったはずだ。でも最近は明らかに彼女を見る目が違う。本人がどこまで自覚しているのか知らないが、マネージャー業に励む彼女を見る目はとても甘ったるい。異性として意識させようとするような発言をしたり、久世さんが他校の人にドリンクを配る時も必ず見ている。そして彼女を呼び戻し、牽制する。今日一日見ていただけでも、黒尾さんはあからさまにマウントを取っていた。
「ね!すごいよね」と賛同する久世さん。そしてその笑顔が自分に向けられたことに満足そうな黒尾さん。
ッハァ〜〜〜〜〜。やってらんねぇ。
つまりこの二人は既に両想いな訳だ。
元々望みのない恋だったけど、こうなったらもう完全に詰みだ。
久世さんは木兎さんと一緒にウキウキで自主練の準備をし始めた。俺もすぐそれに加わろうとした時、黒尾さんと目がかち合う。その目の言いたいことが、手に取るように分かる。「お前って久世のこと好きなの?」と聞きたいんでしょう。ええ好きですよ、そりゃ。貴方よりずっっと前から。ついその目を冷たく睨んでしまうと、黒尾さんがさっと目を逸らす。気に食わない。アンタはもう全て手に入れてるくせに。負け犬の俺と戦う意気地すらないのか。何も言わず、彼女の元へ向かう。黒尾さんから気まずそうな雰囲気を感じるけど、このくらい、何ということはないだろう。久世さんに「手伝います」と声を掛けると、「うん!」と当然のように笑顔を向けてくれる。彼女の想い人が俺じゃなくても、彼女の一番の理解者は俺なはずだ。その座は、譲らない。
その後、黒尾さんが煽って招いた烏野のミドルも交えて何本か対面勝負をしてみる。今年から突然合宿に加わった烏野は、どうやら音駒と因縁があるらしい。久世さんも黒尾さんも、他校の1年ミドルをよく気にかけていた。しかし黒尾さんが珍しく煽りに失敗し、メガネの子は第三体育館を後にしてしまった。彼はなんというか、ここの面々と一緒にバレーする感じではないように思う。それは彼が悪いんじゃなく、ここにはバレーバカしか居ないから、熱量に差が出るのは仕方がない。俺だって木兎さんに出会っていなければ、毎日こんな時間までトスを上げ続けることはなかっただろう。
その日の自主練が終わるまで、いや終わった後も微妙に落ち込んでる黒尾さんを、久世さんが笑う。「ほんと繊細だね」なんて言う目は、とても柔らかい。少し照れ臭そうする黒尾さんはとてもじゃないが見ていられない。
食事の後主将副将会議をして、入浴を済ませ、ほんの少しの自由時間。俺は淡い期待を込めて自販機まで向かっていた。一年前、この場所で初めて久世さんと二人きりで話し、連絡先を聞いた。また今年もたまたま会えたりしないだろうか。普通に考えて確率はかなり低い。それでも、ただ部屋でじっとしている気にはなれなかった。自販機の明かりの元に人影はない。そりゃそうだ。適当に水を買って帰ろう。俺が踵を返すと、後ろからタタタッと足音が聞こえてくる。
「あー!やっぱり!赤葦くん!」
振り向くと、そこには女神が居た。
「…久世さん」
「またここで会えそうな気がして来てみたら、本当に居た!」
後光が眩しすぎてつい手で遮る。会いたいと思っていた時に、彼女も同じように思ってくれていて、そして会えたことにこんなに喜んでくれる。これが女神じゃないならなんだって言うのか。
「またちょっと話せたりする?」
「もちろん。喜んで。」
食い気味で返事をすると、彼女が嬉しそうに顔を綻ばせる。そして一年前と同じように、二人で飲み物を持ってベンチに腰を下ろす。後はもう寝るだけという状態で二人きりで話すのは、なんとも言えない特別感がある。彼女が烏野のことを話してくれて、その声の心地良さに包まれながら相槌を打つ。こんなに幸せなことはない。でも彼女はハッとして、「また私ばっかり喋ってる…!」と言って話を中断してしまう。
「いくらでも話してください。俺は貴女の話を聞いてる時が一番幸せなんで」
「それはさすがに言い過ぎ」
クスクスと笑う彼女の髪が、自販機の明かりに透けて輝いている。これまでも久世さんは自分ばかり話を聞いてもらっていると何度も気にしていて、その度にこうして俺は貴女の話を聞くのが好きだと伝えてきた。そのおかげか、はじめの頃はもっと申し訳なさそうにしていたのが少しずつ砕け、今ではこうしてすんなり受け入れてくれるようになった。
「烏野のメガネの子、また来てくれるといいね」
「来ますかね」
「頭良さそうだったから、やる気さえあれば来てくれると思うんだけどな」
確かに彼は賢そうではあったけど、それが自主練に来てくれることと何の関係があるのか。その発言の意図を考える俺に、彼女がすかさず言う。
「成長するためにはあそこで自主練するのが一番効率的だもん。今日ちょっとやっただけでも分かったはず」
「…なるほど、確かに」
彼女の言う通りだと思う。元々は木兎さんの我儘に付き合うような形で始まった第三体育館での自主練だが、今となってはこの合宿に集まるメンバーの中でもトップクラスの実力を持った選手が集まる場所になっている。木兎さんは言わずもがな、黒尾さんもブロックでは頭ひとつ抜きん出てる。しかも二人とも後輩だからといって舐めたり高圧的な態度を取るわけでもない。黒尾さんはむしろ後輩指導に長けた人だと思うし、木兎さんだって自主練に付き合ってくれる人なら誰だって歓迎する。確かに、やる気さえあれば、成長するにはもってこいの場所だ。
「来てほしいな」
「そうですね」
彼女がもう一度言う。俺は割とどっちでもいいけど、彼女がそう言うなら是非来てほしい。
消灯時間が迫り、渋々そのことを伝えると、俺の不満気な表情に気付いた久世さんが「明日も話す?」と言ってくれる。それにノータイムで「はい」と返事をすると、彼女がクスクスと笑う。また明日もこうして二人きりで話せる。そう思うと、胸の辺りがふわりと軽くなる。彼女とはその場で別れ、合宿1日目が終わった。
─────
「…おや?」
翌日の自主練、烏野の彼は、来た。
俺がそれに気付くと、Wウザ主将も入口付近に集まってくる。久世さんにも目配せをして、4人全員が彼の出方を窺う中、メガネの子はポツリと話し出す。何のためにそこまで部活を頑張るのか。そんな素朴で漠然とした疑問を、彼は至って真面目にぶつけてくる。そしてそれに答える木兎さんの迫力たるや。木兎さんがバレーにハマる瞬間、それを俺もその場で見ていた。思い返して、少し鳥肌が立つ。木兎さんの言うように、俺達みたいなバレーバカはどこまで勝ち進めるかとか、将来なんの役に立つかとか、そんなことを考えてバレーをしている訳じゃない。俺はただこのスターの輝きを一番近くで見ていたいだけ。この人の期待に応えて、純粋にトスを褒めてもらえるのが気持ちいいだけ。木兎さんの迫力に、月島と名乗った彼も気圧されているようだ。そんな彼をウザ主将達は体育館の中に引き摺り込む。月島はちょっと迷惑そうな顔をするけど、あんな質問をここにしに来る時点で、バレーに向き合おうとしている証拠だ。昨夜久世さんが言った通り、やる気があるから来たんだろう。彼女とアイコンタクトをとりお互いに頷く。───こうして、第三体育館に、バレーバカ候補が一人増えた。
「月島くん、センスいいから絶対すぐ上手くなるよね!」
「そうですね」
夜。昨日と同じようにベンチに座り、二人で話す。話題はほとんど月島のこと。月島はなんと、今日の自主練に最後の最後まで付いてきた。もちろん休み休みではあったが、それでも久世さんが撤収時間を知らせるまで帰ろうとはしなかった。技術や身体はまだまだこれからだけど、黒尾さんや木兎さんの指導をしっかり頭で理解していたように思う。あとはそれを繰り返し身体に覚えさせるだけだ。また明日も明後日も来るなら、きっとすぐモノにする。
彼女と穏やかな時間を過ごしていると、遠くから控えめな足音が聞こえてくる。できれば誰も来てほしくない。何もやましいことはないが、この時間に男女が二人で居るのは若干まずい。もし噂なんてするタイプの人だったら厄介だ。しかし無情にもその足音はこちらに近付いてきて、その人物が姿を現す。…嗚呼、最も来てほしくない人が来た。
「お前らこんなとこで話してんの?」
引き攣った顔の黒尾さんが、固い声で言う。昼間とは随分シルエットが違うけど、間違いなく黒尾さんだ。なんでよりによって今ここにこの人が来るんだよ。隣に女神が居るって言うのに、他の神様には見放されているようだ。
「去年たまたま会って、常習化した」
「去年から?!」
久世さんの返答に本気で驚いた様子の黒尾さん。全く詰めが甘い。俺達の仲が深まっていることは知っているだろうけど、まさか二人きりで会っているとは思わなかったんだろう。貴方が知らないだけでメールでも頻繁に近況を報告し合ったりしてるんだよこっちは。何もしなくても毎日会える黒尾さんと違って、自ら接点を作ってんだよ。邪魔するな。つい手に力が入り、持っているペットボトルがベコッと音を立てる。
「黒尾も飲み物買いに来たの?」
「いや、寝る前にあんま冷たいもん飲むのは良くねーだろ」
「育ちがいい……。じゃあ何してるの?」
「いや、まぁ……散歩?」
歯切れの悪い黒尾さんを不思議そうに見上げる久世さんと、チラリと俺の様子を窺う黒尾さん。…くそ、ミスったか。入浴後、昨日と同様にパパッと髪を乾かして出て行く俺に、木兎さんが理由を尋ねてきた。俺は適当に“寝る前にうんこ踏ん張る派になった”とか言って木兎さんの興味の方向をずらし、ここに来た。それを、黒尾さんも聞いていたんだろう。怪しんで、探しに来た。そしたら久世さんと二人で話してるんだから、「やっぱそうなの?」と思ってるんだろう。はいそうですよ。そんなに気になるなら直接聞いて来たらいいじゃないですか。ついまた冷たく睨んでしまうし、それに簡単にたじろぐ黒尾さんにイラついてしまう。クソ。別にこの人の事は嫌いじゃない。でも恋敵だ。しかもこの人はずっと前から勝ちが確定していて、俺の方は負けが確定している。それなのにそんな態度を取られたら、ムカつくのは仕方ないだろ。
「……ちょっと詰めようとか思わない?」
「思わない。」
「思いません。」
ベンチにはまだスペースがあるけど、俺と久世さんがいい感じの距離を取って座っているから、黒尾さんがスッと座れる場所はない。それこそ詰めれば3人座れるだろうが、その場合黒尾さんをどこに配置するかで色々と悩ましい。久世さんが真ん中になって、黒尾さんはその奥?これは俺が嫌だ。というか久世さんの隣に座らせたくない。じゃあ俺を真ん中にして端に黒尾さんを置く?いやそれも嫌だ。意味が分からない。つまり、黒尾さんの席は無いということだ。二人同時に拒否され、黒尾さんは「お前らなぁ…」と肩を落とす。
「まぁいいや、お前らに限って妙なことは起きねぇだろうし」
座らせてもらえないならもう帰る、というような雰囲気で黒尾さんが言う。妙なことが起きそうな男女だったら注意するつもりだったんだろうか。でも俺と久世さんなら何も起きないと。…ほお。直球勝負はできないくせに、こういう回りくどいことは言ってくる訳か。これはこれは、優しくて繊細な黒尾さんらしい。鉄同士が強く擦れたかのように、俺と黒尾さんの視線がかち合う。そんな些細な嫌味を言って、何がしたいんだ。俺にそんなこと言う暇があるならさっさと彼女に好きだと伝えればいいだろ。アンタがそれをしない理由はなんだ。
「消灯前にはちゃんと帰るよ。黒尾も早くねんねしな」
「なんで俺が子供扱い?」
苦笑いする黒尾さんに、久世さんがしっしっと追い払うようなジェスチャーをする。彼女は黒尾さんに対して結構ドライだ。でもそれはきっと、恋心を隠すためにやっていることなんだろう。それを理解できてしまうことに苦しみつつ、黒尾さんは気付いていないんだろうなと優越感に浸る。ここは、苦渋と辛酸の海だ。黒尾さんがこうしてあっさりと退散するのは、自分が一番彼女の近くに居られることが分かっているからだろう。羨ましい。妬ましい。そんな仄暗い感情に溺れる俺に、久世さんが「邪魔が入っちゃったね」と微笑む。それだけで海が割れ、道が出来る。少し遠くから「聞こえてんすけどぉー」なんて聞こえるが、どうでもいい。この女神が微笑んでくれるなら、どんな海の底だって構わない。
合宿3日目、今日の第三体育館は賑わっていた。
音駒・烏野の1年が一人ずつ加わり、選手は合計6人。黒尾さんの提案で3対3を行っていた。久世さんは相変わらずボールを出したり拾ったりと働き回ってくれていて、手伝うべきかと困惑したようにキョロキョロする日向が「あの人ってマネージャー…ですよね?」と聞いてくるので「いつもああだよ」と答える。彼女は一応経験者ということもあり、ボールの扱いは選手さながらだ。そして何より、飛んで行ったボールを追いかけるその表情は、嬉しそうに輝いている。少し休憩を挟むと、久世さんが追加のドリンクを配ってくれる。それにお礼を言って受け取った日向が、わたわたしながら声を掛けた。
「あの!バ、バレー!好きなんですね!俺もボール拾いとか結構好きで…!気持ち、分かります!」
「…えへ、楽しいよね。日向くんがバレー大好きなのも知ってるよ。5月に初めて見た時からすごいなって思ってた」
「ぅええ?!」
「なんだ久世のお墨付きか!」
二人の会話に木兎さんも混じって、ワイワイと盛り上がる。その少し遠くでは、黒尾さんが月島と灰羽に指導をしていた。話が盛り上がった勢いそのままに、木兎さんが「おーし再開だー!」とコートに戻って行き、日向も負けないテンションで続く。「いや休憩短すぎだろ」と突っ込む黒尾さんは、月島の体力を気にしているようだ。月島はテンションでどうにかなるってタイプでもないし、確かにもう少し休ませてやりたい。俺も黒尾さんに続き木兎さんを窘める。すると久世さんが「そうだ!月島くん」と駆け寄って行く。
「ちょっと見てほしいものがあるんだ。黒尾、一旦そっちのコート2人でやっててくれる?」
「…オッケ。行くぞリエーフ」
「はいッス!」
俺もコートに戻りつつ彼女の動向を窺うと、どうやら合間合間に撮影していた映像を月島に見せているようだ。…なるほど。彼女らしい。なにも汗水垂らすだけがバレーボールじゃない。身体の休息が必要なら、その間は頭を使えばいい。カメラの小さい画面を見せながら熱心に解説する彼女に、月島も素直に頷いている。コートではプレーが再開され、まだ未熟な1年達がそれぞれこの合宿トップの実力者の指導を受けていた。───いい環境だ。俺も自然と背筋が伸びる。少しして月島もコートに戻り、俺達は再び3枚ブロックに立ち向かうことになる。黒尾さんが指揮する3枚はかなり完成度が高く、1年の拙さを突くくらいでしか攻略することができない。そんな日向にお手本を見せるかのように、木兎さんが超インナーコースを決め、日向も久世さんも大はしゃぎする。煽てられて機嫌を良くする木兎さんと、それに恨み言を吐く黒尾さん。でもすぐさま後輩指導に切り替え、ブロックの戦術について話し出した。一瞬、久世さんがそれを愛おしそうな目で見詰め、また木兎さんへ視線を戻す。
…嗚呼、分かっている。知っている。とっくに。
「日向、トスどう?」
「あえっ?!あっ、打ちやすいです!」
「何か要望があったら言ってね。そっちのセッターほどのことはできないけど」
謎に対抗して日向に声を掛けてみる。その様子を見守ってくれる久世さんはニコニコしているけれど、その瞳にはさっきみたいな熱はない。当然だ。分かっている。分かった上でわざわざ張り合い、正式に苦しむ。この痛みが、俺の恋心の輪郭を作っている。彼女が黒尾さんを想っているということを、見て見ぬ振りはしない。どれほど苦痛を伴っても、彼女という人間を構成する全てを、否定したくない。あんなに情熱的な目をするくせに、何も求めず恋心をひた隠しにするそのいじらしさも含めて、俺は貴女が好きです。
─────
夜。またベンチで話す。
彼女が笑った時に少し揺れた髪から、ふわりとシャンプーの香りがして、嗅覚の情報を断絶させた。こういうのは俺が享受していいものではない。久世さんがこうして俺の隣で無防備で居てくれるのは、俺に対して信頼を寄せてくれているからだ。それに反するようなことはしたくない。それこそ、己の恋心を踏み躙ってでも、俺は彼女を優先する。これが一般的な感覚なのかどうかは分からないが、多分少しズレているんだろう。第三体育館の新メンバー達の話が一区切りついたところで、きっと彼女が喜んでくれるであろう話題を切り出す。
「そうだ、コレ見てください」
「うん?なに?」
携帯の中のアルバムから、一枚の写真を表示して彼女に見せる。これはいつの間にか勝手に保存されていた、木兎さんと黒尾さんの変顔写真だ。自ら恋敵の話題を振るような形になってしまうけど、彼女はきっと見たがるし、笑ってくれるはず。それなら、俺が面白くない思いをするかどうかなんて、あまりにも些末な問題だ。
「ンフッ!…ふ、うっ、ゲホッ、エフッ、」
「、大丈夫ですか」
「ん、……だ、大丈夫、はぁ、あはは、ははっ…!」
笑いすぎて咽せてしまう彼女の背中をさすろうとして、ビタっと手を止める。不必要に触れない。これは己への戒めだ。久世さんは口元を隠し肩を振るわせ、目尻に涙を溜めるほど笑っている。ああ、見せてよかったな。おかげで彼女の新しい表情をまた一つ見ることができた。なかなか笑いが収まらない彼女にこの写真の経緯を伝えると、「赤葦くんも苦労してるね」なんて笑い混じりに言う。長く息を吐いてなんとか笑いを抑え、「もうお腹痛い」なんて言う彼女は、相変わらず神聖な存在かのように輝いている。こんなに近くに居ても、決して手の届かない相手だ。
「私の前じゃみんなこういうことしないから、初めて見た」
「送りましょうか、これ」
「えー、いいのかな」
「いいんじゃないですか。勝手に人の携帯触った罰です。」
俺はその場で彼女に写メを送る。受信したそれを自分の携帯で眺める彼女の横顔は美しい。細められたその瞳には、慈愛が篭っている。ジクジクとした痛みが、また恋心をくっきりと主張させる。
多分、俺と久世さんは似ている。
そう簡単に恋なんてするタイプじゃなくて、一度好きになったなら、ずっと好きでいてしまう。一途でしか居られない、そういう星の下に生まれてしまったんだろう。黒尾さんが久世さんを意識していても、していなくても、彼女のその想いは何一つ変わっていないように思う。それはきっと、もし黒尾さんに恋人ができたりしても変わらないんだろうなと容易に想像がつく。俺と同じだ。同じだからこそ、交われない。このままずうっと平行線だ。違うのは、俺は久世さんのように無欲ではないということ。本当は俺のことを好きになってほしいと思うし、今まで築いてきた信頼も、笑顔も、恋情も涙も何もかも、彼女の全てが欲しいと思っている。でも彼女はきっと黒尾さんに一切を求めていない。その人間離れしているとさえ言えるほどの無欲さが、少し恐ろしくて、あまりにも美しい。その聖火のような美しさに惹かれ、身を焼かれる。俺は飛んで火に入る夏の虫と大差ない。ただ何度も蘇ってしまうから、また焼かれ、何度も焼かれ、それでもその火に身をくべる。死ぬと分かっていて火に入る分、虫よりもよっぽど愚かだ。そんな痛みや、醜い感情に溺れることすら、彼女から与えられるものだと思うとほんの少し甘い。
「赤葦くんや木兎が同じ学校に居たらもっと楽しかったんだろうな。…あ、音駒のみんなに不満があるわけじゃないけどね?!」
「…はい。俺も、貴女が居たらって考えますよ」
へへ、と照れ笑う彼女が堪らなく愛おしい。俺だって当然考える。もし久世さんが同じ学校に居たら。もっと別の形で出会えたなら。でもそんなの考えたってどうにもならない。もし彼女が梟谷に居たとして、何の接点もない彼女と関わることなんてなかっただろう。万が一木兎さんが彼女と親しくなったとして、既にマネージャーが二人居るところに更に勧誘するとも思えない。久世さんだって自らマネージャーにはならないだろう。現に黒尾さんに誘われなければやっていなかったと本人から聞いている。つまり、俺が彼女と関わるには黒尾さんの存在が必要で、そうなると必然的に、俺は”黒尾さんを好きな久世さん”にしか出会うことができない。俺と彼女が結ばれるなんてルートは、そもそもご用意されていない。
「二人とも転校して来ない?」
「それいいですね、そうします。」
「あはは!木兎の意思ガン無視!」
もう少しで消灯時間になってしまう。俺は彼女の笑顔を脳にまで焼き付けるように見詰めた。…今日は黒尾さんは来なかったな。完全に舐められている。でも、こうして二人きりで穏やかな時間を過ごせるだけで、俺には十分な贅沢だ。彼女が隣に居ることを許してくれるなら、このままずっと平行線のまま、隣に居させてほしい。貴女さえ居るなら、それが薄暗い校舎の中のベンチだろうが、地の果てだろうが、海の底だろうが業火の中だろうが構わない。
時間を確認した彼女が、「明日も来れる?」と聞いてくれる。俺を殺すのも、生かすのも、全てこの女神次第だ。少し欲を出して「俺は毎日来ます」と返す。すると彼女も「じゃあ私もだ」なんて言ってくれるから、俺の背には翼が生え、ふわりと身体が浮く。それは天使のような翼か、それとも羽虫のようなそれか、どっちだっていい。貴女が許す限り、俺はただひたすら眩しくて美しい方へ飛び込むだけ。そして他の誰でもなく、貴女が俺を殺し続けてくれ。いつか許されなくなる、その日まで。