赤い糸40,075km
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「ナイスキー!虎くん!」
体育館には、いつも通りボールの弾む音と、シューズの擦れる音、仲間達の掛け声の中に、透き通るような久世の声が響いていた。
俺は、自分が久世のことを恋愛的な意味で好きなんだろうということは、一応理解していた。
研磨達に諭されたあの日からしばらくはなかなか信じられなくて、確かめるためにやたらと本人と距離を詰めたりなんかもして、ゆっくりと確信を得ていった。それでも、未だに少し不思議に思う。久世透香という人間からは、恋愛の雰囲気は微塵も感じられない。つまり俺が彼女を好きになったところで、何も始まらない。GW合宿最後の夜、宿泊所のロビーで彼女を後ろから抱きしめた時のことを思い返す。今はあんなことはできない。決して。でもあの時は久世がどんか反応をするのかって気になって、ただそれだけで勝手に触れた。…結果、仕掛けた方の俺が恋を自覚せざるを得ないほどドキドキし、反対に彼女には至極冷静に対応されてしまった。つまりは脈ナシだ。散々好みのタイプじゃないと自分の気持ちを否定しておいて、結局好きってことはめちゃくちゃガチってことじゃね?それなのに、脈ナシ?いやキツいて。そんなこんなで、頭では理解しつつも、完全には認められないでいた。認められないけど、彼女の一番は俺でありたい、とか、そんな幼稚な願いが度々顔を出す。
「集中しろ!!」
「いっで!」
ついぼんやりと久世を眺めてしまっていると、夜久にケツを蹴り飛ばされる。そうだ、俺は今恋愛なんぞにうつつを抜かしている場合ではない。インターハイまでは1ヶ月を切っている。それまでに、自分のプレーを磨くのはもちろんのこと、1年のミドルを鍛え上げなきゃいけない。俺は両手で自分の頬を叩き、気持ちを切り替えて練習に励んだ。
─────
そして、ついにインターハイ前日。
片付けを終えた後ミーティングを行い、コーチ、監督から激励の言葉を貰う。それぞれが気合い十分に頷き、これで解散──と思った時、コーチが「あ、ちょっと待て、マネージャーから見せたいものがあるから」と言い、それを合図に二人で上の通路に向かっていく。久世が赤い布を抱いていて、俺はある物を思い浮かべて期待してしまう。
猫又監督が引退される前の、音駒高校の試合、その映像に映っていたあの横断幕。
俺が入学した時には既に監督は引退されていたし、横断幕はないのかと先輩に聞いてもそんなもん無いと言われたから諦めていた。
いや、久世が用意してくれたものは別に横断幕じゃないかも知れないし、期待しすぎるのはよくない。…でも、多分そうな気がする。
コーチと久世が、その赤い布をぶわっと広げ、柵に掛ける。それはやっぱり俺が想像した通りのもので、赤い布に黒字でデカデカと『繋げ』と書かれている。
──嗚呼、マジかよ。
俺はなんだか泣きそうになりながら、ただその文字を見上げた。
「俺も古いのがどこにあるか分かんなくてな、マネージャーが倉庫の奥から見付けてくれたんだがボロボロで、なんと一から作り直してくれたんだ。感謝しろよ〜!」
コーチがそう言って、部員達が「すげー!」「ありがとうございます!」「テンション上がるー!」とそれぞれの反応を返す。いやほんと、感謝してもしきれねぇよ、マジで。でも久世は「あ、感謝とかは要らないんですけど」と相変わらず冷ややかな声で言う。ほんとそーゆーとこよお前。
「私にできることがあるなら全部したくって。だからこれも自己満です。…でも、少しでもみんなの背中を押せたらいいなと思って地道に作りました。…だから、明日もいつも通り丁寧に繋いで、ボール、絶対落とさないでください。」
ボールを絶対落とすなは無茶なんだけど、そんなのは本人も勿論分かっているから、言い終わった後で「…へへ、」と照れ笑うのがまた妙にグッとくる。
「ぐっ…!お前…!お前ぇ〜〜!」
「すごく背中を押されるよ、ありがとう」
夜久は目頭を抑えてぐっと感情を堪えているようだけど、その目尻からは既に涙が零れていた。いや分かる、マジで俺も泣きそう。ちょっと今声出すのしんどいかも。海はいつも通りニコニコしてるけど、横断幕を見上げるその目は真っ直ぐだ。俺は情けない顔を見られないように俯いて、ハァーと息を吐いて色々整える。
そして顔を上げ、久世に向けて拳を突き上げる。
「ぜってー繋ぐから、お前もいつも通り見ててくれ。全部。」
自然と、仲間達も拳を上げる。
久世はその景色を見て、本当に嬉しそうに「うん…!」と微笑む。
この人がマネージャーになってくれて、本当に良かった。
そして迎えた初日。
1回戦、2回戦と勝ち上がり、次は3回戦。会場からは敗退したチームが居なくなり、通路もかなり歩きやすくなっていた。
体育館に入り、自分達の3回戦が行われるコートに向かうと、あの赤い横断幕が目に入る。その奥では我らがマネージャーが三脚を立てて撮影の準備をしていた。そのカメラが自腹で買ったものだと聞いた時、俺達より驚いていたのはコーチだ。恐らくおおよその値段が分かるんだろう。そんな様子を見て、俺達はますます彼女に頭が上がらなくなった。実際、自分達のプレーを俯瞰の映像で見せてもらえるのはめちゃくちゃ有り難い。GWの練習試合も、コーチのパソコンを通して視聴覚室のプロジェクターで投影しながらミーティングをした。そういう一つ一つが、俺達を強くする。改めて久世に感謝しても「メインは私がみんなのプレー見返してニヤニヤする用だから」なんて言う。ほんっと、無自覚で煽ててくるんだから。
カメラの設置を完了させた久世と目が合い、ニコッと微笑まれる。俺は跳ねる心臓をそのままに、3回戦もあの子がニヤニヤしちゃうようなプレーを見せてやろう、と意気込んだ。
「やっくんナイスー!!」
「フローター!」
「3枚!」
3回戦ともなると、さすがに相手のレベルも上がってくる。うちに第1セットを取られた相手は、きっと今大会で3年が引退するんだろう。その気迫がネットを超えてビリビリと伝わってくる。ベンチの久世もそれを感じ取ってか、いつも以上に声掛けに気合いが入っているようだ。俺は集中しすぎて周りの音があんまり聞こえなくなる時と、逆に妙にクリアに聞こえる時があるけど、今は後者だ。
「黒尾ナイッサー!」
ハイ。分かりました。
サーブ位置に下がる俺の背中に掛けられた声援に、心の中で返事をする。ボールを受け取り、掌に馴染ませる。
バレーボールは重量に逆らうスポーツ。オーバーワークは厳禁だ。毎日あと少しで何か掴めそうだと思うのに、足腰の負担を考えるとサーブ練もそう何十本も行えない。そんな俺に久世が提案してくれた、サーブトスをメインにした練習。サーブトスをして、実際には打たずに軽く助走してイメージする。これを9本やって、やっと1本サーブを打つ。その1本の時にトスが乱れたりしたらマジで勿体なくて、自然と集中力も上がるし、サーブ練できる時間は増えるのにジャンプの回数は減らせていい事づくめだ。そのおかげで、最近は俺のジャンサもチームの武器になりつつある。…なりつつある、じゃ駄目なんだけどな。でも、やれるだけのことはしてきた。
自主練習の風景を思い浮かべているうちに、笛が鳴る。何百回とやってきたサーブルーティン。そして、トスを上げる。
───頭の中で、うちのマネージャー様が「100点!」と言う。
ピッ
「うっ、うおおおお……!!」
「クロさんナイスですー!!!」
俺のサーブは、相手リベロの腕を弾き、遠くに飛んで行った。その手応えに拳を握る。
「…ッシ……!!」
公式戦でのサービスエースは、やっぱ自信に繋がる。
相手がタイムアウトを取り、仲間達と喜びを分け合いながらベンチに戻る。俺は、さっき想像した通りの景色がみたくてマネージャーに声を掛ける。
「100点?」
主語もなくそう言うと、彼女がすぐに「100点!」と返してくれる。よしよし。そして彼女が同意を求めるように監督の方に振り返り、監督も「自主練の成果出てるじゃねぇか」と言ってくれる。チームの雰囲気は良いし、俺の調子も良い。今日はもう3試合目だけど、2、3年はまだ体力も保ちそうだ。
「ッシ、行くぞァ!!」
笛が鳴り、再びコートに戻る。
その後、デュースに縺れ込みながらもなんとかセットを取り切り、インターハイの初日を生き残ることができた。
1週間後。
インターハイ2日目。
辛くも第1試合を勝ち抜き、続く準々決勝の相手は優勝候補筆頭、井闥山学院。
第1セットを早々に落とし、第2セットはどうにか食らいつくも2点ビハインドのまま20点台まできていた。コートの上には、床を這いつくばりギリギリで繋ぎ止める俺達と、王者の風格を纏う井闥山。
「——ッ!」
フェイントでブロックの後ろに落とされるボールになんとか反応する。不恰好ながらに味方コート内に上がったボールを福永が繋ぎ、海が返す。相手のリベロがそれを丁寧に上げ、セッターからエースへと繋がれる。山本と二枚、タイミングを合わせてブロックに飛ぶ。ストレートコースは閉めた、はずなのに、井闥山の2年生エースは冷静に山本の指先にボールを当て、そのボールはコートの外へ飛んで行く。
───…クソが…!なんでもアリかよコイツ。
山本の手の出し方は悪くなかった。コイツは普段やかましいこともあるけど、バレーに対しては誠実だ。最初は地味なレシーブ練やブロック練に付いてこれるか心配したもんだが、見た目の割に守備の重要性をよく理解している。俺からのブロック指導も素直に聞いて、しっかり成長してきた。今の二枚だってタイミングも何もかも完璧だったはずだろ。それなのに適わねぇのかよ。ギリ、と奥歯を噛み締めて、肺に溜まった息を漏らす。
「スンマセン……!」
「いや、お前のブロックは悪くなかった。相手がその上を行っただけだ」
山本も同じようにぐっと歯を食いしばる。そうだよな、自分のベストで適わねぇことほど悔しいもんはねぇよな。その背中をバシッと叩き、気合いを入れ直す。悔しがってたってまたすぐに次のプレーは始まってしまう。
「次!サイドアウト!」
ベンチから響く声も、もう次のプレーを向いていた。相手はこのローテーション、リベロ不在。この1点は何がなんでも譲れねぇ。
フローターサーブを夜久がきっちり処理し、研磨の定位置までボールが帰る。俺の踏み込みに合わせて上げられるトス、一歩遅れたブロックじゃ間に合わねぇだろ。相手コートの中央、ぽっかりと空いたそこに、ボールを突き刺す───が、とんでもねぇスーパーレシーブでそれを阻止される。…ああそうだろうよ、こんな強豪校、レシーブできんのがリベロだけなはずねぇよな。分かってる。
そこから何往復とラリーが続く。もはや感覚だけで動いている。ボールを決して落とすなと、ただその使命を全うする。息付く暇もなく、酸素が足りずに思考能力が落ちる。さっさとこの1点を取りたいと思ってしまう。でもそれが自滅の道だということは嫌ってほど知っている。山本のスパイクが相手ブロックに当たり、それが至近距離で山本の肩にぶつかり跳ね返ってくる。「後ろ!!」もはや自分の声なのか誰かの声なのかも分からない。振り向くと、海がフェンスに突っ込みながらそれをどうにか繋いでくれる。アタックライン辺りまで下がる研磨。これは思考か、感覚か、俺にトスが上がると確信する。激しいラリーが続くこの場面、エースに託すのが定石の、ここで。マイナステンポの縦B──!
ノーマーク、遮るものが何も無い中、真後ろから上がるトスを真下に叩きつける。
ピッ
「……は、…はっ、…んんぉオッシ…!!!研磨ァ!ナイストス!!」
「…はぁー、…はぁー……」
「海も!!、ナイスレシーブ」
「うん、…はぁ、二人もナイス、」
膝に手を付き、肩で息をする仲間達。あヤバい。俺も視界狭くなってきた。ぐらっと頭を垂れさせ、仲間達と同じように呼吸を整える。コートのこっち側は、声を掛け合う余裕すらなくみんなで俯いてしまっている。ほんの少しの時間、でもそれはチームの士気に影響する。分かっているのに、余裕がない。少しぼんやりとする耳に、ベンチからの声が絶え間なく聞こえてくる。「深呼吸ーー!」条件反射みたいに、息を吸う。酸素よ巡れ、身体を、頭を、働かせてくれ。ふぅーーーと息を吐く音。仲間達と緩やかに頭を上げる。冷静に見てみりゃ、ネットの向こう側だって相当疲労の色が濃い。当然だ。強豪校だろうが、同じ高校生。俺達だって散々体力作りもしてきたし、しんどい練習も乗り越えてきた。相手が誰だろうが、やることは同じだろ。
研磨がサーブ位置に下がり、笛が鳴る。
「研磨!ナイッサー!」
何人かの声が重なる。スコアは21-23。負けたら、なんて考えている暇はない。次の1点をどう取るか、大事なのは、常にそれだけだ。
─────
17-25
22-25
セットカウント0-2
音駒は準々決勝にて敗退となった。
「クロさん達、やめないッスよね…?!」
撤収のために通路を進んでいると、後輩達が振り絞るような声で聞いてくる。あ、そういえばいいプレッシャーになるかと思って言ってなかったんだっけか。俺達3年の中では今大会で引退しないことは確認済だが、それを後輩達には伝えていなかった。不安そうな視線が集まる中、ニヤリと笑ってみせる。
「しねーよ。まだ全国制覇してねーからな」
「春高までよろしくな」
「お前らが心配すぎて引退なんて考えらんねぇよ」
俺に続き、海、夜久もそう言って後輩たちを振り返る。山本や犬岡が目尻に溜まった涙を拭う中、研磨は「そう簡単に居なくなる人達じゃないでしょ」なんて冷静に言う。いやまぁそーなんだけど。俺はふと、ここに居ないマネージャーのことが気になった。彼女とは、まだ引退の話はしていない。勝手に春高まで付き合ってくれるものだと思っているが、真面目な彼女のことだ、もしかしたら受験に専念しようと考えているかも知れない。
「あー、悪い、海。コイツら頼める?」
「いいよ」
マネージャー?と聞かれ、素直に頷いてその場を後にする。今日はもうこのまま解散だけど、念の為後輩達が忘れ物してないかとか確認してからまとまって会場を出る。それを海に任せて、俺は横断幕とカメラの撤収をしているであろう久世の元へ向かった。
客席の階段を下りると、丁度荷物をまとめて振り返る彼女と目が合う。
「「春高…」」
完全に重なった声に、お互いに面食らう。
「…はる…こうまで、残ってもらえません…?」
本当はこんなに気安く聞くことじゃない。大学受験は長い人生を考えても重要なことだ。なんならそっちを優先するのが、正しい気すらする。でも彼女が「春高」と言ったその目は、昨日や今日と変わらない。ただ真っ直ぐ次の目標を見据える目だ。きっと俺達と同じように、既に今大会で引退しないことを決めていたんだろう。「うん」と確かに頷いて見せる顔に迷いはない。
「……よし、改めてよろしくな」
「こちらこそ」
俺が手を差し出すと、彼女がそれを握る。
固く握手をし、次の大会でのリベンジを誓った。
──────
そして、季節はまた夏。
今年の夏も合宿のスケジュールは例年通り。先週行われた梟谷での1泊2日の合宿では、烏野の奴らと再会をした。向こうも3年は残っていたし、ほんの少し見ないうちに随分成長したようだ。俺達の代で、ゴミ捨て場の決戦を実現したい。好敵手の成長を喜びつつ、負けていられないと気合いを入れ直した。
「あっつ……」
隣を歩く久世が、夏の暑さに耐えきれず声を漏らす。森然での合宿まであと2日。俺達は備品の買い出しに向かっていた。
練習中、なんとなく勘が働いて倉庫を覗いてみると、久世は備品を確認しながら何かメモを取っていた。気付かれないように近付きそのメモを取り上げると、ビンゴ。それは買い物リストだった。しかも結構量が多い。俺がこのチャンスを逃すまいとすぐに荷物持ちを買って出ると、彼女は予想通り拒否する。一人で持てるとか、選手にそんなことさせられないだとか、だったら1年に頼むだとか、色々言っていたけど、結果的には俺の粘り勝ち。好きな子と二人で出掛ける機会を得た。
「やっぱり黒い服だと暑いね…」
「だな」
俺達は二人とも練習着の黒いTシャツと、下はジャージという格好をしていた。黒い背中に直射日光が当たり、ジリジリと焼けるように熱くなる。襟ぐりを引っ掴んでバタバタとTシャツを揺らし、少しでも涼しさを求めつつ隣の久世を見ると、彼女も同じような仕草をしていた。
あっ。
あ、ちょっ、と。よくないかも。
俺は適当に遠くの空に視線を逸らす。
身長差的に、俺が彼女の手元を見るにはほぼ真上から見下ろすような形になる。指先で引っ張られた襟から、その中が簡単に覗けてしまいそうだった。
…これ、俺が意識してなかっただけできっと去年の夏もやってたんだろうな。随分と彼女を見る目が変わってしまったなぁなんて考えつつ、無意識にまた視線が落ちる。いやいやいや、駄目だろ。ほんと良くないこういうの。「見ちゃ駄目だ」と「見たい」がせめぎ合い、「見たい」が勝つ。俺だって健全な男子高生。好きな子の無防備な姿を前に自重できるほど出来てない。
彼女の短い髪の先からうなじへ、そして背中へと汗が伝っていくのをじっとりとした目で追う。そして、彼女がまた「暑い」と言って襟をパタパタさせる。
あ
見…
頭上に広がる、群青の空を見上げる。夏の空は青く、高い。
押し寄せる罪悪感で全身が重くなると同時に、ぶわりと高揚する。俺と同じ黒いTシャツの中の、女性特有の膨らみ。それに沿う、男は使わないソレ。焼け付く日差しが可愛く思えるくらいに、身体の芯が熱を持つ。
突然上を向いてぎこちなく歩く俺に、隣から怪訝な眼差しが向けられているのが分かる。……これって、指摘するべきなんだろうか。言えば見ていたことがバレてしまうが、無防備なまま放置するのも微妙だ。相手が好きな子じゃなければ、申し訳ないけどありがとうございますって感じで済む話だけど、もし他の奴がこうして彼女のことをいかがわしい目で見たらと思うと、たまったもんじゃない。
俺は自分の罪を一旦棚に上げ、目を逸らしながら指を差した。
「……それ、さぁ」
「…それ?」
「結構…見えるから……お気を付けてドーゾ……」
数秒待つが、久世からの返答はない。…もしかして引かれたんだろうか。俺が邪な目で見ているのがバレて軽蔑された?恐る恐る彼女の顔色を窺ってみて、後悔する。アーーーッッと……今そういう顔されんのヤバいんだけど。久世は襟をぎゅっと抑え、赤面していた。恥ずかしさと困惑に眉を下げて唇を噛むその表情は、健全な男子高生にはかなりクるものがある。俺はまた視線を逸らし、絶対気持ち悪いことになってる顔を片手で覆った。…ごめん、ほんと。ちゃんと謝らなきゃいけない気がして一つ咳払いをしていると、隣からか細い声で「…ごめん…」と聞こえる。いや謝らなきゃいけないの絶対こっち。こういう時、何見てんのって怒ってくれたりした方が気が楽になるのに、久世っていつも謝るよな。こっちはむしろいい思いしちゃってんだからお前が謝ることはなんもねーの。心の中の声は騒がしいが、俺の口から出たのは「…いや、俺もごめん」という短い言葉だけだった。
絶妙に気まずい雰囲気の中、目的のドラッグストアに到着する。涼しい店内でテキパキと必要な物をカートに載せる久世は、もうすっかりマネージャーモードだ。購入を済ませると、また重い荷物をどっちが持つかで押し問答が始まり、俺が粘り勝つ。なんなら全部持たせてくれてもいいのに、彼女はそれを許してくれない。俺としては良い格好したいし、もっと頼られたいのに、そうはさせてくれないのが久世だ。
その後スポーツ用品店にも寄り目的を果たすと、また夏の道を歩いて帰る。
「…荷物、重くない?」
「重くねーって。というか、重かったとして、それを女子に持たせるわけねーデショ」
「わぁ。さすがモテ男くんだ。でも、疲れたらすぐ言ってね」
「……うん…まぁ…うん……」
俺に荷物を持たせたことを未だに気にしている彼女に返事をすると、モテ男くんとか言われてしまう。いや、まぁ、確かに?否定した方が嫌味っぽくなるから言わねーけどさ。好きな子から言われると微妙すぎる。お前には全然何も効かないのに、なにがモテ男だよ。はぁ、と軽く溜息を吐くと、すかさず「持つよ?!」と隣から手が伸びてくる。違いますぅ〜そういう溜息じゃないですぅ〜と言って荷物を遠ざけると、彼女は納得のいかないような顔をしつつも一旦諦めてくれる。うーん。男子が重いもの持ってくれるのって普通胸きゅんポイントじゃないんだろうか。どうやったらこの子にアピールできんだろ。全然分からん。そんなことを考えながら信号が変わるのを待っていると、久世が纏うオーラがパッと華やぐ。
「いいこと思いついた!コンビニ寄ろ!」
「…んえ?え?いいけど…」
突然キラッキラの顔で提案する彼女に、動揺しつつも快諾する。横断歩道を渡った先、学校とは逆側だがコンビニがある。別に多少寄り道するくらいなんて事はないし、俺としては彼女と二人で居られる時間が増えるのは願ったり叶ったりだ。
「アイス食べよ!奢るよ」
「買うのはいーけど、なんで奢りよ」
「荷物持ちのお礼!」
信号が青に変わり、彼女はるんたった〜とスキップする勢いで横断歩道を渡っていく。食い物のことになると可愛さが爆発するのは相変わらずだ。その姿に、奢りを断るタイミングを失ってしまう。俺が無理言って付いてきたのに、そのお礼をしないと気が済まない真面目さと、アイスが楽しみで足取りが軽やかになるそのギャップに、ブンブン振り回される。前から知ってたし、恋愛感情じゃなかったにしろ前から可愛いと思ってた。…ほんっと罪な子だわ。
「やったー!アイスアイス♪」
2人分のアイスを購入した久世は、幼い少女のように上機嫌だ。俺も差し出されたアイスを受け取り、「じゃあゴチになります」と言って袋を開ける。既に表面が溶け始めているそれを一口齧ると、口の中の温度が一気に下がる。喉へ、脳へと冷たさが広がり、火照った身体が癒されていく。
「〜〜〜ッ♡」
声になってない声が聞こえてきて、久世の顔を覗いてみる。うわ。最強可愛いモードだ。普段の久世なら、こんなガッツリ角度付けて顔見てたらすぐ嫌そうな顔するのに、今はもうアイスに夢中。俺と目が合っても、「んふ!♡」つってその美味しさを伝えようとしてくる。
あ゛〜〜〜可愛い。
えっ、大丈夫??
お前そんっっな可愛い顔して大丈夫??
コイツが美味そうに食ってるところは何度も見たことあるけど、ここまでテンション高いのは初めてなんじゃないのか?教室とか、合宿の時の食堂とかではもうちょっと抑えて……あ、そうか…もしかして。…今は、俺しか居ない…から?
……いや、いやいやいや、分かってる。別に俺が特別って訳じゃない。女友達の前ではきっとこれが標準なんだろう。でも、それだけ気を許してくれてるってことだよな。それだけで十分嬉しい。俺も上機嫌になって、がぽりとアイスにかぶりつく。調子に乗りすぎたのか、どっかの歯がキーーンと痛み身悶える。そんな俺を見て久世が「んふふふふ」と笑う。っあ〜〜…こんな幸せがずっと続けばいいのに。嫌な痛みが広がる顎を抑えながら、画期的なことを思いつく。この子に美味しいものを与え続ければ、俺はずっと幸せなのでは…?…って、いやいや、普通に無い。与えようとしたところで絶対断られるし。…というか、なんか今日の俺、頭悪くね?暑さでやられてんのか、隣のこの子にやられてんのか…。
アイスを食べ終わり、袋に棒を戻す。久世の方は…まだ半分近く残っている。一口食うごとに感動してたらそりゃ遅くなるわな。彼女が嬉々として選んだミルク味のラクトアイスが、今にも垂れそうになっている。
「あーオイ、溶けてる」
声を掛けるが、時すでに遅し。彼女の指の間、そして手首へと溶けたアイスが伝う。乳白色のソレを、彼女が困り顔で舐めとる。
違うんです。
弁明させてください。ほんと違うから。彼女の行動は別に何もおかしくないし、別にいやらしくもない。なんなら水飲むのが下手くそな子猫みたいな、庇護欲をそそるような感じの可愛らしさがある。だから決して、決して、エロいとかそんなことはない。
でもガン見しちゃうのはしょうがないでしょうが……!!
唇から覗く舌から目が離せない。罪悪感と興奮で、再び重力が訳わかんないことになる。自分がどう歩いているのかも分からない。ポタリ、またポタリと垂れてしまうアイスを一生懸命舐め取るその舌を見るのに全神経が注がれている。
ふと彼女と目が合い、ちょっと睨まれる。
あ、最強可愛いモード終わりっすか。
もう少しで学校に着く。俺は行きと同じように空を見上げた。西日が直接顔を照らし、むき出しの左側がジリジリと焼ける。どうにか食べ終わったらしい久世が「おいしかったー」と言い、袋に棒を戻しているのが音で分かる。
「戻ったら手洗えよ」
「はぁい」
適当に遠くを向いたまま、冷静な発言ができた自分に拍手を送る。彼女もさっきの俺の視線の意味は分かっていないようだ。もう少し危機感を持ってほしいところだけど、今言及するのは止めておく。さすがに一日に二回もそういうこと言われたら気持ち悪いだろうし。
見慣れた体育館が見えて、なんとなく安堵する。テキパキと買ってきた備品を整理する久世に従い、二人で一気に完了させる。これでミッションコンプリート。
今日はいわゆる、ラッキースケベ的なものを享受してしまい、今更ながらに申し訳なく思う。できるだけ思い返さないようにします。……できるだけ。自然な流れでまた一緒に駅まで帰りつつ、もう絶対に妙なことが起こらないよう、合宿の話題だけで乗り切った。