赤い糸40,075km
夢小説設定
音駒高校に入学して早数ヶ月、季節は夏を迎えていた。
日直の仕事を終えて、汗ばんだ夏服を指先で引っ張りながら昇降口へ向かう。途中で先生の長話に付き合わされていまい、空はすっかりオレンジ色になっている。
誰もいない昇降口で靴を履き替えて歩き出すと、ボールの弾む音と靴の擦れる小気味良い音が耳に入ってくる。音のする方へ目を向けると、体育館の扉が開いているのが見えた。
——バレー部、まだ練習してるんだ。
私は母の影響で昔から男子バレーをよく観ていたけど、この学校のバレー部についてはまだ何も知らない。確かそこそこの強豪校だと母は言っていた気がするけれど、部員もそんなに多くなさそうだし、学校として盛り上げている感じはしなかった。
全開にされたままの扉の奥を、何の気なしに覗いてみる。それぞれが必死にボールを追いかけ、掛け声を張り上げ、外よりずっと熱を帯びた独特の湿度が漂ってくる。
その中で、一人の男子が目に入った。
——黒尾くんだ。
顎下の汗をシャツの襟ぐりで雑に拭い、すぐさまボールに反応する彼の姿を意外に思ってしまう。
彼はクラスが別なのでほとんど話したことはないが、随分と女子から人気があるようで勝手に顔と名前を覚えてしまっていた。たまに廊下で見かけると、適当な冗談を言っては周囲を笑わせていたりして、彼の周りにはいつも人が居た。ニヒルな笑い方と気怠げな印象から、ちょと軽いような胡散臭いような…そんなイメージを持っていた。
…なのに、目の前の彼はまるで別人のようだった。
先輩らしき人から厳しい指導を受け、ヘトヘトになりながらも必死にボールを追いかけている。全身から滝のような汗が流れ、シャツは背中にぴったりと貼りついていた。そして「次お願いします!」と真っ直ぐな声を上げている。
驚いた。
こんなにも泥臭く、全力で打ち込む姿があるなんて思ってもみなかった。
無意識のうちに、私は彼に釘付けになっていた。
息を詰めて見つめる中、黒尾くんは足が縺れて倒れ込んでしまう。恐らくもう足の筋肉が限界なんだろう。人肌とフローリングが擦れる痛々しい音がここまで聞こえてきて反射的に身体がキュッと縮み上がる。
黒尾くんは腕の力でどうにか立ち上がろうとしていた。その姿を見続けるのは忍びなくて、踵を返そうとしたその瞬間──。
黒尾くんは、笑ってた。
その笑顔を見た瞬間、まるで時が止まったかのような感覚に襲われる。
彼は今この時がたまらなく好きだと言わんばかりに破顔して、自分の太腿を叩きながら「もう一本お願いします!」と声を上げる。
目が離せない。
筋肉が不規則に痙攣して覚束無い足元、べとべとのシャツ、ひうひうと肩で息をするそのボロボロな姿が、たまらなく美しく見える。
夏の暑さとは別の、温かいものがじんわりとこみ上げてくる。
胸は痛いくらいに締め付けられているのに、不思議と心地良い浮遊感に包まれた。
——ああ、これがそうか。
これが恋というもので、これが一目惚れというものなんだと、意外にもストンと理解できた。
この日から私は、“黒尾くんのことを好きな女子”の内の一人になった。
黒尾くんを好きになってからは、彼がモテる理由に一つ一つ納得する日々だった。
彼が軽そうに見えたり気怠げに見えたりするのは、どうやら全て彼が意識的にやっていることのようだ。私の見る限りでは、黒尾くんは人の事をよく見ていて、よく気がつく人だ。きっと人に頼りにされること自体は嬉しいんだと思う。でも真正面からお礼を言われたり、優しい人だと思われるのは気恥しい。多分そんな感覚で、黒尾くんは表面上を取り繕っているように見えた。
なるほどな、と1人で頷く。
私が勝手に胡散臭いと思ってしまっていたのも、黒尾くんのこうした心理現象によりもたらされたものだった訳だ。実際の彼はとても繊細で、いじらしい人なんだと思う。
そんな彼の魅力に、入学して間もなくから気付いていた子たちがいたと思うと、尊敬の念が絶えない。もしかしたら背が高い人が好きってだけの人も居るかも知れないけど、そんな人もきっと黒尾くんの繊細な優しさに後から気付いたんだろうな。
廊下の壁にもたれなから友人達と話す黒尾くんを、教室の中からじっと観察する。
…うん。格好良いよね、外見も。…なんて。なんの関わりもないのにこれ以上じろじろ見るのは失礼だ。私は次の授業の準備に目を向けつつ、頭の中はまだ黒尾くんのことばっかり。
彼は背も高いし気配りもできるから、比較的大人っぽい印象があるけれど、たまに見せる年相応に無邪気な笑顔が、私は好きだ。
廊下から笑い声が響いてきてもう一度そちらに目を向ける。
───うん、今日も好き。
そしてあっという間に月日は流れてゆく。
私は変わらず黒尾くんと何一つ接点を持たないまま、ただ好きでいるだけだった。
ただ好きで居るだけで、私は満たされていた。
「…おぉ……」
4月。
親しい友人とクラスが離れることを惜しみつつ2年生の教室に入ると、そこには黒尾くんが居た。彼と同じクラスになる未来があるなんて考えたこともなかったから、入口で間抜けな声を漏らしてしまう。
そっか、黒尾くんと同じクラス……同じクラス……………。
嬉しいと思う反面、なんだか申し訳ないとも思う。気を抜いたら四六時中黒尾くんを見詰めてしまいそうだし、そんな不快な思いはさせたくない。ちゃんと弁えて、気を付けなくちゃ。
私は恋心を漏らさないことを己に誓い、自席に着いた。
─────
それから1ヶ月ほど経って、席替えが行われた。
私は黒尾くんの斜め後ろというベストポジションを獲得し、やっぱりついその背中を見詰めてしまう。ちょっとくらいいいよね?きっと黒尾くんのことを好きな他の子達も見ちゃったりするよね?と自分を正当化しながら。
「久世さん、おはよ」
そんなある日、朝練を終えて教室に入ってきた黒尾くんが突然私に挨拶をしてきた。しかもしっかり名前を呼んで。
───えっ、なんで?
いや、クラスメイトなんだから挨拶をするのは普通だ。でも意識していた相手に急に名前まで呼ばれると頭が真っ白になりそうになる。黒尾くんはそのまま自席に着く─わけでもなく、こちらの様子を窺っているようだった。
その様子に、あ、と気が付く。
優しい黒尾くんのことだ。私がまだ全然クラスに馴染めていないことを気にかけてくれているんじゃないだろうか。多分、そこそこ顔の広い俺と挨拶する仲ってなったら他の奴も普通に話し掛けたりするようになんだろ……みたいな。黒尾くんの考えそうなことだ。合っている気がする。そんな彼らしい言動に、つい顔が綻んでしまう。
「おはよう、黒尾くん」
私はなんとか気まずくならない程度の間で挨拶を返すことに成功する。
黒尾くんは「お、おう…」と何故かぎこちなく自席に座って背を向ける。思ったより元気だなコイツって思った?相手が黒尾くんだからだよ。
とりあえず、こうして私は黒尾くんとの初めての会話を乗りきることができた。
でも今みたいな反応を続けてたらいつか好きってバレてしまうから、気を引き締めなきゃ。
私は再び、バレないように頑張ろう!と心の中で拳を上げた。
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