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琵琶女主




ペパーミントのつんとした匂いが、小夜香の鼻をつく。
滑らかなシーツの感触が、素肌に心地いい。けれど、今の季節には少し寒かった。
「起きたのか」
静かな声の響きに、小夜香の微睡みが解けていく。
部屋の主の存在を思い出して、小夜香は慌てて身を起こした。
「せんぱい」
小夜香が小さな声で呼び掛けると、ちらりと視線を向けてきた永至の唇から、笑みと紫煙が洩れる。
「起きるにはまだ早いんじゃないか」
永至は甘やかすような、機嫌の良い口調で言った。
「もう少し寝ているといい」
そう言いながら、彼はまた煙草の煙を吸い、吐き出す。
永至は上半身裸のまま、ベッドに腰掛けていた。
閉め切っていないカーテンの隙間からは、月明かりが差し込み、彼を照らしている。
ふと、小夜香は永至の持つ煙草が灰を落としかけているのに気が付いた。
素早く傍にあった灰皿を差し出すと、永至は感心したように目を細めてから、何も言わず灰皿に煙草を押し付けた。
「ずっと起きていらしたんですか?」
「いや」
永至がもう一本煙草を取り出し、咥える。
小夜香は当たり前のように灰皿の側に置いていたライターを手に取り、当たり前のように火を差し出す。
永至も当たり前のように、煙草に火を付けた。
「一眠りはしたんだが、どうにも目が覚めてしまってね。考えごとをしていた」
「そうでしたか」
ライターをベッド脇のサイドテーブルに置いてから、小夜香は床に落ちている自分のワイシャツを引き寄せ、身に纏った。
「少し冷えるな」
永至が何でもないことのように言い、小夜香は目を細める。
「何かお持ちしましょうか」
「いや、いい……今何時だい?」
小夜香は後ろを振り返り、壁に掛けられた時計に目をやった。
「二時です、ね、んっ、……先輩」
首筋に痛みが走り、小夜香は咎めるような視線を永至に向けようとする。
永至は小夜香の白い肌に噛み付くのを止めて、
「おやおや部長君、はしたないな」
と、無邪気に笑った。
「キスマークなんてつけてきて、一体どこの誰と火遊びしてきたんだい」
「……」
「と、明日、彩声君にけしかけてみようか」
小夜香は小さく溜め息を吐いた。
「止めていただけると助かります」
「だろうな」
永至はまた笑ってから、煙草を捻り消して、灰皿に放る。
小夜香はシーツに零れた灰を、手ではらった。
「……まだ休まれなくていいのですか」
「ああ」
永至は退屈そうに欠伸をした。
「……なぁ、菫野」
永至に名を呼ばれ、自然と小夜香の背筋が伸びる。
「はい」
永至はどうでも良さげな表情で、小夜香に視線をやった。
「君はどうしてまた、こんなくだらない世界に来た?」
小夜香の眉が下がる。
思い出したくもない話をさせるのが好きな男だとは、知ってはいたけれど。
「…………答えたくないのですが」
「理由は?」
「きっと、貴方にとってはくだらなくて笑える話ですよ」
「ほう?」
余計に気になる、と、永至は唇の端を持ち上げた。
「命令だ。答えたまえ」
「…………」
小夜香はまた小さく息を吐いてから、永至の傍らまで近付き、控えめに答えた。
「……結婚詐欺師に騙されました」
小夜香の予想通り、永至は一瞬面食らったような顔をしてから、思い切り吹き出した。
「ふっ、く、はははっ!そうかそうか、それは…………」
ひとしきり笑ってから、永至は目を細め、小馬鹿にした口調で呟く。
「……可哀想に」
小夜香は、黙って目を伏せた。
「そんなことで、こんな世界に閉じ込められたわけか」
「ええ、まあ……でも」
退屈しているらしい飼い主の気を紛らわせるため、小夜香は話を続ける。
「それだけでは、なくて」
「……ほう?」
「母の形見を、奪われたんです」
永至が目を細める。
「ふむ……貴重なものだったのか?」
「ええ」
小夜香は頷いてみせた。
「私は、イミテーションの宝石を集めるのを趣味としていたんですが……それだけは、本物のサファイアだったんです」
「なるほどね」
惜しいことをしたな、と、彼は言う。
あくまでも金銭的価値で計る永至の彼らしさに、小夜香は少し微笑みたくなった。
「金銭的価値のあるものは、ほとんど奪い去られて……まあ、それでも、生きていくことは出来たんですが。……全ての偽物が疎ましくなっていた頃に、この世界に引きずり込まれました」
「皮肉なものだね」
言葉通り、永至は皮肉げに笑う。
「引きずり込まれた先も、偽物ばかりの張りぼてとは」
「ええ、全く」
小夜香は同意して、すこし俯いた。
「……だからこんな世界、早く壊してしまいたい。……与えられるものは全て偽物なんて、疎ましいにも程がある」
「まさに、君にとっては『楽園』だったわけだ」
永至はそう言って笑い、小夜香は何とも言えない表情で永至の横顔を見やった。
「おっしゃる通りですよ。こうして、貴方にも会えたわけですから」

くだらない偽物の世界で。
永至だけが本物の人間だ。

嘘偽りで周囲を誤魔化すことこそが、彼にとって、嘘偽りなく自分を誤魔化さないことなのだ。

だから小夜香は永至が好きだった。
永至に恋をしていた。
永至を愛していた。

彼に、忠誠を誓っている。

「………菫野」
永至がまた、煙草を取り出した。
「珈琲を入れてくれ。ミルクは要らない」
「かしこまりました」
「それと、君の話の続きを」
小夜香が意外そうに目を丸くすると、永至は笑った。
「退屈しのぎにはなる」
「……かしこまりました」
小夜香は肩にかけたシャツの襟をかき合わせ、キッチンへ向かう。

ほのかに、ペパーミントの香りがした。


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