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主琵琶 (n)




「センパイ、センパイ」
何やらはしゃいだ様子のnの声が、後ろから聞こえてくる。
ソファに身を沈めていた永至が興味なさげな視線を向ける前に、nはソファの背もたれに寄りかかり、永至の顔の前へ何かを突き出した。
右手の人差し指には、以前永至がくれてやった指輪が嵌められており、その指先は青い液体の詰まった小瓶をつまんでいる。
「なんだい部長君」
永至はどうでも良さそうに言う。
「ただでさえ知性のない顔が、余計に間抜け面になっているじゃないか」
nの顔を見もせずに小瓶を眺める永至に対し、何故だかnはけたけたと楽しそうに笑った。
「見てこれ、貰った」
nは永至の目の前にある小瓶を振ってみせる。
透明な小瓶の中に青い液体の詰まったそれは、所謂。
「ペディキュア?っつーんだって。足に塗るやつ」
「……それで?」
「足出して」
「は?」
永至は形の良い眉をしかめ、ようやくnの方を振り返る。
普段の制服とは雰囲気の違う、ラフな私服に身を包んだ彼は、無邪気とも言える眼差しで永至を見つめていた。
「僕に塗るのか?」
そんなのはごめんだと言外に匂わせながら永至が訊き返すも、
「あるなら塗らなきゃだろ。ほら、さっさと足出せよ」
と、nは何故だか決めつけて、永至の前へと回り込んだ。
永至は露骨な溜め息を吐きながら、長い足を組み直す。
「休日に僕の家に来てわざわざやることがそれか?君の考えることは、相変わらず意味不明かつ無意味だな」
「じゃあ逆に聞きますけども?休日に家に連れ込んだ後輩に対して、センパイってばなーに期待してたわけ?」
やーらしー、とnは笑いながら、ペディキュアの小瓶の他に、もう一本透明な液体が入った小瓶を取り出した。
永至は黙って片足を上げ、カーペットの上に小瓶を並べるnの頭を踏みつける。
「うぉっ、ってえ、おい!何してんだ琵琶坂!」
「ふふ、」
nの頭を床に押しつけようと、足に力を入れながら、永至は小さく笑った。
「いやなに、そうして床に這いつくばっている姿が随分お似合いじゃないか、部長君?普段から腰を振るか好き勝手するしか能がないんだ、たまには犬らしくしてみたらどうなんだい?」
そう言いながら、永至はぐいぐいとnの頭を踏みつけていたが、やがて永至の足を払い除けて、nは気に入らないと言わんばかりに永至を睨みつけた。
「てっめえ……せっかく俺が上機嫌なとこ邪魔すんじゃねえよ!普段好き勝手してんのはどっちだ、この片面ハゲ!」
「いい加減年上を敬う口の利き方を覚えたらどうかね。いくら僕が優しい先輩だからといって、君の生意気ぶりをいつまでも見逃すわけじゃないんだ」
「はぁあ?」
思い切り不満げな声を出すnに対し、永至は「なにか文句があるのか?」と冷たい視線を投げかけた。
nは思いっきり物言いたげな表情をしてみせるも、諦めたように頭を左右に振る。
「あーハイハイ……わかりましたわかりました、ビワサカセンパイはいっつもやさしーなーすごいなーうれしいなー。とってもうれしいからいつもアリガトーゴザイマース」
「……馬鹿な犬ほど躾け甲斐があるというが」
舐め切ったnの口調に対し、永至は怒りを通り越して、呆れたように言う。
「君は馬鹿犬どころか、どうしようもない狂犬だな。殺処分されても文句は言えないんじゃないか?」
「うっわ、センパイこっわー」
nはふざけた口調で笑ってみせる。
「あんたの犬になったつもりはねーよ。これからもなるつもりねーし。で、ほれ、早く足出せよセンパイ。ベースコート?とか言うの先に塗るからさ」
「……まだ諦めていなかったのか?」
「うん♡」
呆れ返った表情を浮かべる永至に対し、nは満面の笑みを返す。
永至はやれやれと小さく頭を振って、諦めたように片足を差し出した。





粘つく液体の青は、思ったようには塗れなかったらしい。
nは苦心しながらも、なんとか親指の爪を青い色で覆うことに成功する。
その様子をつまらなさそうに見ていた永至は、おもむろに片足をあげてじっくり見物したのち、「35点」と評価を下した。
「意外と不器用だな、君は」
「ほっとけ」
慣れてねえんだよ、と不貞腐れるnの表情に気を良くしたのか、永至は小さく笑う。
「それで?」
「ん?」
「これを塗った真意は?」
訊ねられて、nはぱちくりとまばたきしてみせる。
「えーと。……浮気防止?」
永至は思わず肩を落とす。
何も考えていなかったというのはわかるが、選ぶ言葉にセンスが無さすぎる。
「……もう少しまともな言い訳は思いつかなかったのか?」
「思いついたところで、無意味で意味不明ってやつじゃん?」
そうだろ、と、永至の言葉を引用して、nはけらりと笑った。
永至は何度目かわからないため息をつき、ペディキュアを塗られた方の足を掲げる。
親指の爪だけが、青く光っていた。
nはそれを見ながら、首を傾げてみせる。
「乾くまで時間かかりそうだな」
「そうだろうね」
「そんな足じゃ、どこにも行けないな?」
悪戯っぽく笑うnに、永至は目を細めた。
「……こんなもので、僕を縛り付けたつもりか?」
「まさか」
無邪気だったnの表情が解け、彼独特の猫のような視線と笑みが、永至に向けられた。
「あんたも俺も、どうせ縛られる気なんてねーだろ?」
揶揄の中に陰を混ぜたような口調と声色で、nは笑ってみせる。
永至は暫く黙ってから、小さく笑った。
「……こんなもの、すぐに剥がれて無くなるさ」
そう言いながらも、永至は青を拭おうとはしなかった。
nは少し不思議そうな表情でそれを眺めていたが、やがてどうでも良さそうに、ひとつ、欠伸を零した。


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