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noNe coupling




旧校舎、音楽準備室のドアの前で、鈴奈はゆっくりと深呼吸していた。
息をゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。
どきどきと高鳴る心臓を宥めながら、鈴奈は意を決して、恐る恐る、部室のドアを開けた。
「こ、こんにちは……」
「鈴奈ちゃん」
部室のソファに座り、本を読んでいた黒髪の少年が、鈴奈に気付いて顔を上げる。
「お、お待たせしてしまってすみませんでした、部長」
「ううん、そんなに待ってないよ」
彼は穏やかに微笑んで、眼鏡の位置を軽く直す。
「じゃあ、お昼ご飯にしようか。ちょっと待ってね、アリアを起こすから……」
「は、はい」
鈴奈は、宥めたはずの緊張がまた顔を出すのを感じながらも、何とか平静を保とうと、ほうっと息を吐いた。
「お待たせ」
「ふぁあ……おはよ〜鈴奈……」
寝ぼけ眼で目を擦るアリアに、鈴奈は思わず吹き出してしまう。
「ふふっ……今はお昼だよ、アリア」
「ぅぅぅん、そうだったそうだった、シャキッとしろアタシ~~!!」
アリアが自分の頬を両手でばしばし挟むのを見て、鈴奈と部長は小さく笑った。
アリアがしゃっきりしたところで、テーブルの上のお菓子の袋や飲みかけのジュースが入ったペットボトルを寄せ(「いい加減片付けないとね」「そうですね……」)、鈴奈は
弁当の入った包みをそっと置いた。
「あ、あの、お口に合うかどうか……」
「だーいじょうぶ!」
不安げな鈴奈に対して、アリアがえっへん、と胸をはる。
「アタシがぜぇーんぶ食べてあげるってば!」
「僕の分も残しておいてね、アリア」
部長は苦笑しながら席につき、
「ありがとう、僕らの分もお弁当作ってくれて」
と、鈴奈に微笑みかけた。
「いえ、いいんです、」
鈴奈はあわあわと、胸の前で手を振ってみせる。
「先輩が、私のお弁当を食べる練習に付き合ってくれるって言ってくれたのが、凄く嬉しくて……あの、ちょっとだけ、張り切っちゃいました」
そう言って、鈴奈がお弁当の包みを開き、蓋を取ってみせる。
弁当箱の中身に、アリアと部長は感嘆の声を上げた。
「すっごーい!これ全部鈴奈が作ったの?やるじゃーん!!」
「本当に凄いね……物語に出てくるお弁当みたいだ」
「そ、そんな大したものじゃないんです!」
鈴奈はまた慌てながら、部長とアリアに弁当を差し出す。
「えっと……じゃあ、召し上がってください」
「あ……ちょっと、待ってもらっていい?」
「えっ?」
そう言うなり、部長は少し困ったような、何とも言えないような顔をして、「ええと、」と言葉を詰まらせる。
それを見たアリアが、軽く呆れたような顔をした。
「You、いつものやつでしょ?鈴奈なら笑わないってば。ちゃちゃっと説明してあげちゃって!」
「ああ、うん、分かってるんだけど、言い出し辛いんだよ……ええと……」
部長は眼鏡の奥の瞳をくるくると動かしてから、言いにくそうに「鈴奈ちゃん」と呼びかけた。
「は、はい」
「宗教とか、苦手だったりする?」
「えっ……?」
唐突な質問に、鈴奈はきょとんとしながらも、
「いえ、特には……本で読んだ知識ぐらいしか、ないんですけど」
「ああ、それならいいんだ」
ほっとしたように部長は言ってから、照れ臭そうな表情を浮かべた。
「……食事の前に、お祈りがしたくて」
鈴奈は目をしばたたかせる。
「お祈り……ですか?」
「う、うん」
部長は頷いてみせた。
「僕、その、クリスチャンなんだ……食事前には、ちゃんとお祈りしないと、落ち着かなくて」
「そうだったんですね」
鈴奈は小さく微笑んで、頷いてみせる。
「私は構いません。部長が気にならないなら」
「ありがとう」
部長は安心したように微笑み返すと、おもむろに両手を顔の前で組み、目を閉じた。
その様子が何だか神秘的に感じられて、鈴奈は思わず姿勢を正してしまう。
「…………天にまします我らの父よ、今日このお恵みを与えたもうたことに心よりの感謝を……」
小さく呟かれる祈りの言葉を、鈴奈とアリアは黙って聞いていた。
部長は静かに語りかけるように、祈りを続ける。
「……主、キリストの尊い御名によって祈りを捧げます。アーメン」
小さく十字を切ってから、ようやく部長は目を開けて、鈴奈に向かって微笑みかけた。
「……待たせてごめんね。ありがたくいただきます」
「いっただっきまーす!」
待ってましたと言わんばかりに、アリアが卵焼きに飛びついた。
鈴奈は食べやすいように取り分けてやりながら、部長に話しかけた。
「先輩、クリスチャンだったんですね」
「そうなんだ、あんまり周りには言ってないんだけどね」
部長は照れ臭そうに笑う。
「僕、ちっちゃい頃から教会とか行ってて……なんていうのかな、骨身に染み込んでるというか……神様がいることが当たり前なんだよね」
鈴奈は小さく首を傾げてみせる。
「神様がいることが当たり前……ですか」
「そう」
部長はブロッコリーの胡麻和えを齧り、咀嚼して、飲み込んだ。
「よく、神を信じる、信じないっていうけど、そういうんじゃなくて……神様っていうのは、心の拠り所なんだ」
鈴奈はわかったようなわからないような顔で頷き、続きを促す。
部長はブロッコリーの残りを口に放り込み、また咀嚼して飲み込む。
「自分が間違えそうな時、間違えてしまった時、苦しい時、辛い時……そういう時に、心の傍にいてくれる。そういうものだと、僕は思ってる」
「…………」
考え込むような表情を浮かべる鈴奈に、部長は微笑んでみせた。
「あんまり難しく考えなくていいよ。……こんな話、退屈じゃない?」
「あ、いえ!凄く興味深いなって思って……よかったら、もっと聞かせていただけませんか?」
「いいの?」
意外そうな表情をする部長に、鈴奈は「はい」と笑顔を浮かべる。
「宗教について、色々本を読んだことはあるんですけど……実際に、そういうお話するのは初めてだったので。先輩が良ければ、色々聞かせてくれると嬉しいです」
部長は目を細めて、「いいよ」とまた微笑んだ。
「じゃあ僕も、聞きたいことがあるんだけど」
「は、はい。何ですか?」
部長は真面目な顔で言った。
「この卵焼き、レシピとかある?凄く美味しい」
鈴奈は呆気に取られたような顔をしてから、思わず笑ってしまった。





話はあんまりにも盛り上がり、気付けば昼休みはあっという間に終わってしまった。
アリアは何の気を利かせたのか、「あとはお若いお二人で〜」なんて言いながら、部室を出て行ってしまった。
「鈴奈ちゃん」
二人で部室を出ると、部長がおもむろに、先ほどまで彼が読んでいた本を鈴奈に差し出した。
「貸してあげる。良かったら読んでみて」
「いいんですか?」
「うん」
本を受け取る鈴奈に、部長は頷く。
「ていっても聖書なんだけどね、それ」
「お借りして大丈夫なんですか?」
「いいよ。鈴奈ちゃんなら、本は大事に扱ってくれるだろうし」
「ありがとうございます」
鈴奈は聖書の表紙を軽く撫でてから、落とさないようにしっかりと持ち直した。
「先輩と色々お喋りできて楽しかったです」
「僕も楽しかったよ。またお昼、誘ってくれると嬉しいな」
「はい!」
笑顔で頷く鈴奈に、部長も微笑んで頷き返す。
教室に戻るなら途中まで一緒に行こうという話になり、二人は並んで廊下を歩き始めた。
人の少ない旧校舎の廊下でも、耳にするのはµやドールPの話題ばかりだ。
ふと鈴奈は、思いついたことを、部長に聞いてみたくなった。
「……先輩は、」
呼び掛けると、部長が眼鏡の奥の瞳を、ゆっくりと鈴奈に向けた。
「µのこと、神様だと思いますか?」
先ほどまで彼と話していた『神様の定義』を思い出しながら、鈴奈は問いかけた。
部長は小さくまばたきしてから、考え込むように顎に手を当てる。
「……彼女は僕の信じる神ではないけれど、うん、そうだね。この世界で生きてる人たちにとっては、きっと神様なんだろう」
彼は言葉を選びながら続ける。
「でも、どちらかといえば、メビウスというこの世界そのものこそが、彼らの拠り所のように、僕は思える」
そういう意味では、と、彼は言った。
「………この世界は、確かに神様なのかもしれないね」
そう言って、なぜだか少し寂しそうに微笑む部長に、鈴奈は思わず立ち止まってしまう。
「……東雲先輩?」
「……もう予鈴鳴ったんじゃない?大丈夫?」
「えっあっ、そっそうでした!」
鈴奈は慌てて本とお弁当の包みを抱え直す。
「あっえっと、あ、あとでWIREします!今日はありがとうございました……!」
「うん、また部室でね」
「は、はい!」
わたわたと走っていく鈴奈の後ろ姿を、部長は穏やかな眼差しで見守っていた。


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