主→棘
月が綺麗ですねと投げ掛けたら、
ごめんなさいと『彼女』は言った。
たった、たったそれだけのことで、
狂おしいほどの恋情が、この空虚で壊れた胸の中を満たすのだ。
それなのに、何を他に望むべくしてあるのだろう。
『透明人間』を満たすのは、幾度も重ねた繰り返しの末に残った『虚無』ではない。
永遠に、永遠に、永遠に、ただひたすらに続いている『恋』だけだ。
俺はソーンが好きだった。
「Lucid」
今日の控え室は、やけに人が少なく静かだ。聞けば一部の楽士が組んでちょっとしたライブをやるらしく、そのための準備をしているとのことだった。
貴方は出なくていいとソーンに言われ、理由は分からずとも
そんなわけで、
多少暇でも、帰宅部の部室にいるよりは、こちらの方がいい。何せ、ソーンがいるのだから。
そう思っていた矢先、
「ちょっといいかしら」
「どうした?」
気にせず行って、と目で言われ、梔子に感謝しつつ
今日のソーンは何となく落ち着かなげというか、そわそわしていた。少し苛立っているようにも見える。
「明日の日曜は暇?」
それでもなお澄ましたように訊ねてくる『
「まあな。ラガート狩りでも行ってくるか?」
「いいえ、そうじゃないの」
ふるり、とソーンは首を横に振ると、少し悩むように視線を泳がせて、それから小さく溜め息を履いた。
何かあったのか、と
「……明日、買い物に付き合ってくれる?」
*****
Lucidの姿で来いと言われ、素直にパピコの前の待ち合わせ場所に行くと、ソーンは既に先にいた。
「早かったわね」
懐中時計(ソーンの趣味ではないはずだ)を確かめながら言う『
「こっちの台詞だ。15分前に来たのに」
「良い心掛けだわ」
そう言ってソーンは悪戯っぽく笑うと、「行きましょう」と
連れ立って歩くにはあまりに目立つ組み合わせのせいか、人払いがされ、モール内にいるのはNPCばかりだった。
「いつもの実験か?」
「いいえ」
ソーンが素っ気なく言う。
「そうじゃないわ。ただ、買い物に付き合って欲しいだけ」
意外な返答に面食らいつつも、
ソーンが選んだのは、突き当たりにある、こぢんまりとした雑貨店だった。
白塗りの扉を開けるとからからと小さなベルが鳴り、NPCの店主が「いらっしゃい」と人の好さそうな声をかけてくる。
店の中は普通の雑貨の他、鉱石や標本なども並べられていた。
「こんな店あったのか」
「ここも誰かが望んだのでしょう」
ソーンはそう言って、棚を見て回り始める。
何か選んでいるのなら邪魔しない方がいいだろうと、
と、不意に、ソーンがもの言いたげな視線を向けてきた。
「Lucid、あなたの好きな動物は?」
「ん?」
唐突な質問に面食らっていると、ソーンの前にある棚が目に入る。
動物を模したブローチが並べられているのを見て、
「烏かねえ……」
「烏?……、……」
意味を理解したらしいソーンが不快そうに眉をしかめ、
「貴方って本当に嫌がらせが得意ね……」
「お陰様で」
「だからあんたのとこにいるんだろ」
ソーンは呆れたように小さく溜め息を吐く。
「帰宅部の嫌がらせに楽士になったとでも?」
「あんたはそうして欲しいんだと思ったがな」
それを見て、ソーンが小首を傾げてみせた。
「買わないの?」
「買ってもすぐ失くす」
ほんの少し、
「いつもだ」
「……」
ソーンは黙って睫毛を伏せ、その棚から離れた。
結局店内を一回りしても、ソーンの目当ては見つからないようだった。
「先に行っていて」
そう言ってソーンは店主の方へ向かい、何かを相談していた。
暫くして、ソーンは小さな紙袋を抱えて出てきた。
「待たせたわね」
「へ?」
「いいから」
そう言って、ソーンは
「もうすぐ、誕生日なんでしょう?」
「……えっ?」
「三月ウサギでスイートPたちが待ち構えているはずよ」
ソーンは淡々と言った。
「プレゼントは渡したわ。じゃあ、私はこれで」
「え。え、あ、あの、ソーン」
いつになく狼狽えながら紙袋とソーンを交互に見る
が、くるりと踵を返したかと思うと、悪戯っぽく微笑んだ。
「私からなら、失くさないでしょう」
じゃあ、私はこれで。
そう繰り返して、ソーンは歩き去っていった。
残された
烏のブローチが、可愛らしいラッピングに包まれていた。
「…………は、はは……は、」
失くさずにいられるなら、失くしたくなかった。
初めて、【初めて】nが『
失くしたくない。
失いたくはない。
けれどきっと、nはまた失くすだろう。
自分がまた、『
今いる世界が過去に変わり、新たな世界にやり直す時に。
きっと、この世界で得たものは全て、手放す羽目になるだろう。
もう二度と手放したくない。
そう願い続けて何度繰り返したのか。
これが最後のチャンスかもしれない。
そう考え続けて何度怯えたのか。
永遠に、永遠に、永遠に。
「……あんたの、せいだからな…………」
棗飛鳥。
君の望む世界が永遠に続いてくれれば、
俺はもう、何にも要らないのに。
黒いコートの透明人間は、見えない唇で、そっと烏にキスをした。
nは、ソーンに恋をしている。
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