主→棘
次の休日にデートしよう、なんて軽口を、ソーンがまさか真に受けてくれるとは思っていなかった。
「構わないわ」
と、あっさり承諾してくれた
表情のわからない『Lucid』の姿であっても、それは察されてしまったようで、ソーンの形の良い眉が顰められた。
「まさか、冗談だったわけじゃないわよね」
「ち、違う違う。いや、まさかOKして貰えると思わなくて」
念を押されて、慌てて否定すると、ソーンの表情がふっと緩んだ。
「……、……行先は私が決めるわ。それで構わないなら」
「勿論」
髑髏頭を傾げてみせると、ソーンは「なら、駅前に朝10時よ」と、待ち合わせ場所と時間を告げた。
あっさり取り付けられた約束に、何となく実感が湧かないながらも、「楽しみにしてるよ」とだけ答える。
話はそれで終わりだと言わんばかりに、ソーンはだんまりだった。
当日、待ち合わせ時間の15分前。
少し汗ばむくらいの日差しに照らされつつ、nは待ち合わせ場所に立ったまま、周囲を見渡す。
ここに来る直前、控え室に寄り、µに頼んで軽く人払いをしてもらったので、NPC以外の人影はない。
ソーンから、リクエストがあったのだ。
今日は『Lucid』ではなく『n』として、つまりは帰宅部部長の姿で来い、と。
そうなると、普段とは少し勝手が違ってくる。
帰宅部の面々にばったり遭遇、なんてことはないと思いたいが、念には念を入れておきたかった。
自分が楽士のリーダーと歩いているからどうこう、なんてのは、まあ、誤魔化せるからいいとして。
デートの邪魔をされたくない。
主にこの1点である。
特に、どこぞの完璧超人様なんぞは、鬼の首でも取ったかのように喜んで、自分とソーンの関係をほじくってくるに違いない。
そうなれば折角のデートが台無しだ。
それだけは、絶対に避けたかった。
―――と。
不意に足音がして、nは振り返る。
「あ、ソー……」
すぐさま目に入った相手の名前を呼ぼうとしかけて、nは口を開けたままフリーズしてしまう。
「待たせたかしら」
ソーンは冷静な口調でそう言いながら、ぽかんと口を開けているnの顔を、不思議そうに見上げる。
「……どうかしたの?」
nはぱくぱくと何度か口を開閉させてから、何とか言葉を絞り出そうとする。
「な……」
「な?」
「……夏服……?」
かろうじて、絞り出せた一言がそれだった。
「……それが何か?」
ソーンは呆れたような、冷ややかな声と視線で問い掛ける。
夏用のスカートからすらりと伸びた華奢な足は、普段の黒のタイツではなく、白いソックスを身につけている。
白い膝がやけに艶かしく、nは思わず目を逸らした。
あんまりにも予想を裏切られて、何と反応したらいいのか分からない。
nは暫く視線を彷徨わせてから、ようやく睨みつけるソーンと視線を合わせ、「ええと、」と、おずおず話し掛けた。
「に、似合ってます……」
「知ってるわ」
当然でしょう?と言いたげに、ソーンはさも当然と言いたげに、軽く顎を上げてみせる。
nはようやく平静を取り戻し、一息吐いて、彼女の格好を改めて見直した。
やっぱり、よく似合う。
けれど。
「……髪、そのままで、暑くはないか?」
「…………」
ソーンは軽くnを睨んだ。
「暑くないわけがないでしょう。そんな日にデートに誘ってきた男は、一体どこの誰だったかしら」
「俺です……」
言い返す余地もない。
確か、暑い季節は苦手だと、以前言っていたはずだ。
配慮が足りなかったと言われても仕方ないな、などとnが思考を巡らせていると、
「……苦手なのよ」
「へっ」
「髪を、いじるのが」
ソーンは溜め息と共にそう言い、暑苦しそうに、後ろ髪をかきあげた。
「所謂ヘアアレンジが出来たら確かに楽なんでしょうけど……下手なことをして、髪を傷めたくはないの」
それならこのままの方がいいわ、と、
「……なるほど」
何でも出来る優等生だと思っていたが、意外と不器用なとこもあるのかと、何となく微笑ましくなる。
それとも、『彼女』の姿に、手を入れたくないのかは、分からないが。
「………」
ふと。
nの脳裏に、ひとつの提案が浮かんだ。
が、ソーンは嫌がりそうだ。
少し迷ってから、断られるのを前提に、申し出てみることにした。
「……俺、やろうか」
nの言葉に、ソーンはきょとんとした顔をしてみせる。また怪訝そうな顔をする。
「あんたの髪とかいじるの、嫌じゃなかったら、だけど」
「……ヘアアレンジを、ということ?」
そう、と、nは頷いた。
『彼女』の髪に、ソーンが触れさせてくれるとは思えなかったけれど、
何せ、今日引っ張り出してきたのは、nのからかいのような誘いのせいなのだから。
「……出来るの?」
「まあ、一応」
昔付き合っていた相手の影響だ、とは、言わないでおく。
ソーンは暫く怪訝そうな表情でnを見つめていたが、やがて、諦めたようにふっと息を吐いた。
「……櫛もなにも無いわ。髪を纏めるものも」
「買ってくるよ、すぐに」
「なら、好きにして頂戴」
お許しが出るか出ないかのタイミングで、既にnは駆け出していた。
振り返りながら、「待ってて!」と、ソーンに声をかける。
*****
見知ってはいたけれど、滑らかで綺麗な髪だった。
メビウスの力なのか、はたまた
近くのベンチにソーンを座らせ、nは新品の櫛で、
「三つ編みしてもいいか?」
「好きにして、と言ったでしょう」
ソーンはされるがままだった。
無防備過ぎはしないかと、少し心配になったものの、nが何もしないのを分かっているのだろう。
『彼女』の髪に唾が飛ばないよう、いつもの軽口は抑えめにして、黒髪を丁寧に纏め、三つ編みにする。
片目を隠す前髪は出来るだけそのままに、三つ編みにした髪を、小さなシニヨンの形にまとめあげた。
買ってきたヘアゴムでそれを留めてから、nはソーンに声をかける。
「出来たぞ」
同じくさっき買ってきた手鏡を渡すと、ソーンはそれを覗き込み、驚いたような表情を浮かべた。
「……かわいい」
素の口調が零れ出ている。
「そりゃあ、」
元が良いから、と言いかけたところで、ソーンが振り返る。
「手慣れているのね」
ソーンはそう言って、満足げに微笑む。
「……ありがとう。悪くないわ」
その表情に、nは思わず面食らい、言葉を失ってしまう。
胸が、何かで射抜かれたようだった。
ソーンは動揺しているnのことなど気にも留めず、また鏡を覗き込む。
「そうね。こういうのも、私にはよく似合う。……いつもの方が、落ち着くけれど」
ソーンはそう言って暫く手鏡を眺めてから、小さく、寂しそうな溜め息を吐いた。
nが黙ってその様子を見守っていると、不意に
「そろそろ行きましょう。行きたい場所があるの」
「お供しますとも」
nのおどけた口調に、ソーンは軽く目を細めてから、くるりと背を向けた。
あらわになった『彼女』のうなじが、酷く白く、眩しく見える。
nは少し目を逸らしてから、ソーンの隣に並び、
「……あんたと一緒なら、何処へでも行くよ」
夏の休日、午前10時。
今日はデート日和の、良い天気だ。