主→棘
「ねえ、音人はメアリーの部屋を知ってる?」
可愛らしい少女は可愛らしい声で、可愛らしい目を輝かせながら、音人にそう訊ねた。
「メアリーの部屋?」
飲みかけのカフェオレを白いテーブルの上に置いて、音人は頬杖をつく。
「知らないの?」
少女はやや得意げな顔をしながら、持ち込んだ水筒から紅茶を飲もうとする。
咄嗟に音人はその水筒の蓋を抑え、真面目な顔で訊いた。
「……一凛。それの中身は?」
「ただのジャスミンティーだもん」
少女は拗ねたようにやや唇を尖らせてから、音人の手を払い除け、紅茶を一口飲んだ。
音人はやれやれと言いたげに、自分のカフェオレに口をつける。
「でねっ、メアリーの部屋っていうのは、哲学者のフランク・ジャクソンが提出した思考実験の話なんだけど」
紅茶で唇を湿してから、少女は続けた。
「白黒の部屋で生まれ育った、メアリーという女性の話よ」
「……ん?」
「メアリーは、生まれてから1回も、白と黒で出来たその部屋から外に出た事がないの。一歩もよ。つまり、メアリーは生まれてから、色というものを1度も見たことがないのよ」
音人は黙って頬杖をつき、目を輝かせる少女の話を聞いていた。
少女は頬を桜色に染めながら、やや興奮した様子で話を続ける。
「メアリーは白黒の本や白黒のテレビを通して、ありとあらゆることを知っているの。色という概念があることも、人がどういう時に、どういうものを見て、なんて色を表現するかも知っている。だからメアリーは、視覚に関して、ありとあらゆる知識を持っているのよ」
「……俺、それマリーの部屋だと思ってた」
音人が口を挟むと、少女はきょとんとした表情を浮かべてから、また拗ねたような表情を浮かべる。
「知ってたの?じゃあ、言ってくれればよかったのに」
「だから、マリーの部屋だと思ってたんだって」
音人はちょっと言い訳がましく言った。
「今聞いてわかったの。……気付くのが遅かったのはごめんって」
少女は呆れたような顔をしてみせてから、
「それじゃあ、音人はどう思う?」
と、質問を投げかけてきた。
「何が?」
「メアリーが部屋から出たら、どうなると思う?」
少女は、無邪気な瞳を音人に向けて訊ねる。
「今まで部屋から出たことがなかったメアリーが、生まれて初めて『色』というものに触れた時……。メアリーは、何かを学ぶかしら?新しいことを、学ぶかしら?」
「…………」
音人は、冷めて残りわずかなカフェオレの底に溜まった、砂糖の溶け残りをじっと眺めていた。
少女は考え込むような音人の表情を伺いながら、静かに答えを待つ。
「…………俺は」
やがて、音人は静かに口を開いた。
「きっと、狂って死んでしまうと思う。自分が世界だと思っていた世界が真っ赤な偽物で、本当の空は白でも黒でもなく、青いものだと知ったら……きっと、狂って死んでしまうと思う」
「…………」
少女は、酷くショックを受けたような顔をして、音人の顔を黙って見つめた。
「……どうして、そんなこと言うの?」
まるで、小さなこどもが、友人に意地悪をされたことを咎めるかのような、そんな幼い口調だった。
少女は責めるような視線で音人を睨んでから、やがて視線を落とす。
「……笙悟なら……、笙悟なら、そんなこと、言わないのに」
「…………ごめん、一凛」
音人は困ったように微笑んだ。
「俺が悪かったよ。ちょっと意地悪したくなったんだ」
「……そうね。貴方って、本当にいじわるだもんね」
少女は泣き笑いのような表情を浮かべて、それから、不意に立ち上がった。
「ねえ、海が見たい!いこう!」
「えっ、今から?」
「バイク乗せて!」
まだ椅子に座る音人の腕をぐいぐい引きながら、少女は笑った。
「それならすぐ着くでしょ?夜のµのライブにも間に合うし」
「わかったわかった……じゃあ、行こう」
少女に引っ張られるまま、音人は立ち上がる。
「会計済ませてくるから、バイクの方に行ってて貰えますか?マイロード」
「良い従者を持てて幸せだわ」
少女はそう笑って、バイクが止めてある駐輪場へと、軽やかな足取りで向かっていく。
吸血鬼ごっこの一環も、慣れたものだ。
元よりふざけた火遊びなら慣れているのだけれど、彼女の場合は特別だった。
ごっこ遊びだと、気付かれてはいけない。
これが遊びだなんて、彼女も自分も、思ってなんかいない。
「……知らないことの方が幸せなんて、いくらでもあるだろ?ソーン……」
音人は、小さく口の中で呟いた。