主鍵
『立ち入り禁止』と嘯いた張り紙の向こう側、非常階段の奥まったスペースは、所謂格好のサボり場所だった。
無駄に広く入り組んだこの学校は、他人に簡単には見つからない場所が、そこかしこにある。
とはいえ、メビウスにいる大多数の人間は、そんなことにも気が付けないわけだが。
紅朗は何度目になるか分からない舌打ちを零し、火のついた煙草を咥え直した。
『紫露紅朗』という少年をそれなりに知る人物であっても、今の彼の様子は、きっと想像がつかないだろう。
端麗な容姿のせいで、やや近寄り難い雰囲気はあるものの、話してみれば温厚で話しやすいと、周囲は大抵、紅朗をそう評価する。
けれど、今現在の彼からは、穏和さなどはまるで剥がれ落ちていて、言うなれば研ぎ澄まされ過ぎたナイフのような、酷く鋭い不機嫌さだけが露わになっていた。
ともすれば人を殺しかねないような鋭い目付きで天井を見上げ、紫煙を吐き出す。
溜め息だけでは溶かしきれない感情が煙草の煙に溶けていくようで、紅朗の表情が、漸く少し緩んだ。
メビウス産の煙草は煙の味こそするけれど、臭いはつかない特別製だ。
『優等生』の皮を被りたいわけではないのだが、いちいちバレると面倒臭い。どうせメビウスでの身体なのだから、タールだのニコチンだの入れたって構わないだろうと、紅朗は思うのだが。
それに今は、誰よりもバレたくない相手がいる。
「…………あー……」
煙草を咥えながらスマホを見ると、その当人から『どこにいるんですか?先輩』『探してるんですけど』『返事くださーい』などと、WIREのメッセージが届いていた。
いつもなら最優先で返事をするのだが、正直今は会いたくない。
可愛い恋人に会いたくないことなど滅多にないのだが、今日はよりによって、その滅多にないことが起きているのである。
「…………チッ」
思い出したくないことを思い出して、紅朗はまた舌打ちを繰り返した。
―――耳を、疑った。
喧騒の中から聞こえた声に、紅朗が思わず振り返ると、アリアが「わっ!」と声を上げた。
「ど、どしたの、You」
アリアの問い掛けに答えず、紅朗は周囲の店を見渡す。
パピコは今日も盛況のようで、あちこちで高校生たちが談笑していた―――と。
紅朗はようやく、先程の声の在り処を見つける。
「セトラ!」
美しい黒髪を背中まで伸ばした少女が、鈴の音を転がすような声で、確かにそう言った。
その声に応えるように、金髪の少年が振り返る。
少女は嬉しそうに笑って、少年に駆け寄り、飛びついた。
少年も、少女に向かって嬉しそうに笑うと、二人で腕を組んで、何処かに行ってしまった。
「……紅朗……?」
アリアに名前を呼ばれ、紅朗ははっとする。
「ご、ごめん……なんだ?アリア……」
「……You、酷い顔してるよ……」
アリアは、泣き出しそうな顔で言った。
「凄く……辛そう。……泣きたそうな顔してる……」
紅朗はぽかんと口を開けて、それから、無理矢理、アリアを安心させるためだけに、笑顔を作った。
「……何でもない。何でもないんだ」
こんなことは、何でもないんだと、自分にも言い聞かせたかった。
予想はしていても良かったことだ。
ただ、考えたくはなかったことだった。
両親が、メビウスに来ているなんて。
「……クソが」
すっかり短くなった煙草を捻り消し、灰皿代わりの空き缶に突っ込んで、紅朗は独りごちた。
こんな世界、あんな理想。
絶対に、壊して、帰ってやる。
許してやるものか。
許されてたまるものか。
ひ×ごろ×のくせに。
「あっ、先輩!」
突然、聞き慣れた声が聞こえて、紅朗は咄嗟に顔を上げた。
見れば、階段の下で、鍵介が怒ったような顔をしている。
「もお~、探しましたよ!WIREの返事もくれないし……こんなとこで何してたんですか!」
「え、あ、いや、」
紅朗は慌てて空き缶を手に取って立ち上がり、階段を駆け降りる。
「ごめんごめん……何か用だったのか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
と、鍵介は一旦言葉を切ってから、ふと真面目な顔で、
「……何かありました?」
「え?」
紅朗が思わずそう返すと、鍵介はじっと紅朗の顔を見つめた後、ゆるりと首を振った。
「いえ……何でもないです」
「……?」
「それより、ですね」
と、鍵介はいつもの調子を取り戻して言った。
「先輩がぜーんぜん返事してくれないから、くたくたなんですけど?僕。あちこち探し回ったんですから、先輩が何か奢ってくれないと、割に合わないと思いません?」
「ええ、仕方ないな……」
まあ確かにスルーしていたわけだし、と、紅朗は苦笑いを浮かべる。
「俺が悪かったよ。じゃあ、駅前のカフェでも行こうか」
「はい!あそこの新作、飲みたかったんです」
鍵介の素直な返事が可愛かった。
紅朗は微笑ましく思いながら、手近な場所にゴミ箱を見つけて、空き缶を放り込む。
それを眺めていた鍵介が、ぽつりと言った。
「……ねえ先輩」
「ん?」
「……何かあったら、言ってくださいね。僕に」
何気ない口調ではあったが、鍵介が少し悲しそうに見えて、紅朗は困ったように微笑んだ。
「うん。ありがとう、鍵介。……俺なら大丈夫だよ」
そう言う紅朗に、鍵介は、何か言いたげに唇を開く。
けれど結局、それは嘆息に変わって、明確な言葉には、ならなかった。