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主鍵



紅朗の唐突な話題に、鍵介は眉をしかめる。
「せかい、が?ごふん?……で?……なんですって?」
「『世界五分前仮説』、だよ」
紅朗は笑った。
「この世界は、人々が『過去の記憶』を植え付けられた状態で、五分前に突然出現したのではないか?っていう仮説」
「……なんですか、それ」
鍵介は興味もなさそうに言った。
「哲学だよ。鍵介、あんまり好きじゃない?」
「好き嫌いっていうか……先輩は好きなんです?」
「いや、」
紅朗は持っていた缶コーヒーで、唇を湿らせる。
「そういうの好きな友達がいてさ。よく聞かされたんだよ。俺はふーんって感じ」
「ふうん……?」
鍵介は眼鏡の奥の目をぱちぱちとまばたきさせてから、首を傾げる。
「で、その五分前の世界とやらがなんなんですか」
「うん、まあ、この仮説ってさ。「5分前の記憶がある」ということは反論にならないんだって」
「え?……ああ、過去の記憶は、植え付けられてるんですもんね」
「そうそう」
物分りのいい鍵介に、紅朗は嬉しそうに頷く。
「だから俺たちが全く同じ状況でも、きっと気がつけないんだろうなって」
「…………」
鍵介は少し黙ってから、紅朗の表情を伺った。
「……メビウスのこと考えてました?」
「半分当たり」
紅朗は穏やかに微笑んでみせる。
「もう半分は鍵介のことだ」
「ええ?……僕らが五分前に現れた存在かもしれない、とか?」
「まあ、それもそうだけど」
紅朗は空になった缶を、近くにあったゴミ箱に放り捨てる。
「なんて言うのかな。例えば俺は誰かに作られた物語の主人公で、これこれこういう性格って決められてて、これこれこういうトラウマがあってとか決められてて、これこれこういう物語を辿るって五分前に決められてたとするじゃないか」
「……はぁ」
鍵介は紅朗の様子を伺いながら、適当な返事をする。
「じゃあ、その結果生じた俺の感情は、果たして作り物なんだろうか、とかね」
「……作り物だったら、どうするんですか」
「まさか」
紅朗は笑って、鍵介の顎を持ち上げ、キスをする。
ほろ苦いコーヒーの味が、口の中に広がった。
「……こんな言い表せないような感情が、作り物であってたまるか、って感じだな。俺としては」
「……で、さっきの世界五分前仮説はなんだったんです?」
「鍵介とちゅーする口実です」
「はあ……別に、いいんですけどね」
鍵介は呆れたようにため息をついて、紅朗のループタイを引っ張った。
「五分クオリティの嘘なんて、吐かれない方がマシですよ」

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