主鍵
「先輩と電車に乗るのって、あんまり無いですよね」
「そうだな。言われてみれば」
ガタンゴトンと規則正しい音を繰り返す車内は、人もまばらだ。
ボックス席に向かい合うように座って、買っておいたお茶を渡し合う。
「遠出するにしてもバスか新幹線だったもんね」
「何か、ちょっと楽しいです」
「そう?なら良かった」
ラティカはそう言って笑うが、表情は少し硬い。
鍵介は窓の外を眺める振りをして、話題を探した。
「……先輩が、高校生まで住んでたとこなんでしたっけ」
「そうだよ」
おやつにと買ってきたドライフルーツの袋を開けながら、ラティカが言う。
「通ってた高校とか、窓から見えるんじゃないかな」
「へえ」
ペットボトルの蓋を開けながら、鍵介は訊いてみることにする。
「先輩、部活は何やってたんです?」
「ん、そりゃあ、もちろん、」
「「帰宅部」」
ラティカの声に、鍵介が被せる。
二人は、顔を見合わせて笑い合った。
「先輩なら、吹奏楽部とかやりそうかなって思ったんですけど」
「ソロが好きなんだよね、基本。合唱部の伴奏とかでフォローに入ったりしたことはあるけど」
「へえ」
鍵介はラティカの表情を伺う。
「……ちょっとは緊張解けました?」
「正直……」
ラティカは溜め息を吐く。
「帰りたい…………」
「先輩……」
「いや、鍵介いなかったら帰ってたよ、ほんとに」
食べる?と差し出されたドライマンゴーを、鍵介は受け取る。
「ありがとうございます。……大丈夫なんです?」
「『先生』……父さんの顔見たら逃げ出しそうだから、引き止めて」
「分かりました」
本当に逃げ出しそうだ、と鍵介は思った。
ラティカの顔色は、悪いわけではないものの、大分辛そうだ。
口で言うほど嫌ってはいない(らしい)とはいえ、トラウマとして避け続けていた存在に会いに行くのは、やはりストレスなのだろう。
誰にも見られていないことを確かめてから、鍵介はそっとラティカの手を取った。
「冷えてますね。先輩の手」
「ん…………」
ラティカも鍵介の手に、自分の手を重ねる。
「鍵介」
「はい?」
「一緒に来てくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
鍵介は、目を細めて笑ってみせた。
一緒にラティカの父親に会いに行こうと約束した日の、次の週の日曜日。
朝早く起きて、二人でちょっと良い服を着て、電車に乗って、目的地に向かった。
ラティカの父親は、郊外にある一軒家に住んでいるらしい。
そこは昔、ラティカ自身も住んでいた家だと、彼は言った。
「何年ぶりかに連絡したらめちゃくちゃ喜ばれたから多分物凄くうざいと思う」
スマホで時間を確認しつつ、ラティカが言った。
「え……っと、歓迎してもらえるってことで、いいんですかね」
「そこは心配要らないよ、大丈夫」
不安そうな鍵介に、ラティカは笑ってみせた。
「でも抱き着いてきたりとかしたら容赦なく殴っていいからね」
「そんなこと出来ませんよ……」
「大丈夫、僕がやる」
ラティカは相変わらず笑顔だった。目が笑っていないが。
いったいどんな人で、どんな関係だったんだと、鍵介はよく分からなくなる。
師弟関係だというのは聞いていたし、どうもラティカが素直になれていないらしいというのは、わかるのだけれど。
「……もうすぐ着くね。切符ある?」
「はい……あ、おやつ食べ切りました?」
「大丈夫。こっちにゴミくれる?まとめて捨てておくから」
目的の駅に着く前に、二人は慌ただしく荷物をまとめた。
電車が到着し、駅から出る。
「ちょっと歩くよ。20分くらい」
「平気です」
そう言ってから、鍵介は思い出したように「あ」と声を上げる。
「どうかした?忘れ物?」
「いえ……いや、お土産とか、買っていった方が良かったかなって」
「要らない要らない、むしろ多分向こうが何かお菓子とか用意してるよ」
ラティカは雑に片手を振った。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」
「そんなこと言われたって」
と、鍵介はちょっとむっとしてみせた。
「……先輩の親御さんなんですよ。ちゃんとして行きたいじゃないですか」
ラティカは目を瞬かせてから、小さく笑う。
「ふふ。……ごめん、君からしてみればそうだね」
鍵介が拗ねたような表情をほどくと、ラティカは軽く首を振った。
「でも、本当に良いんだよ、気を遣わなくて」
「そう、ですか?」
「ていうか、ね」
ラティカの表情が、やや暗くなった。
「鍵介の気遣いでテンションをむやみに上げそうだから、今日はそういうのは無しで行きたいんだよね」
「…………あの、」
たまりかねて、鍵介は訊ねた。
「先輩のお父さん、どんな人なんです……?」
「…………………………」
ラティカは目を逸らした。
「えっあの先輩」
「いや、まあ、あれだよ、会えば分かるよ……」
「いやそりゃそうでしょうけど」
「強いて言えば、僕の身長を伸ばして、鳴子と美笛ちゃんを足した感じだよ」
全く想像がつかない。
鍵介は何となく落ち着かない心持ちになりながらも、ラティカに着いていった。
鍵介の知らない街並みも、彼からしたら通い慣れた道なのだろう。
ラティカの迷いのない足取りに、何となく、少し寂しくなった。
向かった先にあったのは、白い壁の一軒家だった。
ラティカがチャイムを押そうとして、止めてしまう。
その手が震えていることに気付いた鍵介は、咄嗟に「先輩、僕が」と、声をかけた。
「……ごめん、頼むよ」
ラティカは笑ってみせる余裕もないらしく、切羽詰まった表情で言った。
「あと、出来れば手を握ってて欲しい」
「……分かりました」
鍵介は、左手でラティカの手を取る。
ぎゅっと、互いに手を握りあってから、チャイムを押した。
軽い音色が鳴り響き、少ししてから、玄関のドアががちゃりと開く。
そこから現れた男性の姿に、鍵介は―――彼がラティカの父親だと、直感した。
すらりと高い背丈に、腰まで届く長い金髪、思っていた以上に若々しく中性的な顔立ち。
なるほどラティカにそっくりだと、鍵介が感心していると、男性はラティカと鍵介をみとめるなり、ぱあっと顔を輝かせた。
「『教え子』くん!」
あまりにも無邪気な笑顔と呼び掛けに、鍵介は呆気に取られる。
鍵介の手をぎゅっと握っていたラティカは、真面目な顔で言った。
「鍵介。帰ろう」
「えっ。…………えっ!?」
聞き返す鍵介に、ラティカは真剣に繰り返す。
「鍵介の顔も見せたしもう帰ろう」
「いや何言ってるんですか!?」
「え、か、帰るのかい?」
「帰ります」
ラティカは男性を―――恐らく父親であるその人を、きつく睨んだ。
「行こう、鍵介」
「だ、駄目ですよ!先輩!」
本気で帰ろうとするラティカを、鍵介は引っ張って引き留めた。
「まだ何にも話してないじゃないですか!」
「………………」
「あの、すみません、帰らないんで……」
すっかりむくれてしまったラティカの手をしっかりと掴みつつ、鍵介はおずおずと申し出る。
男性は長いまつ毛をぱちぱち瞬かせると、苦笑いを浮かべた。
「そうかい?すまないね、私がきっと気分を害してしまったんだろうから」
「いえ、そんな……」
言いかけて、鍵介はまだ自己紹介をしていなかったことに気が付く。
「あ、ええと、僕は、響鍵介と言います。せんぱ……ら、ラティカさんの、ええと、」
「―――――恋人です」
ラティカは男性を睨むようにしながらも、はっきりとそう言った。
男性は驚いたように目を見開いてから、酷く穏やかに微笑む。
「……そうか。君が…………」
「鍵介」
ラティカは男性を無視して、鍵介に向き直る。
「この人はセトラ・ストラスィナンド。僕の音楽の師匠で……」
ラティカが言葉を切る。
それから、迷ったように視線を伏せてから―――諦めたように、溜め息のように。
何とか、言葉を押し出した。
「…………父さん、だよ。一応ね」
酷く複雑そうな顔をして、ラティカはそう言った。
彼にとっては痛みを伴うであろう一言に、鍵介は何も言えなくなってしまう。
けれどラティカは、すぐに微笑んだ。
それから彼は、父親の方を見る。
「……『先生』」
呼びかけられた男―――セトラは、真面目な顔でラティカに向き合う。
「なんだい、『教え子』くん」
ラティカはすっと息を吸う。
鍵介の手が、ぎゅっと握られるのがわかった。
「……話が、あって来ました」
吸い込んだ息を吐き出すようにして、ラティカは言った。
「……聞いて貰えますか……『先生』」
セトラは一瞬驚いたような顔をして、それから頷いた。
「……もちろん。私は、君が私と話してくれるのを、ずっと待っていたんだからね」
リビングに入るなり、ラティカが大きく溜め息を吐いた。
「先輩……?」
鍵介が気遣うように声をかけると、ラティカは嫌そうな顔をして首を振る。
「……ここを出たの、7年くらい前なのに……何にも変わってない、な。……覚えてるままだ」
鍵介は、何気なくリビングを見渡す。
落ち着いた色合いの調度品でまとめられた、品の良い部屋だ。
けれど、どことなく物寂しい。理由は、鍵介には分からない。
「どうぞ、座って」
ソファを勧められて、鍵介は促すようにラティカを見た。
ラティカは心配しなくて良いと言いたげに微笑んでから、鍵介と共にソファへと腰掛けた。
「……本当はお茶もお茶菓子も出してあげたいんだけどね」
セトラはそう言いながら、ラティカと鍵介の向かいへと座る。
「そんな気分じゃないだろう?」
「ええ」
穏やかに微笑むセトラに対し、ラティカの表情は真剣で、酷く硬い。
何か言おうと唇を動かすも、ラティカから言葉は出てこなかった。
溜息のような吐息を漏らしてから、ラティカは自分のポケットを探る。
鍵介は、黙ってただそれを見守っていた。
「…………父さん」
やがて、ラティカはポケットから何かを取り出すと、真剣な眼差しでセトラに差し出した。
「これ、お返しします」
テーブルに置かれたのは、赤いピアスだった。
鍵介は、あ、と、思わず声を上げかける。
いつもラティカの左耳を飾っていた、赤く不透明な円状のピアス。
父親に貰ったのだと言っていた。
そしてそれを外す時は、確か。
「…………理由を聞いても?」
セトラはピアスを見てから、ラティカに静かに訊ねた。
ラティカは小さく唇を震わせてから、小さな声で言った。
「……好きな人が、出来たんです」
今にも、泣き出しそうな声だった。
鍵介は、驚いたようにラティカの横顔を見る。
彼は必死に、涙を堪えていた。
「その人は、僕を好きになってくれて。僕なんかに着いてきてくれて、僕を信じてくれて、頼ってくれた。今もこうして、貴方に会いたくないと駄々をこねる僕に付き合って、支えながら、こうして側にいてくれている」
涙が一雫、零れるのが見えた。
セトラは黙ってラティカを見つめていた。
「僕は、彼を幸せにしたい……!」
ラティカが吐き出すように言った。
「僕は、ずっと、貴方のことばかり、考えて生きてきた。貴方のことばかり……貴方のことが忘れられなくて、無理やり、記憶を失ったこともある。でも、でも……」
ラティカは俯き、小さく頭を振る。
鍵介はただ黙って聞いていることしか出来なかった。
「……二度目の恋だった。叶うはずがないと、諦め切っていた恋だった。でも鍵介は……僕と向き合ってくれた。向き合った上で、受け入れてくれた、だから……僕は……」
涙に濡れた顔を上げ、ラティカは言った。
「……本当はわかってたんだ。父さんだって僕とちゃんと向き合ってくれていた。僕が逃げ出しただけなんだ、僕が……」
「ラティカ」
セトラが静かに名前を呼んだ。
驚くほど、優しい、優しい声だった。
ああ、この人は、確かに彼の父親なのだと、鍵介は当たり前のことを思った。
目の前にいる人は、確かに、ラティカの父親なのだ。
だから。
こんなに優しい目をして、優しい声で、ラティカの名前を呼ぶのだ。
「私と向き合わないと、彼を幸せに出来ない。……君は、そう思ったんだね?」
ラティカは鼻を啜って頷いた。
まるで、小さな子供のようだった。
セトラは穏やかに笑うと、「そうか」と言った。
「そのけじめに、このピアスを、か。……君は本当に……」
セトラは何かを言いかけてから、小さく首を振った。
「いや、なんでもないよ。……私のことが、嫌いかい?」
セトラの問いかけに、ラティカは大きく頷いた。
「……大っ嫌いです。……でも、」
ラティカは、小さくしゃくり上げる。
「……貴方が、僕をどれだけ、息子として愛してくれていたかは……痛いくらいにわかっているから……」
セトラが目を見開いた。
鍵介は内心、苦笑いしたい気持ちだった。
そう。
そうなのだ。
この人は、ずっとそうだった。
愛されていても、その愛を確かめずにはいられない。
愛されていると分かっていても、どこかでその愛に不安になってしまう。
そのくせ、自分が欲しい『愛』でないと嫌だと、駄々をこねる。
我儘な人なのだ。
鍵介が恋をし、愛した、『
とても、とても。
「………ごめんなさい」
堰を切ったように、ぼろぼろとラティカは泣き出してしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ぼく……ごめんなさい……ずっと、わがままばっかりで…………ごめんなさい……」
ごめんなさいを繰り返しながら泣きじゃくるラティカに、セトラは小さく苦笑する。
「良いよ。私は怒っていないよ、ラティカ。ずっとね」
そう言って、セトラは手を伸ばし、ラティカの髪を撫でた。
彼らの金髪の色がよく似ていることに改めて気が付いて、鍵介はほっと息を吐いた。
―――良かった。
先輩は、ようやく。
この人の『こども』になれたのだ。
何年もかけて、ようやく。
「鍵介くん」
唐突に名前を呼ばれ、鍵介は思わず背筋を伸ばす。
「は、はい」
セトラは泣き止まないラティカの髪を撫でながら、申し訳なさそうに笑った。
「父子喧嘩に巻き込んで、済まなかったね。付き合わせてしまったかな」
「いえ、そんな、僕は……」
鍵介は慌てて首を横に振り、ぐすぐすと泣いているラティカの背中に手を置いた。
「……先輩を、支えたかっただけなので」
本音を漏らすと、セトラが微笑むのが見えた。
「……良い
「あげませんからね」
ラティカはそう言って、撫でられていた頭を払い除ける。
「あ、先輩……泣きやみました?」
鍵介がそう言いながらタオルハンカチを差し出すと、ラティカは「……ごめん」と酷くばつの悪そうな顔をして、顔を拭った。
「息子を頼めるかい、鍵介くん」
セトラは二人の様子を見て、微笑ましげな表情を浮かべる。
「私に似て一途で、妻に似て多感な子だ。苦労をかけることも、多いと思うど」
「いえ、そんな今更、あ、いや、」
失言だとは思ったが、取り消せるはずもない。鍵介は仕方なく、いつもの皮肉っぽい口調で、笑って見せた。
「……慣れてますんで」
「そうか。ふふ、そうか……」
セトラは楽しそうに笑う。
それを見て、ラティカは何だか、不貞腐れたような顔をしたのだった。
「また遊びにおいで」
「二度と来ませんよこんなとこ」
「……あの、また来ますんで」
「あはは」
ラティカと鍵介の返事に、セトラは楽しそうに笑う。
それから、彼はふと思い出したように、鍵介を手招きする。
「鍵介くん」
「? はい……」
「実はね……」
セトラは小声で囁いた。
「『教え子』くんの昔のアルバムをね、見せ損ねたんだよね。だからまた来てね。色々見せたいし」
「は、はぁ……」
「『先生』!!!聞こえてますからね!!!」
ラティカに怒られ、セトラはくすくす笑いながら鍵介を解放した。
「気をつけて帰るんだよ。二人とも」
鍵介はセトラに頭を下げた。
ラティカは相変わらず不貞腐れながらも、鍵介を待ってから、並んで歩き出す。
「………………」
「……先輩、まだ拗ねてるんです?」
「拗ねてない、あの人に会って疲れただけ……」
ラティカは大きく息を吐く。
「でも……ようやく、だ。ようやく……すっきりした気がする」
そういう彼の顔は、確かに晴れ晴れとしていた。
「ありがとう。鍵介。君がいなきゃ、僕は……」
「いいんですよ」
鍵介は首を振ってみせる。
「僕がしてもらったこと、先輩にもしたかっただけなんです。だから……」
「……鍵介」
暫く互いの顔を見合わせて、ラティカが悲しそうに言った。
「今ものすごくキスがしたい……」
「今ものすごく良い雰囲気だったのに台無しですね……」
「いいんだよ、僕らはこれで」
そう言って、ラティカは鍵介の手を取る。キスは駄目だが手を繋ぐのはいいらしい。鍵介的にはちょっとよくわからない基準だ。
「早く帰って鍵介抱きしめたい、あと髪も洗いたい」
「ええ……あ、そういえば、先輩って」
「ん?」
鍵介は、何となく思っていたことを、言ってみることにした。
「お父さんと話す時、敬語の僕とちょっと似てますね」
「………………喜んでいいのかな……」
複雑そうなラティカの顔に、鍵介は声を立てて笑った。
「じゃ、帰りましょうか、先輩」
「うん」
ラティカが嬉しそうに笑って、鍵介も嬉しくて笑い返す。
帰ったら、彼の左耳にキスをしよう。
鍵介は、一人でこっそり、そう決めた。