主鍵
「先輩は僕のこと可愛いって言い過ぎだと思うんですよ」
別にいいんですけど、と鍵介は言う。
男として「可愛い」と言われることに抵抗はあるものの、別に紅朗は嫌がらせで言っているわけではないことは知っている。
そもそも息をするように愛を囁くのだ、この先輩 は。勿論、二人きりの時だけではあるが。
だから鍵介も(恥ずかしくはあるが)慣れたものだし、別に文句を言ったつもりはなくて、いつもの軽口のつもりだった。
のだが。
「…………じゃあ、」
紅朗は至極真面目な顔をして、
「言い方を変えよう」
「へっ?」
きょとんとしている鍵介の頬に、紅朗はそっと手を添える。
「愛してるよ、鍵介」
「は」
一瞬、何を言われたのかが分からず、鍵介はフリーズする。
徐々に、徐々に意味を理解して、鍵介はみるみるうちに赤くなった。
「えっ……あ、あの、せんぱい、」
「だめ?」
「だ、だめとかじゃなくて、あの、」
心臓に悪い。
ただでさえ綺麗な顔をしている癖に、真剣な眼差しで真剣に見つめられたら、そんな。
「かっ……あっ、……ぁぃしてるとか、そういうの、は、」
鍵介は何とか言葉を絞り出す。
「か、軽々しく言わないでくれますかねえ?!そういうのは、もっと、ちゃんと、こう……」
しどろもどろになりながら、ちゃんとってなんだよちゃんとって、などと内心で自分に突っ込んでいると、紅朗はますます困ったように眉を下げる。
「じゃあ、鍵介に対しては何て言ったらいい?」
「な、何てって、」
「好きな人には、ちゃんと好きって言いたいんだ」
紅朗の切なげな視線が刺さる。
胸の奥がちくちく痛んで、鍵介は咄嗟に、
「……き、禁止です!」
「えっ」
「そういうの!!!全部!!!禁止で!!!!!」
……と、いう話をしたのが、つい昨晩のことである。
「…………はぁ………」
鍵介は屋上でぼんやりグラウンドを眺めつつ、深いため息をつく。
「鍵介くーん!」
快活に笑う声が聞こえて、鍵介は後ろを振り返った。
「あ、美笛ちゃん……」
美笛は元気良く手を振って走ってくる。
「大丈夫?部長と喧嘩でもした?」
「えっ、なんでわかるの……」
「えっ、いやいや何となくだけど……」
美笛は曖昧に笑ってから、
「二人も喧嘩とかするんだねー。凄く仲良しだと思ってた」
「うーん、いや、正確には、喧嘩とかではないんだけど……」
そう。喧嘩ではない。
ただ、鍵介が一方的に、紅朗を物凄くしょんぼりさせてしまっただけで。
「そう……なんだ?じゃあ、仲直りもしやすいんじゃない?あ、喧嘩じゃないんだっけ……」
「うーん……」
鍵介は体勢を変え、フェンスに背中を預けて寄り掛かる。
「あのさ、美笛ちゃん」
「なぁに?」
「美笛ちゃんって、維弦先輩に何か言われて、嫌になったりしたことある?」
唐突に恋人の名前を出されて、美笛は驚いたようにまばたきする。
「維弦先輩に?うーん…………」
美笛は考え込むように腕組みし、少し考えてから答えを出した。
「ほら、維弦先輩って、何でもストレートに言うから……言われてびっくりすることっていうのは、結構あるんだけどね」
「うん」
かなり簡単に想像がつくなぁと、鍵介は思った。
美笛は笑いながら続ける。
「でも、ただストレートに言っちゃうだけで、逆に誤解されちゃうって言うか……言われた方がちゃんと意味を考えて、受け止めてあげれば大丈夫、って思ってるかな」
「ふぅん……」
「だから言われて嫌だったことって、あんまり思いつかないなー」
「………………」
鍵介は少し俯いた。
コミュニケーションの正しい形とは、そういうものなんだろうな、と思った。
あの人付き合いが苦手そうな維弦でさえ、ちゃんと美笛が受け止めているのに、自分と来たら。
と。
美笛が、鍵介の表情を伺うように顔を覗き込んでくる。
「部長に、何か嫌なこと言われたの?」
「いや……そうじゃ、ないんだけど」
ただ、恥ずかしいだけだ。
いや、恥ずかしいだけでもないのだけれど。
ただ。ただ。
「…………僕の器が小さいのかな…………」
「ど、どうしたの、いきなり」
さらに俯いてしまった鍵介に、美笛は慌てて励ますように背中を叩く。
「……えっと、良かったら話聞くよ?上手いアドバイスとかは出来ないけど……鍵介くんには、いつも助けて貰ってるし。ほら、勿論、部長にもさ」
「…………いや、でも、」
鍵介は恐る恐る顔をあげた。
「男同士の恋愛の話聞くのキツくない……?」
「ええっ……」
美笛は困ったように眉を下げる。
「い、今更過ぎてコメントに困るんだけどなー……なんて……?」
「あ、うん、ごめん…………」
鍵介は小さくため息をついてから、経緯を説明することにした。
「…………で、それで先輩が、物凄く凹んじゃって」
「な、なるほどねー……?」
鍵介が奢ったいちごオレの紙パックを揺らしながら、美笛はうーんと唸った。
「いや、でも、鍵介くんの気持ちも分かるかなぁなんて……部長みたいにかっこいい人にひたすら口説かれてたら、そりゃ照れちゃうよね」
「だろ?!ほんとあの人自分のこと分かってないっていうか……」
鍵介は拗ねたように言いながら、飲みかけのレモンティーのパックに、ぷすぷすとストローを刺し直す。
「でも、嫌じゃないんでしょ?」
「………………………」
「あ、嫌じゃないんだ」
「い、嫌じゃないけど」
鍵介はふるふると首を振ってみせる。
「…………なんか、フィルターかかってるんじゃないかって」
「フィルター?」
「恋は盲目とか、あばたもえくぼっていうか」
「えーっと……」
「だから、その、」
鍵介はもごもごと口の中で言葉を探す。
「…………僕、本当はそんなこと、言って貰えるやつじゃないのに……」
ぽつりと、思わず言ってしまった。
可愛げもないし、生意気だし、女の子みたいに良い匂いもしない。
根は暗くて、才能だって持ち合わせてなくて、友達もいなくて、頭が良いわけでも見た目が良いわけでもない。
でも紅朗は違うのだ。
誰からもかっこいいと認められる存在だ。
それなのに。それなのに。
どうして自分を愛してくれるのかわからない。
自分でも気付いていなかった本音が胸の内に溢れてきて、思わず鍵介はうずくまってしまう。
どうしようもないコンプレックスばかりが、胸を占めていた。
「け、鍵介くん?!大丈夫?」
美笛が慌てて寄り添い背中を撫でてくれる。
女の子の前で泣くわけにはいかないと、鍵介は必死で堪えていたが、一度目の端から涙が落ちると、止まりそうになかった。
「ご、ごめん、なんか……自分が、情けなくて」
「そんなことないよ……」
美笛はそう言って、しばらく鍵介の背中を撫でてくれていた。
「…………鍵介くんってさ」
鍵介が落ち着き始めた頃、ぽつりと美笛は言った。
「部長のこと、ほんっとーに好きなんだね」
「………えっ」
「だってそうじゃない?」
美笛はにっこり笑った。
「好きな人に相応しくなりたいって思ってなかったら、そんな風に思わないと思うんだ」
「……………」
「私もおんなじこと思ってたから、気持ちはすごくよくわかるっていうか……」
そう言われて、鍵介は気が付いた。
学校一の美少年と言われている維弦の隣に立つことは、彼女にとってプレッシャーだったろう。
美笛は確かに可愛いけれど、もっと相応しい相手がいると、陰口を叩く者もいるはずだ。
けれど、彼女はそんなことを気にしている素振りもない。
恋する女の子は強いと、最初に言ったのは、一体誰だったのか。
「でも、部長は鍵介くんのこと、自分に相応しくないとかは、思ってないと思うよ」
「………そうかも、しれないけど」
「ちゃんと話し合ってみなよー。部長、心配してたよ、鍵介くんのこと」
鍵介は思わず顔を上げて美笛を見た。
「え、せ、先輩が?」
「…………実はね」
ナイショだよ、と人差し指を立てながら、美笛は小声で話す。
「鍵介が元気ないと思うから、様子見てきてくれないかーって頼まれたの」
「……先輩に?」
「うん、部長に」
「………………」
そもそも落ち込んでいたのは、彼の方だ。
でも、自分が落ち込むことで、鍵介が凹んでしまうのを、分かっていたのだろう。
全く。
全く、僕の先輩は。
「…………ありがとう、美笛ちゃん」
鍵介はゆっくり立ち上がった。
「ちょっと先輩と……話してみるよ」
「どーいたしまして!いってらっしゃい!」
美笛は明るく笑ってみせた。
「またなんかあったら聞くよー、いちごオレ、忘れないでね!」
「考えておくよ」
鍵介はちょっと笑って、頷いた。
WIREに既読もつかない、電話も出ない。
何かあったんじゃないのかと不安になり、鍵介は帰宅部のグループWIREで訊いてみることにした。
すると。
『ぼくといる』
「…………峯沢先輩と?」
鍵介は思わず一人呟いてしまう。
維弦に教えて貰った通り、二人は校門前にいた。
「せ、先輩」
「あ、けんす、」
一瞬顔を輝かせた紅朗だったが、なにかに気付いたように、ささっと維弦の影に隠れてしまった。
「えっ…………何してるんですか……」
「い、いや、だって…………」
「……部長、コートを離してくれ」
維弦が淡々と言う。
「美笛が僕を探しているらしい」
紅朗は掴んでいた維弦のコートを、ぱっと話した。
「……ありがとう、維弦」
「ああ。それでは、失礼する」
維弦はそう言って紅朗と鍵介に軽く頭を下げると、さっさと歩いていってしまった。
「……先輩」
「…………」
「ちょっと、なんで目ぇそらすんですか」
「いや……」
酷く気まずそうな顔をしている紅朗に、鍵介は何だか申し訳なくなった。
謝りたいのは山々だが、学校で話し合いをするわけにもいかない。
鍵介は、軽く紅朗のブレザーを引っ張る。
「あの、先輩」
ようやく、紅朗が鍵介を見る。
申し訳なさそうな表情をしているものの、やっと自分と視線を合わせてくれたと、鍵介は少しほっとした。
「先輩の家、行きましょう」
鍵介は出来るだけ穏やかな声で提案した。
「ここじゃゆっくり話せませんし」
「……鍵介が嫌じゃないなら」
「嫌なら提案してませんよ」
紅朗の目に、ほっと安心したような色が見えて、鍵介はまた何だか申し訳なくなる。
黙ったまま二人、学校を出て、紅朗の家まで並んで歩いた。
何も話さずに歩いていても、紅朗の歩幅は、いつも鍵介と同じだ。
鍵介は黙って手を伸ばして、紅朗が手を突っ込んでいる制服のポケットに、自分の手を滑り込ませる。
「鍵介?」
紅朗が驚いたような顔を向けてくるのを、鍵介は小生意気な視線で見つめ返した。
「たまにはいいでしょう」
冷たい感触の手を軽く握ると、紅朗の表情が少し緩んだ。
「もう、怒ってないか?」
「…………最初から怒ってませんよ」
そう言うと、紅朗から手を握り返される感触がして、鍵介はほっとした。
「先輩、僕、」
「俺から先に良い?」
玄関に入ってすぐ、口を開いた鍵介を、紅朗が押し止める。
「…………、……ダメです」
「えっ」
「どうせまたあなた謝るんでしょう。僕は怒ってませんってば」
「で、でも、」
「ああもう!」
焦れったくなって、鍵介は思わず声を大きくしてしまう。
「恥ずかしかっただけですすいませんでした!言われるの嫌じゃないです!!」
「…………」
紅朗はぽかんとしてから、鍵介の顔を覗き込んだ。
「…………ほんとに?」
「ほんとです、けど…………あの、僕、」
紅朗の視線が、あまりにも真っ直ぐ自分を見つめていて、鍵介は何だか落ち着かない気持ちになる。
それでも、言わなくては、と思った。
「自分は、先輩に、愛してるとか言って貰えるような、そんな価値のある人間じゃ、ないと思ってて……」
紅朗が、驚いたように目を見開く。
「だからなんか、恥ずかしかったし、申し訳なかったっていうか……」
「…………鍵介」
紅朗はおもむろに、鍵介の手を取る。
それから、自分の心臓の辺りに、鍵介の手を押し当てた。
「俺、ここにね」
紅朗は穏やかな声で言った。
「大きな穴があったんだ」
「……? 穴、ですか」
唐突な話に、鍵介はきょとんとしながらも、話についていこうと繰り返した。
「そう。ぽっかり空いた、大きな穴」
紅朗は小さく頷く。
「何をしていても埋められない穴だ。どんなに素晴らしい音楽を奏でても、誰かと恋人として付き合っていても、友人と楽しい時間を過ごしていても、理想の楽園であるはずのメビウスに来ても、ずっとずっと、ぽっかり空いたままの穴だった」
紅朗はひとつ、呼吸を置いて、柔らかく微笑む。
「鍵介が、埋めてくれたんだよ。全部」
「…………」
「鍵介が俺の告白を、俺の恋を受け入れてくれて……恋人として、愛し合ってくれて。……漸く埋まったんだ、だから、」
鍵介じゃなきゃ駄目なんだ、と、彼は真剣な眼差しで言う。
鍵介が手を押し当てている胸の奥で、紅朗の心臓が鳴り響いているのがわかった。
「自分に価値がないなんて、言わないで欲しい。鍵介には沢山良いところがあるし、俺にとっては何よりも大切だよ。……それじゃ、だめだろうか」
「…………」
「……答えになってないか?」
「……いえ…………」
鍵介は小さく首を振る。
ひたすらに顔が熱かった。なんだかちょっと泣きそうですらある。
見せかけではない愛情が、真っ直ぐぶつかってきて、胸の奥が痛かった。
けれど、悪くは無い痛みだった。
「…………先輩って、」
「ん?」
「……ほんとに僕のこと好きなんですね……」
「うん」
紅朗ははにかむように微笑む。
「大好きなんだ。ごめんな」
「謝らなくていいですよ……」
鍵介は紅朗の胸から手を離すと、彼の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き着く。
「先輩の口説き文句聞いてたら、あほらしくなってきました」
「え、何が?」
「自分が悩んでたこととか」
「お、おう……そういうことか」
紅朗はそう言いながら、鍵介を抱きしめ返す。
「てっきり、引かれたのかと」
「引きませんよ今更……」
鍵介は呆れたように言った。
「まあ、この人よくさらりと言えるなーとかは思いますけど」
「思ってるのか……」
「口説き慣れてる人は違いますよねー」
「えっ、俺口説き慣れてるなんてことはないぞ」
驚いたように言う紅朗を、鍵介はじっとりと睨んだ。
「……ほんとですかぁ?」
「ほんとだよ」
心外だとでも言いたげに、紅朗は眉を下げる。
「鍵介にしかしたことない。他のやつには、誰も。……鍵介にだけだよ」
「…………」
どんなに鍵介がひねくれたって、紅朗はこうして真っ直ぐ愛してくれる。
それに甘えてばかりではいけないと、分かってはいるのだけれど。
「……もうちょっと僕も、素直になった方がいいんですかねぇ……」
「え、鍵介はそのままが一番可愛い……あっ」
紅朗が慌てて口を抑えるのを見て、鍵介は思わず小さく笑った。
「……ねえ先輩」
鍵介は甘えるように、肩の辺りに頬をすり寄せる。
「もっかい言ってくれたら信用してもいいですよ」
「え?何を」
「なんか、甘いヤツですよ。先輩、得意でしょ、そういうの」
「禁止令は?」
「え、まだそれ言います?はいはい解除しましたよー、どーぞご遠慮なく」
「……仕方ないな」
紅朗は耳元で、そっと囁く。
「愛してるよ、鍵介」
「…………」
自然と顔が熱くなった。
鍵介の赤い顔を見て、紅朗が笑う。
「あ、照れてる照れてる」
「うるさいなぁ……」
「可愛いなぁ鍵介は」
「うるさいですよ、もう」
何だかとても悔しくなって、鍵介は背伸びして、今度は紅朗の耳元に唇を近付けた。
「……愛してますよ、先輩」
驚く紅朗の顔が、徐々に赤くなっていくのを見て、鍵介は、ようやく満足したのだった。
別にいいんですけど、と鍵介は言う。
男として「可愛い」と言われることに抵抗はあるものの、別に紅朗は嫌がらせで言っているわけではないことは知っている。
そもそも息をするように愛を囁くのだ、この
だから鍵介も(恥ずかしくはあるが)慣れたものだし、別に文句を言ったつもりはなくて、いつもの軽口のつもりだった。
のだが。
「…………じゃあ、」
紅朗は至極真面目な顔をして、
「言い方を変えよう」
「へっ?」
きょとんとしている鍵介の頬に、紅朗はそっと手を添える。
「愛してるよ、鍵介」
「は」
一瞬、何を言われたのかが分からず、鍵介はフリーズする。
徐々に、徐々に意味を理解して、鍵介はみるみるうちに赤くなった。
「えっ……あ、あの、せんぱい、」
「だめ?」
「だ、だめとかじゃなくて、あの、」
心臓に悪い。
ただでさえ綺麗な顔をしている癖に、真剣な眼差しで真剣に見つめられたら、そんな。
「かっ……あっ、……ぁぃしてるとか、そういうの、は、」
鍵介は何とか言葉を絞り出す。
「か、軽々しく言わないでくれますかねえ?!そういうのは、もっと、ちゃんと、こう……」
しどろもどろになりながら、ちゃんとってなんだよちゃんとって、などと内心で自分に突っ込んでいると、紅朗はますます困ったように眉を下げる。
「じゃあ、鍵介に対しては何て言ったらいい?」
「な、何てって、」
「好きな人には、ちゃんと好きって言いたいんだ」
紅朗の切なげな視線が刺さる。
胸の奥がちくちく痛んで、鍵介は咄嗟に、
「……き、禁止です!」
「えっ」
「そういうの!!!全部!!!禁止で!!!!!」
……と、いう話をしたのが、つい昨晩のことである。
「…………はぁ………」
鍵介は屋上でぼんやりグラウンドを眺めつつ、深いため息をつく。
「鍵介くーん!」
快活に笑う声が聞こえて、鍵介は後ろを振り返った。
「あ、美笛ちゃん……」
美笛は元気良く手を振って走ってくる。
「大丈夫?部長と喧嘩でもした?」
「えっ、なんでわかるの……」
「えっ、いやいや何となくだけど……」
美笛は曖昧に笑ってから、
「二人も喧嘩とかするんだねー。凄く仲良しだと思ってた」
「うーん、いや、正確には、喧嘩とかではないんだけど……」
そう。喧嘩ではない。
ただ、鍵介が一方的に、紅朗を物凄くしょんぼりさせてしまっただけで。
「そう……なんだ?じゃあ、仲直りもしやすいんじゃない?あ、喧嘩じゃないんだっけ……」
「うーん……」
鍵介は体勢を変え、フェンスに背中を預けて寄り掛かる。
「あのさ、美笛ちゃん」
「なぁに?」
「美笛ちゃんって、維弦先輩に何か言われて、嫌になったりしたことある?」
唐突に恋人の名前を出されて、美笛は驚いたようにまばたきする。
「維弦先輩に?うーん…………」
美笛は考え込むように腕組みし、少し考えてから答えを出した。
「ほら、維弦先輩って、何でもストレートに言うから……言われてびっくりすることっていうのは、結構あるんだけどね」
「うん」
かなり簡単に想像がつくなぁと、鍵介は思った。
美笛は笑いながら続ける。
「でも、ただストレートに言っちゃうだけで、逆に誤解されちゃうって言うか……言われた方がちゃんと意味を考えて、受け止めてあげれば大丈夫、って思ってるかな」
「ふぅん……」
「だから言われて嫌だったことって、あんまり思いつかないなー」
「………………」
鍵介は少し俯いた。
コミュニケーションの正しい形とは、そういうものなんだろうな、と思った。
あの人付き合いが苦手そうな維弦でさえ、ちゃんと美笛が受け止めているのに、自分と来たら。
と。
美笛が、鍵介の表情を伺うように顔を覗き込んでくる。
「部長に、何か嫌なこと言われたの?」
「いや……そうじゃ、ないんだけど」
ただ、恥ずかしいだけだ。
いや、恥ずかしいだけでもないのだけれど。
ただ。ただ。
「…………僕の器が小さいのかな…………」
「ど、どうしたの、いきなり」
さらに俯いてしまった鍵介に、美笛は慌てて励ますように背中を叩く。
「……えっと、良かったら話聞くよ?上手いアドバイスとかは出来ないけど……鍵介くんには、いつも助けて貰ってるし。ほら、勿論、部長にもさ」
「…………いや、でも、」
鍵介は恐る恐る顔をあげた。
「男同士の恋愛の話聞くのキツくない……?」
「ええっ……」
美笛は困ったように眉を下げる。
「い、今更過ぎてコメントに困るんだけどなー……なんて……?」
「あ、うん、ごめん…………」
鍵介は小さくため息をついてから、経緯を説明することにした。
「…………で、それで先輩が、物凄く凹んじゃって」
「な、なるほどねー……?」
鍵介が奢ったいちごオレの紙パックを揺らしながら、美笛はうーんと唸った。
「いや、でも、鍵介くんの気持ちも分かるかなぁなんて……部長みたいにかっこいい人にひたすら口説かれてたら、そりゃ照れちゃうよね」
「だろ?!ほんとあの人自分のこと分かってないっていうか……」
鍵介は拗ねたように言いながら、飲みかけのレモンティーのパックに、ぷすぷすとストローを刺し直す。
「でも、嫌じゃないんでしょ?」
「………………………」
「あ、嫌じゃないんだ」
「い、嫌じゃないけど」
鍵介はふるふると首を振ってみせる。
「…………なんか、フィルターかかってるんじゃないかって」
「フィルター?」
「恋は盲目とか、あばたもえくぼっていうか」
「えーっと……」
「だから、その、」
鍵介はもごもごと口の中で言葉を探す。
「…………僕、本当はそんなこと、言って貰えるやつじゃないのに……」
ぽつりと、思わず言ってしまった。
可愛げもないし、生意気だし、女の子みたいに良い匂いもしない。
根は暗くて、才能だって持ち合わせてなくて、友達もいなくて、頭が良いわけでも見た目が良いわけでもない。
でも紅朗は違うのだ。
誰からもかっこいいと認められる存在だ。
それなのに。それなのに。
どうして自分を愛してくれるのかわからない。
自分でも気付いていなかった本音が胸の内に溢れてきて、思わず鍵介はうずくまってしまう。
どうしようもないコンプレックスばかりが、胸を占めていた。
「け、鍵介くん?!大丈夫?」
美笛が慌てて寄り添い背中を撫でてくれる。
女の子の前で泣くわけにはいかないと、鍵介は必死で堪えていたが、一度目の端から涙が落ちると、止まりそうになかった。
「ご、ごめん、なんか……自分が、情けなくて」
「そんなことないよ……」
美笛はそう言って、しばらく鍵介の背中を撫でてくれていた。
「…………鍵介くんってさ」
鍵介が落ち着き始めた頃、ぽつりと美笛は言った。
「部長のこと、ほんっとーに好きなんだね」
「………えっ」
「だってそうじゃない?」
美笛はにっこり笑った。
「好きな人に相応しくなりたいって思ってなかったら、そんな風に思わないと思うんだ」
「……………」
「私もおんなじこと思ってたから、気持ちはすごくよくわかるっていうか……」
そう言われて、鍵介は気が付いた。
学校一の美少年と言われている維弦の隣に立つことは、彼女にとってプレッシャーだったろう。
美笛は確かに可愛いけれど、もっと相応しい相手がいると、陰口を叩く者もいるはずだ。
けれど、彼女はそんなことを気にしている素振りもない。
恋する女の子は強いと、最初に言ったのは、一体誰だったのか。
「でも、部長は鍵介くんのこと、自分に相応しくないとかは、思ってないと思うよ」
「………そうかも、しれないけど」
「ちゃんと話し合ってみなよー。部長、心配してたよ、鍵介くんのこと」
鍵介は思わず顔を上げて美笛を見た。
「え、せ、先輩が?」
「…………実はね」
ナイショだよ、と人差し指を立てながら、美笛は小声で話す。
「鍵介が元気ないと思うから、様子見てきてくれないかーって頼まれたの」
「……先輩に?」
「うん、部長に」
「………………」
そもそも落ち込んでいたのは、彼の方だ。
でも、自分が落ち込むことで、鍵介が凹んでしまうのを、分かっていたのだろう。
全く。
全く、僕の先輩は。
「…………ありがとう、美笛ちゃん」
鍵介はゆっくり立ち上がった。
「ちょっと先輩と……話してみるよ」
「どーいたしまして!いってらっしゃい!」
美笛は明るく笑ってみせた。
「またなんかあったら聞くよー、いちごオレ、忘れないでね!」
「考えておくよ」
鍵介はちょっと笑って、頷いた。
WIREに既読もつかない、電話も出ない。
何かあったんじゃないのかと不安になり、鍵介は帰宅部のグループWIREで訊いてみることにした。
すると。
『ぼくといる』
「…………峯沢先輩と?」
鍵介は思わず一人呟いてしまう。
維弦に教えて貰った通り、二人は校門前にいた。
「せ、先輩」
「あ、けんす、」
一瞬顔を輝かせた紅朗だったが、なにかに気付いたように、ささっと維弦の影に隠れてしまった。
「えっ…………何してるんですか……」
「い、いや、だって…………」
「……部長、コートを離してくれ」
維弦が淡々と言う。
「美笛が僕を探しているらしい」
紅朗は掴んでいた維弦のコートを、ぱっと話した。
「……ありがとう、維弦」
「ああ。それでは、失礼する」
維弦はそう言って紅朗と鍵介に軽く頭を下げると、さっさと歩いていってしまった。
「……先輩」
「…………」
「ちょっと、なんで目ぇそらすんですか」
「いや……」
酷く気まずそうな顔をしている紅朗に、鍵介は何だか申し訳なくなった。
謝りたいのは山々だが、学校で話し合いをするわけにもいかない。
鍵介は、軽く紅朗のブレザーを引っ張る。
「あの、先輩」
ようやく、紅朗が鍵介を見る。
申し訳なさそうな表情をしているものの、やっと自分と視線を合わせてくれたと、鍵介は少しほっとした。
「先輩の家、行きましょう」
鍵介は出来るだけ穏やかな声で提案した。
「ここじゃゆっくり話せませんし」
「……鍵介が嫌じゃないなら」
「嫌なら提案してませんよ」
紅朗の目に、ほっと安心したような色が見えて、鍵介はまた何だか申し訳なくなる。
黙ったまま二人、学校を出て、紅朗の家まで並んで歩いた。
何も話さずに歩いていても、紅朗の歩幅は、いつも鍵介と同じだ。
鍵介は黙って手を伸ばして、紅朗が手を突っ込んでいる制服のポケットに、自分の手を滑り込ませる。
「鍵介?」
紅朗が驚いたような顔を向けてくるのを、鍵介は小生意気な視線で見つめ返した。
「たまにはいいでしょう」
冷たい感触の手を軽く握ると、紅朗の表情が少し緩んだ。
「もう、怒ってないか?」
「…………最初から怒ってませんよ」
そう言うと、紅朗から手を握り返される感触がして、鍵介はほっとした。
「先輩、僕、」
「俺から先に良い?」
玄関に入ってすぐ、口を開いた鍵介を、紅朗が押し止める。
「…………、……ダメです」
「えっ」
「どうせまたあなた謝るんでしょう。僕は怒ってませんってば」
「で、でも、」
「ああもう!」
焦れったくなって、鍵介は思わず声を大きくしてしまう。
「恥ずかしかっただけですすいませんでした!言われるの嫌じゃないです!!」
「…………」
紅朗はぽかんとしてから、鍵介の顔を覗き込んだ。
「…………ほんとに?」
「ほんとです、けど…………あの、僕、」
紅朗の視線が、あまりにも真っ直ぐ自分を見つめていて、鍵介は何だか落ち着かない気持ちになる。
それでも、言わなくては、と思った。
「自分は、先輩に、愛してるとか言って貰えるような、そんな価値のある人間じゃ、ないと思ってて……」
紅朗が、驚いたように目を見開く。
「だからなんか、恥ずかしかったし、申し訳なかったっていうか……」
「…………鍵介」
紅朗はおもむろに、鍵介の手を取る。
それから、自分の心臓の辺りに、鍵介の手を押し当てた。
「俺、ここにね」
紅朗は穏やかな声で言った。
「大きな穴があったんだ」
「……? 穴、ですか」
唐突な話に、鍵介はきょとんとしながらも、話についていこうと繰り返した。
「そう。ぽっかり空いた、大きな穴」
紅朗は小さく頷く。
「何をしていても埋められない穴だ。どんなに素晴らしい音楽を奏でても、誰かと恋人として付き合っていても、友人と楽しい時間を過ごしていても、理想の楽園であるはずのメビウスに来ても、ずっとずっと、ぽっかり空いたままの穴だった」
紅朗はひとつ、呼吸を置いて、柔らかく微笑む。
「鍵介が、埋めてくれたんだよ。全部」
「…………」
「鍵介が俺の告白を、俺の恋を受け入れてくれて……恋人として、愛し合ってくれて。……漸く埋まったんだ、だから、」
鍵介じゃなきゃ駄目なんだ、と、彼は真剣な眼差しで言う。
鍵介が手を押し当てている胸の奥で、紅朗の心臓が鳴り響いているのがわかった。
「自分に価値がないなんて、言わないで欲しい。鍵介には沢山良いところがあるし、俺にとっては何よりも大切だよ。……それじゃ、だめだろうか」
「…………」
「……答えになってないか?」
「……いえ…………」
鍵介は小さく首を振る。
ひたすらに顔が熱かった。なんだかちょっと泣きそうですらある。
見せかけではない愛情が、真っ直ぐぶつかってきて、胸の奥が痛かった。
けれど、悪くは無い痛みだった。
「…………先輩って、」
「ん?」
「……ほんとに僕のこと好きなんですね……」
「うん」
紅朗ははにかむように微笑む。
「大好きなんだ。ごめんな」
「謝らなくていいですよ……」
鍵介は紅朗の胸から手を離すと、彼の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き着く。
「先輩の口説き文句聞いてたら、あほらしくなってきました」
「え、何が?」
「自分が悩んでたこととか」
「お、おう……そういうことか」
紅朗はそう言いながら、鍵介を抱きしめ返す。
「てっきり、引かれたのかと」
「引きませんよ今更……」
鍵介は呆れたように言った。
「まあ、この人よくさらりと言えるなーとかは思いますけど」
「思ってるのか……」
「口説き慣れてる人は違いますよねー」
「えっ、俺口説き慣れてるなんてことはないぞ」
驚いたように言う紅朗を、鍵介はじっとりと睨んだ。
「……ほんとですかぁ?」
「ほんとだよ」
心外だとでも言いたげに、紅朗は眉を下げる。
「鍵介にしかしたことない。他のやつには、誰も。……鍵介にだけだよ」
「…………」
どんなに鍵介がひねくれたって、紅朗はこうして真っ直ぐ愛してくれる。
それに甘えてばかりではいけないと、分かってはいるのだけれど。
「……もうちょっと僕も、素直になった方がいいんですかねぇ……」
「え、鍵介はそのままが一番可愛い……あっ」
紅朗が慌てて口を抑えるのを見て、鍵介は思わず小さく笑った。
「……ねえ先輩」
鍵介は甘えるように、肩の辺りに頬をすり寄せる。
「もっかい言ってくれたら信用してもいいですよ」
「え?何を」
「なんか、甘いヤツですよ。先輩、得意でしょ、そういうの」
「禁止令は?」
「え、まだそれ言います?はいはい解除しましたよー、どーぞご遠慮なく」
「……仕方ないな」
紅朗は耳元で、そっと囁く。
「愛してるよ、鍵介」
「…………」
自然と顔が熱くなった。
鍵介の赤い顔を見て、紅朗が笑う。
「あ、照れてる照れてる」
「うるさいなぁ……」
「可愛いなぁ鍵介は」
「うるさいですよ、もう」
何だかとても悔しくなって、鍵介は背伸びして、今度は紅朗の耳元に唇を近付けた。
「……愛してますよ、先輩」
驚く紅朗の顔が、徐々に赤くなっていくのを見て、鍵介は、ようやく満足したのだった。