主鍵
「先輩、何だか身体が熱いんです……」
頬を紅潮させ目を潤ませ、鍵介はそう訴えた。
可愛い恋人からの起き抜けの一言に、ラティカは目をぱちくりとさせてから、おもむろに鍵介の額に手を当てる。
「他には?」
「喉が痛くて気持ち悪くて吐き気がします……」
「風邪かな」
汗ばんだ額を指で拭ってから、ラティカは鍵介の前髪に小さくキスを落としてやる。
「体温計持ってくるから、熱測ってごらん。あといったん着替えて……雑炊か何か作るね」
けほ、と小さく鍵介が咳き込んだ。
「……先輩、今日約束があるって」
「うん?断るよ」
ラティカは至極当たり前と言った顔で答えた。
「仕事ならともかく……後で連絡入れておくから大丈夫だよ」
「………ごめんなさい……」
申し訳なさそうに言う鍵介の潤んだ瞳から、ぽろりと涙が零れる。
ラティカはふっと笑って、また額にキスしてやった。
「気にしなくていいよ。体温計と着替え持ってくるね」
鍵介は小さな声で、はい、と頷いた。
体温計は38度2分を示していた。
「高いな……。薬飲んで寝て、下がらなかったら病院行こうか」
小分けによそってもらった雑炊をちびちびと食べながら、鍵介はラティカの言葉に頷く。
「おかわりいる?」
鍵介はふるふると首を振り、器を返した。
ラティカは器を受け取ると、風邪薬と水を渡す。
「飲んだらゆっくり寝るんだよ。後で氷枕持ってきてあげるからね」
「先輩は……?」
もぞもぞと布団に入りながら、鍵介が寂しそうに見上げてきた。
「食器片付けて連絡だけしてくるよ。それが終わったら、今日はずっと一緒にいてあげるから」
鍵介はじっとラティカを見つめたあと、「わかりました……」と弱々しく返事をする。
あやすように鍵介の髪を撫でてから、ラティカは余った雑炊の鍋と食器を、台所に運んでいった。
鍋の中身は冷蔵庫に入れておき、食器や鍋は水につけておく。
雑炊の他には病人に食べさせるようなものが何も無い冷蔵庫を眺め、「買い出しかな」と独り言を呟いた。
約束していた友人に連絡すると、「お大事にねー」と明るく言われ、少し気が楽になる。
諸々を片付けてから鍵介の元へ戻ると、彼はうつらうつらとしながらも、時折うなされていた。
「大丈夫?鍵介」
「変な夢みます……」
ぐずぐずと泣いている鍵介の傍へ椅子を引っ張っていき、ラティカはそれに腰掛ける。
「変な夢?」
「十二単のお姫様と平安時代の貴族がシーソーしてる……」
「……………」
ラティカは笑いそうになるのを堪えながら、鍵介の手に自分の手を滑り込ませた。
「熱がある時は仕方ないね。僕が側にいるから大丈夫だよ」
鍵介はラティカを見上げ、ぎゅっと手を握る。
「せんぱい、どこにもいきませんか」
「どこにも行かないよ。大丈夫」
ラティカは優しく手を握り返した。
鍵介が微睡みから覚めると、部屋がやけに暗かった。
窓の外を見て、すっかり日が暮れているのだと気が付く。
汗をかいたせいか、少しすっきりした身体で起き上がり、ようやく気が付いた。
「先輩?」
部屋にラティカはいない。
鍵介一人だ。
身体を冷やさないようにカーディガンを羽織り、スリッパを履いて寝室から出る。
「………先輩?」
呼びかけても、返事はない。
「先輩……」
リビングにも、台所にも、風呂場にも、ラティカの私室にも、彼はいない。
段々と心細くなって、鍵介は廊下でしゃがみこんでしまった。
もしかして、本当は、最初から一人だったんじゃないだろうか。
自分を愛してくれる都合の良い人のゆめを見ていただけで、本当は、こっちが現実なんじゃないだろうか。
下がり切っていない熱でぼうっとする頭を抱えながら、鍵介はうずくまる。
取り留めのない考えが浮かんでは寂しくなり、ひたすらに涙が流れた。
と。
玄関が、がちゃりと音を立てて開く。
「ただい………鍵介、どうした」
買い物袋を放り出し、ラティカは靴も脱がずに鍵介に駆け寄る。
鍵介はぐすぐすと泣きながら顔を上げ、ラティカに抱き着く。
「せんぱい、」
「うん?」
「どこにもいかないって、いったのに」
泣きながらしがみついてくる鍵介に、ラティカは安堵したように溜息をついてから、優しく抱き締め返した。
「ごめんね、買い物に行ってただけだよ。よく寝てたから……」
「ぼくもいきます……」
「元気になったらね」
抱きついたまま離れたがらない鍵介をあやしつつ、ラティカは買い物袋を拾い上げ、片手で背中を撫でさすってやる。
「お腹すいてない?」
鍵介は小さく首を振った。
「プリン買ってきたんだけどな。食べない?」
「………せんぱいがたべさせてくれるなら」
「いいよ、それくらい。お安い御用だ」
ようやく泣き止んだ恋人に、ラティカは優しく笑ってみせる
着替えを済ませてプリンを食べ、薬を飲んで氷枕を新しくして貰ったところで、鍵介は再びうとうとと微睡み始めた。
「おやすみ、鍵介」
「………せんぱい」
「ちゃんといるから」
鍵介は疑わしそうな目で見つつも、眠気には勝てなかったのか、やがてゆっくりと目を閉じる。
流石に二度も裏切れないなと苦笑しながら、ラティカもそのまま眠ることにした。
「………先輩、先輩」
翌朝。
鍵介につつかれて、ラティカは目を覚ます。
「……ん。体調は?」
「いや、良くなったんですけど」
鍵介は至極真面目な顔で訊ねた。
「何で隣で寝てるんですか……」
「ええ……鍵介が離れるなって言うから……」
そう言いながらも、ラティカは鍵介に身体を向け、手を伸ばして頬に触れる。
「ああ、うん。熱下がったね。よかった」
「よかった、じゃなくて。病人と一緒に寝て、先輩まで風邪引いたらどうするんですか」
「いやだから、鍵介がね」
「先輩は僕を甘やかし過ぎなんですよ」
鍵介は呆れたように言いながら、ラティカの額を触り返した。
「………大丈夫ですね」
「大丈夫だよ?」
ラティカは楽しそうに笑う。
「昨日はあんなにわがままだったのにね」
鍵介はきょとんと目を丸くしてから、顔を赤くし、布団に潜り込む。
「………先輩がいなくなるからですよ」
布団の奥から聞こえたくぐもった声に、ラティカは笑いながら「どこにも行きやしないよ」と答えた。
頬を紅潮させ目を潤ませ、鍵介はそう訴えた。
可愛い恋人からの起き抜けの一言に、ラティカは目をぱちくりとさせてから、おもむろに鍵介の額に手を当てる。
「他には?」
「喉が痛くて気持ち悪くて吐き気がします……」
「風邪かな」
汗ばんだ額を指で拭ってから、ラティカは鍵介の前髪に小さくキスを落としてやる。
「体温計持ってくるから、熱測ってごらん。あといったん着替えて……雑炊か何か作るね」
けほ、と小さく鍵介が咳き込んだ。
「……先輩、今日約束があるって」
「うん?断るよ」
ラティカは至極当たり前と言った顔で答えた。
「仕事ならともかく……後で連絡入れておくから大丈夫だよ」
「………ごめんなさい……」
申し訳なさそうに言う鍵介の潤んだ瞳から、ぽろりと涙が零れる。
ラティカはふっと笑って、また額にキスしてやった。
「気にしなくていいよ。体温計と着替え持ってくるね」
鍵介は小さな声で、はい、と頷いた。
体温計は38度2分を示していた。
「高いな……。薬飲んで寝て、下がらなかったら病院行こうか」
小分けによそってもらった雑炊をちびちびと食べながら、鍵介はラティカの言葉に頷く。
「おかわりいる?」
鍵介はふるふると首を振り、器を返した。
ラティカは器を受け取ると、風邪薬と水を渡す。
「飲んだらゆっくり寝るんだよ。後で氷枕持ってきてあげるからね」
「先輩は……?」
もぞもぞと布団に入りながら、鍵介が寂しそうに見上げてきた。
「食器片付けて連絡だけしてくるよ。それが終わったら、今日はずっと一緒にいてあげるから」
鍵介はじっとラティカを見つめたあと、「わかりました……」と弱々しく返事をする。
あやすように鍵介の髪を撫でてから、ラティカは余った雑炊の鍋と食器を、台所に運んでいった。
鍋の中身は冷蔵庫に入れておき、食器や鍋は水につけておく。
雑炊の他には病人に食べさせるようなものが何も無い冷蔵庫を眺め、「買い出しかな」と独り言を呟いた。
約束していた友人に連絡すると、「お大事にねー」と明るく言われ、少し気が楽になる。
諸々を片付けてから鍵介の元へ戻ると、彼はうつらうつらとしながらも、時折うなされていた。
「大丈夫?鍵介」
「変な夢みます……」
ぐずぐずと泣いている鍵介の傍へ椅子を引っ張っていき、ラティカはそれに腰掛ける。
「変な夢?」
「十二単のお姫様と平安時代の貴族がシーソーしてる……」
「……………」
ラティカは笑いそうになるのを堪えながら、鍵介の手に自分の手を滑り込ませた。
「熱がある時は仕方ないね。僕が側にいるから大丈夫だよ」
鍵介はラティカを見上げ、ぎゅっと手を握る。
「せんぱい、どこにもいきませんか」
「どこにも行かないよ。大丈夫」
ラティカは優しく手を握り返した。
鍵介が微睡みから覚めると、部屋がやけに暗かった。
窓の外を見て、すっかり日が暮れているのだと気が付く。
汗をかいたせいか、少しすっきりした身体で起き上がり、ようやく気が付いた。
「先輩?」
部屋にラティカはいない。
鍵介一人だ。
身体を冷やさないようにカーディガンを羽織り、スリッパを履いて寝室から出る。
「………先輩?」
呼びかけても、返事はない。
「先輩……」
リビングにも、台所にも、風呂場にも、ラティカの私室にも、彼はいない。
段々と心細くなって、鍵介は廊下でしゃがみこんでしまった。
もしかして、本当は、最初から一人だったんじゃないだろうか。
自分を愛してくれる都合の良い人のゆめを見ていただけで、本当は、こっちが現実なんじゃないだろうか。
下がり切っていない熱でぼうっとする頭を抱えながら、鍵介はうずくまる。
取り留めのない考えが浮かんでは寂しくなり、ひたすらに涙が流れた。
と。
玄関が、がちゃりと音を立てて開く。
「ただい………鍵介、どうした」
買い物袋を放り出し、ラティカは靴も脱がずに鍵介に駆け寄る。
鍵介はぐすぐすと泣きながら顔を上げ、ラティカに抱き着く。
「せんぱい、」
「うん?」
「どこにもいかないって、いったのに」
泣きながらしがみついてくる鍵介に、ラティカは安堵したように溜息をついてから、優しく抱き締め返した。
「ごめんね、買い物に行ってただけだよ。よく寝てたから……」
「ぼくもいきます……」
「元気になったらね」
抱きついたまま離れたがらない鍵介をあやしつつ、ラティカは買い物袋を拾い上げ、片手で背中を撫でさすってやる。
「お腹すいてない?」
鍵介は小さく首を振った。
「プリン買ってきたんだけどな。食べない?」
「………せんぱいがたべさせてくれるなら」
「いいよ、それくらい。お安い御用だ」
ようやく泣き止んだ恋人に、ラティカは優しく笑ってみせる
着替えを済ませてプリンを食べ、薬を飲んで氷枕を新しくして貰ったところで、鍵介は再びうとうとと微睡み始めた。
「おやすみ、鍵介」
「………せんぱい」
「ちゃんといるから」
鍵介は疑わしそうな目で見つつも、眠気には勝てなかったのか、やがてゆっくりと目を閉じる。
流石に二度も裏切れないなと苦笑しながら、ラティカもそのまま眠ることにした。
「………先輩、先輩」
翌朝。
鍵介につつかれて、ラティカは目を覚ます。
「……ん。体調は?」
「いや、良くなったんですけど」
鍵介は至極真面目な顔で訊ねた。
「何で隣で寝てるんですか……」
「ええ……鍵介が離れるなって言うから……」
そう言いながらも、ラティカは鍵介に身体を向け、手を伸ばして頬に触れる。
「ああ、うん。熱下がったね。よかった」
「よかった、じゃなくて。病人と一緒に寝て、先輩まで風邪引いたらどうするんですか」
「いやだから、鍵介がね」
「先輩は僕を甘やかし過ぎなんですよ」
鍵介は呆れたように言いながら、ラティカの額を触り返した。
「………大丈夫ですね」
「大丈夫だよ?」
ラティカは楽しそうに笑う。
「昨日はあんなにわがままだったのにね」
鍵介はきょとんと目を丸くしてから、顔を赤くし、布団に潜り込む。
「………先輩がいなくなるからですよ」
布団の奥から聞こえたくぐもった声に、ラティカは笑いながら「どこにも行きやしないよ」と答えた。