主鍵
ラティカの左耳にピアスが開いていることに、鍵介が気がついたのは、現実で再会してからすぐのことだった。
赤く不透明な円状のそれは、彼の白い肌によく映えて、意識しなくとも目立って見える。
メビウスでは着けていなかったその存在が気になりはしたものの、聞くタイミングがなく言い出せずに、暫く日は過ぎた。
機会が訪れたのは、ある休日の昼下がりだった。
「お洒落ってめんどくさいですね……」
ソファの上で雑誌をめくりながら鍵介がぼやくと、ラティカがコーヒーを二人分持ったまま、「何かあった?」と訊ねた。
「何かあったってわけじゃないんですけど」
鍵介は雑誌に目を滑らせていく。
「かっこいい人は何着ても似合うのに、僕は服を探すのも一苦労だなって」
「だから、僕が見立てようかって、前から言ってるじゃないか」
ラティカは笑いながらコーヒーをテーブルに置き、鍵介の隣に座る。
「先輩が選ぶって言ったらブランド物じゃないですか……気軽に着れませんよ」
唇を尖らせる鍵介に、ラティカは相変わらず笑いながらコーヒーを口に運ぶ。
「デート用に着てくれればいいじゃないか。脱がせる楽しみもあるわけだし」
「……すぐそういうこと言う」
不貞腐れた振りをして、照れを押し隠すように鍵介はコーヒーを一口飲んだ。
「服が嫌なら、アクセサリーとか買いに行こうか?」
「嫌なわけじゃないですけど。アクセサリーかぁ……」
鍵介はぱらぱらと雑誌をめくり、ふと思い出したように顔をあげる。
「そういえば、先輩もいつもピアスしてますよね」
「ん?うん、まあ」
「お気に入りなんですか?」
「んん……お気に入りって言うか……」
ラティカは気まずそうに視線を泳がせる。
鍵介はすぐに察した。
ああ、お父さん絡みか。
嫉妬しても仕方ないのだが、やっぱり少し気に入らなくて、鍵介はまた雑誌に目を落とす。
「……僕も空けようかな。ピアス」
「ええ……やめておきなよ」
鍵介にとっては意外なことに、ラティカはすぐに反対した。
「え、駄目ですか」
「日本はピアスに厳しいからね。それに感染症とかあるし……」
「先輩が言うんですかそれ……」
「親御さんから貰った身体は大事にしなよ」
ラティカが言うと、微妙に重い一言だった。
鍵介が返しに困っていると、ラティカも自分が言った意味に気付いたのか、
「僕が言うことじゃないね」
と苦笑してみせた。
「………あの」
「ん?」
「何でピアス空けてるか、聞いてもいいですか?」
遠慮がちに鍵介が訊ねると、ラティカはちょっと目を見開いた後、少し黙って俯いた。
「………すみません。嫌なら大丈夫です」
「いや良いよ……鍵介には誤解されたくないし」
と、ラティカは真面目な顔で鍵介を見る。
「……大前提として、今あの人に恋愛感情はなくて、僕にとって鍵介が一番大事だよってことは分かって欲しいんだけど」
分かってますよ、と鍵介は頷いてみせる。
それを見て、ラティカは少しほっとしたように続けた。
「高校受験の時だったかな。『先生』が、受かったらお祝いに何が欲しいかって聞いてきて、じゃあ『先生』が着けてるピアスと同じのが欲しいって言ったんだよ。……僕の行った高校はちょっと変わってて、自己責任だったら服装とかも自由って学校でね。『先生』もそれは知ってたから、良いよって約束してくれた」
ラティカは手の中のマグカップを弄ぶ。
「はっきり言っちゃうと、これ母さんの血のピアスなんだけど」
「え……」
「ああ、何か、猟奇的なのとかじゃないよ。漫画の影響かなんかでちょっと流行ったんだって……凄く小さい、透明のケースに滅菌した血を詰めて、ピアスにしたらしい」
ラティカの唇から、小さく溜息が漏れた。
「あの人、それを片方僕に寄越しやがった」
「…………」
鍵介はただ、じっとラティカの横顔を見つめていた。
「現実に帰ったら、さ。外そうと思ってたんだ、このピアス。……いや、正確には、外せると思ってた、かな」
実際はこの通りなんだけど、とラティカは苦笑いを浮かべる。
「ちゃんと向き合えたら外そうと思ってたのに……覚悟して戻ってきたつもりでも、全然、向き合えなくて……このピアスを外したら、最後、二度と見つからない場所に捨てて、そのまま逃げ出しそうで」
ラティカは視線を落とした。
「……ただ逃げてるだけの僕が、前を向いて進んでる鍵介の隣に、いるわけにいかないと思ったから」
「………いいですよ」
「え?」
ラティカは鍵介を見る。
鍵介は真剣な表情で言った。
「良いですよ。逃げたかったら逃げて。僕はどこまでもついていきますから」
「……………でも」
「でも、逃げたくないんですよね」
度の入っていない眼鏡の奥が、優しく笑う。
「じゃあ、それはそれで付き合いますよ。先輩がそのピアス外せるようになるまで」
「……外したら?」
「新しいピアス買ってあげます」
それから、と鍵介は言った。
「それ着けて、先輩の好きなとこにデートに行きましょう。僕の奢りで。……駄目ですかね?」
おどけるように笑ってみせる鍵介に、ラティカも笑う。少し目尻に涙を浮かべて。
「………だめじゃないよ」
「よかった」
「ごめんね、黙ってて」
「いえいえ。聞いたのは僕ですし」
冷めたコーヒーをテーブルに置いて、ラティカは鍵介に寄り掛かる。
「………フランスがいいな」
「えっ?」
「デートするなら。イタリアでも良いけど」
「国外ですか………」
予想外のデート先に、鍵介がいくらかかるのか指折り数えて試算していると、ラティカはくつくつと喉の奥で笑う。
「冗談だよ。少なくとも行くなら旅費は二人で出そう」
「そうですね………」
「あとね、鍵介」
「はい」
「やっぱりピアスは開けない方が良いと思う」
もっと似合うアクセサリーがあると思うよ、というラティカに、鍵介はちょっと唇を尖らせる。
先輩と、お揃いにしたいだけなんですけど。
そう言うべきか悩みつつ、鍵介は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
赤く不透明な円状のそれは、彼の白い肌によく映えて、意識しなくとも目立って見える。
メビウスでは着けていなかったその存在が気になりはしたものの、聞くタイミングがなく言い出せずに、暫く日は過ぎた。
機会が訪れたのは、ある休日の昼下がりだった。
「お洒落ってめんどくさいですね……」
ソファの上で雑誌をめくりながら鍵介がぼやくと、ラティカがコーヒーを二人分持ったまま、「何かあった?」と訊ねた。
「何かあったってわけじゃないんですけど」
鍵介は雑誌に目を滑らせていく。
「かっこいい人は何着ても似合うのに、僕は服を探すのも一苦労だなって」
「だから、僕が見立てようかって、前から言ってるじゃないか」
ラティカは笑いながらコーヒーをテーブルに置き、鍵介の隣に座る。
「先輩が選ぶって言ったらブランド物じゃないですか……気軽に着れませんよ」
唇を尖らせる鍵介に、ラティカは相変わらず笑いながらコーヒーを口に運ぶ。
「デート用に着てくれればいいじゃないか。脱がせる楽しみもあるわけだし」
「……すぐそういうこと言う」
不貞腐れた振りをして、照れを押し隠すように鍵介はコーヒーを一口飲んだ。
「服が嫌なら、アクセサリーとか買いに行こうか?」
「嫌なわけじゃないですけど。アクセサリーかぁ……」
鍵介はぱらぱらと雑誌をめくり、ふと思い出したように顔をあげる。
「そういえば、先輩もいつもピアスしてますよね」
「ん?うん、まあ」
「お気に入りなんですか?」
「んん……お気に入りって言うか……」
ラティカは気まずそうに視線を泳がせる。
鍵介はすぐに察した。
ああ、お父さん絡みか。
嫉妬しても仕方ないのだが、やっぱり少し気に入らなくて、鍵介はまた雑誌に目を落とす。
「……僕も空けようかな。ピアス」
「ええ……やめておきなよ」
鍵介にとっては意外なことに、ラティカはすぐに反対した。
「え、駄目ですか」
「日本はピアスに厳しいからね。それに感染症とかあるし……」
「先輩が言うんですかそれ……」
「親御さんから貰った身体は大事にしなよ」
ラティカが言うと、微妙に重い一言だった。
鍵介が返しに困っていると、ラティカも自分が言った意味に気付いたのか、
「僕が言うことじゃないね」
と苦笑してみせた。
「………あの」
「ん?」
「何でピアス空けてるか、聞いてもいいですか?」
遠慮がちに鍵介が訊ねると、ラティカはちょっと目を見開いた後、少し黙って俯いた。
「………すみません。嫌なら大丈夫です」
「いや良いよ……鍵介には誤解されたくないし」
と、ラティカは真面目な顔で鍵介を見る。
「……大前提として、今あの人に恋愛感情はなくて、僕にとって鍵介が一番大事だよってことは分かって欲しいんだけど」
分かってますよ、と鍵介は頷いてみせる。
それを見て、ラティカは少しほっとしたように続けた。
「高校受験の時だったかな。『先生』が、受かったらお祝いに何が欲しいかって聞いてきて、じゃあ『先生』が着けてるピアスと同じのが欲しいって言ったんだよ。……僕の行った高校はちょっと変わってて、自己責任だったら服装とかも自由って学校でね。『先生』もそれは知ってたから、良いよって約束してくれた」
ラティカは手の中のマグカップを弄ぶ。
「はっきり言っちゃうと、これ母さんの血のピアスなんだけど」
「え……」
「ああ、何か、猟奇的なのとかじゃないよ。漫画の影響かなんかでちょっと流行ったんだって……凄く小さい、透明のケースに滅菌した血を詰めて、ピアスにしたらしい」
ラティカの唇から、小さく溜息が漏れた。
「あの人、それを片方僕に寄越しやがった」
「…………」
鍵介はただ、じっとラティカの横顔を見つめていた。
「現実に帰ったら、さ。外そうと思ってたんだ、このピアス。……いや、正確には、外せると思ってた、かな」
実際はこの通りなんだけど、とラティカは苦笑いを浮かべる。
「ちゃんと向き合えたら外そうと思ってたのに……覚悟して戻ってきたつもりでも、全然、向き合えなくて……このピアスを外したら、最後、二度と見つからない場所に捨てて、そのまま逃げ出しそうで」
ラティカは視線を落とした。
「……ただ逃げてるだけの僕が、前を向いて進んでる鍵介の隣に、いるわけにいかないと思ったから」
「………いいですよ」
「え?」
ラティカは鍵介を見る。
鍵介は真剣な表情で言った。
「良いですよ。逃げたかったら逃げて。僕はどこまでもついていきますから」
「……………でも」
「でも、逃げたくないんですよね」
度の入っていない眼鏡の奥が、優しく笑う。
「じゃあ、それはそれで付き合いますよ。先輩がそのピアス外せるようになるまで」
「……外したら?」
「新しいピアス買ってあげます」
それから、と鍵介は言った。
「それ着けて、先輩の好きなとこにデートに行きましょう。僕の奢りで。……駄目ですかね?」
おどけるように笑ってみせる鍵介に、ラティカも笑う。少し目尻に涙を浮かべて。
「………だめじゃないよ」
「よかった」
「ごめんね、黙ってて」
「いえいえ。聞いたのは僕ですし」
冷めたコーヒーをテーブルに置いて、ラティカは鍵介に寄り掛かる。
「………フランスがいいな」
「えっ?」
「デートするなら。イタリアでも良いけど」
「国外ですか………」
予想外のデート先に、鍵介がいくらかかるのか指折り数えて試算していると、ラティカはくつくつと喉の奥で笑う。
「冗談だよ。少なくとも行くなら旅費は二人で出そう」
「そうですね………」
「あとね、鍵介」
「はい」
「やっぱりピアスは開けない方が良いと思う」
もっと似合うアクセサリーがあると思うよ、というラティカに、鍵介はちょっと唇を尖らせる。
先輩と、お揃いにしたいだけなんですけど。
そう言うべきか悩みつつ、鍵介は冷めたコーヒーを一口飲んだ。