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主鍵

*****



「せ、先輩、先輩っ……!」
鍵介が必死で呼び掛けても、紅朗は全く聞く耳を持ってはくれなかった。
心配そうに成り行きを見守っていたアリアに「先に部室に戻ってて」と言うなり、彼は鍵介の腕を掴んで歩き出したのだ。
有無を言わさぬ程の力の強さと、先程からこちらを全く見ようとしない紅朗に、鍵介は少し泣きそうになる。
見られた、のは、仕方ないとしても。
怒っている。いつになく。あの紅朗が。
先程の彼の表情は、鍵介が初めて見る顔だった。
そんな顔をさせたのが自分だということが、鍵介は堪らなく嫌だった。



やがて連れ込まれたのは、旧校舎の男子トイレだった。
鍵介は狭い個室に引っ張りこまれ、壁に背を押し当てられた挙句、噛み付くようにキスをされる。
食べられる、と、頭の片隅に、危機感が小さく過ぎった。
「せ、先輩」
普段とは違う乱暴な手つきで上着を剥ぎ取られ、服を捲られる。
ひやりとした空気と、やけに熱い手が、鍵介の肌に触れる。
「先輩、待って、待ってください、ってば」
「何を?」
少し苛ついたような返答と共に、鍵介のベルトが引き抜かれた。
慌てて抵抗しようと、鍵介は紅朗の手を抑えるが、あっさり振り払われた。
「こ、ここじゃだめです」
「何が?」
薄い瞳の色に睨まれて、鍵介はびくりと身を竦める。
それを見て、紅朗ははっと気がついたように手を止めた。
それから酷く後悔したような顔をして、ぎゅっと鍵介を抱き締めた。
「………先輩?」
紅朗の身体は、小さく震えていた。
鍵介が恐る恐る声をかけると、
紅朗は少し身体を離して、じっと鍵介を見つめる。
「………あのさ、鍵介」
紅朗は不安そうな表情で、鍵介に訊ねる。
「鍵介が好きなのって、誰?」
唐突な質問に、鍵介は目を丸くする。
「え……?」
「告白してきた女の子?」
「ち、違います!」
「じゃあ誰?」
紅朗の追求に、鍵介は戸惑いながら答える。
「そ、そんなの、先輩に決まってるじゃないですか……」
「…………じゃあ」
紅朗は静かに訊き返す。
「何ですぐ断らなかったんだ?」
「………」
鍵介は、言葉に詰まってしまう。
何故だか、言えなかった。
すぐには断れなかったのは確かだ。
でも、それは、決してーーー。
「………あのさ」
紅朗は、今度は小さく溜め息をついた。
「鍵介が、別に俺を嫌いになったわけじゃないとか、……ちゃんと断るつもりだったんだろうとか。それぐらいは、わかるよ。わかってるつもりだ」
でも、と、紅朗は続ける。
「……ああいうの見て、我慢できるほど、俺は大人じゃない……ただでさえ、鍵介、可愛い子に弱いんだから。……ちゃんと断ってくれ。ああいうの……嫌だ」
ぎゅう、と再び抱き締められ、鍵介は申し訳なさで一杯になる。
不安にさせてしまった、と後悔しながらら、鍵介は彼の背中に腕を回す。
「…………先輩。紅朗先輩」
鍵介は小さく名前を呼んで、紅朗を抱き締める。
「すみませんでした。不安にさせて」
「…………ん」
「……誰にも取られたり、しませんから」
「うん………」
ぐす、と、紅朗が鼻を啜る音が聞こえた。
泣かせてしまったなぁと思いつつ、鍵介は紅朗の背中をゆっくり撫でる。
「………嫉妬深くてごめんな」
と、紅朗は苦笑いを浮かべ、今度はいつものような、優しいキスを落とす。
その感触にほっと安心しつつも、本当に嫉妬深いだけなんだろうか、と、鍵介はふと思う。
先程の彼は、嫉妬しているというよりは、どこか不安がっているような。
それはさしたる違いはないように思えたものの、鍵介は何となく気になった。
けれどーーー今は、いちいち聞くことでもないはずだ。
「……不安にさせて、すみませんでした」
鍵介はそう言って、今度は自分から紅朗に小さくキスをする。
「……反省した?」
「はい」
「じゃあ抱いていい?」
「は………えっ待ってくださいやっぱりここでするんですか」
「それは、まあ、」
紅朗は真面目な顔で言う。
「鍵介は俺のってことを鍵介の身体に教えこませておきたいというか………」
「今僕自分で認めたじゃないですか!」
「……駄目か?」
頬を撫でられ、顔を覗き込まれて、そんな風に言われて。
嫌だと言えるはずがあるだろうか。
何でこの人僕なんか好きなんだろう、女の子なら絶対断れないよなぁなどと鍵介は内心自分を卑下しつつ、
「……好きに、してください」
すがりつくように、紅朗の背中に腕を回した。



*****



そして二人仲良く部活を忘れ、琴乃に電話でしっかりと怒られたわけだが。
「……先輩って、琴乃先輩には頭あがんない感じです?」
電話を終えた紅朗に、鍵介は壊れたトイレに腰掛けつつ訊ねる。
「うん……何ていうか、怒らせちゃいけないなとは、常々」
別に苦手な訳では無いんだけどね、と、紅朗は補足しつつ、鍵介の肩を抱き寄せる。
「身体平気か?」
「正直あちこち痛いですんですけど」
鍵介はきっぱり言った。
「狭いとこであっちこっち噛み付くのやめてくださいよ……」
「ご、ごめん……」
「まあ、いいですけど。今回は僕が悪かったですし」
ぷい、とそっぽを向きながら言う鍵介が、紅朗にとっては何より愛おしい。
誰にも取られたくない、誰にも触らせたくないなぁと思いながら、彼の髪に口付けた。
「ん……先輩、あの」
「ん?」
鍵介は神妙な面持ちで、紅朗を見上げた。
「僕、今からでも、断りに行こうかなって」
「……いや、今度で良いよ」
「でも」
「今日は会いに行って欲しくない」
紅朗が少しわがままな口調でそう言ってみると、鍵介は目をぱちくりさせた後、「……しょうがないですねぇ」と諦めてくれた。
「先輩ってほんと焼きもち妬きですね」
「うん、自分でもびっくりした」
「……そうですか」
妙な間に、紅朗は首を傾げるも、鍵介は「何でもないですよ」と言うだけだった。
「ていうか、そろそろ帰りません?いつまでトイレにいるつもりですか」
「あ、ごめん……」
言われてみればそうだった。
何とか服は着たものの、動くのが辛そうな鍵介に、紅朗は手を貸してやる。
「帰れそうか?」
「無理ですね」
鍵介はそう言って、紅朗の腕にしがみつく。
「……だから泊めてください」
小さく呟かれた言葉に、紅朗は思わず微笑んだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
泣きじゃくる少女に、鍵介がぽかんとしているのがよく見える。
少し離れた場所でアリアと共に様子を見守っていた紅朗は、小さく溜め息を吐いた。
「ねえ、You」
アリアが紅朗をつつく。
「ん?」
「ほんとに、鍵介に言わなくていーの?」
「うん」
紅朗は二人の様子を伺いながら言う。
「鍵介も、自分は意外とモテたと思ってた方が幸せだろうし」
「……いーのかなぁ……」
アリアはちょっと納得していないようだが、「いいんだよ」と、紅朗は微笑んでみせる。
やがて憮然とした表情の鍵介がこちらに歩いてくるのが見えた。
「終わったか?」
「終わりましたけど……」
鍵介は、訳が分からない、と言いたげに、軽く頭を振る。
「こっちが断ろうとする前に、すみません付き合えませんごめんなさい、って、意味わかんなくないです?告白されたのに振られたみたいになったんですけど」
へえ、と、紅朗は肩を竦めてみせた。
「何かあったのかもな。まあ、俺はライバルが減っていいけど」
「もしかしたら唯一のライバルだったかもねー?」
にひひ、と笑うアリアに、鍵介はますますむくれてみせる。
「どうせ僕がモテてたのは楽士だったからですよーだ。先輩みたいな物好きぐらいですよ、僕に言い寄るのは」
「まあまあ、そう腐りなさんなって!なんか美味しいものでも食べにいこ?ねっ!」
気分を引き立てるようにアリアが言うが、鍵介は相変わらずむくれ顔だ。
そんな二人を微笑ましく眺めてから、紅朗は足早に立ち去って行く女子生徒の背中を、ちらりと睨んだ。

『µを裏切るなんて許さない』
『復讐してやる』
『カギPなんかめちゃくちゃにしてやる』

少女が喚き立てるゴシッパーのアカウントを紅朗が見つけたのは、あの馬鹿げた告白劇の翌日だった。
アリアに協力を仰ぎ、ハッキング紛いの行為で色々漁ったところ、彼女は『カギPの元ファン』であり、『µの熱狂的な信者』であることが分かった。
彼女の腹が読めた紅朗は、出来るだけ優しく『説得』を行い、鍵介から手を引かせたのだった。

鍵介が、それを知る必要はない。
紅朗が知られたくない、とも言える。
(……………あさましいな、俺)
あくまでも、自分がやったことは身勝手だ。鍵介のためでも何でもなく、自分がやりたいからやっただけだと、紅朗は自分に言い聞かせる。
鍵介のためなどとおこがましい。
嫉妬と怒りで暴走しておいて、そんなことを言えるわけがない。
感情という名の青い炎はいつだって、抑制しておかなければいけないのに。
「先輩?」
と。
鍵介に顔を覗き込まれていることに気付き、紅朗は少し慌てる。
「ん、どうした?」
「…………なんでもないですけど」
鍵介は眼鏡の奥の目を細めながら、肩を竦めてみせる。
「僕だって馬鹿じゃないんですからね」
「え」
「ま、先輩が言いたくないならいいんですけど〜?」
鍵介はそう言いながら、ひょこひょこと先を歩いていってしまう。
「……………」
バレている。
恐らくきっとこれは間違いなく多分、バレている。
ただ、少なくとも。
嫌われてはいない。
そのことに、紅朗はほっと息を吐いた。
「先輩、僕、いつもの店のクリアレモンソーダが飲みたいなー?」
「あっ、アタシはねえ、ロイヤルミルクティーがいいなー!」
さり気無く口止め料やら何やらを要求する恋人と友人に、紅朗は「分かったよ」と苦笑いを浮かべてみせた。
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