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主鍵

朝、目が覚めると誰かが頭を撫でてくれた気がする。
『****』
これは誰の手?
『****、おはよう』
それは誰の名前?
『どうしたの?****』
あれは、誰?

思い出してはいけない。
記憶の箱を開けてはならない。
そこには、
あなたは、
お前は、
それは―――――――――

「先輩」
揺り動かされて、紅朗ははっと飛び起きる。
視界に飛び込んできた光景と、夢で見た光景が、ぐるぐる混ざりあい、少しずつ、少しずつ形を成して落ち着いていく。
「先輩」
焦ったような声が聞こえた。
自分が呼ばれているのだと気付くまでに、少し、時間がかかった。
「え、あ」
「先輩」
三度目の声は酷く優しくて、とても心配そうだった。
ようやく、紅朗は声のする方を見る。
そこに、いたのは。
「大丈夫ですか。凄く、魘されてましたよ」
「………鍵、介」
いつの間にか乱れた呼吸の合間に、目の前にいる恋人の名前を呟く。
「怖い夢でも見ました?なーんて」
軽い口調で鍵介は言い、紅朗に微笑みかける。
出来るだけいつもの口調でいようと努めてくれているのは、紅朗が落ち着くようにだろう。
けれど、その表情はとても心配そうで、紅朗は酷く申し訳なくなった。
「………怖いか、どうかは、わからない。でも、多分、」
昔の夢だと思う。
それを言えば鍵介を更に心配させてしまう気がして。
紅朗は少し黙ってから、言葉を選んだ。
「………平気だ。悪夢は、逆夢になるっていうし」
「そんな迷信信じてるんですか?」
苦笑いしながら、鍵介が手を握ってくれた。
そうされるまで、自分の手が震えていることにも、気付かなかった。
「………心配かけてごめん」
「そう思うなら戦闘でも無茶しないでくださいね、ただでさえあなた突っ込んでいくんだから」
カウンター決める暇もないじゃないですか、などと言いながら、紅朗の震える手を握る鍵介の手は、とても優しかった。

紅朗には、メビウスに来るまでの現実の記憶が、一切なかった。
覚えているのは、自分のパーソナルデータと、忘れられない昔の記憶を、全て忘れたいと願ったことだけ。
帰宅部に誘われてからも、本当に帰るべきなのか、迷いはあった。

自分が封じ込めた記憶の蓋を、開けるのが怖かった。

「落ち着きました?」
しばらくしてから訊ねられ、紅朗は頷く。
「ん、ごめん、ありがとう。もう大丈夫」
「そうですか」
良かった、と鍵介は穏やかに微笑む。
普段は皮肉屋の彼だが、二人きりの時はいくらか素直だ。
いつもの鍵介には、無意識に自分を守ろうとしている節がある。
傷付かないために、皮肉を交ぜて他者をいなし、深すぎる関わりを持とうとしない。
けれど、一旦懐を許せば、距離を縮めて遠慮なしに甘えてくれる。
少なくとも紅朗にはそんな風に見えているのだが、どうも本人には自覚がないらしい。
今のところ、甘える対象が紅朗だけなので、何も問題はないのだが。
「何ですか、人の顔じっと見て」
鍵介がきょとんとしながら紅朗を見つめ返す。
「……いや、眼鏡かけてないの見るの、新鮮だなって」
考えていたことを押し隠すようにして答えると、鍵介はあっと声をあげて、慌てて眼鏡を探し始める。
「わざわざかけなくても」
「僕の素顔なんか見ても面白くないでしょ、だからいいんです」
「好きだけどなぁ、かけてないのも」
本音なのだが後輩には気にくわないらしい。「またそうやって……」とぶつぶつ言いながら、鍵介は紅朗に寄り添った。
どうやら、嬉しくないわけではないようだ。
「ん、そういえば今何時?」
「えっと、朝の四時ですね」
「………ごめん」
「何がです?」
鍵介はとぼけるように肩を竦めてみせる。
素直ではない優しさが愛しくて、紅朗は恋人を抱き寄せた。
「寝直そうか。もう少し寝れるし」
「そうですね。……また怖い夢みたら起こしてもいいですよ?」
表情こそからかうようだが、言葉の端々に心配そうな口調が滲み出ている。
紅朗は苦笑しつつも、
「大丈夫だよ。……でも、ぎゅっとしててほしい」
「わかりました。おやすみなさい、先輩」
「おやすみ、鍵介」
お互いに抱き締めあい、目を閉じる。
緩やかな睡魔が少しずつ眠りに誘い込み、どちらかともなく寝入っていった。

悪夢は、見なかった。
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