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主鍵

デートしよう、と誘われて、僕はすぐに、いいですよ、と答えた。

その日の先輩はどこか楽しげで、それでいて儚げで、強いて言うなら、どこか幼いような雰囲気が見てとれて、

僕は不安になって手を繋いだ。

先輩は照れくさそうに笑って、手を握り返してくれた。

「どうしたの、鍵介」

と、先輩は嬉しそうに笑うので、僕は澄ました顔をして、たまにはいいかと思って、と答えた。

男同士で手を繋いで歩いているなんて、噂になったらきっと騒がれるのだろう。
でも、別にいいと思ったんだ。
先輩がどこかに行ってしまうよりは。

どこに行きたいんですかと訊ねたら、高いところ、と先輩は言う。

やっぱり今日の先輩は、どこか子供みたいだ。

僕は手を引いたり、引かれたりしながら、先輩と一緒に、ランドマークタワーに向かった。
そこには見慣れた制服を着た生徒が何人もいたけど、僕は手を離さなかった。
先輩がちょっと驚いたような顔をしていたけど、先輩も手を離さなかった。
僕はそれに少し安心して、手を繋いだまま、先輩と一緒に中へ入っていく。

高いところ、というので、どこまで昇るのだろうと思っていたら、先輩は最上階まで行く気らしかった。

エレベーターで、昇って、昇って、昇って。
作りかけのビルの屋上は、以前来た時と同じように暗かった。

エレベーターから出た瞬間、するりと先輩の手が、僕の手をすり抜ける。

「鍵介、俺さ」

先輩が、大きく腕を広げて、まるでバランスをとるみたいに歩き出す。

「鳥になりたかったのかも」

僕は風の音で、聞こえなかった振りをして、鳥?と聞き返した。

「鳥だよ」

先輩は笑う。
子供みたいな顔で笑う。

ああ、ああ、やめてほしい。
そんな顔をするのはやめてほしい。

胸がぎゅっとする。
締め付けられるような感覚が、僕を襲う。

「鳥みたいな食事して、綺麗な音楽をさえずってさ」

そう言って、先輩は僕に背を向けて、街を見下ろした。

「空を飛べたら、きっと、気持ちいいだろ」

架空の名前をつけられた、架空の街。
僕らが招かれた街。
僕らが呼ばれた街。

僕らの理想が形作る、楽園の街。

「高いところにいるとさ」

先輩は背を向けたまま、頭を動かして、視線だけをこちらに向けてくる。

「飛びたくならないか?」

僕は、一瞬答えに迷った。

先輩が本当に飛んでしまうような気がして、僕はとっさに、

危ないですよ

としか言えなかった。

そしたら先輩は、びっくりしたような顔をして、それから困ったように笑って、

「なんてな」

と言って、

「帰ろうか」

と、僕に手を差し出した。

僕は、
その手をとって、
しっかり握った。

「こんなとこに連れてきちゃってごめんな」
と、彼は言う。

彼にとっては、
彼にとっては、こんなところなのだ。
人が一人、死んだ場所でも。

僕の元仲間(そんな風に思ったことなんてないけど)が死んだことですら、この人にとってはどうでもいい。

でも。

この人にとってのどうでもよくないことが、僕であればいいと思う僕の方が、よっぽど酷い男なんだ。

「降りようか」

と、先輩が言う。

「付き合わせちゃったから、次は鍵介の行きたいとこに行こう。どこがいい?」

僕は先輩の手を握ったまま、

先輩の家がいいです、

と答えた。

自分の声が、情けないくらいにかすれていることに気がついたのは、この時だった。

僕の答えを聞いた先輩は、優しく笑って、いつも見せるような笑顔で優しく笑って、僕に優しいキスをした。

「いいよ。行こうか」

僕は頷いた。
そして、あらためて握った手を、もう離したくないなと思った。

この人はきっと、僕が手を離したら、飛んでいってしまうのだろう。
それだけは、それだけは嫌だから、

僕はできるだけ強く、この人の手を握っていようと思った。
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