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主鍵


わざわざ午前零時ぴったりに電話をかけてくる恋人のマメさに、鍵介は思わず口元がにやけるのを堪えた。
精一杯真面目な顔になるよう頑張りつつ、鍵介はスマホを耳に当てる。
「もしもし」
『誕生日おめでとう、鍵介』
「……ありがとうございます、先輩」
でもやっぱり少しにやけてしまった。電話の向こうの彼には気付かれていないのが幸いだ。
『直接お祝いできなくてごめん』
「気にしなくていいですってば……仕事なんだから仕方ないでしょう」
『そうなんだけど……』
拗ねた子供のような物言いに、鍵介は思わず苦笑してしまう。
毎年鍵介の誕生日には必ず休みを取ってくれていたのだが、今年はどうしても仕事先とのスケジュール調整が上手くいかなかったらしい。
聞くところによれば、スケジュールに関しては相当揉めたそうで、一時は転職も考えたものの、結局は相手に泣きつかれる形で譲歩したのだとか。
誕生日ごときで、と鍵介は思っていたが、「好きな日に休みを取る権利が与えられてるのに、なんでその権利を奪われなきゃならないんだ?」と、酷く不機嫌に言う彼に、なるほど、と、ちょっと思ったりもした。
「そっちって今何時なんですか?」
『夕方の4時だよ』
電話越しに聞こえる彼の声は、相変わらず少し不機嫌そうだ。
『夕陽が綺麗なんだ。鍵介にも見せたかったな』
「じゃあそっちの方が……えっと、時間進んでるんでしたっけ」
『ううん、こっちはまだ26日。8時間前だからね』
はぁ、と鍵介は感心したような声を漏らす。
「なんか変な感じですね。同じ地球の上にいるのに、いる時間が違うなんて」
『そうだね』
電話越しの声が、少し柔らかくなる。
『僕はまだ、誕生日を迎えてない鍵介がいる時間にいるわけだ』
「ふーん?」
『……だから嫌だったんだよ、パリに来るの』
と、また拗ねたように彼は言った。
『鍵介の誕生日をちゃんと見届けたかったのに』
「仕事なんだからしょうがないじゃないですか……」
鍵介がそう窘めると、『僕は仕事のために生きてるわけじゃないよ』と、きっぱりした返事が返ってきた。
『僕にとって、仕事は生きるための手段であって目的ではないからね。どうも日本人は仕事に打ち込むことを美徳にしたがるけど、プライベートの時間が確保できないのにお金だけ稼いだって意味ないじゃないか』
「まあ、それは確かに」
『次同じことがあったら、グランドピアノ担いで投げてやる』
「いや、先輩には持ち上げられないと思いますけど……」
そう言いながら、鍵介はふと窓の外に目をやる。
空は当然、夜の色だった。都会の光に飲まれて、星はほとんど見えることも無い。

8時間前の夕陽の色なんて、覚えていなかった。

「……先輩」
『ん?』
「……パリの夕陽、後で写真送ってくださいね」
言いたいことを飲み込み、代わりにそう伝えると、電話の向こうから『いいよ』と返事があった。
『仕事が終わったら、すぐに帰るからね』
どうやら、伝えたくて飲み込んだ言葉は、とっくに見透かされていたらしい。
鍵介は何となく悔しくなって、
「8時間後で待ってますよ」
と、精一杯強がってみせた。


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