indelible memory
紫露紅朗という人は不思議な人だと、鍵介は常日頃から思っていた。
本来なら見ず知らずの他人でしかない、ただ『帰宅部』という奇妙な縁で繋がっただけの相手と、関わり、話を聞き、助けたり、支えたり、励ましたり、時には叱ってくれる。
けれど、紅朗は誰も頼らなかった。
周りがいくら彼を頼りにしても、彼自身は誰かを頼ったりはせず、ただ周囲と関わり、話を聞き、助けたり、支えたり、励ましたり、時には叱っていた。
だから、誰も紅朗のことをよく知らなかった。
鍵介にとっても、彼は不思議で、優しくて、『少しだけ』かっこいい、そんな印象の、それだけの人だった。
*****
その日は集まれる人数が少なく、部の活動は休みということになった。
すっかり放課後が暇になってしまった鍵介は、紅朗をカフェに誘うことにした。
『たまには奢らせてください』
と送ってみると、
『後輩に奢らせるのは流石に気が引ける』
と、遠慮がちな返答があったものの、誘い自体には承諾してくれた。
「部長命令!単独行動禁止!」などと強引なことを言う割に、紅朗は変なところで真面目だ。
先輩・後輩といった関係も、あくまでも『
(…………そう言えば、)
鍵介が紅朗と行動を共にすることが多くなったのは、あの強引な一言がきっかけだった。
以前から何かと部員たちの様子を気にしてくれている紅朗だったが、鍵介が一人でデジヘッドと対峙していたと知ってからは、特に気にかけてくれるようになった、ような気がする。
ちょっと過保護な気がしなくもないが、紅朗やアリアといるのは、鍵介にとって、
気兼ねなく話せる友人のような存在がいることは、鍵介には新鮮でもあり、少し、くすぐったくもある、不思議な感覚だった。
『部室で待ち合わせよう』
紅朗から送られたWIREを確かめつつ、鍵介はそれとなく部室である音楽準備室へ急いだ。
誘っておいて遅刻するというのは、何となく格好がつかない。
紅朗ならあっさり許してくれそうだから尚更だ。
部室のドアに手を掛けようとしたその時、鍵介は、ドアの向こうから何かが聞こえてくることに気が付いた。
「……ピアノ……?」
確かにそれは、ピアノの音色だった。
そう言えば、音楽準備室なだけあって、部室には使われていないピアノが置かれていたはずだ。
ドアを開けようか迷って、鍵介はそのまま耳をすます。
何となく、そのメロディーには、聞き覚えがあるような気がした……いや、聞き覚えがあるどころの話ではない。
―――これは、自分の曲だ!
そう気づいて、鍵介は慌ててドアを開ける。
音楽準備室の片隅で、
紅朗が、ピアノを弾いていた。
白と黒の鍵盤の上で、軽やかに指を踊らせて、音を紡いでいる。
鍵介が見たこともないような、真剣な表情で。
雰囲気に呑まれ、鍵介は言葉を失って、暫くその様子を眺めていた。
「…………ん?」
サビを弾き終えたタイミングで、紅朗が漸く人の気配に気付き、振り返る。
「…………あ、あっ?!け、けんすけ?!」
紅朗は慌てて立ち上がると、勢い良くピアノの蓋を閉めてしまった。
予想外の反応に、鍵介は思わずぽかんとしながら、「え、えーと……、」と、彼にかける言葉を探そうとする。
けれど、鍵介が何か言う前に、
「ご、ごめん!」
と、紅朗は勢い良く謝った。
「まだ来ないと思ってちょっとだけ弾くつもりで……いたのには全然気づいてなくて、」
「いや、あの、」
「別に嫌がらせとかじゃ無くてだな、ただ弾きたかっただけなんだ、」
「ちょ、あの、」
「まさかもう来るとは思わなくて、本当にごめん―――」
「せ、先輩っ!」
慌てて捲し立てる紅朗を、鍵介は何とか無理矢理遮って、宥めようとする。
「ちょっと、落ち着いてくださいよ……僕、まだ何も言ってないんですけど」
「え、あ、」
紅朗は何度かまばたきをしてから、しょんぼりと肩を落とした。
「ご、ごめん……」
「そんなに落ち込まなくても……」
内心、少しだけほっとして、鍵介は小さく息を吐いた。
紅朗がこんなに動揺するところは、初めて見た。普段は帰宅部の中でも一番冷静で、いつも落ち着いているように見えるのだが。
「まあ、確かにびっくりはしましたけど……」
もごもごと口の中で言いながら、鍵介はピアノの方をちらりと見る。
「……僕の……カギPの曲なんか、弾いてるんで……」
紅朗が弾いていた曲は、『ピーターパンシンドローム』だった。
楽譜なんかは出していないはずだから、所謂耳コピで弾いていたのだろう。
聞いた限りでは、どうやらリズムや音程は正確に合っているようで、鍵介はそれが何となくむずがゆかった。
言葉を切って、次になんと言おうか鍵介が迷っていると、今度は紅朗が口を開いた。
「……悪かったよ、鍵介」
と、彼はばつが悪そうな顔をして、また謝る。
「いや、別に、怒ってませんけど」
何で先輩はこんなに謝るのだろう、と、鍵介が不思議そうな顔をしていると、紅朗はちょっと眉を上げてみせた。
「鍵介からしたら、複雑だろ。楽士の時の曲、聞いたりするの」
「それは、まあ……」
鍵介は、ずれてもいない眼鏡の位置を、ちょっと直した。
「……そう、ですけど」
けれど、不思議と嫌な気はしていなかった。
素人でも見事と分かる演奏で弾いて貰えたからなのか、弾いていたのが紅朗だったからなのかは、わからないが。
ただ、素直にそう言うのも何だか気恥ずかしくて、鍵介は話題を逸らすことにした。
「……先輩、ピアノ弾けたんですね」
「え?……ああ、うん」
紅朗は閉じたピアノの蓋を撫でて、頷く。
「これだけは、勝手に指が動くんだよ。何でかはわからないんだけど……」
「……?」
妙な言い回しに、鍵介は眉をひそめてしまう。
「何でかわからない、って……?」
「あ、」
と。
一瞬、紅朗は「しまった」と言いたげな顔をしてから、誤魔化すようにして、曖昧に微笑んだ。
「何でもないよ」
「えっ、…………」
更に聞こうとして、鍵介はすぐに思い留まり、止めた。
誰にだって、聞かれたくないこと、踏み込まれたくないことはある。
鍵介は多分、紅朗のそれに近づこうとしてしまったのだ。
「あ、もうこんな時間か」
紅朗は時計を見て、ピアノの傍に置いていたカバンを拾い上げた。
「時間取らせちゃってごめんな。そろそろ行こうか」
「あ……、は、はい」
鍵介は頷いて、紅朗と共に部室を出た。
すぐ近くにいるはずの彼の背中が、何となく遠いように見えた。
*****
「先輩、カギPのファンだったんですか?」
カフェテラスの白いテーブルで向かい合いながら話しているうちに、結局話題は紅朗のピアノへと戻っていった。
鍵介が意外に思って驚いていると、
「……ファンだったっていうか……」
と、言葉を濁しながら、紅朗は気まずそうにソイラテを一口飲んだ。
「あの曲でファンになったというか……」
「あの曲って、」
鍵介は飲みかけのフラペチーノを、ストローでかしゃかしゃかき回した。
「『ピーターパンシンドローム』です?」
「いや、うん、まあ、そうなんだけどな……」
紅朗は暫く語尾を濁してから、やがて観念したとでも言うように両手を上げてみせる。
「ああ、もう、誤魔化さずに言うけどな。実は、学校で聞いてからファンになったんだ」
「へっ」
「俺、ドールPには全然詳しくなくて……悪いけど鍵……カギPのことも全然知らなかったんだが」
紅朗は唇を湿らすように、またカップを口に運んだ。
「あの曲には一目惚れ……いや、聴いてるんだから一目惚れはおかしいか。とにかく物凄く惹かれてな。どんな人が作ってるのか、すごく気になった」
「……はぁ」
鍵介は何とも言えない返事を漏らして、溶けかけのフラペチーノを一口飲む。
よりによって、追ってきている相手の曲のファンにならなくても良さそうなものだが。
こういうところが、不思議というか、紅朗の変わっているところだよなぁと、鍵介は思った。
「……がっかり、しませんでしたか?」
「何がだ?」
鍵介は手の中のカップをくるくる回しながら、紅朗の表情を伺った。
「相手が、こんなんで……」
「何でだ?」
紅朗は穏やかに笑った。
「がっかりも何もしてないけどな。こういう奴なのか、と思ったくらいで」
「ふーん……」
少しだけ安心して、鍵介はこっそり息を吐いた。
「それにしても、よく再洗脳されませんでしたね。マインドホンじゃないからかな」
「うーん……好きになる要素がある曲ではあったけど、共感する……とは、また違ったからかもしれないな」
紅朗はそう言って、真剣に言葉を選ぶ。
「惹かれるものがあった、って言うのか。楽曲として……歌としての魅力はもちろんあったんだが、それだけじゃないというか……。個人的にはもっと深いところにある、本質的なものに凄く惹かれて、それで凄く好きになったんだが、」
「………………」
「でもやっぱり共感とは違うんだよな。あくまでも中身の……、……鍵介?」
不意に紅朗の話が途切れ、鍵介ははっとする。
「え、あ、はい。なんです?」
「……悪い、」
鍵介の表情を伺うようにして、紅朗は申し訳なさそうに言った。
「少し喋り過ぎたか?」
「えっ?あ、いや、ええと……」
鍵介は慌てて、手元のフラペチーノを飲む振りをする。
今までにだって、当然自分の曲へのコメントを貰うことはあった。
けれど、それはただ、自分が楽士としてちやほやされているという事実を示すだけの、薄っぺらい指標に過ぎなくて、中身はどうでも良いと思っていた。
どうせ凡人には、
けれど、紅朗は違った。
ただ賞賛するだけではなく、彼が思ったこと、感じたことを、きちんと彼の言葉で、伝えてようとしてくれている。
もしかしたら、今までの感想にも、そんなものがあったのかもしれない。
ただ、自分が見逃していただけで。
「……何か、すみません」
鍵介が思わず謝ると、紅朗は目を丸くした。
「え、何がだ?」
「ああいや、なんか……」
鍵介は手元の飲み物を弄り回しながら、視線を落とす。
「先輩がそうやって、真面目に感想くれるのに……結局は、借り物の才能で作った曲なわけじゃないですか、あれって」
そう言って、鍵介は軽く首を振った。
「……だから何か、申し訳ないな、って……」
所詮は偽物で、作り物だ。
あの曲も、
それを褒めて貰うのは、今更ながら、なんだか狡い気がした。
紅朗は暫く黙っていたが、鍵介が俯いていると、少しして、穏やかな声で言った。
「……確かに、あの曲を作った才能自体は、貰い物かもしれないけど……あの曲に込められてる感情や想いは、鍵介が生み出したものだろ?」
鍵介は、思わず顔を上げる。
「小手先の技術や手法に頼ったって、中身が空っぽなら何にも響かない。音楽っていうのはそういうものだと、俺は思う」
紅朗は真剣な表情で、しっかりと、はっきりとそう断言してから、「でも、」と続けた。
「あの曲には、『鍵介』っていう中身がしっかり詰まってる。だからあの曲は、みんなに受け入れられたんだと思うし、俺も好きなんだよ」
「…………」
言い終えてから、紅朗はちょっと申し訳なさそうに笑った。
「なんて、押し付けがましかったか?」
「あ、いえ……」
鍵介は慌てて首を振る。
ストレートな褒め言葉が、なんだかとても
どこかむず痒かった。
「……本当に好きなんですね、『僕』の曲」
つい照れ隠しで、皮肉っぽく鍵介が言うと、
「うん」
紅朗は頷いて、微笑んだ。
「好きなんだ」
「…………」
あまりにも真っ直ぐな紅朗の返しに、鍵介はいよいよ恥ずかしくなる。
顔が赤くなるのを誤魔化そうと、飲みかけのフラペチーノを吸い上げて、席を立つことにした。
「もう一個、おかわり買ってきます。……先輩は?」
「ん?あー、じゃあ、俺も行くよ」
「あ、いいですよ、僕がまとめて買ってきます」
鍵介はそう言って、紅朗を押し留める。
正直、一緒に来て欲しくなかった。照れ臭いのを何としてでも誤魔化したかったのだ。
立ち上がりかけていた紅朗は、仕方なさそうに席に座り直す。
「じゃあ、ソイラテ頼んでいいか?」
「わかりました……って、またそれですか?」
鍵介は思わず呆れて、
「たまには違うのにすればいいじゃないですか」
小生意気に言う鍵介に、紅朗は苦笑してみせる。
「ここのブラック、あんまり好きじゃなくてな」
「他にも色々ありますよ。例えばほら、フラぺチーノとか……」
「いや、乳製品ダメなんだ」
「えっ?」
鍵介が思わず聞き返すと、紅朗は何でもないことのように、
「ああ、俺、いわゆるベジタリアンなんだよ」
と言った。
「だから、肉とか卵とかも食べないな」
「……初耳ですよ」
「そう言えば、言ったことないな」
紅朗は軽く笑ってみせた。
「鍵介に言ったのが初めてだ」
その言葉に、鍵介は目を丸くする。
「……僕が最初、ですか」
「ん?ああ……どうかしたのか?」
「いや、何でもないですけど……」
初めて紅朗のことを、ひとつ知れた。
恐らく彼にとっては、大したことではないのだろう。
それでも、鍵介にとっては。
「……あの、先輩」
「ん?」
「……先輩って……」
鍵介は何かを言いかけて―――止めた。
今までは紅朗のことをよく知らなくても、それでいいような気がしていた。
それなのに、今は何故か、彼のことをもっと詳しく知りたいと、鍵介は思うようになっていた。
なぜ、そんな風に思ったのかはわからない。
―――それに。
踏み込む勇気も、距離も、鍵介には、まだまだ足りていなかった。
「……やっぱり、何でもないです」
鍵介はそう言って、首を振った。
根掘り葉掘り聞いて、嫌なやつだと思われたくはなかった。
「僕、新しいの買ってきますね」
誤魔化すようにして行こうとすると、
「あ」
紅朗が慌てたように立ち上がり、鍵介の隣に並ぶ。
「やっぱり、俺も行くよ」
鍵介がきょとんとしていると、紅朗は真面目な顔をして、
「いや、流石に飽きてきたし……鍵介のオススメのカスタマイズ教えてくれ。……飲めそうな範囲で」
あまりにも真剣な顔で言う紅朗に、鍵介は思わず笑い出しそうになってしまう。
「いいですよ。……先輩の奢りなら」
笑って頷く鍵介に、「ありがとう」と、紅朗は微笑んだ。
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Character episode #1
◆◇◇◇◇◇◇◇◇
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
to be continued…
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