社会人メロンパンズ(荒北 鳴子 )長編 完結
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仕事が定時で終わったその日、鳴子と名字は職場近くのカフェに並んで座っていた。しかも道路に面している。
いつ同僚に見られてもおかしくない場であるから名字としては誤解を避けるためにもっと奥の席や、向かい合える席が良かったのだが、あいにく空いてはいなかった。
「荒北さんに見つかったら困るー、いう顔しとるで自分」
「声マネやめて、私そんなじゃないし」
似てないけど真似してるってわかる。人をよく見ている。
荒北は最近忙しいのでこの時間に帰ることはまずない。しかし素直で一生懸命な名字に惹かれる者も少なくないことを鳴子はわかっていて、牽制の意味もこめてわざわざ会社近くの店に陣取ったのである。
「どこ回るか決まったん」
「うん、だいたいは」
鳴子が名字の持つタブレットを覗き込んでくる。
また、この匂い。
スン……と嗅ぐと、思ったより近くにあった赤茶の瞳がこちらを向く。
「どした」
八重歯がいやに艶かしく感じた。#名字はタブレットを鳴子に押し付けてカフェラテに口をつけた。
「あかん」
大人しくタブレットを眺めていた鳴子だったが、やがて天を仰いでしまう。
「あかんで」
「だ、だめだったかな」
「箱根神社の大鳥居をくぐり、富士山を眺めながら芦ノ湖。お泊まりは老舗旅館の東堂庵。全てあかん……」
「鳴子くん?どうしたの」
「東堂庵行くまでに国道一号線通るやろ」
「うん」
「ワイはずっと前を向いてペダルを漕いできたからあんま過去を懐かしんだりしたないんやけどな」
「鳴子くんも競技自転車やってたのは知ってるよ」
鳴子くん「も」競技自転車やってたのは知ってるよ。誰を思い浮かべているのかはわかる。
「名前ちゃんは見に行っとったんやな」
「え?」
「インハイ、荒北さんの、高校最後の」
「もちろんだよ!箱根学園の生徒として先輩を全力で応援した。大学に入ってからもこっそり見に行ったりしたけど、大学違うし、この年のインターハイは特別なんだ」
キラキラと思い出を語る名字だったが、ふと我に返ったように照れ笑いを浮かべる。
「それを振り返ってるだけじゃなくて。芦ノ湖は神奈川県民からしてもおすすめの観光スポットだし、旅館についても悩んでいたら東堂さんが貸切にokだしてくれたから」
「名前ちゃんはよぉ笑うし、それがかわええな、ほんま」
「もー、いきなりなんなの、鳴子くん」
(ワイもそこ走っとったで)
「まあ知らんやろうけど」
「変な鳴子くん」
会話の噛み合わなさに小首を傾げる。
「旅館も決まっとるしええと思うで。ちゃちゃっとしおり作りますか」
「言ってること全然違うし、なんなのかなー」
「芦ノ湖の紅葉より変わりやすいいんや、ワイの心は」
「難しいなあ、もう」
そこからは和やかに談笑しながらしおりをまとめ、あまり遅くならないうちに駅で別れた。
そこで走った記憶は確かに今を作るもので、自転車に全てを賭けていた時代。
(ずっとそれを見とってくれた子がいるん言うのは幸せなことやで荒北さん)
駅のホームで別れる背中を見送りながら鳴子は荒北がどれだけ想われているかも知らずに飄々としていることに怒りすら感じたが、知られても己にとって不都合しかないので全て飲み込んだ。
「こんな日はスカしたヤローをブッちぎりたいわ」
今もプロとして自転車を全力で漕ぎ続ける旧友を思い浮かべた。
「ほんまスカしとるな」
電車の窓に映る姿は勤め人のもので。今も現役の今泉に勝つことはないだろう。
この道を選んだのは己だ、後悔はない。
ただ一心不乱にペダルを漕いで、前へ前へ進んだだけのあの頃が無性に恋しくなる日があるのだと、鳴子はこの日初めて知った。
いつ同僚に見られてもおかしくない場であるから名字としては誤解を避けるためにもっと奥の席や、向かい合える席が良かったのだが、あいにく空いてはいなかった。
「荒北さんに見つかったら困るー、いう顔しとるで自分」
「声マネやめて、私そんなじゃないし」
似てないけど真似してるってわかる。人をよく見ている。
荒北は最近忙しいのでこの時間に帰ることはまずない。しかし素直で一生懸命な名字に惹かれる者も少なくないことを鳴子はわかっていて、牽制の意味もこめてわざわざ会社近くの店に陣取ったのである。
「どこ回るか決まったん」
「うん、だいたいは」
鳴子が名字の持つタブレットを覗き込んでくる。
また、この匂い。
スン……と嗅ぐと、思ったより近くにあった赤茶の瞳がこちらを向く。
「どした」
八重歯がいやに艶かしく感じた。#名字はタブレットを鳴子に押し付けてカフェラテに口をつけた。
「あかん」
大人しくタブレットを眺めていた鳴子だったが、やがて天を仰いでしまう。
「あかんで」
「だ、だめだったかな」
「箱根神社の大鳥居をくぐり、富士山を眺めながら芦ノ湖。お泊まりは老舗旅館の東堂庵。全てあかん……」
「鳴子くん?どうしたの」
「東堂庵行くまでに国道一号線通るやろ」
「うん」
「ワイはずっと前を向いてペダルを漕いできたからあんま過去を懐かしんだりしたないんやけどな」
「鳴子くんも競技自転車やってたのは知ってるよ」
鳴子くん「も」競技自転車やってたのは知ってるよ。誰を思い浮かべているのかはわかる。
「名前ちゃんは見に行っとったんやな」
「え?」
「インハイ、荒北さんの、高校最後の」
「もちろんだよ!箱根学園の生徒として先輩を全力で応援した。大学に入ってからもこっそり見に行ったりしたけど、大学違うし、この年のインターハイは特別なんだ」
キラキラと思い出を語る名字だったが、ふと我に返ったように照れ笑いを浮かべる。
「それを振り返ってるだけじゃなくて。芦ノ湖は神奈川県民からしてもおすすめの観光スポットだし、旅館についても悩んでいたら東堂さんが貸切にokだしてくれたから」
「名前ちゃんはよぉ笑うし、それがかわええな、ほんま」
「もー、いきなりなんなの、鳴子くん」
(ワイもそこ走っとったで)
「まあ知らんやろうけど」
「変な鳴子くん」
会話の噛み合わなさに小首を傾げる。
「旅館も決まっとるしええと思うで。ちゃちゃっとしおり作りますか」
「言ってること全然違うし、なんなのかなー」
「芦ノ湖の紅葉より変わりやすいいんや、ワイの心は」
「難しいなあ、もう」
そこからは和やかに談笑しながらしおりをまとめ、あまり遅くならないうちに駅で別れた。
そこで走った記憶は確かに今を作るもので、自転車に全てを賭けていた時代。
(ずっとそれを見とってくれた子がいるん言うのは幸せなことやで荒北さん)
駅のホームで別れる背中を見送りながら鳴子は荒北がどれだけ想われているかも知らずに飄々としていることに怒りすら感じたが、知られても己にとって不都合しかないので全て飲み込んだ。
「こんな日はスカしたヤローをブッちぎりたいわ」
今もプロとして自転車を全力で漕ぎ続ける旧友を思い浮かべた。
「ほんまスカしとるな」
電車の窓に映る姿は勤め人のもので。今も現役の今泉に勝つことはないだろう。
この道を選んだのは己だ、後悔はない。
ただ一心不乱にペダルを漕いで、前へ前へ進んだだけのあの頃が無性に恋しくなる日があるのだと、鳴子はこの日初めて知った。