欺瞞の薔薇




ジャックはその衝撃に声が出せなかった


肩の骨に鋭く大きな牙が力強く食い込み、骨が軋み罅が入るのがわかる

獣は肩から牙を抜きグルグルと唸り声をあげる
そのままジャックの身体を地に叩きつけるよう引き倒した


月の浮かぶ夜空を見上げる形となったジャック
視界に映るのはその月を背後に此方へ影を落とす飢えた獣の姿
その獣は先程自分の放った炎を何事もないかのように全身に纏っていた

獲物を見るかのような赤い眼がジャックの姿を見下ろす
そして鋭い爪を持った燃える手がジャックの顔面へと伸ばされた


そこでジャックは拳を握りしめ咄嗟に身体を動かした
触れられる瞬間、身を横へ転がし地に手をつき身体を起き上がらせる


獣は伸ばした手を引くとゆっくりとジャックの方に顔を向ける

ジャックは警戒するよう身構える
そして同時に自分の左肩に目をやった

服は裂け骨がむき出しになっている
その骨も所々に罅が入り、少しでも身体を動かすだけで強い痛みが走る

こんな状態で勝てる相手じゃない

そう考えジャックは獣が動き出す前にゆっくりと後退り、背後にある黒色樹木の隙間に飛び込む

そんなジャックを見つめたまま獣は微動だにしなかった







ジャックは暗い森の中をただひたすらに走っていた
振り返りもせずとにかく前だけを見て足を動かす
その度に肩に痛みが走る
しかしそんな事など構ってはいられないと尚も暗い森の中を一人駆ける




どれほど走っただろうか

最初は素早く動いていたジャックの足も今は思うように動かない

動かそうにも細い足は震え、思うように走る事ができない


それでも前へと進んでいたジャックだったが、いよいよ傍にあった樹木に手をつき立ち止まってしまった


ジャック「へ、変だな…身体が思うように、動かない…」


ジャックは息を乱しながら1人呟く
おかしいと思いながらも右手を肩に回し、裂けた衣服から覗く自身の骨を見つめる
相変わらず罅入り、痛々しい



先程よりどことなく黒みがかっているように見えた

ジャックの立つ場所は暗く視界が良くない
明るい場所に出てよく見てみなければ


そう考え前方を見据える
視界に見えるのはどこまでも続く深い闇

街の灯りは全く見えなかった



ジャック「……やっぱりブギー、起こせばよかったかな…」


館を出る前
あの時にブギーを強引にでも起こしていればこんな事にはならなかったかもしれない


ジャック「今更だな…せめてブギーが、僕がいない事に気付けばいいけど……っ!」


そこでジャックは口を閉じた
後方から獣の恐ろしい雄叫びが聞こえた
視線を向けると暗闇の中に浮かび上がる二つの赤い眼

ジャックはその姿を確認するや震え痛む身体に鞭打ち、その場から再び暗闇の中へと駆け出した
















その頃ジャックが不在の部屋ではブギーのいびきのみが響いていた

その室内に冷たい風が流れ込み、カーテンを揺らす
そしてその室内から聞こえたのは一つの大きなくしゃみ


それはブギーの盛大なくしゃみだった
眠たげな様子で上体を起こし、バルコニーの方を睨む

窓が全開となっており、冷たい風が再度流れ込む


ブギー「くっそ…寒いと思ったら…」


面倒くさそうに呟き窓を閉めようとベッドから抜け出す
そこでふと隣のベッドに視線を向けた

ジャックの姿がない

室内を見渡してみるが何処にも彼の姿は無かった


ブギー「…何処か行きやがったのか?アイツ」


しかしこの時ブギーは大した事とは捉えていなかった
どうせ館内で何かやっているのだろうと考えたのだ

とりあえず窓を閉めてしまおうとバルコニーの方へと向かい、窓に手をかける


ブギー「…なんだ?」


窓を閉じかけたところでブギーが何かに気付いた

何処までも続く漆黒の森
赤い光が見えたのだ
それは遠目から見ても何かわかるもの

火柱だった


ブギー「こんな夜更けの森の中で火柱だぁ……?」


そこでブギーはある考えに至る
室内を振り返るもそこにいるのは自分のみ


まさか


ブギーは何やら嫌な予感を覚え、すぐさま部屋を飛び出した

















暗く深い森の中に地を揺るがす振動と音がこだまする
その正体は黒色樹木だった
獣の振るう剣や鞭が周囲の樹木をなぎ倒していた

その獣の前方を必死に駆けるジャックの姿

樹木に身体をぶつけ地に転ぶ事もあった為か、彼の燕尾服はすっかり傷付き汚れてしまっていた
彼自身の身体にも小さな傷がいくつもあるのがわかる
そして左肩の傷
最初に見た頃より遥かに黒みがかっていた


思い通りに動かない身体で必死に走るも、獣との差は全く開かない
いや、寧ろ差は縮まる一方だった

走るにつれ痛みが全身を駆け巡り、ジャックの足がふらつく回数は増していた







そしてジャックは走る事を止め、立ち止まってしまった



手を添えると足が小刻みに震えているのがわかる
呼吸が酷く乱れ、視界が微かにぼやける

ジャックは今の自分の状態に動揺し、左肩をきつく押さえた


すると彼の耳に聞こえたのは何かが鋭くしなり空を切る音
それに気付くと同時にジャックは背中に強い衝撃を受け、地面に倒れ込む

獣の鞭がジャックの背目掛けて振るわれたのだ

倒れ込んだ身体を起こそうと地に手をつく
が、ジャックが力を入れるまでもなく彼の身体はふわりと浮いた
獣の手がジャックの腰を握り持ち上げたのだ
まるで人形のように軽々持ち上げられどうにか抜け出そうともがく


そんなジャックの様子を獣は鋭い赤い眼で眺め、握りしめている手に力を込めた
その途端ジャックの口から悲痛な声が漏れた
その力はとても強く、胸椎や腰椎が軋み数か所程折れる音がした


ジャックは獣の手の中で動かなくなった


長い四肢はぐったりと垂れさがり、顔は俯いている
そしてその目は閉じられていた

獣は動かなくなったジャックの左肩に鼻先を近付ける
むき出しの黒みがかった骨に一度濡れた舌を這わせた

まるで味を確かめるかのような行為


そして獣が口を開き、左肩へと牙を向けた
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