短編

 雨が降ったけれど、鞄から傘は出さなかった。

 まだ数回しか着ていない服やお気に入りの鞄、綺麗に巻いた髪があっという間に水を含んで重くなっていく。
 そうして服の色が斑らから濃い方へ比重を傾けたのを確認して、私は冷えた指先でインターホンを押したのだ。

「どうしたの、真矢ちゃん」

「あ……」

 そうしてドアの向こうから空ちゃんが顔を出すまではほんの一瞬のことだった。
 あんまりにも呆気なくドアが開いので、思わず声が漏れたくらいには。

 傾いた肩から大きめのサイズのTシャツが滑り落ちて、滑らかな肌が剥き出しになる。
 それが目に飛び込んだ瞬間、視界が赤く明滅した。

 ダメだよ、空ちゃん。
 そんな格好で人前に出るだなんて、本当にいけない。
 いくら同性の友人相手だとしても。

 自分がどう見られているのか、何にも知らないんだから。

「ごめんなさい、雨に降られてしまって……」

 華奢な肩に噛みつきたい衝動の代わりに、眉を下げて笑ってみせる。歯を見せないように、控えめに。
 そう、私は困っているのだ。急な雨に打たれて、全身びしょ濡れになってしまったから。

「風邪引くと良くない。入って!」

 空ちゃんがそう言い終わった時には、私はすでに薄暗い玄関に立っていた。
 
 冷えていた指先には残るのは空ちゃんの体温。
 じんわりと熱が混ざって自分のものになって消えていく。それを追いかけるように、そっと指先同士を擦り合わせた。

「これはまた、見事な降られっぷりだね」

「天気予報は降らないって言ってたのに……」

 言われて足元を見れば、私は水玉の中心にいた。
 服や髪、頬を水が伝って落ちていく。

 ちょっと濡れすぎたかな。
 雨の勢いを考えると少し不自然かもしれない。
 鋭い人なら引っかかるくらいの違和感。

「タオル持ってくる。待ってて」

 けれど、優しい空ちゃんはおかしいとは思わない。
 足早に洗面所へ向かう背中を見つめる。

 そうだよね。
 空ちゃんが優しいことなんて、前から知ってる。
 だからこうして、わざわざ雨に降られたんだもの。

 空ちゃんが向かった先、突き当たりのリビングから照明が漏れているのが見えた。
 間違いなく空ちゃんだけの場所。
 私の今日の、最終目的地。
 
「うちの近くで用事でもあったの?」

 差し出されたタオルは空ちゃんの匂いと新品の匂いの両方がした。
 
「うん、ちょっとね」

 ぽんぽんと叩くように水気を取りながら、少しだけ含みを持たせた、差し障りのない返事をする。
 実際はこの近くに用事があったわけではない。雨が降ったから来ただけのこと。
 だから、空ちゃんの考えとは真逆だ。

「それで、うちに来たわけだ」

「本当にごめんね、この辺りに住んでる友達で真っ先に思い浮かんだのが空ちゃんだったの……」

「それは光栄だね」

 いくら何でも、もう少しくらい不思議に思うべきではないかしら。
 同じように雨に降られたと言われれば、誰彼かまわずこうやって部屋にあげてしまうの?
 優しさは美徳だけれど、それは何もかもを差し出すということではないのよ。

 私を信じてやまない空ちゃんに最早呆れ混じりに眉尻を下げながら謝れば、彼女は破顔してそんなことを言う。

「……それでね」

 想像以上に順調に物事が進んでいた。
 肌や髪の雨を拭き取り終わった私は、持っていたビニール袋を空ちゃんに差し出す。

「これは?」

「お礼。この前空ちゃんが食べたいって言ってたアイス、コンビニで買って来たの」

 空ちゃんはしばらくの間、黙ってビニールの中を覗き込んでいた。
 
 ようやくおかしいと気がついたのかもしれない。
 だって変でしょう?
 雨に降られてるのに、コンビニで傘ではなくてアイスを買って家に来るだなんて。
 
 気がつかれたところで、丸め込むつもりだけれど。

「というか、コンビニに寄ったなら、ビニール傘買えばよかったのに」

 けれど、やはり空ちゃんは空ちゃんだった。
 期待していなかったものの、これに気がつかないというのは如何なものか。
 
「それ、お会計が終わってから気づいたの」

 鞄を拭きながら笑う。
 

「……でも、せっかくだから空ちゃんに会いたいと思って」

 小さく、けれど絶対に聞こえるように呟く。
 私の鞄をじっと見ていた空ちゃんが面白いようにそわそわするのを見て、僅かに溜飲が下がった。
 



「真矢ちゃんって料理も上手なんだね」

 お風呂を借りたお礼にご飯を作れば、空ちゃんは丸っこい目を更に丸くした。
 
 材料があるなら空ちゃんの好きなものを何でも作ろうと思っていたけど、一人暮らしの冷蔵庫というのは往々にしてものが少ない。
 雨の中買い物に行くのも、と結局あるもので作った回鍋肉を前に、空ちゃんは満面の笑みで手を合わせてお箸を手に取った。

「なんか……いいな」

 回鍋肉に中華スープ、それからサラダと小鉢。
 そこまで凝ったものは作れなかったけど、空ちゃんの声には輪郭の曖昧な丸さがあった。
 
 それがこれまでとはまったく違う声音だったので、私はそっとお椀を置いた。

 首を傾げて先を促す私に、言葉を選びながら空ちゃんが続ける。

「真矢ちゃんと一緒に住めたら、幸せだろうなって」

「ほんと? じゃあ一緒に住んじゃう?」

 冗談めかした言葉、だからこそ逃さない。
 空ちゃんが自分から口にするのを待っていたのだから。

 空ちゃんの部屋を見回す。
 よくあるワンルームマンションの一室は、物も色も少ない。

「もうちょっとだけ色を増やしても素敵かも。今のお部屋も空ちゃんらしくて素敵だけどね」

 一息つくようにスープを飲む。
 でもまだ、これだけじゃダメ。

「私のもの、置いて帰っちゃおうかな。ほら、またお邪魔するかもだし」

「……全然いいよ。うち、もの少ないし。華やかな方がいいからさ」

 空ちゃんの顔には「嘘です」と大きく書かれていた。どう考えたって彼女が色の多い部屋を好むはずがないのに。

 本当にカラフルなものを置いて帰られたら捨てられなさそうな人が、そんなことを言っていいのかしらね。
 まったくもって心配になる。

「そう? じゃあこれとか」

 鞄の中から小鳥の置物を取り出す。
 手のひらサイズのそれを、空ちゃんは興味深そうに見つめている。

「かわいい。どうしたの?」

「ガチャガチャ。理由はないけど引いちゃった」

 そっとテレビ台に置くと、その空色は白の中でよく映えた。
 
 空ちゃんは気にも留めないけど、私は理由なくガチャガチャを引くような人間ではない。

 この鳥が濃い水色、空の色。
 大好きな空ちゃんの名前の色をしていたからだ。

「ちゃんと空ちゃんのお部屋に合うものを置くから。安心してね?」

 私の言葉に空ちゃんは何で分かったのか、と言わんばかりに目を泳がせる。
 逆にここまで分かりやすいことに自覚がないのがすごい。

「だって空ちゃん、派手なのは好きじゃないって顔に書いてる。分かりやすいよ」

「そう、かな……」

 確かめるように頬を摩るのが可愛い。

 けれど、私の好きなものだけで部屋を埋めるのは正直ナンセンスだと思う。
 だって空ちゃんの部屋なんだから。
 全部じゃなくていいの。
 空ちゃんの部屋の中に私を確実に思い出させるものがあれば、それで。

 もう少し増やしてもいいでしょう。
 ふとした瞬間に私の置いていったものを見て、私を考えてくれればいい。



「空ちゃんは明日って暇?」

 私の布団を敷いてくれていた空ちゃんに聞いてみれば、空ちゃんは視線を天井へ向けて首を傾げた。

「明日は……」

「講義入れてないよね? もしよかったら、一緒にゆっくりできないかなって」

 その思考を妨げるように畳みかければ、空ちゃんは私の時間割なんてよく知ってるね、と目を丸くする。

 空ちゃんが驚くのも当然。
 でも、私が空ちゃんのことを知っているのも当然。
 
「この前、近藤君から聞いたの。空ちゃん、仲良いでしょう」

 世間話を装って聞いてみれば、彼は面白いほど簡単に教えてくれた。
 そこに含まれる私への好意には微塵も興味はないけれど、おかげで彼は空ちゃんへのコネクションを作ってくれた。

「それで……明日、どう?」

「え、あぁ……」

 相変わらず空ちゃんの視線は天井へ向けられたまま。
 講義ではない。なら、なに?

 誰だろう。
 近藤君じゃない。学部の誰からも、空ちゃんと遊びに行くとは聞いてない。
 なら、サークルかバイトかな。
 
 敷いてくれた布団に座って膝を抱え、空ちゃんを見つめながら考えられる可能性を思い浮かべてみる。

 サークルとバイトも、同じところに入る方が良かったかも。
 ある程度は話を耳にすることができるけど、やっぱり直接介入できないのは痛い。

「もしかして、他の友達?」

 私の声に、空ちゃんはようやく視線をこちらへ向けてくれた。
 僅かにその喉が動く。
 空ちゃんの気道を握っているのは、私。

 また視界が赤くなる。
 その首に噛みついて穴が開けば、私と空ちゃんはそこから互いの息を交換できる。

「他の子と用事でもあるの?」
 
 私の与える酸素で生きる空ちゃんを想像したせいで、声が少しだけ低くなってしまった。

「な、ないよ? 部室に寄るか悩んでただけ。でも、明日じゃなくていいかなって。だからほら。明日は二人でゆっくりしよう? ね?」

「……本当?」

「ほんと!」

 空ちゃんが私の手を握る。
 その手の甲には、所々青緑色をした静脈が透けて見えた。
 柔らかで、温かい。
 首に穴が開けば失われるそれらが、私の視界から赤をなくしていく。

「我儘言ってごめんなさい。でも私、空ちゃんともっと仲良くなりたいの」

 別に私だって、空ちゃんの首に穴を開けることは本意じゃない。
 一回してしまったら元には戻らないし。
 
「明日の空ちゃん、私にちょうだい?」

 そっと小指を絡めたら空ちゃんは大人しく頷いてくれた。
 とりあえず私のお願いは達成されそう。
 
 小指で手の甲を撫でてみれば、空ちゃんの表情が変わる。
 けれどそれは私の望むものではない。

「じゃあ……寝よっか」

「うん。明日の朝ご飯も私が準備するね」

 そそくさとベッドに潜り込んだ空ちゃんが、リモコンで照明を落とす。

 暗くなった部屋。
 寝苦しくないようにとつけてくれたエアコンから風が吹き出す音だけが響いている。

 その中で私は、背中に空ちゃんの視線が刺さるのを感じていた。
 視線の意図も感情も分からないけど、予想はつく。
 多分、私が望むものじゃない。

 暫くして、エアコンの音に混じって空ちゃんの可愛い寝息が聞こえてきたから、ようやく私は起き上がることができた。

「……空ちゃん」

 起こさないように名前を呼ぶ。
 息を吸えば、空ちゃんの匂いがした。
 今いるのは空ちゃんの部屋だから、当たり前のこと。
 
 そう、ここは空ちゃんの部屋。
 彼女が食事をして、寝て、生活をする場所。彼女のためにある場所。
 つまり、空ちゃんの聖域。

「ぐっすり、だね」

 枕元に肘をついて、空ちゃんの寝顔を見つめる。
 柔らかな頬の白さも、染められた暗い茶色の髪も、常夜灯の薄闇には完全に溶け切らない。

 幼い少女のようなまろい頬の白さが浮かび上がる。
 安心しきった無防備な寝顔。
 ずっと秘匿されていた宝物を見つけた高揚感に、背中が痺れる。
 
 ちか、ちかと視界で赤い火花が弾けては消える。
 消えるたびに頭に広がるじんわりとした甘やかな痛みに眉間に皺を寄せた。

 空ちゃんの聖域に踏み込んでいる。
 その事実が私の思考を熟したトマトのように潰していく。

 空ちゃんは悪い子だ。
 そんな大事な聖域に何の警戒心もなく人を入れて、それどころか泊めてしまうなんて。
 
 心配になっちゃう。
 その頬に指を滑らせる。
 
 面倒見のいい空ちゃんが、私以外にこの聖域に人を招くかもしれない。
 それはいけない。

 親指の腹で頬を何度も撫でる。
 くすぐったいのか、その口元はむずむず動いたものの、深く息を吐いてまた眠りに落ちていった。

 私を信頼してくれているのは分かっている。
 向けられる視線にあるのは好意。
 でも、それじゃ足りないの。

 ……。

 空ちゃんに私を見てもらうには、もう少し踏み込んでもいい。
 もう既に大きな一手は投じたのだから。
 
 散らばったセミロングの髪を一房手に取る。
 お風呂上がりの柔らかな髪からはシャンプーの香りが漂った。

「おやすみ、空ちゃん」

 髪に唇を寄せてそっと囁いた。
 荒くなる息や上がった口角を、空ちゃんに隠しながら。



 翌朝7時半。
 私が起きた時、まだ空ちゃんは眠っていた。

 起こさないよう気をつけながら、手早く身支度を整える。
 多分サイズ同じだよね、と用意してくれた空ちゃんの服に腕を通した瞬間、心臓がとくんと音を立てた。
 初めてスイッチが入ったおもちゃのような、そんな感覚。

 自分の鞄からポーチを取り出してメイクを終えると、隅に置いておいた。
 ほんの少しだけ中が見えるように、ファスナーを開けて。

 すっかり乾いた私の服と空ちゃんの服をまとめて洗濯機へ入れ、スイッチを押す。
 戸棚を開けてすぐのところに柔軟剤も洗剤も置かれていた。
 
 洗濯をしている間に、食パンを焼いて、インスタントのコーヒーを用意する。

 ぐらぐら音を立ててお湯を沸かすケトルを見つめていれば、向こう側で僅かな物音。
 そろそろ、気づいたかしら。

 逸る気持ちでトーストにバターを塗り、コーヒーを入れてリビングに戻れば、空ちゃんが呆然と立ち尽くしていた。

「おはよう、空ちゃん」

「……おはよ……」

 心ここに在らず、という声だった。
 その視線が私の鞄に向いていたから、私の考えた通りに空ちゃんは動いてくれたらしい。

「どうしたの、固まって」

 朝食の載ったお盆を手にリビングに入ってきた私の言葉に、空ちゃんは黙って視線を泳がせる。

 ごめんね、でも逃すつもりはないの。

 その足元に置かれた私の鞄に、示すように視線をやる。
 私がメイクを終えた時とは、場所を動かされていた。

「鞄。動かしてくれたんだ」

「あ……うん。蹴り飛ばしたら、よくないと思って、それで……」

 かたん。

 空ちゃんの言葉を遮るようにして、わざと音を立ててお盆を置いた。
 僅かに肩を跳ねさせたのを、私は見逃したりしない。

「……見ちゃった?」

「なにが……?」

「鞄の中。傘が入ってるの、見ちゃったんだよね?」

 責める意図は一つもない。
 だって空ちゃんは悪いことなんてしてないんだから。
 空ちゃんはただ、私の鞄を間違って蹴ったりしないようにしたかっただけ。
 
 だからその優しさを利用されてしまう。

 優しくて、愚かで、なんて愛おしいんだろう!

「……どうして?」

 心の底から理解できないというような、細い声だった。
 でも多分、説明しても空ちゃんは分からないと思う。
 それに私も、これを全部理解してほしいとは思っていない。寧ろ、ここはいらないところ。

「チャンスだなって思ったの」

「チャンスって……」

「空ちゃんのお家に行くチャンス」

 困惑して不安気に私を見上げた空ちゃんの足が一歩下がる。
 私は一歩踏み出す。

「私たちってあんまり話したこともなくて、急にお家に遊びに行けるほど仲良くないよね。でも、それじゃイヤなの」

「だからってこんな、別に嘘つかなくても」

「空ちゃんは分かってない」

 空ちゃんがまた一歩下がろうとして、その背中が壁についた。
 もう一歩私が近づけば、あっという間に空ちゃんは檻の中。

「私の気持ち、分かってないよね?」

 やっと捕まえた。
 
 堪えきれない興奮を無理やり笑みにする。
 ここから先は、知ってくれなくてもいいの。

「でも今、空ちゃんはやっと、私を意識してくれたよね?」

「あ……」

 私の言葉に、空ちゃんは小さな声を漏らした。
 そう。その反応で今は十分。

「……分かった、真矢ちゃん」

「空ちゃん?」

 とん、と肩を軽く押されて、一歩後退る。
 首を傾げる私に、空ちゃんはテーブルを指さして笑った。
 
「朝ごはん食べよ。コーヒーが冷めちゃう」

 それは空ちゃんの見せた逃げだった。
 私としても冷めてしまって、ため息を吐いてから大人しく腰を下ろした。

「もう、せっかくだったのに」

「本気なのはよく分かったから。今日はゆっくりしようって言ってたのに、朝から飛ばしすぎ」

 空ちゃんからすれば勇気を振り絞った決断だというのは、早口で捲し立てる様子から明白だった。
 そんな可愛いところも見られたので、この辺りにしておこうと思ったのだ。

「今日ね、雑貨屋さんに行きたいんだけど、どうかな。見たいものがあるの」

「別にいいけど……」

 コーヒーを飲んで少し落ち着いたのか、空ちゃんの表情からは硬さが消えつつあった。
 
「それから空ちゃん、せっかくコーヒーメーカーがあるのにドリップじゃ勿体無いよ。粉、買いに行こう」

「使い方よく分からないんだよね」

 誘いを拒絶しなかったし、コーヒーの粉なんていらないよ、とも言わなかった。
 なら、さっきしたことは失敗なんかじゃなかった。

 雑貨屋で見たいものがこの部屋に置くものだって、空ちゃんは多分気づいてない。
 でも、約束したもんね?

 一晩だけなのに、寝食をともにするとまるで同棲しているようだと思いながら、トーストを齧る。

 それはまだ遠いけれど。
 今日の空ちゃんをもらったのだから、1歩目は踏み出せた。

 明日のそらちゃんをもらって、その次ももらって。
 それを繰り返していけば、空ちゃんはずっと私と一緒。

「空ちゃん? どうかした?」

 ぼんやりと窓の外を眺める空ちゃんを呼ぶ。

 よく晴れた朝。
 さっき私が干した洗濯物を見つめていた。

 びゅう、と風が強く吹いて、私の服が空ちゃんのシャツを覆い隠した。
3/3ページ
スキ