短編

 ブーツを脱ぐつもりなんて毛頭なかったのだ。

「はい、これ」

 私の突き出した紙袋を見た光は、黙ってエプロンの裾で濡れた指先を拭いていた。
 紙袋を見るために伏せられた目はぼやけている。その中身に心当たりがないのかもしれない。

「ルームソックス」

 私の低い声に、光は大袈裟に目を見開く。

「あぁ、そうだった。なんだ、亜樹ちゃんの部屋にあったの」

「この前うちに泊まりに来た時、忘れて帰ったんだよ。ないと困るんじゃないの?」

 寒がりなんだから、ないと足が冷えるだろうに。
 小さな紙袋をようやく受け取った光は、中身を覗き込む。
 胸元まで伸びた黒髪が揺れた拍子に、いつも光が使っているシャンプーに混じってスパイシーな香りが鼻腔に届いた。
 辛いものが苦手な光にしては珍しい夕ご飯のチョイス。
 さっき雪が降り始めたのは、それが理由なのかもしれない。

「料理してたの」

「ちょっと遅いんだけどね」

「今日はバイト?」

 一つ頷き、光は靴下一足だけの紙袋を片腕で抱きしめる。

「雪、降ってる?」

「降ってるけど、積もるほどでもないかな」

 だけど寒いものは寒い。
 いくら光のアパートまで自転車で五分ですぐに帰れるとは言え、このままでは置きっ放しの自転車のサドルは冷えていく一方だ。

「そう」

 光が天気に興味を持っていないことはその返事からも明白だった。
 感情の起伏に乏しいこの女は、私を無言で見つめている。
 温かな橙色の玄関の照明の下で、その黒々とした目は吹雪の夜のようだった。

「なに、なんかあるの」

「私、辛いの苦手なんだ」

「知ってるよ」

 仕方なく話を促せば、どうでもいいことを言い始める。

 今言うことがそれ?
 
 言いたい気持ちを、暫く目を瞑って抑え込む。
 話の糸口が見えないのではない。
 面倒な予感がする。

「でもさっき、間違えて中辛のカレーを作ってしまったの。それも鍋にいっぱい」

「はぁ、それで?」

「亜樹ちゃん、食べるの手伝って」

 ほら来た。なんでだよ。
 突拍子もない言葉に一つだけ聞こえるように、ため息をついてやる。

「辛いの好きでしょ?」

「私がもうご飯を食べ終わったとは思わないの?」

「亜樹ちゃんなら入るよ。食べるの好きでしょ」

「うるさいな」

 遠回しに食い意地を張っていると言われた気がして、思わず頬が引き攣る。
 睨む私の首に手をかけ、光はマフラーを外した。
 暖房の届かない玄関の冷たい空気がむき出しの首を襲う。

「寒い。返して」

「食べてくれたら、ね」

 そう言うと、光は私のマフラーを手にリビングへ戻っていく。
 何を言っても柳のように受け流される。カレーを食べないとマフラーは返してくれないだろう。
 防寒具もないのに自転車に乗りたくはない。
 仕方なくブーツを脱いだ。


 光の部屋など最早勝手知ったるもので、私専用となった水色のハンガーに取られたマフラーはあった。その上にダウンを掛け、腰を落ち着ける。
 準備くらい、やってもらいたい。

「亜樹ちゃん」

「なに」

「お湯沸かしといて」

「私、客なんだけど」

 光は振り返って、視線だけを私に寄越した。
 私はいつも、光に見つめられるのに弱い。感情表現が薄いくせに、見つめてくる時だけその目は妙に水気を帯びる。

 その目を見るだけで、私は光に逆らえなくなる。

 水を入れる。スイッチを押す。
 そんなの10秒あればできるのに。

「カレーはご飯少なめ、ルー多めにしてよ」

「そのつもり」

 適当に交換条件を口にして席を立つ。
 こんな物言いではいつか光も嫌気がさすんじゃないかと思うが、彼女は毎回唇の端をわずかに上げた、他の人には気づかれないような微笑みを浮かべる。
 その度に私は胸を撫で下ろす。

 ワンルームアパートのキッチンに女二人並ぶと狭い。
 ケトルに水道水を入れるだけでも、光を退かさなければならなかった。

「ごめん、水入れる」

 シンク下の収納からしゃもじを取り出していた光に声をかければ、ん、と小さな声が返ってきた。

「あっ」

 光のかすかな声がやけに近い。次いでとん、と細く骨っぽい肘が、私の二の腕に軽く刺さる。

「ごめん」

「……うん」

 喉の奥の方にいるくぐもった声を返した。
 ようやくケトルに入っていく流水を見つめながら、音を立てる心臓を落ち着かせる。

 少し肘がぶつかっただけ。腰を屈めていた光が、バランスを崩しただけ。
 何も大したことではない。

「亜樹ちゃん、水」

「え? ……うわっ!」

 光の指先は私の持つケトルを指していた。水は勢いよく出していたから、今にも溢れ出しそうになっている。

「流石にそこまで沸かさなくていいよ。お味噌汁二人分あればそれで十分」

「あー……うん。だよね。ぼんやりしてた」

 せっかく入れた水を今度は捨てる羽目になった。
 音を立てて流れるそれとは裏腹に、私の気持ちは腹の底に溜まったまま流れなくて、眉を寄せる。

「お味噌汁、どれがいい?」

 ケトルから湯気が出るのを見つめていれば、横から光の声がする。
 見てみれば、その手にはフリーズドライの味噌汁の箱があった。

「長ネギ」

 じゃあ私は豆腐、と光は二つ取り出す。
 お椀に開けると同時にお湯が沸いた。

「亜樹ちゃん、これくらいでいい?」

「もうちょっとルーを入れといて」

 正直なところ、光の取り分が少なくなるなら何でも良かった。嗜虐趣味は私にはない。

 中辛カレーと味噌汁を小さなローテーブルに敷き詰めて、二人で手を合わせた。

「からい」

「言わんこっちゃない」

 一口目で光は手で口元を抑えた。その余りの早さに嘆息すると同時に先が思いやられ、自分の胃の容量を確認した。
 カレー二杯くらいならいけるだろう。

「何で間違えるのかな」

「箱の色、赤が甘口だと思って買ったんだけど。実は黄色だったみたいで」

「ちゃんと見てから買いなよ」

「本当にね」

 ふふ、と光は珍しく声を上げ、楽しそうに口元を綻ばせた。
 そしてまたカレーを食べ、辛さに唸る。

「亜樹ちゃんがちょうどいいタイミングで来てくれて助かった」

「私はただ、あんたが靴下がないと困ると思って来たのであって、カレーを減らしたいわけじゃない」

「でも私は困ってたから、助けてくれたっていうのは間違いじゃないよ。腐らせるのも勿体無いし、食べてくれる人がいて助かった」

 光はいつになく饒舌だった。
 けれど辛さと、唾液の分泌が促進されているのとで、少し話しにくそうにしている。
 
「亜樹ちゃんって甘口も食べる?」

「辛さにこだわりはないから、あれば食べるけど」

「じゃあ次は甘口で作ったやつ、食べようね」

 次もあるのか。
 勝手にいつかの人の予定を埋めた光は、味噌汁を挟みながらちびちびとカレーを食べ進める。

 私はといえば既に半分以上食べ終わっていた。
 中辛なんて苦に思うこともない。
 光はどこまで食べられるのか。
 半分行くかどうかくらいかな、と予想して見守っていれば、3割ほどでスプーンを置いた。

「もう無理かも」

「白米だけでも食べれば? お腹空くでしょ」

「亜樹ちゃん、ルーだけ食べるつもり?」

 光に不可解そうな視線を向けられるのは、何とも合点がいかない。
 この女こそ不思議の塊みたいなものだというのに。

「そのままでも食べられるからいいでしょ。早く食べなよ。好きなだけでいいから」

「変なの」

 聞き捨てならないことを言われたが、気にしないでやった。
 少しすると白米が消えて茶色だけになった皿が目の前に差し出される。

「亜樹ちゃんは何事にもあんまりこだわりがないよね」

「そんなことはないけど」

「じゃあ何かあるの?」

 出せと言われると特に何も出てこない。一体、こだわりとは何だ。
 ルーをスプーンで掬いながら考える。
 けれど、興味がないことを考えても何も浮かばないものだ。

「ない」

「ほら」

 馬鹿にしたように光が言った。何を勝ち誇っているのか。
 こうなったら何か言ってやろう。
 自分のことについて色々と振り返ってみる。

 先に声を上げたのは光だった。
 音がした方向へ視線を向けると、その黒い目は思いの外私を凝視していた。

「私」

「なに?」

「亜樹ちゃんのこだわり。私じゃない?」

「烏滸がましいな」

 今度は私が鼻で笑う番だった。自分で言う奴がいるか。

「じゃあ亜樹ちゃんは他の友達のカレーをルーだけ代わりに食べる? たかが靴下一足を届けに、雪の中自転車で来る?」

「するよ。友達なんだから」

 そんな心が狭い問いをしないでほしい。
 友達が困っているならできることをするものじゃないの?

「そうかな」

「え?」

 光は味噌汁を箸で混ぜていた。
 伏せられた目は私を見てなどいない。
 
 しかし、その声は大きさの割にはっきりと私の耳に届いた。

「しないよ、私なら。こんな寒い夜に靴下だけ渡しに行くのは嫌だし。ご飯を食べ終わったのにカレーを食べるのを手伝うのだって、普通の友達にはしない」

 でも、と光は顔を上げた。

「亜樹ちゃんになら、するかもね」

 薄っすらとしたガラスのような笑みを浮かべる。
 透明で、けれど鋭利だ。

 カレーの匂いがして、暖房が効いている部屋なのに、どうしてこんなに体が震えるのだろう。

「亜樹ちゃんも、私と同じじゃないの?」

「わたしは、その」

 いつもと変わらない口調。
 そのガラスは私を突き刺そうとしているのではない。ただ、何の衒いもなく私を見ているだけ。

「別に……」

「『光にはこうしてあげたい』って思ってくれてるんだよね?」

 光はそう言うと得意げに胸を張った。
 無邪気さに口を噤む。

「ねぇ、亜樹ちゃん。何もおかしくない。だって私も同じことを思ってる」

「……」

 私の手から握っていたスプーンが滑り落ち、軽い音を立てる。
 その代わりに手の中へ滑り込んできたのは、光の冷たい手だった。

「違う? 本当に?」

 頭が痛い。
 違うと言わなければいけないのに、私の口は言葉など忘れてしまった。

 部屋に冷蔵庫のぶぅん、という音だけが響く。

 光の手が抜けていく。
 
 そのままリビングを出ていく。
 遠ざかる足音。

 閉じた瞼の向こうに影が落ちる。

「亜樹ちゃん」

 光の平坦な声。
 時間をかけて目を開ければ、カラフルな小袋が視界を埋めていた。

「お風呂入ろう、一緒に」

「ひかり」

「入浴剤、選んでいいよ」

 ガラスのような笑み。
 碌なことも言えない。
 
 黙って一つ、入浴剤を光の手に乗せた。
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