家(うち)へ帰ろう



秋風が涼しい夜、崖の上に座って月を眺めていた
いつからひとりで夜を過ごすのが寂しく感じるようになったのだろう
前はよくひとりで月を見上げて意味もなく遠吠えをしていたのに
今は心にぽっかり空いた穴が痛くて声も出ない
ずっと座っていると、シンと静かな森にホーッとフクロウの声が響き、それを聞いて重い腰を上げる

「帰るか.....」

子供の頃、フクロウの鳴き声は天の知らせだと親が教えてくれた
そんなの嘘に決まってるし、フクロウの鳴き声なんて毎晩のように聞いているが、今夜は本当に何かを知らせているような気がしたのだ
どこか焦燥感に駆られながら森の小さい小屋へ帰ると、ふと懐かしい匂いがした
これはイライの匂いだ、それもかなり近くにいる
ドキドキしながら音を立ててドアを開くと、やはりそこにはイライがいた
埃をかぶったベッドの上に座り、オレを見てぎこちなく笑う

「ひ、久しぶり...」
「......」
「えっと、話せば長いんだけど、帰ってきちゃった...」

久しぶりに見るイライに何も言葉が出てこなかった
嬉しさや動揺ももちろんあるが、イライの声に全く元気がないのだ
オロオロするイライに歩み寄ると、その場に膝をついてジッと目を合わせた
かなり泣いたのか瞼が真っ赤に腫れている
それに服は汚れて、靴を脱いだ足は血が滲んでいた
1日かけて自力で森を歩いてきたのだろう

「...何かあったのか」
「別に何も無いよ、ただ人間の生活よりナワーブといる方が僕には合ってると思って」
「イライ.....」
「何も...っ、何もないよっ...」

手を握ってやると、イライは緊張の糸が切れたのかボロボロ大粒の涙を流した
子供のようにヒクッとしゃくり上げ、オレにしがみつき声を上げて泣く
何か相当つらいことがあったのか
今朝ジョゼフにイライの様子を聞いた時は元気そうだと言っていたのに
数年会わない間にオレより大きくなった体をよしよし撫でてやる

「ほら、泣くな」
「ごめんっ、ごめん...っ、ずっと我慢...してたからぁっ、」
「そうか、つらかったな」
「ごめんなさい...っ」

これだと当分泣き止まなさそうだ
ベッドの埃を手で払い、抱きしめたままそっと寝かせてやった
泣き止んだのは森の動物達も静かになる深夜だ

「ナワーブ...人間はね、とても怖い生き物だよ」

イライを抱き枕にウトウトしていたら、急にイライが小さくそう言った
泣き疲れて眠ったと思っていたが起きていたようだ
腕の中のイライを見ると、悲しそうな目をしている

「森にいたときも毎日のように町へ行ってたのに、どうして気付かなかったんだろうね」
「...何かされたのか?」
「僕は何も。ただ子供達が...悪い人間のせいで子供達が傷付くのを見てられなくなったんだ...心も体もボロボロになっているのに、僕は何も出来なくて...っ」

震える手がギュッとオレの毛を掴む
イライを手放してもう2年...いや3年は経っただろうか
ジョゼフの話では人間の中で上手くやっているようだったが、実際は人間というものを深く知って酷く心を痛めていたようだ

「孤児を傷付ける奴がいるのか」
「ああ、たくさんいるよ。実の親に傷付けられて教会に助けを求める子もいるし、養子に行った先で奴隷のような扱いを受けた子もいた。そういう子達はね、心に深い深い傷を負っているんだよ。僕は知った気でいて何も知らなかった.....」

話しながらまた涙を浮かべるイライの背を摩って宥めてやる
どうやら森育ちのイライにはわからなかった、人間の汚い部分を目の当たりにしたようだ
それも大事に面倒をみている孤児の痛みや苦しみを通して

「それで耐えられなくなって孤児達を放り出して帰ってきたのか」
「...僕、酷いよね」
「別に責めてるわけじゃない、お前がそうしたいならそうすればいい。自分の心を壊してまでやらなきゃいけないことなんて、何ひとつないんだ」
「.....うん」
「でもお前はそれでいいのか?」

イライは昔から人の痛みがわかる優しい奴だ
そして同じくらいしつこくてしぶとい奴だ
短い間でも可愛がってきた孤児達を放り出したことに後悔してしまわないのか
愛情を注いでやりたいと言っていたのに

「僕だってあの子達の力になりたいよ...でも今は、心が疲れちゃって.....」
「そうか、ならゆっくり休め」
「...ありがとう」

そうだな、あんなに冷たく突き放したのに帰ってきたんだ
よっぽど限界だったんだろう
今はゆっくり休んで元気になるのが先だ
それに大変な時に限って我慢してしまうイライが、こうしてオレに助けを求めにきたことにも安心した
しょっぱい涙を舐め取り、疲れて眠ったのを見てから足の擦り傷の手当もしてやった



***


「おはようナワーブ」

翌朝、まだ薄暗いうちにイライがオレを起こした
まだ眠い目を擦って見ると、イライは髪を綺麗に梳かして身支度を済ませていた

「もう教会へ帰るよ」
「.....大丈夫なのか」
「うん、なんだかナワーブの顔を見たら元気になった」
「もう少しいてもいいんだぞ」
「子供達やヘレナが心配するから、早く帰らないと」

泣いて落ち込んでいたのに、もう大丈夫なのだろうか
起き上がってイライの顔を伺うと、凛々しく微笑まれた
それはオレが知る子供のような可愛らしい笑顔ではない
離れている間にますます大人の顔になった

「教会がお前の帰る場所になったんだな」
「ナワーブに追い出されて帰る場所がなくなっちゃったからね」
「...それもそうか」
「フフっ冗談だよ。それに何と言われようと、僕にとっての家はここだから」

家、か......
イライがいなくなってから、オレにとってここはもう家じゃなくなってしまったような気がしていた
でもイライが今でもここを家だと思っているのならオレにとってもそうだ
ベッドから起き上がり、イライに赤くて綺麗なリンゴを渡す

「森の麓まで連れて行ってやる、朝飯にこれでも食っとけ」
「ありがとう」

昔していたように背を向けて屈むと、リンゴを受け取ったイライが体を預ける
するとずっしりと重い体にびっくりして一瞬よろけそうになった
出会った時は片手で足りるほど痩せっぽっちだったくせに、見ない間にうんとでかくなりやがって
家のドアを開け、今日だけはゆっくり森を下りた
まだ低い太陽は厚い雲に覆われ、森がミルク色にキラキラ輝いている
夜の動物達は眠りにつき、太陽を浴びる動物達はそろそろ眠りから覚める頃だろう

「イライ、お前は森で育って幸せだったか?」
「どうして?」
「聞きたくなっただけだ」
「...幸せだったよ、ナワーブがいてくれたから」

肩を掴む手がギュッと強くなる
ダッダッと地面を蹴る音とイライのリンゴを齧る音を聞くと、なんだか昔に戻ったようだった

「人狼のアドバイスなんて役に立つかわからないが...」

この前見かけた古い住処の前を通り、たくさんの思い出がまた蘇る
そのどれもがオレをたまらない気持ちにさせるんだ

「子供っていうのはあっという間に育つから、可愛がれる時に目一杯可愛がっておけよ。説教はほどほどでいい」
「うん、そうだね」
「あと子供に限らず大切な奴が笑ってる時はちゃんと顔を見てやれ、それだけで大抵の悩みは吹っ飛ぶし元気になるから」
「...そっか」

ぼとりとリンゴが地面に落ちる音がして振り返ると、イライが子供の頃のように頬に擦り寄った
その優しい温度にブワッと目の奥が熱くなる

「たくさん愛してくれてありがとうナワーブ」
「.....」
「ナワーブは僕といて幸せだった?」
「...ああ、多分幸せだったよ」

らしくもなく溢れてくる涙を腕で乱暴に拭う
後ろではイライのフフっと笑う声が聞こえた
ムッとしたフリで誤魔化すと、麓まで一気に駆け出す
キャーっと叫びしがみつくイライに自然と笑顔になる
人狼のオレにとって、イライと過ごした時間はとても短い
でもオレはたしかにイライとこの森でたくさんのかけがえのない時間を過ごしたんだ
寂しくなんかない
オレもイライもこうして笑っているんだから

「イライ、あの日はあんなこと言ったけど、また何かあったらいつでも帰ってこい」

あの日のようにヘレナの家の近くで下ろしてやると、イライは少しだけ驚いた顔をした

「...いいの?」
「お前は人間で森に住むべきじゃないが、あの小屋はオレ達の家だ」
「じゃあ毎日帰ろうかな」
「バカそれはダメだ、何かあった時だけだぞ」
「フフっわかってるよ」
「じゃあさようならだな」
「うん...」

イライは名残惜しそうに後ずさると、やがて背を向けて歩き出す
オレはそれを黙って見守る
まだまだ華奢でひょろいが、後ろ姿は逞しくなったな
ジッと見ていると、歩いていたイライが急に歩みを止めてこちらに振り返った
そして踵を返して軽く足を弾ませながら走ってくる

「どうした?忘れものでもしたっ...」
「ナワーブのこと大好きだよ」

駆け寄ったイライは、オレの唇にチュッとキスをして目を細めた
木々の隙間から差し込んだ朝陽がブルーの瞳を照らし、透き通るように美しい目に息を飲む

「僕頑張るから、ナワーブも元気でね」
「...ああ」

ヘヘッと照れたように笑うと、今度こそ背を向けて真っ直ぐ歩いていく
しっかりと歩く姿を見てオレも背を向けた
イライならきっと大丈夫だ
もうジョゼフに元気にやっているかなんて様子を聞きに行かなくたってわかる
あいつはしつこくて優しくてオレに似て図太い
イライを信じよう

「さあ、家に帰るか」

森へと駆け出したオレの心はとても晴れやかだった

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