家(うち)へ帰ろう



「ァヴッ...!」

暗闇に身を潜め、獲物にガブリと噛み付く
ドサッと地面に転がりながら暴れる獲物を押さえつけると、そのまま急所を噛みちぎった
夜の狩りは久しぶりだがカンは鈍っていないようだ

「これは大物だぞ」

仕留めたイノシシに紐を括り付けると地面をズルズル引き摺った
イライもこんなにデカいイノシシを見たら驚くだろう
さあ、狩りは成功したことだし早く帰らなければ
家ではイライがひとりで待っている
いつも昼間に狩りをして夜はイライを近くで守っているのだが、蓄えのために今日だけ特別に夜の狩りに来ていた
だがやはりずっとイライのことが気がかりだ
イノシシの身が削れてしまわないよう気をつけて帰りを急ぐ

「ん、なんだ...?」

家の近くまで走ってきたところで急に甘い匂いが鼻を掠めた
この匂い...どこかで嗅いだことがある匂いだ
いつだったか、ずっと前に森を走っていた時だったような
そんなことを考えていたら遠くに雌の人狼が見えてハッと鼻を塞ぐ
まさか発情期か...!

「うっ、」

だが既に遅かったようで全身からブワッと汗が吹き出した
通常、人狼の雄は発情期というものがない
だが雌の人狼は秋と春に発情期を迎え、特殊なフェロモンを出して雄の発情を誘発する
つまり今オレは雌のフェロモンに当てられて強制的に発情させられてしまったのだ

「くそっ、気のせいだ気のせいだ気のせいだっ!」

本能的に雌の元へ向かおうとする足を叩き、気合いと根性で家へと急ぐ
イライが待っているのに雌にかまけていられるか

「イライっ!」
「あっ、ナワーブおかえりなさい」

なんとか帰って小屋の扉を開けると、寝ずに待っていたイライが駆け寄ってきた
やはりひとりで心細かったのだろう
甘えるようにギュッと強く抱き締められる

「僕ひとりで留守番できたよ」
「...イライ、オレから離れてベッドに入れ」
「えっ?」

抱き返して褒めてやりたいところだが、今はそれどころじゃない
発情しているせいでかなり気が立っている
早く気を落ち着けなければ
剥き出しになった牙を手で隠すとその場に蹲った

「ナワーブ?大丈夫?」
「...大丈夫だから言われた通りにしろ」
「でも...」
「いいから早くっ!」

イライラして無意識に手を振り上げると、イライに当たる寸前で理性が働きピタリと手が止まる
いけないっ、何をしているんだオレは!
本能に抗いヴーッと唸ると、イライが不安げに瞳を揺らす
イライが心配でも今晩は帰るべきじゃなかった
オレのせいで怖がらせてしまっている

「どこか痛いの...?」
「ヴゥ......」
「待っててね」

イライはベッドから毛布を持ってくると、蹲るオレにそっと掛けてくれた
きっと体調が悪いと思っているんだろう
寝て治るものじゃないが、このまま気を紛らわして夜を明かすか

「今月下のオオカミさんを呼んでくるからね、もう少し我慢してね」
「......っ!」

扉を開け家を出て行こうとするイライに慌てて起き上がる
まさか今からジョゼフのところに行こうっていうのか
こんな夜遅くにひとりで出掛けるなんてダメに決まってる
外には獰猛な肉食動物達がウジャウジャいるというのに

「外に出るな!」
「で、でも...ナワーブ苦しそうだし...」
「オレは大丈夫だ、な?だからほら、お前はここにいてくれ」

出て行こうとするイライの細い腕を掴んで引き止める
オレといると危ないが、外はそれ以上に危険だ
一瞬気が動転して発情も弛んだ気がする

「本当に呼んでこなくていいの...?」
「今夜は寒いから、一緒に寝てくれ」
「.....うん」

毛布を捲るとイライが躊躇いがちに入ってきた
今までこんなに取り乱したことは無かったから、心配しているんだろう
雌を求めて張り詰めた雄の象徴が当たらないように抱き寄せ、発情した顔も見えないように俯いた

「ナワーブ...死んじゃわないよね?」

グズっと鼻を鳴らすイライの涙を舌でザラりと舐めとる
バカ、発情期なんかで死んでたまるか
何も知らないにしたって縁起でもない勘違いだ

「死んだら墓を作ってくれよな」
「えぇ...っ、やだっ、死んじゃやだっ」
「冗談だから早く寝ろ」

オレのためにボロボロ涙を流してしがみつくイライにクスッと笑いが溢れる
まったく可愛いやつだ
わざわざ雌と交尾して子供を作らなくても、オレには手のかかる子供がもういる
熱い体にフーフー息を切らし、目を閉じて静かに朝を待った


***


「ぐすっ...ぅ...」

翌朝、窓から差し込む光で目を覚ました
あんなに熱かった体はもうなんともない
問題があるとしたら目を真っ赤に腫らして泣いているイライくらいだ

「おい、何泣いてるんだ」
「ナワーブ死なないで...」
「勝手に殺そうとするな」

まさか夜通し泣いてたんじゃないだろうな...
イライの涙と鼻水でぐっしょり濡れた自分の毛を見て苦笑する
オレなんか野垂れ死のうが誰も困らないと思っていたのに、こんなに泣かれるんじゃこれからは嘘でも死ねなくなったな

「昨日は心配掛けて悪かった、もう大丈夫だ」
「本当?」
「ああ、お前にデコピンできるくらい元気だ」
「痛っ」

べそをかくイライの額にピンッと指を弾くと、顔を顰めたあとにふにゃりと微笑んだ

「本当に元気になった?」
「ああ」
「本当に本当?」
「ああ」
「よかった...僕すっごく心配してたんだよ、ナワーブがいなくなったら...どうしようって.....怖くって......」

話すイライは目をぱちぱち瞬き、やがてうとうとし始める
昨晩は一睡もできなかったようだし、安心して眠くなったんだろう

「朝飯ができたら起こしてやるから寝てろ」
「んー...」

微睡むイライをベッドに移動させると、あとは気を失うように深い眠りに落ちた
これだと昼頃まで起こしても起きないだろう

「果物でもとってくるか」

少し気怠さの残る体を起こして外に出る
眩しい陽の光に焼かれながら木に登ると、果物がたくさん実っていた
イライは甘いものが好きだから喜ぶだろうな
よく熟れた物を昼飯用に、あとでドライフルーツを作るのに丁度いいものも多めにもぎ採る
昨日仕留めたイノシシは夜の間に誰かに持っていかれたから、あとでもう一度狩りにも出掛けよう
一度帰って両手いっぱいの果物を置くと、イライは夢でも見ているのか、もぐもぐ口を動かして寝ていた
イタズラに口に指を持っていけばジュっと吸い付かれる
まだ幼子だった頃にミルクを飲ませていたのを思い出すな
あの時は森のヤギの乳を片っ端から搾ったんだ
怒ったヤギに何度蹴られたことか

「うえっ」

暫くオレの指を吸っていたイライは、まるで汚いものでも吐き出すよにペッと離した
まったく失礼な奴だ

「起きたらこき使ってやるからな」

気持ちよさそうに眠るイライの頬をつつき、日の高いうちに狩りに出かける
昨日ほど大きい獲物はいなかったが、兎や魚を数匹捕まえた
この量だと夕飯にちょうど良さそうだ
体も発情のあとで本調子じゃないから、早々に狩りを切り上げて帰る

「ただいま」
「おかえり」
「起きてたのか」
「お腹が空いて目が覚めちゃったよ」

グーと鳴る自分の腹にイライがケタケタ笑った
小さいくせにここのところよく食うな
夢でも何か食べていたのは腹が減っていたからか

「果物採ってきたけど食べるか?」
「食べる!」
「先に川で顔を洗うからついてこい」
「うん」

タッタッタッと軽快に歩み寄るイライと手を繋ぎ、近くの川までふたり並んで歩く
チラッと横を見るとパンパンに腫れた目でヘヘッと笑われた
まだ寝足りないはずなのに元気だな
川についたらイライはローブを脱ぎ捨てて体ごと水に浸かった
オレも川に入りバシャっと豪快に泥や汚れを流す
ブルっと体を震わせて水気を飛ばすとイライも頭を振って真似をする

「お水が冷たいね」
「もう秋だからな」

川から上がり草むらに寝ると、持ってきたリンゴを齧りながら日光浴をした

「リンゴ美味しい」
「そうか」
「ねぇナワーブ、昨日のあれは何だったの?すっごく苦しそうだったよ」
「人狼はたまにああなるんだ、気にするな」
「へぇ大変だね」

起きてからはケロッとしていたが、やはり昨晩のことを気にしていたようだ
発情期なんて言ってもまだ伝わらないだろうしなぁ
というか人間はいつ発情期を迎えるんだ?
今度ジョゼフに会ったら聞いておかないと
果汁でベトベトになったイライの顔を舐め、満腹と太陽の気持ちよさにグルグル喉を鳴らした

「いい陽気だね」
「眠くなるな」

川のせせらぎや鳥のさえずりを聞いているとドッと眠気が押し寄せる
そういえばイライを拾ったのもこんな心地のいい日だった

「お前を拾ってもう10年か」
「そうなの?」
「数えてなかったけど多分それくらいだ」
「もうちょっとで大人になれるかな」
「どうだろうな」

どうせそのうち大人になるんだから、そんなに慌てることはない
ふわぁと欠伸をするとイライも隣で欠伸をした
オレも寝不足だし、夕飯まで少し寝るか
イライを抱き寄せて腕枕をしてやった

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