家(うち)へ帰ろう



オレがまだガキの頃、人間に親を殺された
どうして殺されたか理由なんて知らない
命あるものいつかは死ぬもんだ
ひとりになってからはずっとひとりで生きてきた
番をつくらず、誰とも群れず、文字通りの一匹狼だ
そんなオレが人間の子供を育てるなんて思ってもみなかった

「...ーブ、ナワーブ?」
「ん?」
「どうしたのボーッとして」
「考えごとをしてただけだ」
「フフっ珍しいね」

オレの毛を梳かすイライがクスッと笑う
珍しいとはなんだ、失礼な奴だな

季節は巡り、イライは人間でいう15歳にまで成長した
背はオレと同じくらいに伸び、キャンキャン高かった声も低くなって、見た目はもう立派な大人だ
天真爛漫な性格もすっかり落ち着いた
相変わらず毎日のように人間のところへ行っているが、今はもうイライの好きにさせている

「ブラッシング気持ちいい?」
「ああ」
「良かった」

イライの膝の上に寝転んでブラシッシングをしてもらうのが最近のオレのマイブームだ
ブラシが毛と地肌を撫でるむず痒さがどうも癖になる
前までオレが膝を貸してやっていたのに本当にデカくなったな
喉をゴロゴロ鳴らすとイライはまたクスッと笑った

「後で昼飯の魚を捕りに行くか」
「じゃあ僕は洗濯をしようかな、よく晴れてるから洗濯物がよく乾くよ」
「今日は人間のところに行かなくていいのか?」
「うん、たまにはナワーブと一緒にいたいなって思って...」

綺麗になったオレの毛にイライが顔を埋める
近頃は教会の孤児を熱心に世話していたのに、何かあったのだろうか
まぁ1日くらい気にすることでもないが
欠伸をして起き上がると、ブラッシングのお返しにイライの顔を舐めてやる

「フフっやめてよ」
「なんだ反抗期か」
「舐めるのは恥ずかしいって言ってるでしょ」
「人間みたいなこと言うな」
「人間だからね」

昔は喜んでたのにすっかり人間に染まりやがって
屁理屈を言うイライを放って家を出ると、気にせず後ろをついてくる
こういうところは昔から変わらないな
いつもの近くの川に来ると、魚を狙ってバシャバシャ水しぶきを立てた
イライは離れたところでシーツや服を洗っている

「ふぅ、こんなもんか」

捕まえた数匹の魚を藁で編んだカゴに入れ、近くの岩の上に座る
太陽の下で濡れた体を乾かすと心地よい風が通り抜けていった
この前まであんなに寒かったのに、もうすっかり春の陽気だ
イライの方を見れば、あいつも着ていたローブが濡れてしまったのか脱いで乾かしている

「イライ、洗濯手伝ってやろうか?」

魚を持って近寄ると、オレを見たイライがサッと体を隠した

「だっ、大丈夫だよ、ひとりでできるからっ」
「...?なんで体隠すんだよ?」
「だって僕ほとんど裸みたいな格好してるし...」

わざわざ濡れたローブを巻き付けるイライに首を傾げる
裸なんて子供の頃から散々見ているのに今更何を恥ずかしがっているのか
日に照らされた白い肩を噛んでやろうかと思ったが、ふとジョゼフに言われたことを思い出す
イライはお年頃だからそっとしておいてやれ...だったか

「...洗ったものはオレが干しておくから、風邪引くなよ」
「あ、ありがとう」

洗濯物を担いでサッと背を向ける
年頃か...難しいな.....
この調子だとこれからは水浴びの時も見ない方が良さそうだ
それから川から戻ったイライと焼き魚を食べると、昼間はふたりでのんびり日向ぼっこをした
太陽がポカポカして気持ちがいい
うとうとしながらイライを抱き寄せ、いつものように腕枕をしてやる

「ふぁ〜眠いし昼寝でもするか」
「...あのねナワーブ、実はナワーブに言わなきゃいけないことがあって」
「ん、なんだ?」
「えっと...僕が行ってる教会のことなんだけど」

眠気に抗いイライの話に耳を傾ける
急にかしこまって何の話だ
言葉を詰まらせるイライに少し嫌な予感がしながら聞いていると、心臓が嫌な音を立てた

「孤児の世話をする人が足りないから、僕も正式に手伝いに来れないかって言われてて」
「正式にってなんだよ、今も手伝いに行ってるだろ」
「住込みで子供達の面倒をみたいんだ」
「住込み?」

住み込みと聞いて顔を顰める
教会で暮らしながら孤児の面倒をみるってことか?
そんな生活じゃイライが疲れてしまう
それに森に帰ってこれないじゃないか
ギリっと奥歯を噛むとイライがビクッと体を揺らした

「ごめん、実は前から考えてたんだけどなかなか言い出せなくて」
「...森の生活を捨てるのか」
「そういうことじゃないよ、ただ子供達のために僕も力になりたくて...森へも月に一度は帰るから」
「子供が子供を育てるってか、フンッバカバカしい」

腕枕をしていた腕を引っ込めて起き上がり、体についた草を払って森の奥へと走り出した
何を言うかと思ったら笑えない冗談だ
せっかくいい気持ちで昼寝をしようとしていたのに台無しやがって
途中見つけた熊を狩ると、口の中に血の臭いが充満した
ひとりで獲物を狩ることもできないくせに、オレの苦労も知らないで
人間の子供を育てるのがどれだけ大変なことか、自分がどれだけ弱いかをあいつは知らないんだ
腹立たしさと持ち帰るには重い熊にチッと舌打ちをした

「...ただいま」

日が陰ってから家に帰ると、イライはもうベッドで眠っていた
寝顔を見ると涙の跡がくっきり残っている
まだ気が立っていたが、それを見てシュンと耳が折れてしまう
昼間に少し言い過ぎただろうか
ペチペチ頬を軽く叩いて起こすとイライが薄ら目を開ける

「ん...ナワーブ」
「起きろ、夕飯にするぞ」
「...いらない」
「まだ拗ねてるのか」
「違うよ、お腹が空いてないだけ」

イライは毛布に包まったまま手だけ出してオレの毛を撫でた
目を合わせると赤く腫れた目を細めて微笑む

「さっきはごめんなさい、育ててもらっておいて教会で暮らすなんて自分勝手だよね」

大人びた顔でそう言うイライの声には元気がない
そりゃそうだ、何事にも執拗いのがイライの性格なのにあっさり諦められるわけがない
何日も悩んでいたのなら尚更だ

「ナワーブは人間が嫌い?」
「...ああ」
「じゃあ僕は?」
「お前は人間だけど人間じゃない、森の住民だ」

オレの毛を撫でる手を掴んで下ろし、イライの隣に寝転ぶ

「お前は森が嫌いか?」
「...好きだよ、ナワーブのことも大好き」

甘えるように擦り寄るイライの髪を撫でると、腕を回してギュッと抱きついてきた
昼間冷たく言い捨てたから話すのが不安なのかもしれないな

「僕ね、ナワーブに育ててもらって一度も寂しいと感じたことがないんだ。僕を森に捨てた親を恨む気にもならないくらい、毎日が楽しくて幸せだった」
「...子供のうちはみんなそんなもんだ」
「ううん、ナワーブがくれた幸せは当たり前なんかじゃないんだよ。愛情に飢えた子供達のお世話をしてるとそれが痛いほどわかるんだ」
「オレは飯食わしてただけだ、愛情とか幸せとか難しいこと考えたこともない」
「フフっナワーブらしいね」

イライが顔を上げてオレを見上げる
ジッと見下ろせば暗闇の中視線がぶつかった

「僕はナワーブがしてくれたみたいに、子供達にたくさん愛情を注いであげたいんだ」
「...それはお前じゃなきゃダメなのか?」
「そんなことはないけど、僕がそうしたいんだよ」

柔らかく笑ったイライを見てヘレナという人間を思い出した
数年前に窓からチラッと見ただけだが、たしかあの人間もこんな顔で笑っていた
慈愛に満ちた母のような表情だ

「人狼のオレには人間の考えることは分からない」
「...そっか」
「もう寝ろ、オレは星を見てくる」
「僕もついて行っちゃダメ?」
「ひとりになりたいんだ」

イライの毛布を掛け直してひとりで外に出る
夜は昼間より少し肌寒い
川辺の切り株に腰掛けると、小さく丸くなって星を見上げた

「ハァ...」

...正直なところ、イライが人間のもとで暮らしたいという日がいつかくるんじゃないかと予感はしていた
はじめて人間のところへ連れて言った日からずっとだ
でもイライはまだまだ子供だから、いつまでもオレが育ててやるつもりでもいた
それなのにイライの成長は嵐の日の突風のように早くて一瞬で...気付いたらもう大人になっていた
座っていた切り株から腰を上げると、月の光が真っ直ぐに木目を照らした

「まだ15年しか経ってないのにな」

昔、この切り株にイライは捨てられていた
あの頃のあいつは話すことも歩くこともひとりで飯を食うこともできなかったのに
子供に愛情を注いでやりたいなんて大口を叩くようになりやがって
きっとそのうち人間の女と番になって連れ添うことも、我が子を持つこともあるのだろう
そしてそのどれもがオレにとっては一瞬なんだ
人間の一生はとても短いから

「...子離れの時期なのか」

もちろんイライが本当に人間の中で暮らしていけるのか心配ではある
目の届かないところへ行ってしまうのがとても怖い
でも弱肉強食のこの森より、人間の生活の方が馴染んでいるのは確かだ
どっちつかずな生き方も良くない
...だができることならここでイライを拾った時に戻れないだろうか
そうしたら今度はもっと一分一秒を大切にして、人間にも会わせずに、ずっと森でいさせるのに
そんなこと考えたってどうしようもないのに、胸がジクジクしてたまらない
子離れがこんなに寂しくて苦しいものだと知っていたら育てもしなかったのに
情けない自分が嫌で、苛立ち混じりに川に顔を突っ込んだ
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