第1章「地獄里の炎魔」
エンマは、雨が降ってぐしゃぐしゃになった山道を、ずぶ濡れで走っていた。
その泥だらけの足がふと、止まった。
ゆっくりと歩を進めたエンマは、水溜りの中に倒れている小さな一羽の鳥を見つけた。
そっとその小鳥を両手に抱えると、エンマは再び急いで走り出した。
「じじい!」
家の戸を開けるなり、エンマは叫んだ。
「なんじゃ、そんなに泥だらけになって…。」
「こいつ、怪我してたんだ!」
と、エンマは草吉に手を開いて見せた。エンマの手の中で、小鳥はぐったりとしていた。
「どれどれ…。ふむ、羽が折れとるのう。命はあるようじゃが。」
草吉は、エンマの手から静かに小鳥を受け取って、丹念に小鳥を調べていた。
「助けらんねえのか?」
エンマは、心配そうにして草吉の顔を窺った。
「手当てをしよう。しばらくすれば、飛べるようになるさ。」
「良かった…。」
ほっと胸を撫で下ろしたように、エンマは大きく息を吐いた。
草吉は、そんなエンマの様子を見て、優しく微笑んだ。
「珍しいのう。お前が親切をしてやるとは。」
「だって、たまたまこいつが倒れてたのを見つけて…。いくら何でもほっとけねえだろ。鬼じゃあるまいし…。」
エンマはぷいと横を向いて言った。
「赤鬼、と呼ばれとるのを気にしてるのか?」
「な、何でそれを知ってんだよ!」
驚いたようにエンマは草吉の顔を見た。
「このわしだって、ひと月に一遍ぐらいは里に出るわい。お前のことが随分噂になっとった。」
「……。」
エンマは、下を向いた。
「人の言うことなんか、気にするな。人に認められたいなんてちゃちいことを考えるな。お前はお前なんだ。わしは、お前を立派な人間に育てたと思っておる。」
「じじい…。」
顔を上げたエンマの目に、涙が光っていた。
「かっかっか。強がってはいても、やはりお前はまだ子供だな。そんな些細なことを気にしていたなんてな。わしにも、そんなときがあった。誰でも悩むもんだ。自分は何者なんだろうとな。今まで生きてきて、わしにも自分がよう分からん。じゃが、エンマよ。人と違うことを恐れる必要はないぞ。むしろ誇りに思え。お前のその姿は誰にも真似できん。それが個性というものじゃ。赤鬼、という通り名まで付けられて、お前はすっかり、地獄里の有名人じゃねえか。」
草吉はそう言って笑い、エンマの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「じじい…。俺は別に、姿のことなんか気にしちゃいねえ。ただ、皆の俺を見る目が気に入らねえんだ。」
「お前は、里の者と仲良くなりたいのか?」
「誰が!あんな奴ら…。」
「お前がそう思っている限り、皆の目は変わらんだろうな。ま、わしは皆にどう見られようとどう思われようと、どーでもいいがな。」
「…つまり、何も気にすんなってこと?」
「そうさ。堂々としてりゃあ、お前は、里一番のかぶき者ってトコだろう。」
がはは、と草吉は大きく口を開けて笑った。
朝になり、昨日の大雨が嘘のように、からりと晴れ渡った空が広がっていた。
エンマは、いつもより早く起き出して、手当ての済んだ小鳥の様子を見ていた。
「こいつは、風太 だ。」
風太、とエンマに名付けられた小鳥は、籠の中でうずくまったまま、じっとエンマの方を見ていた。
「エンマ、早起きしたんなら、手伝え!」
外から草吉の大声が飛んできた。エンマはうるさそうに顔をしかめたが、薪割り用の斧を持って外へ出て行った。
素手でいとも簡単に薪を割る草吉を見て、エンマは、持っていた斧を脇に置き、すうっと深呼吸をしてから、勢いよく右手を薪に向かって振り下ろした。
「いってェーーーっ!!」
エンマは、あまりの激痛に、右手を押さえてそこらへんを飛び跳ね回った。
「ばかもの。わしの真似などするからじゃ。お前には無理だ。」
「ちくしょう。じじいに出来て、俺に出来ねえなんて…。」
「お前にゃ、百年早い。」
「じじい…何千年生きてんだよ。」
エンマは仕方なく、斧を再び握って、薪を割り始めた。
草吉はその横で、切り株の上に腰を下ろして、右手に小刀を持ち、左手に持った木に何かを彫っている。
「じじい、何彫ってんだ。」
「これか?これはな、山の神様じゃよ。」
「山の神?見たことあんのかよ。」
「ああ。ある。」
「マジかよ!」
「ハハハ。正確には、見たような気がするという所かのう。これはわしの頭の中で想像した神様の姿じゃよ。」
「すげえな。こんなに細かく…。」
感心したように、エンマは草吉の彫り物に見入っていた。
草吉の木彫りの腕前は相当なものであった。
木に彫り込まれた山の神の表情は穏やかで、愉快な笑みを浮かべており、どこか草吉に似ているように、エンマは感じた。
「お前は不器用じゃからのう。こればっかりは、わしにも教えられん。」
「悪かったな!」
エンマはふんと鼻を鳴らして、力を込めてどかんと薪を割った。
その夜。
夕餉を済ませた後、薪を火にくべて風呂を沸かし、まず草吉が風呂に入っていた。
「極楽、極楽…。地獄里なのに、極楽気分じゃわい。」
風呂の外で、エンマが時折竹筒を吹いて火を保っていた。
「じじい。」
薄い壁の向こうから、エンマが声を掛けた。
「ん?」
「明日こそ、じじいに勝つからな。」
「何が?」
「何って、明日、勝負だってさっき言っただろ!」
エンマは窓枠の間から顔を出して言った。
「ああ。そうだったか…?」
「いきなりボケたんじゃねーだろうな。」
「とにかく、エンマ。わしは、今幸せじゃ。ずっと、この先もずっと、こんなふうに暮らしていけたら、いいじゃろうなあ…。」
星を眺めながら、草吉は、しみじみとそう言った。
その泥だらけの足がふと、止まった。
ゆっくりと歩を進めたエンマは、水溜りの中に倒れている小さな一羽の鳥を見つけた。
そっとその小鳥を両手に抱えると、エンマは再び急いで走り出した。
「じじい!」
家の戸を開けるなり、エンマは叫んだ。
「なんじゃ、そんなに泥だらけになって…。」
「こいつ、怪我してたんだ!」
と、エンマは草吉に手を開いて見せた。エンマの手の中で、小鳥はぐったりとしていた。
「どれどれ…。ふむ、羽が折れとるのう。命はあるようじゃが。」
草吉は、エンマの手から静かに小鳥を受け取って、丹念に小鳥を調べていた。
「助けらんねえのか?」
エンマは、心配そうにして草吉の顔を窺った。
「手当てをしよう。しばらくすれば、飛べるようになるさ。」
「良かった…。」
ほっと胸を撫で下ろしたように、エンマは大きく息を吐いた。
草吉は、そんなエンマの様子を見て、優しく微笑んだ。
「珍しいのう。お前が親切をしてやるとは。」
「だって、たまたまこいつが倒れてたのを見つけて…。いくら何でもほっとけねえだろ。鬼じゃあるまいし…。」
エンマはぷいと横を向いて言った。
「赤鬼、と呼ばれとるのを気にしてるのか?」
「な、何でそれを知ってんだよ!」
驚いたようにエンマは草吉の顔を見た。
「このわしだって、ひと月に一遍ぐらいは里に出るわい。お前のことが随分噂になっとった。」
「……。」
エンマは、下を向いた。
「人の言うことなんか、気にするな。人に認められたいなんてちゃちいことを考えるな。お前はお前なんだ。わしは、お前を立派な人間に育てたと思っておる。」
「じじい…。」
顔を上げたエンマの目に、涙が光っていた。
「かっかっか。強がってはいても、やはりお前はまだ子供だな。そんな些細なことを気にしていたなんてな。わしにも、そんなときがあった。誰でも悩むもんだ。自分は何者なんだろうとな。今まで生きてきて、わしにも自分がよう分からん。じゃが、エンマよ。人と違うことを恐れる必要はないぞ。むしろ誇りに思え。お前のその姿は誰にも真似できん。それが個性というものじゃ。赤鬼、という通り名まで付けられて、お前はすっかり、地獄里の有名人じゃねえか。」
草吉はそう言って笑い、エンマの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「じじい…。俺は別に、姿のことなんか気にしちゃいねえ。ただ、皆の俺を見る目が気に入らねえんだ。」
「お前は、里の者と仲良くなりたいのか?」
「誰が!あんな奴ら…。」
「お前がそう思っている限り、皆の目は変わらんだろうな。ま、わしは皆にどう見られようとどう思われようと、どーでもいいがな。」
「…つまり、何も気にすんなってこと?」
「そうさ。堂々としてりゃあ、お前は、里一番のかぶき者ってトコだろう。」
がはは、と草吉は大きく口を開けて笑った。
朝になり、昨日の大雨が嘘のように、からりと晴れ渡った空が広がっていた。
エンマは、いつもより早く起き出して、手当ての済んだ小鳥の様子を見ていた。
「こいつは、
風太、とエンマに名付けられた小鳥は、籠の中でうずくまったまま、じっとエンマの方を見ていた。
「エンマ、早起きしたんなら、手伝え!」
外から草吉の大声が飛んできた。エンマはうるさそうに顔をしかめたが、薪割り用の斧を持って外へ出て行った。
素手でいとも簡単に薪を割る草吉を見て、エンマは、持っていた斧を脇に置き、すうっと深呼吸をしてから、勢いよく右手を薪に向かって振り下ろした。
「いってェーーーっ!!」
エンマは、あまりの激痛に、右手を押さえてそこらへんを飛び跳ね回った。
「ばかもの。わしの真似などするからじゃ。お前には無理だ。」
「ちくしょう。じじいに出来て、俺に出来ねえなんて…。」
「お前にゃ、百年早い。」
「じじい…何千年生きてんだよ。」
エンマは仕方なく、斧を再び握って、薪を割り始めた。
草吉はその横で、切り株の上に腰を下ろして、右手に小刀を持ち、左手に持った木に何かを彫っている。
「じじい、何彫ってんだ。」
「これか?これはな、山の神様じゃよ。」
「山の神?見たことあんのかよ。」
「ああ。ある。」
「マジかよ!」
「ハハハ。正確には、見たような気がするという所かのう。これはわしの頭の中で想像した神様の姿じゃよ。」
「すげえな。こんなに細かく…。」
感心したように、エンマは草吉の彫り物に見入っていた。
草吉の木彫りの腕前は相当なものであった。
木に彫り込まれた山の神の表情は穏やかで、愉快な笑みを浮かべており、どこか草吉に似ているように、エンマは感じた。
「お前は不器用じゃからのう。こればっかりは、わしにも教えられん。」
「悪かったな!」
エンマはふんと鼻を鳴らして、力を込めてどかんと薪を割った。
その夜。
夕餉を済ませた後、薪を火にくべて風呂を沸かし、まず草吉が風呂に入っていた。
「極楽、極楽…。地獄里なのに、極楽気分じゃわい。」
風呂の外で、エンマが時折竹筒を吹いて火を保っていた。
「じじい。」
薄い壁の向こうから、エンマが声を掛けた。
「ん?」
「明日こそ、じじいに勝つからな。」
「何が?」
「何って、明日、勝負だってさっき言っただろ!」
エンマは窓枠の間から顔を出して言った。
「ああ。そうだったか…?」
「いきなりボケたんじゃねーだろうな。」
「とにかく、エンマ。わしは、今幸せじゃ。ずっと、この先もずっと、こんなふうに暮らしていけたら、いいじゃろうなあ…。」
星を眺めながら、草吉は、しみじみとそう言った。
