このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

小説家に形容し難いものはあっても良いのか?

「先生、せんせ〜〜!!」
ブーツを脱ぎ捨てドタドタと廊下を走る。片手には膨らんだ学校鞄を携えて足首まで隠れるスカートをシンデレラが走る様に持ち上げ、廊下を真っ直ぐに突っ走る。その奥の段差が急な階段を駆け上り、そこで幾度かガタンゴトンと音を立てて転ぶ。更にバタバタと慌ただしく廊下を走り、本で狭くなった道をそおっと通り、その先に見える書斎の看板が垂れ下がる引き戸を開けた。
そこにはばっさりと切られた艶やかな黒髪を持つ、細身の女に見える者。くるりと椅子ごと振り返り切れ長の茶の瞳を通して、転んだ時に誤って被ってしまったのだろうか、錆びたバケツを頭に乗せた女学生を見た。カーテンからわずかに光が漏れ、白い肌にそれが反射する。スッと通った鼻で彼女を笑い、薄い唇を開いた。
「なんだね、まったく騒がしい」
その声は低かった。女の様ではなく、男の様なもので彼女に一言感想を放ったのだ。
「聞いてください先生!大、大、大事件です!」
それも気に留めず鞄を扉の隅に置き、白靴下で書斎の台所へ向かう。そしてそのままヤカンに水を注ぎ、お湯を沸かし始めた。紅茶の葉を棚から適当なものを選んで取り出しポットとカップを用意する。
「ふむ、君の毎度の騒がしさが大事件だと思うがね、私は」
テーブルに肘をつき、そこへやってきた猫を撫でる。そのテーブルの上にはますだけのある真っ白な原稿が数枚。
「もう、そんな事言うなら編集さんに告げ口しちゃいますよ!まだ先生が原稿に手、付けてないって」
「む…まだ1週間もある。問題ない」
「ありありですよ!いつも原稿間に合わなくて徹夜して編集さん困らせて!早く片付けてください!」
ヒューヒューと白い湯気を吐き出し始めたヤカンからお湯を注ぎ、カップとポットを温める。少しした後そのお湯を捨て、茶葉をポットに適量、お湯を注いで専用のキルトの布を被せ蒸らす。砂時計を置く。
「いいかね、作家という者は何事もインスピレーションがなければ動けないのだ」
「いんすぴ…?先生が無駄に使う片仮名言葉はよく分かりませんけど、破っていい締め切りなんてないでしょう?」
「無駄に使うは余計だ、口の減らない小娘め」
「ふん。私がいなかったら編集さんを怒らせて大変なのは先生なんですからね!」
小さな桃色の舌を突き出す。むくれたまま、甘い香りのするポットから鮮やかな色をした紅茶をもくもくと上がる湯気と共に注ぐ。カップの一つを先生と呼ばれるその人に差し出した。
「はい、どうぞ先生」
「あぁ」
香りをすぅっと吸い込み、満足そうに微笑んだ。そして細い指で女学生の頭に乗ったままのバケツを持ち手に引っ掛けて取り去る。
「えっ、バケツ?!」
「なんだ気づかなかったのか、全く馬鹿だな」
「私は馬鹿じゃありません!試験だって毎回、それなりの点数を取れているんですからね!」
更にむくれて、息を紅茶にふーふーと吹きかけ少し口に含む。
「それで、事件というのは?聞いてやろうじゃないか」
「はい、じつは…」
しょんぼりと肩を落とし、書斎机の前にあるソファに腰掛けた。その様子を見て、先生は口角を上げる。彼女の落ち込みようから、此度はきっと面白いものだろうと推測したのである。
女学生はそんな事には気づいていない。落ち込みを隠そうともせず、小さくため息をつき、構わず話し始める。
「私、今日は、今日こそは、いつも頑張ってる自分のご褒美にと、昨日美味しい“はなびら”の練り切りを買ってきたんです。それなりにお高めでした」
はなびら、とは駅前にある和菓子店である。この駅周辺に住む学生のためにと、手頃な値段の団子や和三盆が置いてある。
「それで、冷蔵庫にいれて、袋に名前も書いて置いたんです。竜胆りんどうりなって!でも、今日、帰ってきたら…!」
女学生は息を呑む。それと同時に先生はため息をつく。
「なくなって…!」「なくなっていたと?」
固まる女学生。がっかりだ、と言わんばかりに肩を落とす先生。
「なんでわかったんですか?!」
「分からないほうが馬鹿だろう。全く…本当に冷蔵庫の中になかったんだな?」
「はい!袋もありませんでした!」
「ゴミ入れは見たのか?」
「い、いいえ…」
「なら大方、お前の親が食べたんだろう」
その言葉に被るように女学生は言う。
「いいえ!親は今ダイエット中でまったくお菓子を食べていません。ですから、親ではないと思います!」
「あぁそうか。なら兄弟が食べたんじゃないのか?」
「そんなわけないですよ!」
心底面倒だと言いたそうに、顔を歪める。
「この前お前、間違えて弟のアイス食べちゃったんですよ!とか言ってただろ、だから恐らくそれだ」
「で、ですが…」
「ほら、帰った帰った。私は原稿で忙しいのだから」
ひらひらと手を払う先生。
「原稿真っ白なくせに…」
「何か言ったかな?」
「原稿真っ白なくせに!!」
大声で言い返す女学生。
「うるさいぞ、りな!」
「聞き返したのは先生じゃないですか!」
「だからと言って声が大きいぞ!」
「先生だって大きいです!」
「君の声が大きいから釣られるんだろう、馬鹿め」
「むう…!そんなに馬鹿馬鹿言わなくたって…。ふん、もういいです、もういいですからね!担当さんにまだ先生がまだなぁーんにも書いてないって言っちゃいますからね!」
「なっ、何を言い出すかと思えば貴様…!」
素早く携帯を取り出し、電話帳から担当さん(東さん)と表示される画面を呼び出す。
「くそっ、やめたまえ!」
「やめません!」
いい大人が携帯を取り上げようと必死になっている。
ぎゃいぎゃいと騒がしい空間に、ひとつ、着信音が流れ出した。
「…先生の電話ですよ」
「あぁ、業務用の方からのようだ」
慣れた手つきで受話器を取った。
2/5ページ
スキ