勝気プリン(セ)スは執着ボディガードに溺愛される

 遅れた、と思った時にはもう遅かった。何かを壁にたたきつける音とともに壁が少し揺れて、蛍光灯がちかちかと明滅している。古い校舎はこれだから嫌なのだ。今日は一日中雨だったせいか、トイレの嫌な臭いも湿気とともに重くこもっていて、一層うんざりする。
「おい、今なんて言った? もう一回言ってみろ」
 低い唸り声が聞こえて、伊黒ははっと意識を戻した。壁に押し付けられているのは、一学年上の上級生、押し付けているのは小学校からの腐れ縁相手だ。まるで無頓着なくせに、真夏でも誰よりもミルク色の細い腕は相手の襟首を掴み上げ、血管が浮き出ている。旧校舎のトイレは照明を全部つけてもどことなく暗い。その中で、それだけがひどく煽情的だった。造りは繊細なのに浮き出る血管は太く、確実に男の腕なのだ。そのアンバランスさ。この腕の持ち主、冨岡自身をよく表しているように思った。
「ああ?」
 押し付けられた上級生が出す声は、精一杯の虚勢を張っているのが明らかだった。首をぎりぎりと締め上げられる力は、予想外の強さらしい。色白で線が細く、一見ひ弱に見える冨岡は実は剣道の有段者で、力も気も強い。たかが一つの学校の一つの部活の中で上位だからと言って、普通の男子高校生はなかなか太刀打ちできないだろう。大将がそんな状態なのを目の当たりにして、取り巻きたちは皆動くこともできないでいる。
 放課後、担任に頼まれて回収したクラス全員の提出物を二人で職員室に届けに行った帰りだった。トイレに寄ると、奥の窓際にいた四人がさっとこちらを向いたのだ。その時から嫌な予感がしていた。相手が、冨岡を見る目に、だ。
 先日行われた体育祭の部活対抗リレーで、二位でバトンを受け取った冨岡は、余裕こいてふざけながら先を走っていたその先輩をあっという間に抜かし、一位でアンカーに渡した。その時の彼の目。冨岡のことを舐め切っていたに違いないそいつの、屈辱に満ちた眼差しは、一瞬見ただけの伊黒の脳裏に焼き付いて離れなかった。四人の中に彼がいるのを認めた伊黒が、出ようと言おうとした一瞬前に、せせら笑いの声とともに言い放った言葉は、冨岡に言ってはいけない一言だった。
「冨岡やめろ。こんなやつほっておけ」
 そう言いながら軽く腕に触れても、冨岡の瞳はこちらを見ようともしない。伊黒は内心ため息をついた。バーサーカーモードに入った時の彼に何を告げようが無駄だ。そんなことは、ずっと前から知っている。
「何なんだよ! 本当のことだろうが、女みたいだってよ!」
 さっき、二人を見つけて大股で近付いてきた彼は冨岡の肩に手を置き、わざとらしく大声を上げたのだ。
「おーい、ここは男子トイレだよ?」
 そして顔を覗き込んで、大仰に目を見開いた。
「何だ男か! 髪も長いし細くて白くて可愛いから、女の子かと思った!」
「女の子かと思った」。そのワードを聞いた瞬間、冨岡の目の色が変わり、伊黒は頭を抱えたくなった。綺麗な顔立ちをした冨岡は、幼い頃はもっと女子と区別がつかず、揶揄われたり迷惑な感情を向けられたり、嫌な思いばかりしていた。剣道を習い始めたのだって、少しでも男らしくなりたいという本人の願いの表れだったのだ。向こうは単なる軽い嫌がらせのつもりで口にしたのだろうが、それだけ冨岡にとって「女みたい」は禁句なのである。
 追い打ちをかけるように同じ言葉をがなり立てる相手を、冨岡は突き飛ばすように離した。トイレの前にはいつの間にか野次馬が増え始めている。え、何? 喧嘩?というささやきも聞こえ、伊黒は焦っていた。教師なんて呼ばれたら厄介だ。自分だけでこいつを抑え込める自信はなく、もう一人の腐れ縁を呼びに行きたいところだったが、かといってこの状況を野放しにもできない。もう一度「冨岡」と呼びかけた伊黒の腕を払った当の本人の目は、爛々と怒りに満ちている。
「そうか。お前の目には俺が女みたいに見えるんだな。じゃあ確かめてみろ。俺が本当に女かどうか」
 言うが早いかこの脳筋は、制服のシャツを引き裂くように脱いだ。実際引き裂いていたに等しく、トイレの床に弾けとんだボタンが転がる小さな音が響く。勢いのままインナーも脱ぎ捨てて冨岡は、あっという間に上裸になった。
 トイレの暗い照明に照らされる白い肌は、怒りのためか薄い桃色に色づいていて、梅雨時のじめじめした湿気を吸ったようにしっとりした質感に見える。荒い息遣いに乗って上下する薄い胸はどう見ても男の体で、細く禁欲的なのに、反面、本能で抗いがたい艶めかしさを放っていた。豊満な女性の体とは正反対なのに、同じくらい吸い寄せられる。現に先輩四人とも、時が止まったかのように冨岡の体から目を離せないらしい。伊黒は本格的にまずいなと思い始めた。こういう本人の脳直な行動が、増やさなくてもいい厄介な人間を増やすことになるのだ。舌打ちしたい気分だった。
「これでも分からないか。そうか。ならこっちならどうだ」
 白く長い指が、ベルトのバックルにかかった。先輩たちもどういうことか理解したのか、ごくっと全員の喉が動く。おい、それはどう考えてもだめだろう。これは何としても止めなくては。跳ね飛ばされるのを覚悟で伊黒が一歩踏み出したその時。
「そこまで。その辺にしとけよ」
 二回りほど太い腕が、冨岡の手を抑えて、伊黒は思わずほっと息を吐いた。間一髪だ。焦って走ってきたのか少し息を切らし、白く豊かな髪がふわふわと揺れている。冨岡ははっと我に返ったように、自分の腕を掴んでいる相手を見つめた。
「遅いぞ不死川」
 恨みがましい思いで口を開いた。番犬なら番犬らしく、異変を瞬時に察知してほしいものである。不死川は悪かったってと軽く首を竦めた。いや、別に不死川は悪くない。なのに、責められることを不満にも思っていないようだった。冨岡のことは全て管理下に置きたいという、見え隠れする独占欲。床に落ちていたシャツを一度ばさっと払って不死川は、伊黒も含めたそこにいる全員の目から隠すかのように、冨岡の上半身を包むかのごとく羽織らせた。その間ずっと冨岡の眼差しは不死川に注がれたまま外されることもなく、なすがままになっている。不死川は冨岡が脱ぎ散らかしたインナーを拾うと、ゆっくりと四人に目を向けた。
「すみません、こいつ何かしましたかね?」
 口調も言葉も丁寧だが、脳が警戒アラートを鳴らすような声だった。言外に、逃がさないと言われているようだ。不死川はそこにいる誰よりも背が高く、体も分厚くがっちりとしていて、男として敵わない雰囲気を放っている。鋭く重い視線に、四人が思わず一歩後ずさりした。
「おい、何してる!」
 誰かが呼んだのか、野次馬を掻き分けて、生活指導の教師が二人飛び込んできた。冨岡の目から力が抜け、形の良い唇からため息が漏れる。ため息をつきたいのはこちらである。安堵したのもつかの間、どうやらろくでもないことになるのは決定事項のようだ。耐えきれず伊黒が漏らした「ああ……」という呟きは、梅雨の空に流れていった。

 ◇◇◇

 チャイムを鳴らすと「はーい」といつも通りの声が聞こえて、それだけで何だか安堵した。メッセージのやり取りはしていたものの、文字だけでは相手の気持ちはよく分からない。
「おおー」
 玄関ドアが開いて開口一番、伊黒と不死川は同時に感嘆の声を上げた。聞いてはいたものの、実際見るのは初めてだ。視線の先の冨岡には、見慣れた尻尾がない。
「思い切ったなー」
 物珍しさかそれとも他に理由があるのか、髪を切った冨岡から目が離せないらしい不死川がそんな風に呟くと、当の本人は照れ笑いを浮かべて露になった首筋を摩る。先日ぶちギレた奴とは別人のようでもあり、反面、やっぱりどちらも冨岡だなと相反する感情が浮かんだ。
 あの後生活指導室にぶち込まれ、その場にいた全員永遠かと思われるほどの事情聴取を受けた後、冨岡だけ一週間の自宅謹慎を言い渡された。仕掛けてきたのは先輩たちとは言え、先に手を出したのは冨岡であるのは事実だ。どんなことがあっても、先に手を出した方が負けらしい。暴力沙汰なので本来なら一か月が妥当らしいが、伊黒の証言もあり、情状酌量された結果である。伊黒や不死川としては、冨岡だけ処分されるなんて腑に落ちないものの、本人が納得しているようであったので、拳を下げざるを得ない。
「姉さんにぶちギレられて、髪長いからって揶揄われるなら切れって、次の日美容院予約されたんだ。剣道やってる人間が手を出すなんて、それでも男かって、ケツに蹴り技食らった。割れるかと思った」
 冨岡の姉、蔦子さんは、一見虫も殺さぬような嫋やかな美女だが、実は空手の有段者で、インカレ個人戦で全国優勝を果たしているほどの猛者である。伊黒達幼馴染五人組は昔から、小学生男子の例にもれず好奇心だけの危険な遊びがバレるたびに、彼女に鉄拳制裁を食らっていた。外見も中身も、この姉弟はよく似ている。
「安心しろ。ケツは最初から割れている」
 先日の雨模様が嘘のように、今日は綺麗な青空が広がっている。冨岡の父が丹精込めて育てているらしい庭の紫陽花が瑞々しい。艶やかな花の横を通り過ぎて、二人は招き入れられるまま家の中へ入った。階段を上る冨岡のケツを凝視している不死川にうんざりしながら、伊黒は不死川の手から紙袋をひったくった。
「これ、宇髄からの陣中見舞いだそうだ」
 幼馴染の一人、派手で祭り好きの三年の宇髄は新校舎にいるので、騒ぎを知ったときは全てが終わっていたらしい。冨岡が「輩先輩」の仲のいい幼馴染だと知った時、四人の顔面から一気に血の気が引いて、それを見た時はさすがにざまあみろと思った。別に宇髄がどうのこうの言うわけでも行動するわけでもないが、しばらくありもしない報復の恐怖に怯えればいい。
 適当な紙袋にがちゃがちゃと詰め込まれた見舞い品は、短髪にしたばかりの冨岡への気遣いのつもりか、ワックスやジェル、スプレーなどヘアセット用品だった。新品がほとんどだったが、中には使いかけのものも入っており、冨岡は一つ一つ丁寧に確かめては「これ、宇髄が合わなかったやつだな」と時折苦笑しつつも、大事そうに机の上に置いていた。
「まァ、元気そうで安心したわ」
 いつも通り、定位置のラグの上に腰を下ろしながら、不死川が何でもないことのようにそう言った。冨岡が仕方なさそうに、ふふと笑い声を漏らし、その声を聞いて冨岡の中ではもう決着がついていることなのだと分かった。
「手を出したのは、悪かったと思ってる」
 いつも通り静かな声に、伊黒の方が苛立った。何で。冨岡が先に仕掛けたわけじゃない。あっちがほっといてくれればよかったのに。それでも、もうどうしようもできないし、何より冨岡自身が納得しているなら伊黒の出る幕はない。
「あんな奴に言われたことなんかとるに足らないことだ。さっさと忘れろ」
 それでも、どうしようもできないことに何とか一矢報いたくて、言葉が出てきた。隣で不死川も大きく頷くのが見える。同じようなことを思っているのだろう。
「そーだよ。存在自体がどうでもいいんだから、あんな奴らのことなんか忘れちまえ」
 その言葉に、冨岡が声を上げて笑い始めた。
「ダメだ。あいつのシャツの下に着てたTシャツ覚えてるか?」
何事かと目を剥く二人に話しながら、目尻に涙まで浮かべて尚も笑っている。シャツのボタンが全開で、中にTシャツを着ていたことまでは覚えているが暗かったし、柄までは目の悪い伊黒にはよく見えなかったのだ。
「くっそダサかった。色も似合ってなかったし、あんなダサいTシャツ、忘れたいと思っても無理だ。多分あいつのことは一生忘れられない」
 屈託なく笑う姿に、伊黒は何だか本当に、もういいかなと思えた。ここまで言えるならおそらく大丈夫だ。これからもきっと何も変わらない。夕方近くになっても勢いの衰えない太陽が、隣家の車の屋根をはじいて光っている。平和で美しい午後。
「……そーかよ」
 そんな風に思っていると、隣から剣呑な声色が聞こえて、伊黒は思わず振り返った。不死川の瞳から光が消え、見たことがないほど冷たい顔をしている。冨岡は何も気付かないのか、伊黒が貸してやった授業のノートを見ながら生返事を返した。分からないところがあったのか、ここさーと話しかけてくる冨岡に応えながらちらっと見ると、不死川はもうすっかり元通りの顔で雑誌をめくっている。勘違いかと思えるほどの刹那だったが、そうじゃないと確信していた。伊黒の脳裏からはいつまでも、あの昏い眼差しが消えることはなかった。

 ◇◇◇

「てことがあったよなあ~っ!」
 昔話に花が咲いたのは、幼馴染五人だけになった、残業中の職員室だった。今日もあの日と同じ、静かな雨が降っている。
 きっかけは、先日男子トイレでの喫煙がバレて停学になった高校三年生だ。受験期なのにどうするんだあいつはという話題が転がって、いつのまにかかつての冨岡の謹慎の話になった。季節のあの時と同じ、鬱陶しい梅雨の気配が、すぐそこまで迫っている。
 あれから、宇髄や、まだ中学生だった煉獄も交えて連日冨岡家に入り浸っていた。別に何もなくても、放課後は割と一緒にいることが多かったので、いつも通りと言えばいつも通りだったし、特に何か特別なことをするわけでもなく、勉強したりゲームをしたり映画を見たりしていると一週間なんかすぐで、それからはまさしくいつも通りの日々だった。誰かが何かをしたわけでも言ったわけでもないと思うが、あの四人があれから冨岡に絡んでくることはなかったし、それどころか、あの場に一緒にいた伊黒と不死川もわざわざ避けるようになったので、あれ以降は快適な高校生活を送り、今に至っている。
「懐かしいな!」
 煉獄が瞳を細めてそう言った。ずっと一緒にいるので殊更話すほどのことでもなく、五人の間でこの話題が出たのは、あれ以来初めてのことだ。視界の端で、冨岡が小さく首を傾げている。
「どうした」
「いや、謹慎になったのは覚えてるんだけど、理由も相手も全然思い出せない……」
「何と! 学校もまるで違った俺ですら覚えているのにか!」
「は? お前あんな大立ち回りしといてそんなことある?」
「貴様の脳みそはどうなってる」
「もういいだろォ。それだけ昔の話ってことだよ」
 ずっと黙っていた不死川が仲裁に入り、冨岡はあからさまにほっとした顔をした。どちらも言わないのでこちらからも言及しないが、少し前に関係性がはっきりと変化したのを知っている。伊黒は唐突に、あの日の不死川の眼差しを思い出した。
「不死川、お前は何をしたんだ」
 珈琲が欲しいだなんだと三人が騒がしく出ていき、職員室には伊黒と不死川の二人きりになって、伊黒は意を決して聞いてみた。不死川は顔色を変える様子もなく、相変わらずPCに向き合ったままだ。
「何の話ィ?」
「恍けるなよ。冨岡があいつらを覚えてないなんて。あの日、ダサいTシャツだったから絶対一生忘れられないと言ったのは冨岡なんだぞ」
「俺は何もしてねェよ。ただあれを思い出す暇も、覚えとく記憶容量からも追い出すくらい、あいつの日常を他の楽しいことで埋めただけ」
「他の」というか「お前との」の間違いだろうという言葉は、結局口から出ることはなかった。そうやって上書きできるほど、冨岡の日常を自分で満たしたのだ。
 そんなに許せなかったか。冨岡の口から出た「他の男のことを忘れない」という言葉が。
 ちょっと俄かには理解しがたい執着ではあるが、伊黒は流すことにした。冨岡だって、こんな分かりやすいことにおめおめと流されるほど馬鹿でないことは知っている。心にも記憶にも残ることを許さない男と、それを甘んじて受け入れ望まれるまま手放す男。こんなにお似合いの二人はいない。そっとしておくのが一番だ。
 給湯室からわいわいと戻ってくる声を聞きながら、伊黒も試験問題の作成に集中することにした。雨足は強まり、風が窓を叩く音がさっきよりも大きくなっている。嵐に巻き込まれる前に、早く帰らなければならない。
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