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掌篇集

 麗しの君。
 劇場で歌う彼女に出逢い、男の世界は色を変えた。
 この花は彼女に似合う。このネックレスの石は彼女の瞳と同じ色。このリボンは彼女の髪と同じ色。
 麗しの女神のフィルターを通せば、世界の全てが美しく見える。
「ああ、我が女神。今日の舞台も素晴らしかった!」
 女神の歌と演技に感動して泣き腫らした目で、男は楽屋で女神と相対する。
 男の世界を輝かせる女神を支援することは男の喜びであり、その胸に溢れる女神への賛辞を直接伝えられる権利は何物にも代えがたいものであった。
「いつもありがとう。あなたは本当に女優としてのわたくしを愛してくださるのね」
「それはもう! 私の心をこんなにも震わせる役者はあなたの他おりません。あなたが演じるならば、たとえ道端の花役でも生き生きと魅力的に映るでしょう」
「まぁ、嬉しいわ」
 女神はクスクスと笑う。
 男はその美しさに目を奪われたが、背後から響くノックの音に眉尻を下げた。
「ああ、我が女神。楽しい時間は何故こんなにも早く過ぎてしまうのでしょうね」
 女神を男が独り占めすることなど出来やしない。女神のパトロンは男だけではなかったし、男はその中でも支援額としては大きなものではなかった。
 けれど、女神はいつも男との時間を惜しんでくれる。なんと素晴らしい人柄か。
「また、観に参ります。本当に今回の役柄も歌も素晴らしいから。どうぞ、身体に気をつけて」
「ええ、ええ。待っていますわ。あなたもどうぞ無理はなさらずに」
 名残惜しくも、そっと女神の指先にキスを落とし、男は楽屋を辞した。もっと舞台に通うためにも、腰を据えて働かねばならぬと決意しながら。

 男を見送り、女神は男がキスをした指先にそっと唇をあてた。
「非道い方。あなたに逢わなければ、わたくし、どんな方に触れられても苦しくなんて思いませんでしたのに」
 女神の呟きは、崇拝者の耳には入らない。
 次の瞬間には、女優は妖艶な笑顔を浮かべ、楽屋に入ってきたパトロンの男にしなだれかかる。
 どんな役柄だろうと、演じてみせる。
 女は、女優なのだから。
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