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掌篇集

 ふさり、ふさり。
 体の横、ソファに力なく置いた左手に、柔い毛がふれる。
 ここで身動きをしてはならない。左手だけではなく、頭も動かしてはいけない。もしも身じろぎをしてしまえば、この左手を撫でる毛は、その持ち主である猫は即座に何処かにいってしまう。それを、私は過去の経験で学んでいた。
 半年前に保護したこの猫は、マンションのエントランスの隅にうずくまっていた。最初はファーコートでも落ちているのかと思った。
 オートロックの自動ドアの内側である。最初、どこかの部屋から逃げ出してきたのかと思ったが、よく見ればどうにも薄汚れている。猫好きの両親から生まれた生粋の猫好きである私は、素通りすることも出来ず猫を観察した。
 世の中の不幸を憂うような顔で香箱を組んでいる猫は、後ろの左脚だけだらりと伸ばしていた。どうやら怪我をしているらしく、毛には固まった血もついている。
 よし、病院つれていこう。
 即決した。
 私は一度部屋に戻ると(ゴミ出しの帰りだった)財布とブランケット、大きめの洗濯ネットを抱えて再び猫の下へ向かった。
「こんにちは、これから君を病院に連れていきます」
 そう宣言して、静かに、穏やかに、かつ迅速に洗濯ネットを被せ、ブランケットでくるむ。実家に5匹いる猫たちの通院で培われた技術である。
 ブランケットの中からは、盛大な唸り声と猫パンチが繰り出されている。
「ごめんねー、怖いねー、ごめんねー」
 気休めに声をかけながら、最寄りの動物病院に駆け込み、治療とともに事情を話せば、獣医師は「このあたりで見たことのない子だし、肉球の硬さや毛艶から言って野良だと思う」と告げた。念のために警察や保健所やマンションの管理人に連絡をして、ケダマと名付けたこの猫は我が家の住人となった。
 警戒心が強い、というよりは気位の高いケダマは、私から触ることを容易に許してはくれない。
 私が撫でようとすると思い切り嵐を吹かれる。嵐を吹くのは結構な威嚇行動である。
 だから、私はソファで丸まって眠るケダマの隣に「あなたに何も意識は向けていませんよー」という体で座り、たまたまおろした手がそこにいったという風を装ってケダマの直ぐ側に手を置く。
 そうして、自然を装った不自然な体勢でずっと待ち続けると、今回のようにその時が訪れる事がある。
 そう、尻尾である。
 眠るケダマの尻尾が、ぼすぼすと私の手を叩くのだ。
 ご褒美である。
 最初の頃は、うっかり手を動かしたり視線をケダマに向けたりして、即座に逃げられていた。だが、今ではこうしてケダマの尻尾の毛並みを堪能することが出来るというわけである。
 既にケダマの怪我は治り、硬かった肉球も柔らかくなっている。多分。触って確認は出来てないが。
 飼い主から連絡が来るのではないかと、ずっとそわそわしていたこの半年。もちろん、そうなれば喜んでケダマを渡すつもりでいた。飼い猫がいなくなった悲しみは想像するに余りある。
 けれど、今日で警察に拾得物の届け出をしてからちょうど半年になる。
「ケダマ、うちの子になる?」
 思わずこぼれた言葉に、しまった、と思った。ケダマが行ってしまう。
 けれど、ケダマはいつものように鬱陶しそうな顔をして立ち去りはしなかった。
「にゃん」
 一言。
 一言鳴いて、ソファから降りてキッチンの方に歩いて行った。
 その、ぴんと立ったふさふさの尻尾を見送って、私は泣いた。
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