掌篇集
毎月届く手紙がある。
手紙というか、写真だ。大判の写真の裏に、住所と名前が書かれ、切手が貼られて投函されたもの。
それはひと月に一枚、稀に二枚。特に日付に法則はなく、月の何処かで届いた。
誰からのものかわからない手紙だ。
なぜなら、それは僕に宛てたものではないからだ。
最初に受け取ったのは、沢山のボートが浮かぶ海と青空の写真だった。澄んだ翠から濃紺へのグラデーションを描く海と、高く抜けるような青に、雲のくっきりとした白のコントラストが美しくて、てっきり写真展のDMかなにかだと思ったのだ。
しかし、宛名を見てみると僕宛てではない。
そこにあったのは、つい先日亡くなった叔父の名前だった。
もともと体の弱かった叔父は、悪い時には月の半分を寝付いているような人で、僕はよく、身の回りの世話をしたり買い物を手伝ったりしていた。
穏やかで物知りの叔父のことが好きだったし、彼の山となった蔵書もまた僕にとっては魅力的だった。
叔父も、自分に子供がいないこともあってか、僕のことをとりわけ可愛がってくれたように思う。僕が今住んでいるこの家も、もともとは叔父の住んでいた家だ。相続に関わる税もすべて叔父が処理して僕に遺してくれたと知ったのは、叔父の葬儀を終えたそのあとだった。
そういうわけだから、叔父宛ての郵便物が届くのはままある事だった。DMなら放置してしまうことも多かったが、友人知人の場合は、亡くなったことを連絡し、連絡が遅くなった事のお詫びをさしあげた。叔父はまめな人で、連絡簿を遺してくれていたが、それでも漏れる人は居るものである。
この人もそういう類だろうと思って差出人を確認する。そこには走り書きのような字で、『スペイン・デニア K』とだけ書かれていた。
これだけの情報では返信も出来ず、誰かわからなければ連絡も取れない。だが、これだけの情報でわかるのだから、叔父とは懇意なのだろうと察せられた。
叔父の死をなんとか連絡出来ないものかと、僕は叔父の遺品を探し回った。マメな人だから大抵のものは整理整頓されていて探すまでもないのだが、それは叔父が書物をするのに使っていた文机の、引き出しの一番奥にしまいこんであった。
古い、学生が使うような道具箱の中に、たくさんの写真。
何枚も、何十枚も。消印を確かめてみると、一番古いものは30年ほど前で、叔父もまだ学生だった頃だ。
差出人は、国と地名は毎回異なるものの、いつも同じ『K』。
叔父のことだから、こんなに沢山の写真があればアルバムに綺麗に整理でもしそうなものなのに、箱の中に乱雑に放り込まれた写真の束。それなのに、写真の角は擦り切れ、幾度となく手に取ったことが伺える。
これは叔父にとって特別なものなのだと、理解した。
飾るでもなく、アルバムに綴じ込むでもなく、箱の中に放り込み、引き出しの奥底に仕舞い込む。けれど、そうしてなお幾度も手に取ってしまったのだろうこの写真たち。
僕はため息をついて、叔父の位牌に向かって頭を下げた。
「ごめんね、叔父さん。見られたくなかったと思うけど」
こんなもの、恋文を見られるようなものではないか。
苦笑いしている叔父の姿が目に浮かぶようだった。
僕は、届いた写真を箱の中に収め、引き出しの元の場所にしまいこんだ。
おそらく、叔父の古い知り合いに聞けば『K』の正体はわかるだろう。けれど、それをするのは躊躇われた。
叔父は『K』に関する情報を何も遺さなかった。
知らせなければ、『K』の中で叔父は生き続ける。遠い遠い空の下、『K』は叔父のことを思い写真を撮り続けるだろう。
叔父がそれを望んだと、そう思うのは僕の感傷が過ぎるだろうか。
けれど、僕はその時感じたものを信じ、今でも『K』を探さずに居る。
写真は届くたびに一日位牌に供えてから箱の中にしまっている。
いつまで続くだろう。
いつか、終わりが来るのか。
あるいは、『K』が叔父を訪ねてくる未来があるのか。
僕は今日も、届いた写真に写る、遠い空の下の風景に思いを馳せる。
手紙というか、写真だ。大判の写真の裏に、住所と名前が書かれ、切手が貼られて投函されたもの。
それはひと月に一枚、稀に二枚。特に日付に法則はなく、月の何処かで届いた。
誰からのものかわからない手紙だ。
なぜなら、それは僕に宛てたものではないからだ。
最初に受け取ったのは、沢山のボートが浮かぶ海と青空の写真だった。澄んだ翠から濃紺へのグラデーションを描く海と、高く抜けるような青に、雲のくっきりとした白のコントラストが美しくて、てっきり写真展のDMかなにかだと思ったのだ。
しかし、宛名を見てみると僕宛てではない。
そこにあったのは、つい先日亡くなった叔父の名前だった。
もともと体の弱かった叔父は、悪い時には月の半分を寝付いているような人で、僕はよく、身の回りの世話をしたり買い物を手伝ったりしていた。
穏やかで物知りの叔父のことが好きだったし、彼の山となった蔵書もまた僕にとっては魅力的だった。
叔父も、自分に子供がいないこともあってか、僕のことをとりわけ可愛がってくれたように思う。僕が今住んでいるこの家も、もともとは叔父の住んでいた家だ。相続に関わる税もすべて叔父が処理して僕に遺してくれたと知ったのは、叔父の葬儀を終えたそのあとだった。
そういうわけだから、叔父宛ての郵便物が届くのはままある事だった。DMなら放置してしまうことも多かったが、友人知人の場合は、亡くなったことを連絡し、連絡が遅くなった事のお詫びをさしあげた。叔父はまめな人で、連絡簿を遺してくれていたが、それでも漏れる人は居るものである。
この人もそういう類だろうと思って差出人を確認する。そこには走り書きのような字で、『スペイン・デニア K』とだけ書かれていた。
これだけの情報では返信も出来ず、誰かわからなければ連絡も取れない。だが、これだけの情報でわかるのだから、叔父とは懇意なのだろうと察せられた。
叔父の死をなんとか連絡出来ないものかと、僕は叔父の遺品を探し回った。マメな人だから大抵のものは整理整頓されていて探すまでもないのだが、それは叔父が書物をするのに使っていた文机の、引き出しの一番奥にしまいこんであった。
古い、学生が使うような道具箱の中に、たくさんの写真。
何枚も、何十枚も。消印を確かめてみると、一番古いものは30年ほど前で、叔父もまだ学生だった頃だ。
差出人は、国と地名は毎回異なるものの、いつも同じ『K』。
叔父のことだから、こんなに沢山の写真があればアルバムに綺麗に整理でもしそうなものなのに、箱の中に乱雑に放り込まれた写真の束。それなのに、写真の角は擦り切れ、幾度となく手に取ったことが伺える。
これは叔父にとって特別なものなのだと、理解した。
飾るでもなく、アルバムに綴じ込むでもなく、箱の中に放り込み、引き出しの奥底に仕舞い込む。けれど、そうしてなお幾度も手に取ってしまったのだろうこの写真たち。
僕はため息をついて、叔父の位牌に向かって頭を下げた。
「ごめんね、叔父さん。見られたくなかったと思うけど」
こんなもの、恋文を見られるようなものではないか。
苦笑いしている叔父の姿が目に浮かぶようだった。
僕は、届いた写真を箱の中に収め、引き出しの元の場所にしまいこんだ。
おそらく、叔父の古い知り合いに聞けば『K』の正体はわかるだろう。けれど、それをするのは躊躇われた。
叔父は『K』に関する情報を何も遺さなかった。
知らせなければ、『K』の中で叔父は生き続ける。遠い遠い空の下、『K』は叔父のことを思い写真を撮り続けるだろう。
叔父がそれを望んだと、そう思うのは僕の感傷が過ぎるだろうか。
けれど、僕はその時感じたものを信じ、今でも『K』を探さずに居る。
写真は届くたびに一日位牌に供えてから箱の中にしまっている。
いつまで続くだろう。
いつか、終わりが来るのか。
あるいは、『K』が叔父を訪ねてくる未来があるのか。
僕は今日も、届いた写真に写る、遠い空の下の風景に思いを馳せる。