このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

掌篇集

「そこー! 止まりなさい!」
 ピピー! という前時代的な警笛の音に肩をすくめ、男は仕方なさそうに立ち止まる。
 後ろからホバーボードの排気音が近づき、その本体と上に乗った人間が男の前に姿を表した。紺色の制服に身を包んだ警官だ。
「30より番号の若い地区は一般人のガードなしでの通行は禁止ですよ。許可証は?」
「お前、俺が『一般人』じゃねぇの知ってるだろうがよ」
「許可証の携帯は義務です! ほらほら早く出す!」
 いま男たちが居る18地区は、1から100まで区分けされた地区の中でも外縁に近く、治安が悪い。それ故に、一般的にこの地区に訪れるためにはガードロボットや人間の護衛が必要である。そんな中を一人で歩く男に、警官は声をかけたのだ。
 それは当然のようで居て、当然ではない。
 なぜなら、男と警官の女は顔見知りであり、男がガードライセンスを持った守る側の人間だと知っているからである。
「お前、俺で点数稼ぐんじゃねぇよ」
「何よ、ライセンスの不携帯はれっきとした違反でしょー」
 つまるところ、珍しく平和だったがために暇だったこの女警官が、仕事の実績を増やすために男に目をつけたのである。とはいえ、それが悪徳かといえばそうでもない。男にしてみれば通りすがりに猫にじゃれかかられたようなものだった。最も、彼女が自分以外にそれをしていれば、男は不機嫌になっただろうが。
「ほら、出した出した」
 ツリ目がちの勝ち気な表情で、彼女は催促する。彼女としても、本当に彼がライセンスを持っていないとは思っていない。むしろ、そういうところはしっかりした男だと知っているからこそである。彼女自身は気づいて居なかったが、それは一種の甘えであった。
 ぱたぱたとコートのポケットやらズボンの尻ポケットやら懐やらを探っていた男は、「ない」と呟いた。
「えっ、うそ、落としたの?」
 そうなればライセンスの剥奪にまで繋がりかねない。やにわに慌てだす彼女に愉快な気持ちになりながら、「わけでもない」と男は続けた。
「どっちなのよ!」
 苛ついた女の右正拳が男の左肩に吸い込まれ、結構な痛みに男は顔をしかめた。からかいすぎたか。にしても沸点が低すぎやしないか。
「お前らと同じ虹彩チップだよ」
 示した左目の奥には、虹色に輝く文様が刻まれている。人間の視神経と直接接続した極小の通信デバイスの一種である。これによって、各種身分証やらクレジットやらを持ち歩かずともよくなるし、思考による他者との連絡まで出来るのである。だが、高度な医療技術が必要であり、今は警官や軍人のような国防関係者と、一部の高位ガードライセンス持ちにしか許されては居なかった。
「チップ、入れたんだ」
「やっとな。ほら、早く読み込め」
 男は、自分よりも頭一つ背の低い彼女のために腰を折って視線を合わせてやる。警官も虹彩チップを入れており、公務員のみリード機能が追加されているのだ。
 彼女は、顔を上げて男の目を覗き込んだ。
 一瞬、その目を見つめるだけで、情報のスキャンは完了する。男は、ほんの出来心でライセンス情報に加えてある個人情報を女に渡した。それは、彼女を好ましく思っているという男の「感情」である。
「えっ!? ちょ、あの、えっ、ええ!?」
 スキャンを終え、やにわに騒ぎ出した警官に、男は殊更のんびりと「ライセンスは有効だったろ?」と尋ねる。顔を熟れた林檎のように真赤にした彼女は、はくはくと口を開閉させ、男の顔と地面と、あちらこちらに視線を彷徨わせる。
「つ、次やったらセクハラでしょっぴいてやるんだからね!」
 顔を赤くしたまま、彼女はホバーボードに飛び乗り、猛スピードで走り去ってしまった。あれは制限速度をオーバーしているのではなかろうか。
「……ありゃ、けっこう脈あんのかね?」
 くつりと笑って、男は歩き出す。次は、古式ゆかしく言葉で伝えてみようと思いながら。
35/46ページ
スキ