#02.もう…我慢しないで
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お待たせいたしました、と扉を開いて戻ってきたのはフレデリクだった。
部屋の中は出て行く前とはすっかり状況が変わっているのだが、特に大きなリアクションはない。
ただ、こめかみの皺を刻み、名前を見ていた。
部屋の用意が出来たと簡素な報告に、呆然と事を見ていたクロムがいち早く動いた。エメリナにピッタリとくっついたままの名前を支えようと手を伸ばす。それを止めたのはフレデリクだった。
「クロム様、私が」
「いや、お前は此処にいてくれ。出て行ったフィレインが司祭殿を連れて戻ってくるだろう」
「いいえ。私が」
「…フレデリク?」
「彼女の疑心を高めたのは、私の言葉です。休めもせず、食べもせずに、彼女をここまで悪化させたのは私です」
「食事はしていたじゃないか。リズ達と」
「いいえ。食べたものは全て吐いてしまいましたから」
「なに?」
「…!…なん、で…しって…」
「申し訳ありません」
「……っ…」
名前はフレデリクを睨みつけた。まさか見られていたとは思わなかったのだ。
ソワレ達との食事後、名前はむせかえるような緊迫感を持った。貰った青林檎のような果実を無理に腹に納めたのがいけなかったらしい。喉をはじめ、身体は食事を拒否していた。
胃からこみ上げるものを我慢して、名前はなんともない顔を繕い、トイレと軽やかに嘘を吐いた。
茂みの中に入ると、彼女達から出来るだけ離れる為に駆けた。わざと草を踏んで来た道を作り、だけど出来るだけ遠くを目指す。
駆けて駆けて、それから我慢できなくなってとうとう吐いた。
消化し切れなかったものをぶちまけて、苦しくて、吐くものがなくなってからも大半の胃液を吐き出した後に名前は泣いた。
嘔吐により苦しかったのもある。しかしぽろぽろと溢れる涙の理由は申し訳ない気持ちからだった。
ソワレの好意を踏みにじってしまった。わざわざ見つけた果実の一つを分けてくれたのに。
ごめんなさい、ごめんなさい、と呟きながら、枯れるほどに泣いたのだ。
癇癪が治まった後、教えてもらっていた川を探しながら、少しだけ落ち着いたことを名前はよく覚えている。
名前はぎしり、と朦朧とする頭で奥歯を噛んだ。また情けなくなって泣けてくる。鼻を啜り、くしゃと歪んだ表情を拳で隠した。
フレデリクは謝った。しかし今の名前には許すも許さないも、判断する気力がない。呼吸がぜぇぜぇと音を立てるようになると、いよいよ頭がぼんやりしてきた。
出来れば誰にも知られたくなかった。
名前はいつものように心の中で独り言を言うと滲んだ世界を閉じきってしまうのだった。
エメリナとクロムが心配そうに自分を見ていた景色を頭に刻みつけながら。
結局フレデリクが名前を運び、この日の看病役を譲らなかった。
駆けつけた司祭によれば、心労に因って体調を崩したのだろうとのこと。
クロム達の世話が出来なくて申し訳ありませんと再三の詫びを繰り返すフレデリクと別れ、クロム達は部屋から出た。
結局黙りっぱなしで見守っていたクロムがようやく一言を呟く。彼が見ていた名前のように、俯きがちに。
「俺は…全然気付かなかった」
「クロム…」
「フレデリクだけじゃない。きっとルフレも気付いていたんだ。なのに俺は…」
「…貴方の所為ではありませんよ。彼女は自分の心を偽って、自分さえも騙していたのですから」
「それでも、苗字は俺の目の前にいたんだ。…苦しんでいた」
「…クロム」
エメリナは手を伸ばして、背の高くなった弟の頭を撫でる。
これに慌てたクロムはかっと顔を赤らめたが、元来姉に弱い為に反発心も生まれず、無理にふりほどけない。
エメリナは微笑み、言葉を続ける。
「貴方はまだ若いのです。これから…たくさんの人々に出会い、学んでいけばいい。でも、時には彼女のように、貴方や皆を拒否するかもしれない」
「……」
「だけどね、クロム。貴方は貴方のままでいいの。…貴方の正しいと思える力で、その時に出来る最前だと思う方法で、助けてあげなさい」
クロムは姉の言葉を黙って利いていたが、ようやく口角をあげて笑み、頷いた。エメリナも優しく微笑み返す。
エメリナ様、と、彼女の一の騎士が呼ぶ。エメリナはクロムに礼を施すとフィレインと共に行ってしまうのだった。
結局催眠の力が抜けてしまうと同時に名前は眠れなくなった。傍らにいたフレデリクも仮眠を取ってからはずっと眠らずに付き合わせてしまい、気がつけば朝まで熱と気怠く軋む身体との戦いになっていた。
薬を飲み、吐くを繰り返して名前がようやく落ち着いた頃、訪問者達が現れた。軽いノック後、明るい声達が部屋の中に。
「苗字さん、大丈夫?」
「これはリズ様。ルフレさんにスミアさんもご一緒ですか」
ごほ、ごほ、と咳を繰り返しながら上半身を起こそうとするが、ルフレがそれを止める。
寝ていてください、とスミアの優しいソプラノに従って名前は寝ころんだ。
「たった一夜だとは言え、あまり好調に治っているとは言えないね」
「えぇ。とにかく今は安静に寝かせておくべきかと」
「苗字さん、ごめんね…私、全然気がつかなかった…私、シスターなのに…」
リズは涙目になって俯いた。名前のことを聞いてからずっとこの調子なのだ。杖の件もあり、もしや自分の責任ではないかと繰り返していたのだ。
名前は当然のように首を横に振る。当たり前だがリズの所為ではないし、気付かれなくて重畳だったはずなのだ。それがバレればこんな大事になると知っていてそうしたのは名前だ。
名前はリズに精一杯笑いかけた。口角を上げて、出来るだけにこやかに。その甲斐あってか、人の笑顔に敏感な少女は思った通りに安らいだようだった。
「そうだそうだ。苗字、スミアが花を摘んできてくれたんだよ」
「…あ…ありがとう、ございます」
「はい!飾らせてもらいますね」
スミアは抱えていた花束と花瓶を持って寝台の近くに置かれたテーブルの方へ駆け寄った。
のだが。
「あっ!」
「危ない!」
「きゃっ」
「…!」
様々なリアクションの後、ぴしゃっと床に花瓶の水がぶちまけられた。しかしそれ以上の被害は起こらない。
「大丈夫?」
「は、はい…!あぁ、すみません!すみません!!」
「いや、怪我がなくてよかったよ」
間一髪のところでルフレに支えられ、足を滑らせたスミアは激突を免れた。彼女はこぼしてしまった水を見て悲しそうな顔を浮かべながらルフレに謝る。少しだけ服が濡れてしまったのだ。
混乱する彼女は床にまで謝り始める。フレデリクの提案で新しい水と雑巾を彼と調達しに出て行くまで謝罪を続けていたのだった。彼女の花は起きあがった名前が受け取った。
「ルフレさん、大丈夫?」
「うん。これくらい平気だよ。そうそう。苗字、君に聞いておきたいことがあったんだ」
「……はい?」
「例の男の特徴を聞いておこうと思って」
「あ…!」
「例の男って?」
「苗字の探し人だよ。フェリアへの道中で出会うかもしれないからね」
「そ…そこまでしていただく…わけには…」
「それくらいしなくちゃいけない。僕はそう思うよ。はっきり言って君の現状は一人で解決するには難しい」
「………」
「その人って苗字さんの恋人?」
リズの言葉に、苗字はぶんぶんと首を振る。頭が気持ち悪くなるくらいに。それどころか憎くて仕方ない、と心で呟いた。
リズは腕を組んで少々考えていたが、次には晴れやかな笑顔で手を挙げる。
「じゃあ私も一緒に探すね!」
「えっ…でも…」
「苗字さん困ってるんでしょ?人が多い方がいいみたいだし!」
「あ…ありがとう、ございます」
「いいの!だから苗字さん、早く元気になってね?いろいろお喋りしたいもん」
「ぁ…で…でも…私…」
「あっ!いや、根ほり葉ほり聞くつもりじゃないよっ…苗字さんの好きな弓の話とか、食べ物とか…なんでもいいの、苗字さんのこともっとよく知りたいなって」
「あ……ありがとう……わたしも…私も…みんなのこと…よく、知りたい」
「うんっ!帰ってきたらいーっぱいお喋りしようね!」
名前は気恥ずかしそうに持っていた花束で顔を隠しながらも頷いた。ルフレは嬉しそうにそんな様子を見て笑う。
話を戻して、名前の探し人の特徴をと問われて名前は改めて重い頭で男を思い浮かべる。
はっきり言えば、顔以外を覚えていない。咄嗟のことだったのもあるが、着ていた服はこちらの世界の物だったのではないかと曖昧だ。
顔は一目見れば絶対に間違えない自信がある。だが特徴と言っても言及出来るほどでもない。苦悶の表情が印象的な男だったとしか。
だから伝えたのは長身であったこと、所々跳ねたような黒髪の、そしてエメリナのような空色の瞳だったことだけ。
不確かな情報だったので二人それぞれの頭の中に浮かぶ名前の探し人の顔はきっと違うだろう。
それでも良し、と気合いを入れるリズやルフレの様子が、名前には心強く思えた。
一息後、扉を開けたのはクロムだった。賑やかしい雰囲気にほっとしたのは言うまでもない。名前の様子も辛そうではあるが、昨日の鬱屈そうな雰囲気とは打って変わっていたので彼は人知れず安堵した。
「体調の方はどうだ?」
「うん。まだ少し寝ていた方がいいね。あ、ほら、二人も戻ったよ」
ルフレの言葉のすぐ後に、フレデリクとスミアが帰ってきた。フレデリクはクロムにいち早く礼をし、スミアは先程の件もあって恥ずかしそうにもじもじと頭を下げた。
「そろそろ出発するが、行けそうか?」
「はい。問題ありません」
「えっ…!」
「どうした?」
「…ふ…フレデリクさん、寝てないんじゃ…」
「大丈夫ですよ。私はいつも朝が早いので」
「……」
「無理して着いて来なくてもいいんだぞ?」
「いいえ、クロム様。私のことはお構いなく。いつものことですから」
「す、すみませんでした…」
「貴方が謝ることなんて一つもありませんよ。さぁ、一眠りなさってください」
フレデリクに促され、名前は持っていた花束をスミアに渡して寝そべる。
彼女は今度こそ窓辺に近いテーブルの上に花瓶と花を添えてほっと一息するのだった。
「早く良くなってくださいね」
「はい…綺麗な花を…ありがとうございます…」
「いいえ!私に出来ることってこれくらいですから」
それからこぼして濡らした床を綺麗にした後、そろそろフェリアへ向かうと話が戻る。
新しい薬と水を傍らに置いて、フレデリクはきょろきょろ目だけを動かして居心地悪そうに転がる名前に一声をかける。
「私はクロム様に着いていきますが、貴方の世話は侍女が引き継ぎますよ」
「す…すみません」
「はい。早く良くなってください」
名前はコクコクと頷き、男の爽やかな笑顔に感心した。なんせ眠ってもいないし、愚痴一つこぼさないのだ。心配ではあったが見習いたい、と思う気持ちが強い。
その横にルフレが立って名前をのぞき込む。
「じゃあ行ってくるよ。色々心配だと思うけど、今は何も考えず身体を治すことを最優先するんだよ」
名前はそれも一つ頷いて、掛け毛布をずりあげて鼻辺りまで布団に潜り込む。あまり見て欲しくないと今更思った。
行ってきます、と元気に応えたのはリズだ。それを合図に続々と部屋を退出していく彼らに聞こえない程の小さな声で名前は呟く。
「…いってらっしゃい…」
ルフレが振り向いてにこりと笑った。隣のスミアも優しく微笑み返す。
二人が出て行き、最後尾のクロムはじっと名前を見ていたが、名前と目が合うと頭を掻きながらそそくさと同じく部屋を出て行った。
静かになった部屋で、名前は早速柔らかすぎるベッドを出た。重たい身体を引きずって窓辺に向かう。
そこから見る景色は、やっぱり名前の知るものではなかった。
遠くには緑が一面に広がり、街道の色が枝のように伸びていた。少し下を見れば、城で働く人々が忙しなく動いている。白いエプロンとスカートを翻して走る女中達や、槍を持った甲冑の兵士達が規律良く行進していく。名前の心を沸かせた天馬達の姿もあった。
何もかもが違う。
だけど。
名前は空を仰ぎ見た。
そこに広がる澄んだ色だけは知っている。それだけは同じ水色。
あの優しい女王のような、綺麗な色。
おーい、と下から声が聞こえて鷹揚に見た。そこにはソワレ達がいる。目が合ったと思えば彼女達は手を振り始めた。
ちゃんと寝ていろよ、とよく聞こえるヴェイグの言葉に名前は笑った。おかしくてではない。なんだか嬉しかったのだ。
そこに合流したらしいルフレ達が加わったので、名前も閉じていた拳を久しぶりに広げて、手を振り返した。
名残惜しそうにしながら去ってしまった一行を見送って。名前はもう一度空を仰ぐ。
大丈夫だよ。お母さん。お父さん。
届くことはないとわかっていながらも、名前は呟かずにはいられなかった。
部屋の中は出て行く前とはすっかり状況が変わっているのだが、特に大きなリアクションはない。
ただ、こめかみの皺を刻み、名前を見ていた。
部屋の用意が出来たと簡素な報告に、呆然と事を見ていたクロムがいち早く動いた。エメリナにピッタリとくっついたままの名前を支えようと手を伸ばす。それを止めたのはフレデリクだった。
「クロム様、私が」
「いや、お前は此処にいてくれ。出て行ったフィレインが司祭殿を連れて戻ってくるだろう」
「いいえ。私が」
「…フレデリク?」
「彼女の疑心を高めたのは、私の言葉です。休めもせず、食べもせずに、彼女をここまで悪化させたのは私です」
「食事はしていたじゃないか。リズ達と」
「いいえ。食べたものは全て吐いてしまいましたから」
「なに?」
「…!…なん、で…しって…」
「申し訳ありません」
「……っ…」
名前はフレデリクを睨みつけた。まさか見られていたとは思わなかったのだ。
ソワレ達との食事後、名前はむせかえるような緊迫感を持った。貰った青林檎のような果実を無理に腹に納めたのがいけなかったらしい。喉をはじめ、身体は食事を拒否していた。
胃からこみ上げるものを我慢して、名前はなんともない顔を繕い、トイレと軽やかに嘘を吐いた。
茂みの中に入ると、彼女達から出来るだけ離れる為に駆けた。わざと草を踏んで来た道を作り、だけど出来るだけ遠くを目指す。
駆けて駆けて、それから我慢できなくなってとうとう吐いた。
消化し切れなかったものをぶちまけて、苦しくて、吐くものがなくなってからも大半の胃液を吐き出した後に名前は泣いた。
嘔吐により苦しかったのもある。しかしぽろぽろと溢れる涙の理由は申し訳ない気持ちからだった。
ソワレの好意を踏みにじってしまった。わざわざ見つけた果実の一つを分けてくれたのに。
ごめんなさい、ごめんなさい、と呟きながら、枯れるほどに泣いたのだ。
癇癪が治まった後、教えてもらっていた川を探しながら、少しだけ落ち着いたことを名前はよく覚えている。
名前はぎしり、と朦朧とする頭で奥歯を噛んだ。また情けなくなって泣けてくる。鼻を啜り、くしゃと歪んだ表情を拳で隠した。
フレデリクは謝った。しかし今の名前には許すも許さないも、判断する気力がない。呼吸がぜぇぜぇと音を立てるようになると、いよいよ頭がぼんやりしてきた。
出来れば誰にも知られたくなかった。
名前はいつものように心の中で独り言を言うと滲んだ世界を閉じきってしまうのだった。
エメリナとクロムが心配そうに自分を見ていた景色を頭に刻みつけながら。
結局フレデリクが名前を運び、この日の看病役を譲らなかった。
駆けつけた司祭によれば、心労に因って体調を崩したのだろうとのこと。
クロム達の世話が出来なくて申し訳ありませんと再三の詫びを繰り返すフレデリクと別れ、クロム達は部屋から出た。
結局黙りっぱなしで見守っていたクロムがようやく一言を呟く。彼が見ていた名前のように、俯きがちに。
「俺は…全然気付かなかった」
「クロム…」
「フレデリクだけじゃない。きっとルフレも気付いていたんだ。なのに俺は…」
「…貴方の所為ではありませんよ。彼女は自分の心を偽って、自分さえも騙していたのですから」
「それでも、苗字は俺の目の前にいたんだ。…苦しんでいた」
「…クロム」
エメリナは手を伸ばして、背の高くなった弟の頭を撫でる。
これに慌てたクロムはかっと顔を赤らめたが、元来姉に弱い為に反発心も生まれず、無理にふりほどけない。
エメリナは微笑み、言葉を続ける。
「貴方はまだ若いのです。これから…たくさんの人々に出会い、学んでいけばいい。でも、時には彼女のように、貴方や皆を拒否するかもしれない」
「……」
「だけどね、クロム。貴方は貴方のままでいいの。…貴方の正しいと思える力で、その時に出来る最前だと思う方法で、助けてあげなさい」
クロムは姉の言葉を黙って利いていたが、ようやく口角をあげて笑み、頷いた。エメリナも優しく微笑み返す。
エメリナ様、と、彼女の一の騎士が呼ぶ。エメリナはクロムに礼を施すとフィレインと共に行ってしまうのだった。
結局催眠の力が抜けてしまうと同時に名前は眠れなくなった。傍らにいたフレデリクも仮眠を取ってからはずっと眠らずに付き合わせてしまい、気がつけば朝まで熱と気怠く軋む身体との戦いになっていた。
薬を飲み、吐くを繰り返して名前がようやく落ち着いた頃、訪問者達が現れた。軽いノック後、明るい声達が部屋の中に。
「苗字さん、大丈夫?」
「これはリズ様。ルフレさんにスミアさんもご一緒ですか」
ごほ、ごほ、と咳を繰り返しながら上半身を起こそうとするが、ルフレがそれを止める。
寝ていてください、とスミアの優しいソプラノに従って名前は寝ころんだ。
「たった一夜だとは言え、あまり好調に治っているとは言えないね」
「えぇ。とにかく今は安静に寝かせておくべきかと」
「苗字さん、ごめんね…私、全然気がつかなかった…私、シスターなのに…」
リズは涙目になって俯いた。名前のことを聞いてからずっとこの調子なのだ。杖の件もあり、もしや自分の責任ではないかと繰り返していたのだ。
名前は当然のように首を横に振る。当たり前だがリズの所為ではないし、気付かれなくて重畳だったはずなのだ。それがバレればこんな大事になると知っていてそうしたのは名前だ。
名前はリズに精一杯笑いかけた。口角を上げて、出来るだけにこやかに。その甲斐あってか、人の笑顔に敏感な少女は思った通りに安らいだようだった。
「そうだそうだ。苗字、スミアが花を摘んできてくれたんだよ」
「…あ…ありがとう、ございます」
「はい!飾らせてもらいますね」
スミアは抱えていた花束と花瓶を持って寝台の近くに置かれたテーブルの方へ駆け寄った。
のだが。
「あっ!」
「危ない!」
「きゃっ」
「…!」
様々なリアクションの後、ぴしゃっと床に花瓶の水がぶちまけられた。しかしそれ以上の被害は起こらない。
「大丈夫?」
「は、はい…!あぁ、すみません!すみません!!」
「いや、怪我がなくてよかったよ」
間一髪のところでルフレに支えられ、足を滑らせたスミアは激突を免れた。彼女はこぼしてしまった水を見て悲しそうな顔を浮かべながらルフレに謝る。少しだけ服が濡れてしまったのだ。
混乱する彼女は床にまで謝り始める。フレデリクの提案で新しい水と雑巾を彼と調達しに出て行くまで謝罪を続けていたのだった。彼女の花は起きあがった名前が受け取った。
「ルフレさん、大丈夫?」
「うん。これくらい平気だよ。そうそう。苗字、君に聞いておきたいことがあったんだ」
「……はい?」
「例の男の特徴を聞いておこうと思って」
「あ…!」
「例の男って?」
「苗字の探し人だよ。フェリアへの道中で出会うかもしれないからね」
「そ…そこまでしていただく…わけには…」
「それくらいしなくちゃいけない。僕はそう思うよ。はっきり言って君の現状は一人で解決するには難しい」
「………」
「その人って苗字さんの恋人?」
リズの言葉に、苗字はぶんぶんと首を振る。頭が気持ち悪くなるくらいに。それどころか憎くて仕方ない、と心で呟いた。
リズは腕を組んで少々考えていたが、次には晴れやかな笑顔で手を挙げる。
「じゃあ私も一緒に探すね!」
「えっ…でも…」
「苗字さん困ってるんでしょ?人が多い方がいいみたいだし!」
「あ…ありがとう、ございます」
「いいの!だから苗字さん、早く元気になってね?いろいろお喋りしたいもん」
「ぁ…で…でも…私…」
「あっ!いや、根ほり葉ほり聞くつもりじゃないよっ…苗字さんの好きな弓の話とか、食べ物とか…なんでもいいの、苗字さんのこともっとよく知りたいなって」
「あ……ありがとう……わたしも…私も…みんなのこと…よく、知りたい」
「うんっ!帰ってきたらいーっぱいお喋りしようね!」
名前は気恥ずかしそうに持っていた花束で顔を隠しながらも頷いた。ルフレは嬉しそうにそんな様子を見て笑う。
話を戻して、名前の探し人の特徴をと問われて名前は改めて重い頭で男を思い浮かべる。
はっきり言えば、顔以外を覚えていない。咄嗟のことだったのもあるが、着ていた服はこちらの世界の物だったのではないかと曖昧だ。
顔は一目見れば絶対に間違えない自信がある。だが特徴と言っても言及出来るほどでもない。苦悶の表情が印象的な男だったとしか。
だから伝えたのは長身であったこと、所々跳ねたような黒髪の、そしてエメリナのような空色の瞳だったことだけ。
不確かな情報だったので二人それぞれの頭の中に浮かぶ名前の探し人の顔はきっと違うだろう。
それでも良し、と気合いを入れるリズやルフレの様子が、名前には心強く思えた。
一息後、扉を開けたのはクロムだった。賑やかしい雰囲気にほっとしたのは言うまでもない。名前の様子も辛そうではあるが、昨日の鬱屈そうな雰囲気とは打って変わっていたので彼は人知れず安堵した。
「体調の方はどうだ?」
「うん。まだ少し寝ていた方がいいね。あ、ほら、二人も戻ったよ」
ルフレの言葉のすぐ後に、フレデリクとスミアが帰ってきた。フレデリクはクロムにいち早く礼をし、スミアは先程の件もあって恥ずかしそうにもじもじと頭を下げた。
「そろそろ出発するが、行けそうか?」
「はい。問題ありません」
「えっ…!」
「どうした?」
「…ふ…フレデリクさん、寝てないんじゃ…」
「大丈夫ですよ。私はいつも朝が早いので」
「……」
「無理して着いて来なくてもいいんだぞ?」
「いいえ、クロム様。私のことはお構いなく。いつものことですから」
「す、すみませんでした…」
「貴方が謝ることなんて一つもありませんよ。さぁ、一眠りなさってください」
フレデリクに促され、名前は持っていた花束をスミアに渡して寝そべる。
彼女は今度こそ窓辺に近いテーブルの上に花瓶と花を添えてほっと一息するのだった。
「早く良くなってくださいね」
「はい…綺麗な花を…ありがとうございます…」
「いいえ!私に出来ることってこれくらいですから」
それからこぼして濡らした床を綺麗にした後、そろそろフェリアへ向かうと話が戻る。
新しい薬と水を傍らに置いて、フレデリクはきょろきょろ目だけを動かして居心地悪そうに転がる名前に一声をかける。
「私はクロム様に着いていきますが、貴方の世話は侍女が引き継ぎますよ」
「す…すみません」
「はい。早く良くなってください」
名前はコクコクと頷き、男の爽やかな笑顔に感心した。なんせ眠ってもいないし、愚痴一つこぼさないのだ。心配ではあったが見習いたい、と思う気持ちが強い。
その横にルフレが立って名前をのぞき込む。
「じゃあ行ってくるよ。色々心配だと思うけど、今は何も考えず身体を治すことを最優先するんだよ」
名前はそれも一つ頷いて、掛け毛布をずりあげて鼻辺りまで布団に潜り込む。あまり見て欲しくないと今更思った。
行ってきます、と元気に応えたのはリズだ。それを合図に続々と部屋を退出していく彼らに聞こえない程の小さな声で名前は呟く。
「…いってらっしゃい…」
ルフレが振り向いてにこりと笑った。隣のスミアも優しく微笑み返す。
二人が出て行き、最後尾のクロムはじっと名前を見ていたが、名前と目が合うと頭を掻きながらそそくさと同じく部屋を出て行った。
静かになった部屋で、名前は早速柔らかすぎるベッドを出た。重たい身体を引きずって窓辺に向かう。
そこから見る景色は、やっぱり名前の知るものではなかった。
遠くには緑が一面に広がり、街道の色が枝のように伸びていた。少し下を見れば、城で働く人々が忙しなく動いている。白いエプロンとスカートを翻して走る女中達や、槍を持った甲冑の兵士達が規律良く行進していく。名前の心を沸かせた天馬達の姿もあった。
何もかもが違う。
だけど。
名前は空を仰ぎ見た。
そこに広がる澄んだ色だけは知っている。それだけは同じ水色。
あの優しい女王のような、綺麗な色。
おーい、と下から声が聞こえて鷹揚に見た。そこにはソワレ達がいる。目が合ったと思えば彼女達は手を振り始めた。
ちゃんと寝ていろよ、とよく聞こえるヴェイグの言葉に名前は笑った。おかしくてではない。なんだか嬉しかったのだ。
そこに合流したらしいルフレ達が加わったので、名前も閉じていた拳を久しぶりに広げて、手を振り返した。
名残惜しそうにしながら去ってしまった一行を見送って。名前はもう一度空を仰ぐ。
大丈夫だよ。お母さん。お父さん。
届くことはないとわかっていながらも、名前は呟かずにはいられなかった。